野良猫と子猫
「お父さんっ!お母さんっ!」
ベッドに寝かされた両親の傍らで妹の鳴海が泣き叫んでいる。
俺の思い出したくない情景。
俺は、中1の時両親を亡くした。
事故だった。
何ら変わった事は無い。
両親の歩く歩道にアクセルとブレーキを踏み違えた乗用車が突っ込んだ。
車の下敷きになり更にしばらく引きずられた両親は即死だった。
普通の事故だが俺達にとっては大事件なわけで、頼っていた両親が突然消えてしまったわけで…。
荒波に放り出されるというのはこういう感じなんだろうと実感させられた。
それでも俺達は生きた。
親戚の家をたらい回しにされながら何とか生き延びた。
辛い日々ではあるが明日にはいいことがあると信じて耐えた。
そうして5年、今は訳あって妹と二人暮らしをしている。
「父さん、母さん。もう、大丈夫だから…」
『捨て猫物語』
「起きろっ、鳴海!朝飯出来たぞ!」
朝のボロアパートの一室に猫実の声が響く。
毎朝決まった時間に響くこの声は壁の薄いアパートでは隣の部屋まで聞こえており、隣の住人はこの声を目覚ましにしている。
「んー、おはようお兄ちゃん…」
襖を開けて眠そうに目を擦りながら妹の鳴海が居間に入ってきた。
鳴海は部屋の中心に置かれた朝食の並んだちゃぶ台の前であぐらをかくと再び二度寝の態勢に入った。
「寝るなっ!食え食えっ」
猫実はそんな鳴海を無理やり起こして朝食を食わせる。
鳴海は半分寝入ったまま味噌汁を口にかきこんだ。
よし、食ったな。
これでこいつの目も覚めるだろ。
よし、俺も飯を…。
「お兄ちゃん、もう7時半だよ」
「げっ、もうそんな時間かよ!でも、飯食べたい…」
猫実は時計と朝食を見比べた。
遅刻はしたとしても一時の苦痛だ。
それに対して朝食を抜くというのは昼まで、いや一日の行動のエネルギーに関係する。
それを考えると、
「飯食うっ!」
「えぇっ!お兄ちゃん間に合うの?」
「知るか!食はどんな物事にも勝利するんだよ!」
猫実はちゃぶ台に駆け寄り座ると飯をかきこんだ。
あぁ、やっぱうめぇ…。
「はぁ、 はぁ」
あぁ、やっべーよ、遅刻だよ。
やっぱ、飯抜いとくんだったかな?
猫実は結局家で朝食をしっかりとすませてから家を出た。
家を出たのはだいたい8時位、学校までは歩いて40分位だが始業は8時半だ。
走れば間に合うか…?
猫実は走る足を速めた。
その時、
「なぁ、頼斗くぅん?」
「俺達腹へったんだけど?」
二人の明らかに悪そうな学生が一人の少年を取り囲んでいた。
たかりか…?
小学生かよ。
猫実は学生を一瞥する。
紺に黒のラインのホック式の学ランにこれまた濃紺のズボン。
同じ制服だ…。
ピピっ!
猫実のデジタル時計が8時20分を告げる。
やばっ、遅れる遅れる!
猫実は三人の前を素通りしようとした。
だが、
「助けてぇっ!」
「てめっ!黙れ…」
「助けてよっ!」
い、いやあの程度の悲鳴に揺らぐ程、俺はお人好しじゃねぇ!
ここは心を鬼にして…。
「うわぁっ!助けてぇ!」
少年の悲鳴が猫実の耳を木霊する。
揺らぐな、進め!
そうは思っても自然に足取りは重くなる。
その時、
「わめくんじゃねぇ!」
ボコッ
不良の拳が少年を襲った。
目では見てないが痛がる少年の姿が脳裏を過る。
痛そうだ。
「はぁ、遅刻確実。喧嘩上等っ!」
猫実は反転すると不良達に向けて駆け出した。
そして、勢いそのまま不良の一人を蹴り飛ばした。
不良は吹き飛ぶと地面に尻餅をつく。
「テメェっ、誰だっ!?」
あと一人か…。
真後ろ、蹴れる!
