野良猫と鬼神
朝日が射し込むボロアパート。
軽快な調理の音と食欲をそそる匂いが部屋を駆け巡る。
今朝も猫実はいつも通りだ。
近隣住民の事を考え、目覚ましはかけずに六時に起床しさっさと身支度を整えて弁当と朝食作りに精を出す。
ちらりと猫実は居間の壁ににかけられた時計を見た。
針は六時半を指している。
そろそろ起こすか……。
昨日みたいな事を避けるために少し早めに鳴海を起こしかかる。
「おら、起きろっ! 朝だぞ!」
隣の住民もいつもより少し早い起床時刻だ。
「うぅ、おはようお兄ちゃん……」
しばらくするとあくび混じりに鳴海が居間に入ってきた。
居間に入ると鳴海はちゃぶ台の前に胡座をかく。
猫実は鳴海が二度寝に入る前にすかさずちゃぶ台に食事を並べた。
だが、鳴海は眠そうに顔をコクりコクりとさせている。
猫実は鳴海の額をペシリと叩くと無理やり箸を握らせた。
虚ろな鳴海はそれで何とか米を掻きこんだ。
徐々に虚ろだった意識がはっきりしてくる。
ふぅ、俺も飯にするか。
時刻はまだ6時40分、余裕だ。
猫実はちゃぶ台に自分の分の食事を運ぶと昨日とはうって変わって落ち着いて食べ始めた。
「今日はゆっくり食べられるね」
ようやく覚醒したのか、鳴海がいつも通りの子供の様な笑みで言った。
「あぁ、そうだな」
猫実はそう言うと鳴海の頭をポンポンと撫でる。
すると、鳴海の表情が更に楽しげにパァと明るくなった。
本来の須河家の朝。
今日は少し早く出よう。
そんな事を思いながら猫実は朝食を食べ続けた。
「学校、行くぞーっ!」
玄関で猫実が鳴海を呼ぶ。
大概の日はこうやってそろって家を出る。
まぁ、猫実の通う引柳高校と鳴海が通う引柳中学はまったく真逆にあるので玄関でお別れになってしまうのだが。
因みに鳴海は今、中学三年生となり晴れて受験生だ。
本人にその自覚があるのかはわからないが……。
そんなこんなしてるとドタバタと鳴海が慌ただしくやって来た。
もう着なれた紺色に赤のラインが入ったセーラー服、スカートはこれでもかとまくり上げられている。
そして、母に似た茶色の肩までの髪の両端をチョコンと二つ結びにしてある。
兄である猫実が見ても可愛いと思ってしまう程だ。
「ねぇ、早く行こうよ!」
いつの間にか鳴海は靴を履いて準備万端だった。
「お、おぅ! 行くか」
猫実は慌てて玄関のドアを開けた。
清々しい朝日が二人を照らす。
そんな中を二人は一歩踏み出した。
そのまま、アパートの門まで並んで歩く。
「じゃあ、 行ってくるね」
門を出ると鳴海が笑顔で言った。
猫実は片手をあげると、
「あぁ、行ってらっしゃい」
と鳴海を送り出す。
鳴海はクルリと方向転換すると、高校とは真逆の方向にある中学へと楽しそうに歩いて行った。
みるみる鳴海の姿が小さくなっていく。
ある程度、 遠くに行ったのを確認すると、
「んじゃ、 俺も行きますか」
そう呟いて高校へと歩き始めた。
その時、向かいの家のドアが開く音が猫実の耳に入ってきた。
猫実はそちらを見やる。
ドアからはあくびをかきながら眠そうにしている猫子が姿を現した。
げっ、そういや向かいってあいつん家だったな……。
猫実は急いで逃げようとしたが時、既に遅し猫子は完全にこちらをガン見していた。
しかも、顔面蒼白で。
流石に目が会ってしまったからには挨拶をしない訳にはいかない。
猫実はなるべく自然に見えるように、
「よ、よう! おはよう」
と声をかける。
それに対して猫子は、
「なんで、 朝っぱらからあんたと顔を合わせないといけないのよ」
とぶつくさ言っている。
「いや、 そんな事言ったってな。 向かいなんだから仕方ないだろ」
「うるさい! うるさい! もう行く」
猫子は不機嫌そうに言うと先を行こうとした。
猫実はそれを慌てて追う、
「ま、まてよ! 一緒に行こう」
「うるさい、 ついて来ないで!」
「そんな事、 言っても方向一緒だから」
こうして、騒がしい日常がまた始まる。
ガララッ!
