可愛い弟子は冒険をしたくない
森の奥の小さな家は、初夏の陽射しに縁どられ外よりもひんやりとした空気に満ちていた。
木漏れ日が白髪の老女と栗色の髪の少女を、ぼんやりと縁取っている。
「……今日からおまえは、ここにはいないものと思え」
かすれた声の割に、言葉は石みたいに硬かった。
「……はい?」
ちいさく首をかしげた少女――エミリー・ウンコータレは、魔導師の卵にして、誰よりも怠け者の弟子である。
「エミリー、おまえはもう充分に魔法を学んだ。あとは世間を学べ。……それだけだ」
老女――エルクーナの指先が小さな杖をそっと撫でるたび、微かな光が空気を揺らす。
それが怖くてエミリーはちいさく眉を寄せた。
「師匠……わたし、旅に出たら……負けだと思うんですけど」
涙声に似ているのは演技だとエルクーナはとっくに知っていた。
指先がひと振りすると、エミリーの背を優しい風が押した。
「泣き言は外で言いなさい」
次の瞬間、彼女の体は玄関先に放り出されていた。
膝を打つ前に鞄の紐が手に絡んだのは、エルクーナの最後の情だった。
「師匠ー! 可愛い弟子が腹ボテで帰ってきても知らないからねっ!」
家の扉を両手で叩きながら、エミリーの声は森に吸い込まれていく。
返事の代わりに内側から魔法の封がかかった音がした。
「……はぁ、ほんとに追い出した……」
ぶつぶつ言いながら、エミリーはとぼとぼと小道を降りていった。
森を抜ければ宿屋のあるジュレ村は近い。
(働くの、だるい……)
杖を小脇に抱えて空を見上げる。
雲ひとつない初夏の空は、怠け者には残酷なくらいどこまでも青かった。
森を抜けてジュレ村の裏通りへ。
初夏の日差しが石畳に照り返り、靴の先が熱を帯びている。
(あーあ。宿代、どうしよう……)
エミリーは鞄の口を探り、財布を開ける。
そこに入っているのは、きらきらした思い出と、いくばくかの小銅貨だけ。
「はー……世の中、金よ……」
ぶつぶつ言いながら角を曲がったときだった。
「……っ、痛っ!」
小さな体が何か硬いものにぶつかった。
反射的に尻もちをついたエミリーの視界に、陽に焼けた腕と、まだ少年の線を残した顔が映る。
「あっ……ごめん、怪我ない?」
少年の声は真っすぐで、埃っぽい匂いがした。
エミリーは尻を払って、すっと目を細める。
「……謝罪と賠償を請求する。世の中は金だから。さあ、有り金を全部出しなさい。断ったら……犯されそうになったって言いふらすけど?」
唇の端をわざとにひくつかせて、睨みを利かせる。
一瞬だけ、少年――クロの目が見開かれた。
「おいおいおい! そりゃあんまりだろ!」
動揺はしたが、クロの声には笑みが混じっていた。
田舎の村でよく見る、悪ガキと同じ無鉄砲さ。
「……死ね」
エミリーは杖を構えた。
冗談ではない。魔力の揺らぎが熱気を孕んで空気をぴりりと裂く。
「ちょっ……待って、待ってくださいっ……!」
クロは反射で土下座した。見事なまでに額を石畳に擦り付ける。
「……」
しばらく無言で眺めた後、エミリーは杖をおろし少年の腰の袋をくしゃっと奪い取った。
中身は……銅貨が二十枚。
思わず肩が落ちる。
「……しけてるね」
「仕方ないだろ! 俺だって旅してりゃ金なんて残らないんだよ!」
クロの声は妙に真っ直ぐで、ふてぶてしくない。
エミリーは頬を指でつつき、ふと聞いてみる。
「名前は?」
「クロ」
「クロ、ね……クロは甘いよ」
「……何がだよ」
エミリーは帽子の庇を直し、くすっと笑った。
「冒険者なんて金が稼げてナンボだよ。稼げない冒険者はただの穀潰し。分かった?」
クロはぐっと黙り込んだ。
その沈黙が、エミリーの心をくすぐった。