猫実はその場で体を捻ると遠心力で真後ろの不良の顔面に回し蹴りを食らわした。
その不良もまた吹き飛び尻餅をついた。
二人揃って無防備な状態である。
猫実はそんな二人をギロリ睨むと、
「俺が誰かわかんねぇか…?」
と威嚇した。
二人はその威嚇に身を縮めている。
ふと、気がついた様に一人の不良が口を開いた。
「あ、あんた野良猫か?向かう所敵無しの野良猫?」
「大正解っ!」
猫実はわざと大袈裟に答えた。
二人は揃って顔を青ざめさせている。
「どうするよ?この落とし前は」
猫実は二人に更に追い討ちをかける。
二人は顔を見合わせると急いで居ずまいを正し額を地面に押し付けた。
「すいませんっしたぁっ!」
そして懐から財布を引き出す。
「い、今はこれしかなくて…」
手の震えからして二人は必死だ。
ただ、猫実も財布目的でやった訳じゃない。
「い、いや財布までは…」
と財布を引っ込める様に促すが。
「た、頼む財布だけで勘弁してくれぇ!」
と言って財布だけ置いて一人が逃げ出した。
「お、おい!置いてくなぁっ!」
もう一人もそれに促されて行ってしまった。
二人の居たところには二つの財布がチョコンと残っている。
「行っちった…」
猫実は頭を掻きながら財布を手に取った。
うわぁ、まじですっからかんじゃん…。
「あ、あの!ありがとうございます!」
突然、いじめられていた少年が礼を言ってきた。
猫実は少年に、
「お前、名前は?」
とぶっきらぼうに聞いた。
少年は戸惑いつつも、
「ら、頼斗。八木頼斗です…」
と答えた。
「頼斗ね。俺は猫実だ。ほれっ、これ」
猫実はポンッと二つの財布を渡した。
頼斗は目を輝かせながら、
「くれるのっ!?」
「ちげーよ。忘れ物として返しとけ」
「え、あぁそうだよね…」
「ほらっ、もう行けっ遅刻すんぞ」
「え、猫実くんも一緒に…」
「俺と一緒に行くと先生にどんな目で見られるかわかったもんじゃないぞ。ほらっ、行った行った」
そう言って頼斗の背中をポンッと叩いた。
「う、うん。本当にありがとう!」
頼斗はそう言うと走って学校に向かった。
ふぅ、コンビニ寄るか…。
「君、強いね…」
ふと、後ろから声をかけられた。
猫実は驚いて振り向く。
そこには、女の子が立っていた。
誰だ…?
白地に青のセーラー服に丈をまくし上げた青のスカート。
猫実の高校の制服だ。
いつからいたんだろ、気づかなかった。
「あんた、だれ?いつからいた?」
猫実は疑問を口にしたが女の子は答えない。
シカトかよ…。
女の子は猫実の問いに答えないまま、その場を立ち去ろうとした。
「お、おいっ!」
猫実はそんな女の子を引き留める。
女の子は足を止めると、静かにこちらを振り向いた。
「誰かを救えても、誰かを傷つけたら意味ないよ…」
その一言を吐き捨てると足早に猫実の前から姿を消してしまった。
は…?
今の、説教?
何様だよ…。
猫実の脳裏を女の子の顔がぐるぐると回る。
肩で切られたクセッ毛気味の髪の毛。
クリッと見開かれた瞳。
華奢な体躯。
長い手足。
今は、その全てが憎たらしい。
思い出すだけでムシャクシャする。
俺だって…。
俺だって、好きで暴力学んだ訳じゃねぇよ…。
キーンコーンカーンコーン
遠くから朝のHRを告げるチャイムが鳴った。
この時点で猫実の遅刻が確定した。
もう急いでも意味がない。
ただ、今日だけは遅刻したくなかった。
再び脳裏をあの女の子が過る。
あいつは間に合っただろうか?
いや、そんな場合じゃ無いだろ!
早く行かねぇと!
まさか、始業式の日から遅刻とは…。
今日は猫実の高校2年の始まりの日だった。
猫実はこの記念すべき日を遅刻という最悪のスタートで迎えたのである。
ガラッ!
