31 5月のネズミと象の戦い
大吾がマウンドに上がった時、観衆から一際大きな歓声が上がり、思わず周囲を見回してしまった。
観客席には人、人、人だ。大吾たちと同じライトイエローのユニホームを纏っている人も少なくない。
決してマウンド慣れしているとは言えない大吾は、彼らの視線に少なからず動揺してしまった。
投球練習でも、変にぎこちなく、狙ったところにボールがいかない。
今日は埼玉マウスのホームゲームであり、彼らの大部分は大吾たちを応援してくれているのだが、それはそれでプレッシャーを感じている。数万人の期待というのはそれだけ重い。
「落ち着けよ、大吾」
という、八代先輩の声も、妙に遠く感じてしまう。
冷静になれない自分に大吾が困っていると、ゾクッとする視線を感じた。
見れば静岡エレファントの一番打者、石原選手が、大吾を好戦的な瞳で睨みつけながらバッターボックスに入る所だった。
彼の視線は、てめえを必ず打ってやる。そう告げている。まさに、どんな言葉よりも雄弁だ。
大吾はそんな石原選手を見て、次いでネクストサークルにいる2番打者を見て、最後にエレファントのベンチを眺めた。
「…………」
この人たちは、野球の鬼だ。
もし大吾が浮ついたまま投げようものなら、その手に持っている木の棒で、大吾のことを容赦なくボコボコにするだろう。
ピカピカの一年生だからといって。落ち着くまで優しく待ってあげるよ、なんて言う気持ちは微塵も持ち合わせてはいないに違いない。
──それでいい。ここはそういう場所なんだ。
幾万の視線よりも強烈な対戦相手の視線が、むしろ大吾を平常に戻した。
勝つ為に、全力を尽くす。そのシンプルな理屈に、没入していく。
『プレイボール!』
審判が号令で試合が始まり、八代先輩がミットを構えた。
サインはアウトローにジャイロボール。
頷いた大吾は、おなじみのセットポジションから、八代先輩のミットをめがけてジャイロボールを投げ込んだ。
大吾の手を離れたボールは、要求通り、枠ギリギリのアウトローに決まった。
ブン! と、相手バッターのスイングは鋭かったが、一拍、遅かった。ジャイロボールは減速しない。
──うん、いつも通りだ。
コントロールもスピードも普段の自分だ。上手く、集中出来ている。
次のサインは同じアウトローにストレートだった。
頷いた大吾は、先程と全く同じ場所にストレートを投げ込み、二つ目のストライクを奪った。
バッターはバットを振らなかった。悔しそうに顔を歪めている。
大吾のストレートは落ちてこないと、マウスの仲間たちに良く言われる。特に、低めに投げると、地面にワンバウンドする様に見えるらしい。
きっとバッターも同じようにボールだと判断したんだろう。
なんにせよ追い込んだ。
そして3球目。サインは、アウトローにカーブだった。
大吾はそこで少し戸惑った。3球続けてアウトロー。
──……どうしたんだろう?
別にアウトローに投げること自体は、何球続けようとも構わない。
『基本はアウトロー。勝負球もアウトロー。困った時もアウトロー』
なんて言うピッチングにおける有名なことわざがあるぐらいで、バッターから最も遠い位置であるアウトローは、最も打たれずらい。
大吾自身は高めのストレートやカーブで勝負を仕掛けるタイプだが、それでも、やっぱりアウトローに投げる機会が一番多い。
桂馬にもかつて、
『アウトローが一番打たれずらいというのは、前々世紀から続く野球の歴史における歴然とした事実だ。現にプロ野球で投げられる球の半分はアウトローだ。だからアウトローにきっちり投げられる投手はそれだけで価値がある』
なんて、言われた事がある。だからインハイに3球続けろと言われたら困りもするが、アウトローに3球続けても困りはしない。
ただ、先輩らしくはない。
先輩は勝気な性格で、その配球も、ガンガンとインコースや高めを使って駆け引きする。少なくとも大吾とバッテリーを組む時はそうだ。
それが吉と出る時もあるし凶と出る時もあるが、とにかく、そんな先輩がアウトローに一辺倒となる時は、慎重になっている時だ。
一体、何を警戒しているのか。
投球練習でイマイチだった大吾の調子を心配しているのか?
足の速い先頭打者を出したくないのか?
それとも……。
4番である大場健太郎の前にランナーを出したくないのか?