(前衛職だな……使えなくても盾にはなるか……)
小さく舌打ちをしてから、彼女は告げた。
「仕方ないから、なんちゃって冒険者の相棒に私がなってあげる」
「えっ……!」
「先立つ物がないと話にならないしね。……あ、報酬は私が九割で、クロが一割」
「はあ!? なんでだよ!?」
「私は問題ない」
「俺が大有りだっ!」
ふくれ面のクロを無視して、エミリーは小さく笑った。
これで今日の宿と飯には困らない。
可愛い弟子は、可愛い顔してしっかり腹黒い――それが世間のまだ知らない真実だった。
ジュレ村の酒場は、昼間だというのにひやりとした影と人いきれが混じり合っていた。
昼酒をすすりながら語り合う半端者と、疲れ果てて寝台に倒れる鉱夫と、ひっそり剣を磨く傭兵――
エミリーは空気を一瞥し、すぐに鼻で笑った。
(どいつもこいつも貧乏臭い……)
「……おいエミリー、ここって……」
初めて酒場の空気を吸ったクロは、言葉を選びかけている。
無駄なのでエミリーは振り返らない。
「お店。お仕事を探すとこ。可愛い子供には危ない仕事は回さないってね」
杖の先で掲示板を小突きながら、目を細める。
――【村外れの沼のヒル退治】
――【羊の行方不明捜索】
――【用心棒募集(高額・危険)】
「……どれも小銭ばっかだな」
ぼそりとクロが呟いた声に、エミリーは唇だけ笑う。
「安心しなさい。私は高くつくの」
「えっ、何それ怖い……」
掲示板を眺める間にも背後からくぐもった低音が響いた。
「おう、エミリーじゃねえか」
肩幅が広い影が落ちる。
元傭兵で今は酒場の主――マルコ。腕組みだけで壁みたいに見えるのが、ちょっとだけ誇らしい。
「マルコさん、こんにちは」
「エルクーナ様の使いか?」
「今日は私用。お仕事探しに来たの」
短く答えると、マルコはクロの方に目を移した。
「……そっちは誰だ」
「可哀想な成り立て冒険者。仕方ないからお供してあげるの」
「お供って……」
ささやくクロを無視して、エミリーは目の前の机に腰かけた。
杖の先で机をつん、と叩く。
「マルコさん、私に相応しい依頼、回してくれる?」
「……魔導師がいるなら獣避けの護衛がちょうど出てるぞ。山道越え、危険度は低めだ」
マルコは大きな手で裏帳面をめくりながら言った。
「報酬は?」
「銀貨三枚。人手不足で、ちょっと割増した」
エミリーの頬が僅かに緩む。
「いいじゃない。宿代とクロの餌代くらいにはなるわ」
「おい、餌って……!」
憤慨するクロの頭をぽん、と杖の柄で軽く叩いてエミリーはすっと立ち上がった。
「決まりね。じゃ、明日朝には依頼主の屋敷前集合でいい?」
「おう。無茶だけはすんなよ、嬢ちゃん」
マルコの低い声を背に、エミリーの杖先はすっと扉を指した。
――これから少しくらい危ない目に遭っても構わない。
少しくらい誰かに甘えても構わない。
だって可愛い弟子は、ちゃんと帰る場所があるのだから。
翌朝。
ジュレ村の外れ、小金持ちの商人が住む石造りの屋敷の前にはぽつんと二人の影。
「……眠い……帰りたい……」
ほぼ寝起きのエミリーは、帽子の庇を指先でぐいと直しながら、大あくびをかみ殺す。
「おいおい、頼むから今だけはシャキっとしてくれ……! 一応、護衛なんだから……!」
クロは剣を肩に担ぎ気合だけは十分。
だがエミリーの気合はゼロ以下だった。
「クロが居れば十分でしょう? 前衛は盾なんだから」
「……そういう言い方やめろ」
お互い口を尖らせていると、屋敷の大きな門がぎぃと音を立てて開く。
現れたのは、少し肥えた商人と荷馬車一台。
「おお、君たちか! 若いな! 頼りにしてるぞ!」