「遅れてすいません!」
猫実は慌てて教室に入った。
生徒が全員、猫実の事を見る。
その顔は、入ってきたのが猫実だと気づくと恐怖や警戒の顔に変わった。
担任の女の先生に至っては恐怖で教室の隅で縮こまっている。
猫実は学校では相当名の通った不良だ。
さっきのヤンキーが言ったように『野良猫』という通り名すらついている。
それ故に遅れて注目を浴びるのは避けたかった。
はぁ、初日から株だださがりじゃん…。
猫実は顔を伏せると自分の席に向かった。
始業式なので自分の席の場所は知らないが一ヵ所だけポツンと空いてるので直ぐにわかった。
窓際から二列目、前から三列め。
気まずさで潰れそうな猫実は足早に席に着いた。
そして、顔を伏せる。
踞っていた先生も平然を取り戻しHRを再開した。
目線が先生に向く。
猫実はようやく気まずさから解放された。
ここでようやく顔を上げてみる。
クラスの面々が視界に入る。
一年の時に同じクラスだった奴もチラホラと見える。
こいつらと一年過ごすのか…。
猫実は不安と希望の入り交じった溜め息を着いた。
教壇では先生がHRを続けている。
そういや、隣ってどんな奴なんだろ?
猫実は窓側の隣を見た。
そこに座っている人間を猫実は知っている。
クセッ毛気味の髪の毛。
この少女は!
「お前はっ!」
猫実は驚愕の余り立ち上がって大声をあげてしまった。
再び視線が集まる。
先生も隅に縮こまる。
やっば、やらかした…。
猫実は顔を赤くしながらゆっくりと席についた。
視線は外れたがヒソヒソと噂話が聞こえる。
はぁ、最悪だ…。
「何をしてるの…?」
ふと、隣から声が聞こえた。
「何をって、うるせぇな…」
「注目浴びちゃったね…」
隣の少女はバカにするように言った。
こいつ…!
再び声をあげそうになるのを猫実は必死に抑えた。
言い返そうとする猫実を尻目に少女は再び前を向いた。
バカにしやがってぇ…!
怒りを何とか鎮め猫実も前を向く。
先生はまだ縮こまったままだ。
「先生、HRを続けてください!」
「ひぃ!ごめんなさい、独身でごめんなさい!」
教室になんとも言えない冷たい空気が走った。
HRが終わり教室にいつも通りの喧騒とした雰囲気が戻る。
皆、各々が仲の良いグループで固まって会話を楽しんでいる。
「シュナイザービーム!」
中には歳をわきまえていないバカもいるようだ。
だが、猫実の隣の少女は席を動こうとしない。
猫実はそれを珍しそうにまじまじと見つめた。
こいつ、ボッチか?
って、それは俺も言えた事じゃないか…。
「何…?」
少女が俺の視線に気がついた。
「え、あぁ、ちょっとな」
猫実は必死にはぐらかした。
ボッチに親近感湧いてましたなんて口が裂けても言えない。
「ちょっとって…?」
少女は訝しそうに猫実の顔を覗きこんだ。
うっ、顔近い…。
猫実は目を反らす。
それでも、少女の疑わしそうな視線は外れない。
猫実は耐えられなくなり、
「あぁ、もう何でも無いって!そもそも、お前こそ同じクラスだったのかよ!」
と喚くと少女を払いのけた。
「何よ、それはこっちのセリフよ!」
「何だとぉ?」
「何よぉ?そもそも名前が似てる事も気に食わない!」
「名前?」
そういや俺、こいつの名前知らないな。
別に気になる訳じゃ無いが。
「猫子!私の名前!」
少女は猫実の思いなど裏腹に名乗った。
猫子…。
確かにそっくりだな。
気に食わねぇ…!
猫実は名乗った猫子に最大限の睨みで答えた。
「な、何よ…!こっち見ないでよ!」
猫子は腕を目一杯振り回した。
こいつ、怯えない…。
猫実はそんな猫子の反応に驚いた。
今気がついたが、こいつは俺と普通に会話してる。
というか、どこか強気だ。
こんな奴、居なかった…。
どいつもこいつも、俺に怯えて、一線引いて遠ざけた。
そんな奴等に比べれば、こいつはもっとずっと近い…。
目を丸くして猫子をまじまじと見る猫実に流石の猫子も面食らった。
「どしたの…?」
「何でだよ…!」
「え、何…?」
不意に口走った言葉。
なぜ?