教室の戸が勢い良く開く。
さっきまで騒がしかった教室もあまりに凄まじい開き方をした戸に視線が集まり自然と静まり返った。
何だ、 何だと怪訝そうな視線の元、 開かれた戸にはゼハゼハと息を切らした猫実と猫子が草臥れた様子で立っていた。
「私の方が早くドアに手をかけた!」
「ドアを引いたのは俺の方が早い!」
二人は教室にも入らずにいきなり痴話喧嘩を始める。
クラスの皆はついていけないと言った様子でキョトンとなってしまっている。
実は、 ここに来るまでの間に猫子と猫実は変なプライドから互いが自分の前に立つことが気に食わず張り合っている内に競争になっていたのだ。
この痴話喧嘩と草臥れた様はそこから来ている。
「あのー、 そろそろそこ通りたいのだけれど……」
ふと、 後ろから声を掛けられた。
二人はびっくりして後ろを振り返る。
そこには少し申し訳無さそうに佇む担任の美恵子先生が立っていた。
美恵子先生はバツが悪そうに苦笑いを浮かべている。
それで、猫実は我に還った。
猫子の耳も真っ赤だ。
どうやらこちらも気がついたらしい。
自分達がどれ程恥ずかしい事をやっていたか、そしてそれをクラスの皆に見られていたという事を。
二人は顔を見合わせるとうつ向きながら静かに教室に入った。
そして、 そのまま速足で机に向かうと無言でストッと座った。
そこでようやく注目されていた視線も離れていった。
「はぁ……」
猫実は安堵と後悔の入り交じった長い嘆息を吐いた。
なんか、昨日からこんな事ばかりだな。
「おい、猫実っ!」
ようやく心を落ち着けた猫実の耳元で再び烈火の様な轟音が鳴り響いた。
猫実は思わず耳を塞ぐ。
「うるせぇな! 何だよ宗吾」
声の主は宗吾だ。
しかも、なぜか顔を真っ赤に憤怒の色に染めている。
そのただならぬ剣幕に猫実はただ首を傾げるしか無かった。
「ど、 どうした?」
「どうしたじゃねぇ! 昨日の電話なんだ?」
宗吾の言葉で全て合点がいった。
「あ、あぁ。 悪い、 あんな夜遅くに電話しちゃって」
猫実はパンっと顔の前に手を合わせた。
これといって悪びれた様子はない。
「そうじゃねぇよ……」
「あ、 じゃあ何だよ?」
「何で、 暴力捨てんだよ!?」
宗吾の手が猫実の胸ぐらを掴んだ。
そのままグイと持ち上げられる。
目の前にあるその顔には今まで見たことの無い憎悪が浮かんでいた。
「な、 何キレてんだよ?」
「うるせぇ、 そりゃキレるだろ突然訳わかんない事言い出しやがって!」
「訳わかんないって、 ちゃんと理由が」
「理由って何だよっ?」
宗吾の腕に更に力が入る。
突然の事態に教室も騒然とし始めた。
視線が痛い。
「な、なぁとりあえず落ち着け」
猫実はなるべく刺激しない様に手を引き剥がそうとする。
だが、引き剥がそうとすればするほど宗吾は腕に力を込める。
くそっ、 何で……。
「放せよぉっ!」
「お前には暴力しかないだろっ!」
突然放たれた槍の様な言葉。
まさか宗吾に言われるとは、 猫実はそこで何も考えられなくなった。
ふと、 宗吾が猫実から手を話した。
猫実はヘタンと椅子に座りこむ。
当の宗吾はなぜか顔面蒼白だ。
怯えているのか、 いや嫌悪?
「宗吾……?」
猫実の呼びかけに宗吾はあまりに過剰すぎる反応を示し。
そして、 逃げ出した。
だが、猫実に追いかける気力など無かった。
まだ、胸に放たれた槍は深く強く穿たれたままだ。
朝の騒動からしばらく経ち放課後。
結局、 宗吾は教室に帰って来なかった。
隼人も授業が終わると直ぐにどこかに行ってしまった。
猫実の方も、 今日は一日無気力でまるで脱け殻の如く、 今もクラスの皆は帰ったというのに空っぽの教室で一人漠然としていた。
なぜあぁなったのかはわからない。
でも、 すごい重要だって事だけはわかる。
「はぁ……」
長い溜め息をはくとボフッと机に額を押しつけた。
その時、
「酷い喧嘩したわね」
扉からまるで嘲笑うかの様な声。
「猫子……」
猫実はあまり気に止めない。
というかそんなテンションじゃない。
「ありゃ、 これは重症ね」
猫子は机に歩み寄ってきた。
口ではこう言ってるが何だかんだで口調は楽しそうだ。
「で、 どうするの?」
「どうするって?」
「これからよ、 仲直りしないの?」
あぁ、 仲直りか……。
猫実は実際、 今初めてその考えに及んだ。
だが、 それ以上を考えようともしない。
再び沈黙の闇に堕ちていく。
そんな猫実に猫子は呆れ混じりに長い溜め息をついた。
「あんた、 暴力を捨てるって言ったんだってね」
「うん……」
「なんで?」
「お前の信用が欲しかったから……」
「……っ! そう」
一瞬、 猫子の表情が歪んだような気がした。
だが、 気がついた頃にはいつもの猫子に戻っていたので本当に勘違いかもしれない。
「そんな事で友達を失うの?」
「そんな事じゃない! 俺には猫子も宗吾もそんな事じゃない……」
「…………っ!」
猫子の表情にわずかな機微、やはりさっきのは。
「宗吾はさ中学からの付き合いでさ、 俺の事いつも考えてくれた。 暗闇から引き出してくれたのもあいつだった。 俺が暴力を学ぶと言ったら一緒に学んでくれた。だから、 勝手に決めたから裏切られたって思ったのかな?」
久々に弱気になった気がする。
ここまで人に弱味を出したのはいつ以来だろう?