商人の声は元気が良すぎて、エミリーの眠気を余計に削った。
「……ん。襲われたらクロが死ぬから安心して」
「だからそういう物騒な言い方やめろって……!」
そうこうするうちに荷馬車は村を出た。
初夏の風が涼しくて、野の花の匂いが鼻をかすめる。
(……平和が一番……眠い……)
エミリーは馬車の荷台に座ると、すぐに杖を枕にして丸くなる。
横目で見たクロが呆れた顔をした。
「……エミリー、起きてろよ」
「クロが護衛してくれるから……いいの……」
それだけ言って本当に寝息を立てる。
商人は不安げにクロを見たが、クロは胸を張った。
「大丈夫です! あれはあれで、ちゃんとやるときはやるんで!」
そう言い切ったところへ――
「……あれ、何だ?」
小道の先、低い藪の影から小さな黒い獣影が二つ、三つ。
牙をむき、唸り声をあげている。
「盗賊の犬か……!」
クロは剣を構え、すっとエミリーに視線を投げた。
……しかしエミリーは起きない。
代わりに寝言が聞こえた。
「……クロ……クロは盾……クロは……死ぬ……」
「おいっ!?」
寝言に背中を押されクロは腹をくくるしかなかった。
「……くそっ、守るって決めたんだからやるしかねぇ!」
剣が銀色に閃き、吠えかかる犬の牙と火花を散らす。
その音に目を細めながらエミリーは半分夢の中でつぶやいた。
(……ちゃんと盾……役に立つじゃん……)
ほんのすこしだけ唇の端が眠たげに笑った。
犬の吠え声と、剣が何かを断つ音が小道に乾いたリズムを刻んでいる。
「ぐっ……!」
クロの腕には、薄い噛み傷が一つ。
それでも踏み止まって剣を振り抜いた。
――二匹目、倒した。
「……次、来いや……!」
汗が額を流れる。
後ろでは商人が荷馬車を抱えるようにしゃがみ込んでいる。
「クロ……っ、あんた……」
さっきまで寝息を立てていたエミリーが、いつの間にか馬車の屋根に立っていた。
帽子を軽く押さえ、目元だけがきらりと笑う。
「いい子でお留守番してた? ……おつかれ」
杖の先が、まるで狐の尻尾みたいにふわりと光る。
「え……おい……やっと起きたのかよ!」
三匹目の犬がクロに跳びかかったその瞬間だった。
「――アトラクト・スパーク」
少女の唇が囁くと、空気が震え真昼の陽光を裂いて白銀の稲妻が落ちた。
乾いた閃光が犬の背を貫く。獣の影は一息で焼き焦げて、ぱたりと小道に倒れた。
「……!」
クロが思わず振り返ると、エミリーはいつものわがまま顔に戻っていた。
「クロは盾。魔法は私のオマケ」
言いながら屋根からすっと飛び降りる。
重さなんてまるでない。森の妖精のように土を蹴って着地した。
「おいおい、ならもう少し早く起きろよ!」
「んー……寝てた方がクロの見極めになるでしょ?」
エミリーの指が、クロの噛まれた腕をついと撫でた。
「痛かった?」
「そりゃあな」
「我慢できたなら上出来。……次はもっと大きいのとやるかもよ?」
いつの間にか少女の指先はクロの額をちょんと突いていた。
「……ったく、悪魔かお前は……」
悪態をつきながらも、クロの口元も少しだけ笑った。
護衛の商人が安堵したように地面に手をついた。
初夏の風がエミリーの栗色の髪を揺らしている。
(――ああ。面白くなってきたかも)
誰にも聞こえないように、エミリーは小さく笑った。
ジュレ村の酒場の奥――
昼下がりの空気の中で、木製のテーブルを挟んで座る二人の影があった。
「……ったく……痛かった……」
クロは包帯を巻いた腕を恨めしそうに撫でている。
対するエミリーは、銀貨の袋を卓上に並べると、くすっと微笑んだ。
「おつかれ、クロ。ちゃんと盾のお仕事できて、偉い偉い」
「……子供扱いすんなよ」