あぁ、こいつは遠ざけないと…。
猫実は息を吸って言葉を乗せようとした。
その時、
「おわっ!猫っちが女子と話してる!?」
突然、会話の輪に加わった人間が一人。
猫実はそちらを見た。
「宗吾っ!」
東山宗吾、猫実の数少ない友達、というか親友。
中学からの付き合いで訳あって猫実の過去を知っている。
「お前、ようやく女に興味持ったんだなぁ…!」
宗吾はまるで親バカの父親の様に涙をダラダラと流しながら感激している。
「バカっ!誤解を招く様な言い方すんな!」
猫実は宗吾の頭を思いっきりひっぱたいた。
宗吾が転がる。
痛そうだ。
だが、本人はそんな事気にせずに猫子の手を取り、
「バカな野郎ですが、どうか猫実をよろしくお願いいたします!」
「殺すぞ、テメェ!」
余りの場の変わりように猫子は驚きポカンとしている。
そこに、問題児がもう一人現れる。
「嘘だろ、宗吾と猫実が女子を取り合ってる…!」
鮫島隼人、ただの脳筋。
猫実の親友、であり元戦友(自称)。
「「んなわけ、あるかぁっ!」」
猫実と宗吾は口を揃えて否定した。
「テメェ、八つ裂きにすっぞ!」
「バカにすんなよ!童貞バカにすんなよ!」
二人はそれぞれにわめき散らしながら隼人を蜂の巣にした。
「わ、悪かった!止めろ、止めてぇっ!」
隼人は情けない悲鳴を漏らす。
毎度の事だ。
三人が揃うと周り等気にもとめずに騒ぎ散らしてしまう。
これも、三人がヤンキーと言われる由縁なのかもしれない。
「くすっ、あははっ!」
突然、猫子の笑い声が聞こえた。
見ると猫子が腹を抱えて大笑いしている。
え、どした…?
三人は呆気に取られてしまった。
「ご、ごめん。面白くて!」
必死に笑いこらえ猫子は弁明した。
「え、あぁ!ごめん、俺達も騒いじゃって…!」
宗吾は反射的に頭を下げた。
「いや、大丈夫だよ!」
猫子は宗吾の頭を上げさせた。
笑った…。
こいつ、笑えるんだ。
何だよ、笑った顔は可愛いじゃん…。
猫実は猫子の笑顔に見入った。
今だったら仲良く話せそうな、気がする。
今なら…。
猫実が声を掛けようとしたその時、
「あんたら、ねこちに何してんの!」
背後から大きな声が響いた。
皆は、声の方を見やる。
そこにはクラスメイトとおぼしき少女が腰に手をあて立っていた。
肩までの髪を後でポニーテールにし、運動部なのか少し日焼けした肌。
まだ、垢抜けていない幼げな顔立ち。
その割にはバランスの取れていない豊満な胸元。
こいつは、
「春野櫻子…?」
猫実は呟く様に言った。
櫻子はふんっ、と言った調子でこちらを睨み付けている。
だが、何だか憎めない。
「何って、話してだけなんだけど…」
宗吾が質問の意味を探るように答えた。
だが、櫻子は宗吾をキッと睨み付けると、
「嘘、このヤンキーが!猫子、何か酷い事されてない?」
と猫実達の言葉には耳も貸そうとしない。
ただ、猫実達には結構あることだ。
何かあると、先入観ですぐに悪者にされる。
その為、今回も反論はしようとしない。
三人とも笑って誤魔化している。
だが、
「櫻子、そんなんじゃないよ。ただ、話してただけ。それに、こいつら結構面白いよ」
猫子は三人を庇った。
三人は驚愕や不信、そして感謝など様々な感情が入り雑じった目で猫子を見つめた。
猫子はなんら変わった事はしていないと言った様子で平然と櫻子に視線を合わしていた。
こいつ、変わってる。
俺なんて庇う価値無いのに…。
『お前は邪魔なだけだ!』
ふと脳裏に過去の言葉が過る。
その言葉の余りの冷たさに、今この状況が酷く温かく感じた。
猫実の頬を不意に一筋の涙が伝った。
猫実は慌ててそれを拭い、平静を装う。
宗吾や櫻子は猫子の事を今だ目を丸くして見張っているので気がついていない。
だが、猫子は猫実の事を目を丸くして見つめていた。
まずい…!
