34 5月のネズミと象の戦い
大吾は、島田の放つ荒々しい戦意を受けながら、一瞬の感慨にひたった。
島田悟。大吾たちの世代の甲子園のヒーローで、神原から逆転ホームランを打ち、縦浜鱈高校を負かした相手。
大吾自身は、その時、埼玉マウスの入団テストを受けに行っていて、関係ないと言えば関係ないのだが、それでも何も感じない訳でもない。むしろ、他の打者以上に挑んでみたいという気持ちが強い。
八代先輩のサインに頷き、低めジャイロボール。
枠ギリギリのジャイロボールはそのままミットに突き刺さった。
──うん!
最高のスピンがかかった上に、コントロールは乱れていない。
「おっけー! 大吾!」
八代先輩の掛け合いに頷きつつ、返ってきたボールを受け取った。
一方、悟の方は、荒々しい怒りが渦巻く一方で、冷徹に今日の藤の調子を確認していた。
藤のピッチングはオープン戦から全て録画してあり、繰り返し見返したが、今日の調子はどうやら、かなり良さそうだ。
──この分だとカーブも良さそうだ。
オープン戦で噂になったジャイロボールに興味がない訳でもないが、悟の狙い球はカーブ1択だ。
監督はカーブを捨てろと言ったが、従う気は毛頭ない。絶対にカーブを打ってみせる。
──カーブを投げて来い、藤大吾。
そう願う悟だが、大吾の2球目はインハイへのストレートだった。
それを微動だにせず見逃す悟。というより、遅いカーブに山を張っていると、速い球であるストレートとジャイロに対処出来ない。その点、監督の指示にはそれなりの合理性がある。
ましては、2メートルを越える身長からのオーバースローは、悟にとっても始めての体感であり、厄介なピッチーであることは、藤大吾の事が嫌いな悟でも、認めざるを得ない。
確かに、ストレートやジャイロの方が狙い易いだろう。
だが、悟はカーブ狙いを止める気は一切ない。誰が何と言おうともカーブを打ってみせる。
こうまで、カーブにこだわるのには、ちゃんとした理由がある。
それは、藤のカーブが世間から騒がれているからだ。監督は正式な記録じゃないと言ったが、そんなことは関係ない。現に新聞でも大きく取り上げられている。
羨ましい。本当に羨ましい。マジで羨ま悔しい。
いや、悟は悟で大活躍して世間から騒がれているのだが、それはそれ、これはこれだ。
そして、これだけ活躍しているのだ。きっと藤は毎夜毎夜、自分の部屋で、
「俺のカーブは世界一だぜ〜〜!」
とか、
「俺様かっこいい〜〜! 記録更新イエー!」
とか、はしゃぎながらフィーバーダンスを踊っているに決まってるのだ。仮にダンスじゃなくても何かしらやってる。絶対にやってる。
だって、悟ならやるし、野球選手なんて皆似たりよったりだ。やらない筈がない。
──だが、それも今日までだ! 今日、フィーバーダンスを踊るのはお前じゃない! この俺だ!
今日、悟が藤のカーブを打ち、藤のカーブの無安打記録を破った男として新聞に取り上げられ、プロ用のスクラップノートに大きな記事を貼り付け、フィーバーダンスを踊る。
それが成し遂げられてこそ、悟の無念が晴れるというものだ。妥協する気は微塵もない。
そして、3球目、ボールが高く跳ね上がった。
──来た!
待ちかねた球だが、カーブは焦って手を出すとバットが泳いでしまう。
だから、ボールが落ちて来るのを、待って、待って、待って……今!
外角低めの一点に向けて、コンパクトかつ力強いスイングで最短距離を振り抜いた。
カッ! という音がしたが、ボールは前に飛ばず、転々とファールゾーンを転がった。
──くっ! まだ、待ち足りなかったか⁉︎
カーブに狙いを絞ったというのに、それでも捉えられなかった。
──なるほど、これが藤のカーブか……噂されているだけのことはある。
──だが、次こそは打つ!
凝りもせずにカーブを狙う悟。……が、次の球はアウトローへのストレートだった。
──入ってる!
辛うじてカットが間に合い、三振を免れたものの5球目、ジャイロ。
──落ちる!
悟はカット目的のスイングを慌てて止めた。
ボールがストライクゾーンからボールへと逃げていく。
──ちっ、後手に回っているな……。
カーブを狙い球にしていると、どうしても速球にワンテンポ遅れてしまう。辛うじて食らい付くのが精一杯だ。
それでもカーブを狙う。断固として狙う。
そして6球目、
──来た! ……ん?
待ちに待ったカーブだったが、少し枠から外れていた。
──ボール……見逃すか?
──いや、行く!
一瞬、迷ったが即座に決断した。自分のバッティングなら、多少ストライクゾーンを外れていても打てる。
──藤のカーブをさんざん見返したのは見逃す為じゃない! 打つ為だ! ここで、振らなきゃ、意味がない!
内のカーブに、器用に腕を畳んで、タイミングを合わせて、ボールを自分のスイングに巻き込んだ。
今度は捉えた。
バットが奏でる打撃音と、自分の手首から伝わるインパクトが、ボールの未来を教えてくれた。
バッターは一流であればあるほど、ボールがバットに当たった瞬間の手ごたえと音だけで、それがファールなのか、ゴロなのかフライなのか、はたまたホームランなのかを悟ることが出来る時がある。
今の悟もそうだった。ピッチャーの頭上を抜けての綺麗なセンター前ヒット! 間違いない。
──どうだ、藤!
悟は一塁への一歩目を踏み出すと同時に、大吾に勝ち誇ろうと視線を向け、そして、ぎょっとした。
悟の打球は、悟の予想通りの軌道を描いていたのだが、そこに藤が思いっきり手を伸ばしたのだ。
パン! と乾いた音がした。悟の打球を大吾がキャッチしたのだ。
──なっ! 馬鹿な!
思わず目を疑うほどに驚いた悟だが、それ以上に大吾の方が驚いていた。
正直、ただ単に手を上げただけなのだ。もう一度やれるか? と、言われれば絶対に無理だと答えるだろう。
何かの間違いじゃないかと、ミットを開いた大吾だったが、そこにはちゃんとボールが収まっていた。
お互いにとって予想外の結末に、つい二人が顔を見合わせていると、次の瞬間、観衆が湧いた。
「ナイスキャッチ!」
「超ファインプレー!」
観衆の歓声と拍手が巻き起こる中、悟はしばらく呆然としていたが、悟のミットを持ってきてくれたチームメイトに促されて我に返り、攻守交替を悟ってレフトへと向かった。
大吾も自軍のベンチへと帰還する。
──ちくしょうめ!
定位置に付いた悟は心の中で悪態をついた。
──くそ! 千回に一度のまぐれが起きやがった!
──……いや、奴の身長が奴の味方をして、幸運が転がり込んだんだ。
藤大吾と島田悟の初めての対戦は藤大吾に軍配が上がった。
だが、悟の戦意は衰えず、より熱を増した。
小さく、されど激しい口調で呟いた。
「次こそは打つ! 誰にも取れない場所に放り込んでやる!」