26 狂乱のドラフト会議
すっかり日が暮れた夜の闇の中、赤坂康介は、家が近所の早川明と共に帰宅の途についていた。
明と一緒に帰るのは現役時代は毎度の事だったが、夏の大会が終わり引退してからは久しぶりの事だ。
昔は練習で酷使した体が重くて、引きずるように歩いたものだが、今日も負けず劣らず足取りが重い。
そして、
「いやー、あのカーブは洒落になってねーよな!」
今日は明の口が軽い。やたらハイになっている。
といっても、その態度をそのまま受け取れはしない。むしろ、内心は真逆だろう。康介と同じで。
「そりゃ、ドラフトで指名されるよな。てっきり、俺か康介が選ばれると勘違いしちまったぜ。あんな恥ずいやりとりまでしてこのオチかよ……」
「……全く、道化もいいとこだよな……」
なまじ期待しただけによりきつい。家に帰って一人になったら泣く自信がある。
それっきり明は口を閉ざした。
でも、なんでだろうな? 今、明が考えていることがハッキリ分かった。
明はきっと、藤と桂木がやってきた日を思い出している。明があの二人にボールを打ち込んだあの日のことを……。
しばらくして、明はポツリと呟いた。
「あいつが……藤がいたら俺たちはベスト8で終わらなかったか?」
「……どうだろうな? でも、少なくとも神原の負担は減っただろ」
地区大会の終盤、そして甲子園。全部、神原一人が投げきった。どんな時でも、あいつは前向きで笑っていたが、それでも隠し切れない疲労が伝わってきた時もあった。
2年の2番手投手は出せなかった。悪いピッチャーではなかった。130キロ前半のストレートにスライダー、カーブ。普通の公立ならエースだろう。だが、神原とは比べられなかった。甲子園の強者に立ち向かえるほどではなかった。藤とは違って。
「だよな……」
「……」
「……」
「……」
「だったらさあ……あの日、深海鮫に負けたのは俺のせいか?」
「……かもな」
明の言葉を康介は否定できなかった。
部員一人の喧嘩が、大会出場停止につながるのが高校野球だ。
実際、あれを見た康介の頭に浮かんだのは出場停止という言葉だ。
それを真近で見た監督も、同じ危惧を抱いたと思う。だからこそ、藤を遠ざけたのかもしれない。
それこそ、あれがなかったら藤のピッチングを見る方向に監督は舵を切った…………かもしれない。今となっては答えは出ない。
「俺のことを恨んでいるかな? …………恨んでんだろうな」
「……明」
「だって、俺だったら許せねーよ。あんな舐めたことされて、それも俺みたいな……俺みたいな雑魚にだぜ?」
吐き出すような明の言葉に康介はやや間を置いて答えた。
「…………お前だけのせいじゃないさ」
そう、明だけの責任じゃない。あの時の藤達の言い草は聞いていた野球部員全員が不快に思ったはずだ。
もちろん康介も不快だった。ランニング、筋トレ、ノック。日々辛い練習に耐えている俺たちが、裏庭で、のほほんとキャッチボールしている様なド下手の三軍の二人に、あいつらなんか相手にならない、と言われたら不愉快だ。
少なくとも当時はそう思った。
実際、あのことに対してチームメイトが明を責める様な発言はほぼなく、むしろ藤達の方が批難された。
だから、明だけの責任じゃない。それこそ、野球部全員の責任だろう。
もっと言えば、藤や桂木だってもっとこう、カドの立たない表現を選んでくれたらまた違ったかもしれない。
そして、今になって、たらればを言ってもキリがない。
俺たちは深海鮫に負けたし、俺はプロ野球選手にはなれなかった。
「あーあ、野球辞めたくなるな」
「お前もかよ?」
「つーことは、明もか?」
「ああ……もう、マジ辞めてぇ」
「そうか、だったら俺はもうちょっと続けようかな」
「ざけんな! お前も辞めろよ!」
「いや、流石に野球辞めるタイミングまで一緒とかないだろう?」
「だったら、お前が辞めて、俺が続けるよ!」
「いやいや、遠慮すんなって」
「そっちこそ、遠慮しやがれ!」
途中で何を言っているかわからなくなり、二人は黙った。
しばらくして、康介は問いかけた
「で、結局どうすんだ?」
「あー、やっぱつづけんよ野球。どんだけ嫌になっても、野球以上にやりたい事なんてねー。……そもそも、野球推薦でもねーと、俺が受かる大学なんてねーしな」
「そうか……それで何処の大学行くつもりだ?」
「鮎波」
「……そうか」
志望先が同じだった。
(あーあ、まだ腐れ縁が続くのかよ)