それでも、 猫子は聴いてくれる。
「それは、 嫉妬だよ」
「嫉妬……っ!」
「宗吾くんはあんたに嫉妬してるんだ。 だから手をさしのべれば良い、 同じ舞台に立たせればいい」
「でも、 そんなのどうやって」
「それが、 ごめんなさいでしょ?」
猫子の口調はいつの間にか誠実な物になっていた。
ごめんなさいか……。
何でわからなかったんだろ。
方法はこれしか無いじゃん!
答えが見えると再び体中に生気が湧いて来る気がした。
猫実は勢いよく立ち上がると、
「わりぃ、 ちょっと行ってくる!」
と言って感謝の気持ちを込めて猫子の頭をグシグシっと撫でた。
そして、 ぽかんとする猫子を尻目にさっさと教室を後にした。
一人残された猫子は我に帰ると、
「あいつは私も一番にしてくれるんだ……」
と呟いた。
「やっぱりここか」
「隼人……」
西陽の射す寂しい屋上。
春とは言えまだ肌寒い。
そんな所で宗吾はふて腐れていた。
「なんの用だよ?」
一人の空間を邪魔されて気が立っているのか宗吾は口を尖らせた。
隼人はそんな宗吾を半ば可愛らしく思いながら近づく。
「お前を慰めに来た」
「あぁ?」
「おいおい、そう睨むなよ」
下のグラウンドでは様々な運動部が活動に勤しんでいる。
隼人は彼らをフェンス越しに眺めながら、
「お前、覚えてるか?」
「何を?」
「一年の時、 俺がまだお前らと敵だった時」
「敵ねぇ? あいにくそう思ってたのはお前だけだ」
一年の時、 隼人は猫実を目の敵にしていた。
別に他意があった訳じゃない。
ただ、 自分よりも強いのが憎らしかった。
だから何度も喧嘩を吹っ掛けては何度も負けていた。
「あの時、 一度だけ俺がネコッち追い詰めた時あったろ?」
「あぁ、 あったな」
「その時、 お前何やった?」
「……っ!」
確かにあった隼人が猫実を追い詰めた戦いが。
だが、 結局その戦いにも負けてしまった。
なぜなら、
「無理やり割り込んで来ただろ。一対一の勝負に」
「あ、 あれは……」
「そして、 卑怯だと嘆く俺にこう言った。こいつは俺の相棒だ、 相棒は何があろうと守らねーとなんねぇ」
「あ、あの時は……」
宗吾の表情に動揺が見えるいや葛藤といった方が良いだろうか。
やはり宗吾は猫実を捨てきれない。
「あいつ、 暴力捨てたんだろ? なら尚更守ってやらないとじゃないか?」
その言葉に宗吾は雷に撃たれたかの様に立ち上がった。
そして、 ケッと笑うと、
「まったく、 世話のかかる相棒だよな」
「あぁ、 まったくだ」
「わりぃ、 俺行くわ。 この借りはいつか返す」
そう言うと隼人の返事も待たずに行ってしまった。
その行動の速さに呆気に取られていた隼人はしばらくして我に帰ると、
「借りを返したのは俺の方だよ……」
と呟いた。
宗吾、 宗吾っ!
猫実は宗吾を探して学校中を駆けずり回っていた。
紅かった空はいつの間にか紫色に変わり始めている。
そんな中、 いるかもわからない友達を探す。
だが、 猫実にはいると言う根拠の無い自信があった。
その自信は本能的な、 動物的なものではあったが、 信じるに足るものでもあった。
やる事は簡単だ、 見つけて話してごめんなさい。
見つけて話してごめんなさい……。
猫実は頭の中でリズムを刻む様にそれを連呼した。
そうしないと邪念で迷いが生じそうだったから。
見つけて話してごめ……っ!