大吾は少し迷ったが、すぐに考えるのを止めた。
例え、どんな理由であろうと、先輩のサインに首を振る気がない以上、やるべき事はただ一つ。集中してミットに投げ込む。それだけだ。
2ストライク、ノーボールというカウントの良さもあって、外れても構わない気持ちで、思いっきりスピンをかけた。ボールが空気を切り裂く音が観客席にまで届く。
バン! と、ボールが白い弧を描き、キャッチャーミットに収まった。アウトローギリギリ一杯。
『バッター、アウト』
審判のコールに、大吾は小さく拳を握った。
やはり、最初からランナーを背負いたくはなかった。
それに今の打席で、ストレート、ジャイロボール、カーブ、一通り投げたが、どれも手ごたえがあった。
投球練習こそまずかったが、今日の調子はかなりいい。
「よし、行こう」
そう自らに呟き、次の打者に集中し始めた。
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エレファントの2番打者、小倉義則は、バッターボックスに入るとチラリと監督に視線を向けた。
監督は義則と目が合うと、小さく頷いた。
それは、セーフティーバントでの奇襲作戦のゴーサインだ。
もし石原が凡退したら、バントで藤の守備圏内に転がすように、監督から事前に言われていた。
藤はその特殊な経歴故に、ピッチャーとしての経験がまだまだ浅い。
ビデオを見る限り守備が上手い訳でもない。
ならセーフティーバントで揺さぶる事で、ピッチングや守備に隙ができる可能性は大いにある。
逆に隙ができずに凌がれる可能性もあるが、ワンナウトを使ってでも試して見たい。というのが監督の意向だ。
そして、そういう時に使われるのが義則という男だ。
最近ではメジャーの影響で、2番打者最強論が日本にも流入してきているが、義則は昔ながらの小技の効く2番の役割を担っている。
ランナーが1塁にいるならバントで進塁させるし、ランナーが3塁にいるなら打ち上げるバッティングで犠牲フライ、あわよくばヒットを狙う。代打を告げられても嫌な顔一つせずに引っ込んで、次の出番を待つ。監督の指示を忠実に遂行し、チームの和と勝利を何よりも優先することがすることがモットーであり、プライドでもある。
4番の健太郎を筆頭に、割とワガママ揃いのエレファント軍団の中で、いっそ模範的とも呼べる義則のプレイスタイルを、ファンや同僚はフォア、ザ、チームと賞賛するが、義則の考えは少し違う。
義則に言わせれば、ただ単にワガママを言っていい程の才能がないだけだ。
無論、義則とてどれだけの野球少年が、今、義則のいる場所までたどり着けなかったか知っている。一軍に一度も上がれぬまま、プロ野球生活を終えた男たちを、沢山知っている。自分に才能がないとは口が裂けても言えない。
だが、自分に才能がないと肝に命じて、誰よりも真剣かつ謙虚にやってきたから、今、自分はここにいる。
故に、監督にセーフティーバントを命じられれば、命じられるままにセーフティーを狙う。
義則はバントの気配を悟らせないよう、極めて自然にバットを構えた。
そして、監督の指示通りカーブは捨てて、ストレートとジャイロボールに狙い球を絞った。
藤の球はストレートでも130キロ程度と、スピードがある訳ではない。
バントならば、ストレート、ジャイロボール、どちらが来ても当てる自信はある。
「来い」
そう、小さく呟くと、ほぼ同時に藤が動き出した。
見上げるような高さから投じられたボールは、
──ジャ、いやストレート!
アウトローに投げられたストレートにバットを水平に構えた。
そのまま、藤の守備範囲ギリギリに転がすつもりだったが、
──くっ! 落ちない!
義則の想定以上にボールが落ちない。慌ててバットの位置をずらした。
そして、──コン! と、ボールはバットに当たり、小さく、ふわりと浮いたが、直ぐに地面を転々とした。
──よ、よし! 結果オーライ!
浮いてしまったのでいいバントとは言えないが、結果的には藤の守備範囲にボールが転がった。転がった場所も悪くない。
一塁まで走りながらチラリと横目で眺めると、藤がボールに向かっているが、その動き出しは下手とまでは言わないが、やはり早いとは言えない。
──やはり、経験が浅い。それに藤の球は遅い。イケる!
義則はそう判断した。
が……。
一塁ベースを踏むほんの少し前に、豪速球が一塁手のミットにボールが収まった。
『アウト!』
そう審判からコールされ、義則はベンチへ戻った。
監督に報告した後、次の三番打者を応援しながらも、今のプレーを思い返していた。
──凌がれたか……。
──まあ、死んで元々のセーフティー。最低限、役目は果たせた。
藤の守備は決して上手いとは言えないが、落ち着いていた。なら監督は、下手に揺さぶるより、正攻法で攻略すると思う。
──にしても、イケたと思ったんだけどな……。
一つだけ、義則にとって誤算があった。
──何で、キャッチャーに球を投げるよりも、ファーストに投げる方が球が速いんだよ?
いくら考えても、その理由が分からなかった。
感想で被打率の割に防御率の数値が高くない? という感想を幾つか頂き、なるほどと思い、29話の大吾の成績を若干、変えました。
カーブを0安打にするなら、他が打たれてないと帳尻合わないよね。ということに全く気付いていませんでした。むしろ、感想を頂いて感心してしまいました。という訳で修正しました。申し訳ありません。