どうやら、野球とも明とも縁が切れない様だ。
その事に対する複雑な気持ちをため息に乗せた。
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すっかり日が暮れた夜の闇の中、神原直樹は家の近所の公園で無言でベンチに座っていた。
藤との勝負の後、監督の計らいで返された。それでも記者たちに幾つか問いかけられたが、何を話したか全く記憶にない。
ほとんど夢遊病者の様にここまで歩いてきた。
ベンチに座っても、まともに物事を考えることができず放心したままだった。
そのまま30分以上経過して、やっと心が落ち着いてきた。
「ん〜〜、もう大丈夫かな?」
ずっと隣で座っていた花雪が直樹の表情を見て、そう言った。
「花雪……」
「直くん、赤信号でも道を渡りかけたよ」
「……ごめん」
「いえいえ」
よほど、呆然としていたらしい。そして、今でも冷静とは言いがたい。体の芯から抑えがたい感情が湧いてくる。
それは体内に収めることができず、弱音となって直樹の口から溢れ出した。
「負けたなぁ……」
花雪は静かに聞いてくれる。
「こっちから勝負を吹っかけて、何の言い訳も出来ないくらい、ボロ負けだ。監督への批難を撤回することもできなかった。それに……」
その先を言えなかった。
「それに?」
「いや……その……」
「ん〜〜、言いたくないなら構わないけどさ。でも今日みたいな日は、自分の気持ちに正直になった方がいいよ」
「……そうだよな」
花雪はいつも正しい。
「それに……さ、勝負の途中で思ったんだ。ここまでのピッチングができるのに甲子園を目指せなかったのは、どんな気持ちだったんだろうって」
一拍置いて直樹は続けた。
「あんなボールを投げられる奴が、三軍で試合に出れないのは…………間違ってるよなぁ」
それは、勝負を挑んだ気持ちと矛盾しているかもしれない。それでも、そう思ってしまった。それに監督も間違いを認めて謝った。なら自身の行いは、
「俺は余計な騒ぎを起こしただけかな……」
そう思わざるをえなかった。
それに花雪が答えた。
「そんなことないよ」
「花雪、俺を庇わなくても……」
「いやいや、別に庇っているとか、そういうことじゃなくて、本心から直くんの行動は必要だったと思ってるよ」
「そうなのか?」
「そうなのです。ほら藤くん三軍じゃん? それで、正直なところ私は、藤くんや桂木くんは校舎裏でキャッチボールくらいがせいぜいで、下手をすれば部室で漫画でも読んでいるんじゃないかと思っていたよ。直くんもそんな風に思っていたんじゃないかな? というより野球部全員が、監督も含めてそう思っていたんじゃないかな? 普通、三軍にいった選手が腐りもだらけもせずに真面目頑張っているとは、なかなか想像出来ないよ」
それは、そうかもしれない。少なくとも直樹もそんな風に考えていた。
「だから、藤くんがドラフトに指名されても、どこか納得出来ないところがあったと思うんだよ。でもさあ、頑張って凄い投手になった藤くんを認めないのはおかしいでしょ? それで、直くんが、ぼこぼこのけちょんけちょんにされて、初めて藤くんが凄い投手なんだって受け入れたんだよ」
「そうか……そうだよな……」
「そうそう、そうなのです」
確かに花雪の言うとおりだ。藤と勝負して、あいつの実力を知ったからこそ、素直にあいつを認めることができる。
花雪の言葉は正しい。
……だが、それはそれとして、
「花雪、ぼこぼこのけちょんけちょんとか酷くね?」
それが、恋人にチョイスする言葉か?
「事実だよ事実」
「そうだけどさー……」
「別に、ボロ負けした位で愛想尽かしたりしないから受け入れなよ?」
「あー、そうだけどさ……」
そんな言葉を交わしながらも、いや、そんな言葉を交わせる位には、だいぶ直樹の胸の内は整理されていた。そして、整理されたからこそ、今更ながらに生まれた感情があった。
「花雪」
「うん?」
「藤の凄さは認める。でも負けたことが悔しい」
「……うん」
一度、口に出したら堰を切ったように溢れ出てきた。
「手も足も出なかったんだ。悔しくて悔しくてたまらない」
いつしか直樹は泣いていた。
そんな直樹の手を花雪がそっと握った。
「負けっぱなしなんて、絶対に嫌だ」
「うん」
「俺はウォッシュベアで、あいつはマウス、同じ東日本リーグだ。戦う機会はあるはずだ」
「うん」
「今度は投手として、あいつと勝負して勝ちたい」
「うん、そうだね。頑張れ直くん」