二人の間に何とも言えない気まずい空気が流れた。
それはとてもささやかで他の人間達は気がつかない。
でも、二人には重たくネットリと絡みつき心をえぐった。
猫子は何かを言おうとしている。
だが、言葉が見つからずに口をつぐんだ。
猫実も気の効いた一言をと思い考えを巡らせたが、結局見つからずに諦めた。
二人はただ、視線を合わせないように俯くしか無かった。
「猫子は私が守るっ!」
ふとした櫻子の少し間抜けな言葉で二人の間に流れた気まずさは掻き消された。
二人とも自分達が会話に入った事に少しホッとした。
「櫻子、大袈裟だよ…」
猫子は引き笑いを浮かべながら櫻子に自重を促した。
「いやっ!大袈裟じゃないもん!」
櫻子は年甲斐もなく半泣きで猫子に飛び付いた。
流石にその行動にはいつもバカやってる男性陣も引いた。
「お前、小学生かよ…」
宗吾は呆れ混じりに呟いた。
「え…っ!」
櫻子は自分が何をやったのか気がついたのだろう。
顔を真っ赤にさせながら俯いた。
「ま、まぁ。そう落ち込むなって」
すかさず宗吾がフォローする。
流石、そういう事には抜かりない。
「る、さい…っ」
「えっ?何だって?」
宗吾が耳を立てる。
「うるさいっ!」
次の瞬間、宗吾のみぞおちめがけ強烈な正拳突きが飛んだ。
「グハァっ!」
情けない唸り声と共に宗吾が吹き飛んだ。
そして、ゴロゴロと痛みに悶えている。
クリーンヒットしたのだろう、声すら出せそうにない。
猫実と隼人は宗吾の余りに無様な姿にドッと笑った。
「ハハハッ!ダサいぞ、宗吾!」
「お前、負けてやんの!」
ゲラゲラと笑う猫実達を尻目に宗吾は櫻子を睨み付けている。
だが、踞ったままなので威厳もくそも無い。
「バカじゃないの!行こっねこち」
櫻子はそう吐き捨てると猫子を連れ教室を出ていってしまった。
教室を出る瞬間、一瞬猫子と視線があった気がした。
それが、故意なのか偶然なのかはわからない。
そもそも、勘違いという事もあり得る。
ただ、さっき涙を見られた。
それだけは確かだ。
それだけなのになぜかムシャクシャする。
「どした?」
猫実はようやく立ち上がった宗吾の顔面をもう一度殴り直した。
傾きかけた太陽が紅い陽光と共に教室を薄暗く染める。
猫実は一人、紅いに染まる教室にたたずんでいた。
教室には誰もいない。
本当はもっと早く帰りたかったが、遅刻の弁明やら説教やらで最終下校時刻ギリギリになってしまった。
ちなみに猫実を説教した先生は職員室で英雄扱いされていた。
「帰るか…」
猫実は紅蓮の空に向かい呟いた。
そして、鞄に手をかけて扉に向かった。
その時、
「猫実くんっ!」
扉から小さな影が飛び出した。
「頼斗っ!?」
飛び出してきたのは今朝助けたいじめられっ子だった。
「どうした?」
猫実は頼斗に近づいた。
こいつ、震えてる…?