クロの声はふてくされていたが、エミリーは気にも留めない。
銀貨を一枚ずつ指先で弾いて、自分の鞄へと落としていく。
「んで……俺の取り分は?」
「もちろん――一割」
「……ッ!」
クロはわかっていたはずの言葉に、もう一度目を見開く。
「言ったでしょ。これは私が居たから貰えた仕事。私がいなかったら、クロひとりじゃ門前払い。違う?」
小さな声なのにやけに冷たく響く。
クロは言い返そうとして――けれど唇を噛み締めた。
確かに犬三匹だって一人じゃ無理だった。
そもそも依頼だって、マルコはエミリーにだけ目を向けて話した。
「……くっそ……わかったよ……」
うつむくクロの頭にエミリーの小さな手がぽん、と乗った。
「いい子いい子。分かればいいの」
「……っ……」
彼女の声はやけに甘くて、そのくせ絶対に逆らえない温度を持っている。
それがクロをまた、何も言えなくさせた。
マルコがカウンター越しにニヤリと笑った。
「はは。エミリーが居りゃあ、ガキも一人前だな」
「そう。だからクロは私の――」
一拍おいて、わざとに唇を尖らせて言う。
「下僕なの。わかってる?」
「お、おいっ……!」
エミリーは杖をくるりと回し、楽しげに鼻歌を漏らした。
彼女の可愛さと毒は、もうすでに村に染みつき始めていた。
くすっと笑ったエミリーの瞳には、森より深い色が映っていた。
クロが何か言いかけた瞬間――
エミリーはふっと顔を近づけ、耳元にだけ冷たく囁いた。
「でも、調子に乗らないで。夜這いしてきたら……クロごと黒焦げに焼き殺すから」
杖の先がクロの胸元をちょん、と突いた。
指先から、かすかに青白い魔力が揺れている。
「お、おい……お前……!」
「冗談じゃないわよ?」
ふわりとした笑顔の奥に、どこか本気の冷たさが滲んだ。
クロは何も言えずに、その場でちいさく頷くしかなかった。
マルコの低い笑い声が酒場の奥にこぼれた。
その夜――
村外れの小さな宿の二階。
狭い廊下を挟んで向かい合わせの二部屋。
月明かりが窓の隙間をすり抜ける。
「……はぁ……くそ……」
クロは自分の部屋の寝台に横になりながら、腕を額に押し当てた。
昼間の出来事が悔しさと共に胸の奥をチリチリと焼いている。
(……あいつ……調子に乗りやがって……)
目に浮かぶのは、無邪気に笑って銀貨を巻き上げる少女の横顔。
可愛い癖に、平気で人を盾扱いして――
そのくせ不意に近づいて囁く声が妙に甘い。
クロは思わずきつく唇を噛んだ。
「……ちくしょう……」
指先が、勝手に布の中へ滑り込む。
瞼の裏には村の子供みたいに眠たげに笑うエミリー。
昼間のあの黒焦げにすると脅した唇が、別の形で脳裏に滲む。
「……ん……は……」
軋むベッド。
呼吸が熱を帯びて、静かな夜に小さな喘ぎが混ざる。
――その瞬間だった。
「ドンッ!!」
隣の壁を何かが強く叩いた。
「……ッ!?」
クロの体がびくりと跳ねる。
壁越しに低くてはっきりした声が漏れた。
「クロ――聞こえてるわよ?」
エミリーの声だ。
いつもの飄々とした調子じゃない。
真夜中の月みたいに氷の匂いがした。
「……勝手におかずにするのはいいけど――」
一拍、まるで笑っているように。
「次やったら、本当に焼き殺すから」
ドン、ともう一度、壁が鳴った。
クロの指先からすべての熱が一瞬で引いていった。
「……マジで……悪魔だろ……」
夜の小さな宿にクロの情けない溜息だけが静かに転がった。
翌朝――
宿の簡素な食堂には、まだ炊きたてのパンの匂いがほのかに漂っていた。
クロはパンを齧りながら、テーブル越しに黙ってエミリーを見ていた。
(……ちくしょう、昨日のこと……)