「須河 猫実ぇーっ!」
「あぁっ!?」
突然飛んできた怒号におもわず情景反射で猫実も声をあげてしまった。
やべっ!
怒号の主、 それは、
「あ、 昨日の雑魚達だ」
猫実は思い出したように指を指した。
「雑魚じゃねぇよ!」
「悪い、 今急いでるんだ。 正直かまってる暇ない」
「おいこらっどこ行く気だ!? てめぇ、 昨日は良くも恥じかかせてくれたな?」
どうやらこいつらは昨日の事を恨んでいるらしい。
いや憤怒といった方が正しいかもしれない。
彼らの額に怒りマークの様な物が見える。
だが、 正直無謀だ。
「だからどうした? また殺られに来たか?」
「くっ、 調子に乗るなぁっ!」
リーダーが顔を真っ赤にしながら突っ込んできた。
昨日は後ろで指示してただけなのに。
だが、 その拳は以外にも遅く猫実には簡単に避けられた。
「けっ、 じゃあな!」
猫実は拳に力を込める。
そして、 攻撃を避けられてよろけるリーダーに目掛け振りあげる。
『暴力は控えて』
突然脳裏を過った猫子の言葉に猫実の拳は止められた。
自分の行動に猫実は驚き目を見開いた。
だが、 これで命拾いしたリーダーがこんどは今だと必殺の一撃を放ってくる。
避けられない。
そう踏んだ猫実は反射で目を閉じた。
バシッ
辺りに乾いた音が響く。
あれっ?
痛く無いんだけど……。
恐る恐る瞼を上げる。
そこには、
「宗吾っ!?」
宗吾が猫実に迫っていた拳を片手で受け止めていた。
その立ち振舞いは悠然で猫実は心がホッとしたのを感じた。
「き、 鬼神……! 引柳三鬼神!」
リーダーは怯えているのか体と声を震わせながら後ずさっている。
ん、 三鬼神?
あぁ、 いたのか隼人。
さっきまで気がつかなかったが隼人も宗吾の隣で楽しげな笑みを浮かべている。
ちなみに三鬼神とは猫実、 宗吾、 隼人の総称だ。
「猫実……」
「は、 はい!」
突然の宗吾の呼び掛けに間抜けな返事を返す。
「お前は暴力捨てるんだな?」
「あぁ、 そのつもりだが」
「俺は捨てる気無いぞ」
「……っ!」
「だから、 これからは俺がお前の拳になってやるっ!」
高らかで楽しげな叫びを上げると宗吾は不良の中に飛びこみ暴れ始めた。
「化け狐の宗吾を舐めんなよ!?」
人を殴ってるのになんか楽しそうだな。
「ごめん……」
思わずこぼれ落ちた言葉。
それに隼人が、
「もう、 それは必要無いと思うぞ」
「そうだな……」
喧嘩は心のすれ違い、 仲直りはどちらかが譲歩し互いに並び立ち直す事。
そして、 その方法は一つじゃない。
様々な方法で仲直りして再び仲違いして人は共に歩く人間を増やしていくのだろう。
日はすっかり落ち、 空には月が爛々と輝いている。
猫実の歩く道にも月の光は寂しげに届いていた。
宗吾は不良達を一人で蹴散らした。
そしてどや顔をこちらに見せ自慢げにピースサインを掲げて見せた。
それからまたいつものようにたわいもない馬鹿話で盛り上がり共に帰った。
つい先ほど別れた所だ。
宗吾と仲直り出来たからか猫実はいつもより何倍も上機嫌だった。
軽い足取りで自宅への最後の角を曲がる。
その時、
「猫実っ!」
ふと後ろから声がかかり猫実は怪訝そうに振り向いた。
「猫子?」
猫子は何やら言いにくそうにモジモジしている。
「どうした?」
「い、 いや。 あのっ、 その……」
「ん……?」
猫実は訳も分からずに首を傾げた。
猫子は未だモジついている、 心なしか顔も紅い気が……。
「お前、 もしかしてトイレに」
「違うっ!」
唐突に凄まじい言霊が飛んできた。
「じゃあ、 なんだよ」
「だから……」
「だから?」
突如、 猫子の目がキッと見開かれた。
「明日からも一緒に学校行こうっ!」
今日、 猫実にもう一つ良いことがあった。
それは友達がまた一つ心を開いてくれた事だ。
「あぁ、 行こう。 猫子……」