「今朝の事、お礼したいんだ!」
頼斗は妙にハキハキと答えた。
「別に、礼なんて…」
「お願いだ、礼をさせてくれっ!」
それは凄まじい剣幕だった。
猫実ですら気圧されるような…。
「わ、わかった…」
猫実はその剣幕に負けた。
その返答に頼斗の表情はパァっと晴れた。
「やった!こっち来て!」
そう言うと猫実の腕をグシッと鷲掴みにして駆け出した。
「お、おい!どこに行くんだ?」
猫実の問いに頼斗は答えない。
そんな頼斗に不信感を覚えながらも猫実は身を任せた。
頼斗に引っ張られながら駆け出ししばらくたった。
頼斗は猫実を力ずくで連れ回した。
階段を下り、廊下を曲がり、また階段を下りる。
その間、猫実が何を聞こうと頼斗は口をつぐみ続けた。
途中から猫実は頼斗に質問するのを諦めた。
なんとなく、答えがわかったからだ。
「ここだよっ!」
突然、頼斗が足を止めた。
余りに急だったので猫実は前につんのめった。
「良くできました。頼斗くん…」
猫実の視界には明らかに柄の悪い男子が数人立っていた。
その内、二人は今朝しばいた奴等だ。
頼斗は怯えながらもその群れの中に入っていった。
「ご、ごめん!こうしないと僕っ…!」
頼斗の言葉には謝罪の気持ちよりも怯えの方が強く籠められている気がした。
「いやー、俺の連れが世話になったらしいじゃん?」
リーダーとおぼしき男が両手を開きながら高らかと言った。
その言葉が言い終わると何やら後ろに目配せする。
次の瞬間、猫実の体は後ろからガッチリと羽交い締めにされた。
んなっ!?
猫実は振りほどこうとするが二人係りは流石にどうしようも無い。
猫実は諦めて力を抜いた。
「ギャハハハッ!ダセェっ、ダサすぎるだろ?騙されてのこのこはめられてさぁっ!」
リーダーはご機嫌だ。
あぁ、確かにダセェ…、
ダサすぎるな…。
「だから、人間なんて信じる価値無いんだ…」
「あ、なんか言ったか?」
「いいよ、さっさと殺れよ」
あー、なんかもうどうでもいいや。
なんとでも、なれ…。
「うっ、なんだよやりがいねぇなぁ」
リーダーは少し肩を落としながらも取り巻きに指示を出した。
取り巻きが近づく。
皆、不気味な笑みを浮かべてる。
ボコされるのって久しぶりかも…。
受け身ってどうやって取るんだっけ?
猫実はもう無気力だ。
取り巻き達が腕に力を入れた。
覚悟を決める。
その時、
「何、諦めてんのっ!」
猫実と不良達の間に一人の少女が立ち塞がった。
「猫子…?」
だが、力んだ取り巻きは止まらない。
照準を俺から猫子に切り替えた。
「逃げろっ!」
叫ぶが猫子は動かない。
まるで、石の様に猫実を執拗に庇おうとする。
そんな、猫子を取り巻きの拳が襲った。
猫子は衝撃に耐えかね地面に吹き飛んだ。
「猫子ーっ!」
くそっ、なんで!?
俺なんか、俺なんかを…。
「信じたって無駄だろうっ!!」
その瞬間、猫実は今まで体験したこと無いようなバカ力を得た。
一気に自分を羽交い締めしている二人を振りほどくと、鬼神の如く不良達に襲い掛かった。
皆、俺から離れた!
俺を邪魔者扱いした!
だから、俺も人を信じるのを止めたのに…。
なんで、お前は!
「うわぁぁっ!」
猫実はやるせなくなり発狂した。
目からは涙が流れ、ある意味酷い形相だっただろう。
とにかく、猫実は我を忘れて暴れまわりたった一人でボロボロになりながら数人の不良達を制圧し追い返したのだった。
その様子を猫子はポカンと見ていた。
頼斗はいつの間にかどこかに消えていた。
「ハァハァ…」
猫実は一通り暴れまわるとヘタンと座りこんだ。
そして、グシグシと涙を拭った。
ふと、気がついた様に猫子の方を見た。
視線が合い猫子も我に帰った。
殴られた右頬は少し赤く腫れている様な気がする。
「なんで、助けに来たんだよ…」
猫実はわざと視線を反らす。
「そりゃ、危なそうだったから…」
猫子も視線を反らした。
二人の間にはまだ、あの気まずさが残っている。
「それだけで自分を犠牲にするのか?しかも俺なんかの為に…」
「君だからだよ。君は強いから」
「信じたのか…?」
猫子は照れくさそうにコクりと頷いた。
猫実にはその返答が少し嬉しかった。
だが、やはり今の猫実には重いだけだ。
「人なんて信じるだけ無駄だ…」
「え…っ?」
「人なんて所詮は自分が一番大事なんだ。だから、他人なんて簡単に裏切る。そんな、奴等に全幅の信頼を置くなんて無駄でしかない!」
「じゃあ、君は誰も信じていないの?」
「当たり前だ!だから、お前も俺なんか信じるな…」
「ふざけないでよ…」
押し殺した猫子の声。
その声音には明確な憤怒が込められていた。
それは猫実が気圧される程だった。
呆気に取られる猫実を尻目に猫子は叫ぶように言った。
「貴方を信じようとしてる人の前でそんな事言わないで!」
「…っ!」
猫実は無言で目を見開く。
「何を言われようと私は貴方を信じる!努力をする!だから、そんな私の行いの邪魔だけはしないで!」
耳を疑うような言葉。
この女はここまで言われても自分を信じるのか?