わがまま放題で自分を盾扱いして、夜中に壁ドンまでしてくる小悪魔。
なのに――
なのにその小さな体はどこか艶めいていて、寝起きの無防備な姿は……余計に目を引いた。
パジャマ代わりの薄いシャツ。
椅子に座った拍子に、布の下でふわりと揺れる胸。
少し前に屈むと、腰からお尻のラインがくっきりと布越しに浮かび上がる。
(……はぁ……くそ……あれで黒焦げにするだのなんだの……)
クロの視線が胸から尻へ、尻からまた胸へ――
ぐるぐると行ったり来たりする。
「……なに?」
パンにかじりついていたエミリーの声が、ふいに落ちた。
クロはびくりと肩を揺らす。
視線を逸らすタイミングが遅すぎた。
「……いや、別に……」
「ふぅん?」
エミリーはパンをちぎりながら、瞳だけでクロを射抜く。
「――バレてないとでも思ってるの?」
薄い笑みの奥で瞳だけは微塵も笑っていなかった。
クロの喉がひゅっと鳴る。
「……お、おい……エミリーさん……」
「胸もお尻も視姦して鬱憤晴らすのは別にいいけど――」
ぱちん、と指を鳴らした。
彼女の杖が椅子の脇に立て掛けられたまま、小さく魔力を帯びてきらめく。
「……何度も言わせないわよ。調子に乗ったら……黒焦げだから」
椅子に腰かけたまま、エミリーはにっこり笑った。
クロの背筋を冷たい汗がつたった。
(……マジで悪魔だ……)
パンが喉を通るたびに、クロは思った。
それでも――
視線を止める勇気なんて、彼にはどこにも無かった。
食後のパンくずを指で払っていると、店の扉がガタリと開いた。
入ってきたのは、昨日も顔を合わせた酒場の主――マルコだ。
「おう、居たか。エミリーに追加の仕事だ」
「……ん?」
エミリーはパンくずを払った指を舐めながら目だけでマルコを捉える。
「領主様のお屋敷から急ぎだ。山向こうの砦で魔物が暴れてる。近隣に被害が出る前に片付けろってさ」
遅ければ王都の騎士団と憲兵隊が介入する。領主としては好ましくない。
「砦、ねぇ……」
エミリーはクロをちらりと見る。
クロは咄嗟に口を開く前に、その目線で黙らされた。
「で、報酬は?」
「金貨五枚。だが相応に危ない。若いのに出来るか?」
マルコの目は、エミリーより先にクロを計るように揺れた。
クロは思わず口を開く。
「お、おいエミリー……ちょっと待て、砦って……昨日みたいな犬じゃ済まないぞ?」
「……知ってるわよ」
わざとらしく肩をすくめる。
その仕草の奥で、杖の先が小さく地面を叩く。
「でもクロがいるから、大丈夫でしょう?」
「……お、おい……」
「盾でしょ?」
有無を言わせぬ笑顔に、クロの言葉は喉で詰まる。
「安心して。私も本気出すから」
「……逆に怖ぇわ……」
クロの呻き声を背にエミリーはマルコに手を差し出した。
「受けるわ。詳しい地図と状況、まとめといて」
「おう、さすがだ嬢ちゃん」
マルコの手がごつごつした金貨の袋を、エミリーの手に渡す。
その指先が、確かにエミリーの掌を撫でていくのをクロは黙って見ていた。
「……はぁ……やれやれ……」
エミリーの掌には金貨の重みと、誰も逆らえない小さな魔女の自尊心が乗っていた。
砦へ向かう街道は、朝霧がほどける頃には人の気配をすっかり飲み込んでいた。
獣の鳴き声すら遠く、ただ木々を抜ける風だけが耳に残る。
「……なあ、エミリー」
先を行く小さな背中に、クロが声をかけた。
「……砦の魔物、百匹くらい出るって話……知ってるか?」
「んー、百匹?」
栗色の髪がふわりと揺れる。
エミリーは振り返りもせずに杖で小石を転がしながら言った。
「十匹や百匹ごとき、今更物の数じゃないわよ」
その声は、本当にただの雑談みたいに淡々としていて――
