良し悪しに隔てなし
ヨウケルタニス神を祀る神殿には日々多くの人間が訪れた。寄付をするもの。巡礼をするもの。説教を受けるもの。その中でも特に説教を聞くものは多かった。ヨウケルタニス神は人の成長を司ることから老若男女問わず悩みや障害を話しに来るのだ。神に仕える神官たちはそれに良く答えた。時に常識を説き、時に神の言った言葉で説く。それだけでも説教を受けた者たちは有難がって帰っていく。しかしそれはジャスルが神殿に世話になってから変わった。
ジャスルさま、と一人の若い神官に声を掛けられる。ジャスルはまたかと思ったが、世話になっているので無下には出来ない。何用かと問うと預言者の説教を聞きたいという者がいるという。ジャスルはしぶしぶ了解した。
「わたしは友と同じ師の元で教えを受けていたのです。しかしつい魔がさして師を騙し、友を破門させたのです」
神官はそれを人の成長を妨げるのは許し難い行いであると非難して説いた。しかし己の罪を告白した男は納得しなかった。そして預言者の噂を聞いていた男はジャスルに説教を頼んだ。こうなって断れないのが神官だ。成長を司る神に仕える身としては成長に繋がるかもしれない頼みは断れない。そうしてジャスルは度々説教を頼まれた。
「友と師に謝りに行け」
ジャスルは男に簡潔に言った。ジャスルにはこの男は理由が欲しいのだとわかった。男は後々になって自分の罪に耐えられなくなったのだ。しかし今更謝りにいけるはずがない。ところが人々の成長を願う神官様が改心させて謝りに行かせたとなると話は変わる。醜聞はある程度美談になり、友と師も改心を疑って受け入れないわけにはいかない。事実男はジャスルの言葉を聞いて納得したように礼を言って帰っていった。
ジャスルから見て神官はどうにも人が常に良いものであることを疑っていないようだった。ゆえに罪を告白すると良いものに戻そうと言葉を尽くす。しかしジャスルにしてみればそれは間違いだ。人は皆自分を中心に、我儘に生きている。いい人であるのもそれが良いと皆が言い、そうしないと社会に弾かれるからだ。だから皆好き勝手に良い人になっていく。
だからジャスルも好き勝手に悪い人になった。お前は悪い人だと言う者共を、悪い人がいないと良い人は分からないと鼻で笑った。