信じようとしてくれるのか?
猫子の言葉は、行動は猫実の為と言うよりは自分の為と言う方が大きかった気がする。
それでも、傷心の猫実にはやはり嬉しくて、自然と涙が浮かんだ。
『ダサい』、そう一瞥されるだろうと思っていたがなぜか猫子の瞳にも涙が浮かんでいた。
二人は紅い陽光しか射さない薄暗い廊下の真ん中でしばらくすすり泣き何も無かったかの様に黙って、二人で教室に戻った。
だが、猫実はなぜか猫子が妙に近くに居るような気がしていた。
もうすっかり日が暮れた。
蛍光灯の光の下を猫子と猫実は並んで歩いていた。
あの後、二人で教室に戻り、二人で昇降口に行き、結局二人で帰ることになった。
だが、もうしばらく歩いているが二人の間にはまだ、一言も会話が交わされていない。
猫実もこの状況は流石に気不味い、と言うよりしんどい。
心でよしっと呟くと声をかける決心を固めた。
「いやー、なんか今日いろいろあったな?」
わざと賑やかに冗談めかして言ってみた。
それに対して猫子は、
「えぇ、最悪の1日だったわ」
と平然と答えた。
「さ、最悪って、お前なぁ…!」
「最悪以外の何物でも無いわよ!あんたに出会ったし、あんたと会話したし!あんたのせいで殴られたし!あんた泣いたし!」
「全部、俺じゃねぇかっ!つか、最後のは言うな、恥ずかしいから!」
声を荒らげる猫実に猫子はふんっとそっぽを向いて見せた。
はぁ、とため息をつきながらも猫実は真面目な顔になると、
「ありがとな…」
と恥ずかしそうに言った。
猫子は意外そうに向き直る。
猫実は更に続ける、
「なんか、一応、よくわかんないけど言っとく…」
「良くわかんないって…。まぁ、でも良いや。でも、暴力はやっぱり控えて」
「えっ…」
「あんたがこのまま暴力をふるい続けたら私はいつかあんたを信じられなくなる」
猫実はそれに対しては簡単には返答出来なかった。
暴力を学んだのにもそれなりの理由がある。
猫実は視線を自然と落とした。
「まぁ、気にしないで!私、こっちだから」
猫子はそれで無理やり会話を切ると目の前の角を曲がろうとした。
だが、その角は猫実も曲がるのだ。
「俺もこっちなんだけど」
そう言って猫実も共に角を曲がった。
待てよ、この角曲がったらもう家だぞ…。
まさか、
「私、この角曲がったらもう家なんだけど…」
「はぁっ!?」
「ほら、あそこ」
猫子はそう言うとある一軒家を指さした。
そこには、立派な戸建ての家が堂々と建っていた。
だが、その家を猫実は知っている。
というか毎日見ている。
そう、なぜなら猫実の家は、
「俺の家、その向かいのボロアパート何ですけど!?」
「はーっ!?」
猫子は目を丸くして驚いている。
だが、驚いているのは猫実も同じだ。
「なんで、向かいに居るのに顔すら合わせた事無いんだよ…」
少し呆れ気味に短い嘆息を吐いた。
その嘆息に猫子は、
「し、知らないわよ!そもそも、毎朝あんたと顔を合わせてたら目がイカれるわ!」
「何だと!?俺だって毎朝お前と顔を合わせるなんてごめんだぁ!」
「何ですってぇっ!」
二人は睨みあったがしばらくするとはぁとため息をつき視線を反らした。
「疲れた、私帰る…」
「俺もだ。帰る…」
そうくたびれながら言うとそれぞれ家の方に向かっていった。
猫実はほぼ無心で家に向かっていた。
その時、
「あ、そうだ!」
猫子に突然呼び止められた。
猫実は億劫そうに振り返る。
「なに?」
猫子は不機嫌な猫実など気にせずに急に上機嫌で言った。
「じゃあね、猫実!」
そして、クルリと向きを帰るとさっさと家に引っ込んでしまった。
突然の顛末に猫実はただただ呆然とするしかなくその場に立ち呆けていた。
だが、しばらくしてまだ冷たい夜の春風に吹かれて我を取り戻すとふと呟く様に口にした。
「あぁ、じゃあな猫子…」
そして猫実も家に引っ込んだ。
蛍光灯の灯る街路に二人の暖かな言葉が新たな彩りを与えた。
ような気がした。
家に帰り、飯を作り、風呂を入れ、洗濯物を片付けていろいろと忙しく過ごしているといつの間にか日付変更線を跨いでいた。
鳴海はいつの間にか寝ていた。
猫実も仕事を片付け終わったので眠りの床につくことにした。
実はこの部屋は一人暮らし様で部屋が足りていない。
というより風呂とトイレと台所を抜くと二部屋しかない。
その為、猫実はいつも居間に布団を敷いて寝ている。
別に不便な事はない。
だがら、あまり気にはしていない。
布団を敷き終わり歯磨き等を済まして布団に入る。
そして、目一杯手を伸ばして電気を消した。
横になり布団に潜る。
目を閉じてみる。
すると、今日あった事がフラッシュバックの様に瞼の裏に焼きついてきた。
楽しかった事も、悲しかった事も。
猫実は思わず目を開けた。
おかしい、いつもはこんな事無いんだけどな…。
疑問に思いながらもう一度目を閉じてみた。
再びフラッシュバックが襲う。
だが、今度は違う。
瞼の裏に映るのは猫子だ。
猫子ばかりが映る。
喧嘩ばかりしていたのに…。
それでも、自分を信じると言ってくれた猫子が…。
『暴力は控えてくれ』
猫実にはその言葉が引っ掛かった。
信じられなくなるか…。
実は暴力を学んだのは自らを守るためだった。
両親を失い、誰も守ってくれないと気づかされ、それなら自分の身くらい自分で守ってみせると学んだのが暴力だった。
それ故に暴力は手放すに手放せない。
そう、思っていたが。
だが、俺はそんなに子供だろうか?
自分を守る術を力にしか頼れない子供だろうか?
そんな疑問が浮かんだ時、猫実は不意にスマホを手に取っていた。
無心である人物に通話をかける。
呼び出し音が鳴り響く。
そんな、中でも猫実は思案に耽っていた。
別に猫子の為じゃない、はず…。
ただ、変わりたいだけ。
もっと、強くなりたいだけ…。
あいつが気になってる訳じゃない!
「んだよ、猫実…。今、何時だと思ってる?」
「もしもし、宗吾か?ちょっと、伝えたい事があってさ!」
電話口の宗吾はさっきまで寝ていたのだろう。
突然起こされて、少し苛立っている。
だが、猫実はそんなのお構い無しだ。
気にせずに伝えたい事を口にした。
「俺、暴力捨てる!」
「はぁ!?お前、それどういう…」
「まぁ、そういう事だから!んじゃ」
焦る宗吾を尻目に猫実は一方的に通話を切った。
「おい、待てっ!」
という宗吾の残響が耳に残る。
だが、猫実は自分の宣言の余韻に浸っておりご機嫌だ。
浮かれる思いの中、猫実は布団に潜った。
明日からは新しい俺になるんだ!
心中で騒ぎたい気持ちを必死に抑え込み、猫実は目を閉じた。
じきに強烈な眠気に襲われ猫実は眠りに落ちた。