クロは思わず息を呑む。
「お前……本気で言ってんのか……」
「本気じゃなかったら盾なんて連れて歩かないでしょ?」
杖の先がさくりと落ち葉を割った。
「……」
クロは笑うしかなかった。
強いとか、怖いとか、そういう次元じゃない。
けれど――
一つだけ気になって仕方がない。
「なあ……お前、そんだけ強いのに何で師匠には頭が上がんないんだ?」
唐突に口をついて出たその問いに、エミリーの足がふっと止まった。
木漏れ日の中で振り返った瞳には、薄い笑みがあった。
「……師匠はね」
ほんの一瞬だけ言葉を探すように唇が震えた。
「魔物の百匹千匹より――ずっと怖いの」
杖の先がことんと地面を叩く。
それだけで周りの空気がふっと張り詰めた気がした。
「死ぬほどの目に遭うより、師匠に説教される方が……何倍も嫌」
淡い声が風に紛れていく。
クロは思わず笑った。
「……じゃあ俺は?」
「クロ?」
「お前の中で俺はどれくらい怖いんだ?」
エミリーは、わずかに口元を緩めて答えた。
「怖いわけないじゃない。下僕でしょ?」
木漏れ日を背にしたその笑顔に、またしてもクロは何も言えなくなった。
砦の石壁が、森を抜けた先にぼんやりと姿を現した。
苔むした防壁には魔物の爪跡が新しく刻まれ、ところどころ崩れている。
クロは剣の柄を握り直し、やけに張り詰めた胸を一度深く息で満たした。
「エミリー……」
「ん?」
すぐ横で杖を肩にかけ、まるで昼寝前みたいな顔をした少女が気の抜けた声で振り向く。
「俺だってな……お前に守られてばっかじゃ男が廃る。今日は……俺が前に立つ。ちゃんと男見せるからな」
言ってしまってから、クロの顔が少し赤くなった。
言葉だけは威勢がいい。
だがエミリーは、じーっと無言でクロを眺め――
視線を、胸、腰、脚、そして股間の辺りへと遠慮なく這わせた。
「……何?」
「……何って、えっと……その……」
じり、と詰まるクロを前に、エミリーの瞳が薄く冷えた。
「……そのポークビッツで何ができるの?」
声にトゲはない。
けれど一切の情けがない。
「――ッ!」
クロの顔が真っ赤に染まる。
「おいおい……それは言い過ぎだろ……!」
「だって事実でしょ? 昨日も、隣の部屋で『おかず』にしてたの、忘れた?」
にこり、と笑った唇の奥で、エミリーの杖がまた軽く揺れる。
「……安心して。ポークビッツでも、盾にはなるわ」
「くそっ……!」
悔しさと情けなさが、クロの喉の奥に詰まった。
砦の門はもう目の前だ。
――そして少女の背中だけが、誰よりも頼もしく見えた。
砦の門をくぐった瞬間、息をするたびに鉄の味が鼻腔を満たした。
壁も床も暗い赤と黒でまだらに染め抜かれている。
「……うっ……」
誰かが殺されている事実。破壊の痕跡。
クロは思わず口元を手で押さえた。
足元には、裂けた獣の臓物とまだ生温い肉片が飛び散っている。
ひとつ踏み損ねれば靴底が滑りそうになるほどの血溜まり。
「これが……百匹……っ……」
言いかけて、クロは吐き気を飲み込んだ。
胃がひっくり返る。
「……っ……おぇ……」
小さく喉が鳴る。
しかし次の瞬間、横をすっと通り抜けていく影があった。
エミリーだった。
栗色の髪が血煙を纏いながら、白いマントの裾をひらりと翻す。
「あーあ、掃除が面倒そう」
嘔吐どころか、愚痴混じりに杖を肩へ担いだまま、すたすたと血の上を進んでいく。
「おい……エミリー……!」
クロは喉を抑えたまま、その背中を睨むように追う。
足が震える。
でも――
この血臭の中で平然としているその小さな背中だけが、たしかな生の匂いを纏っていた。
「……くそっ……!」
剣を抜く。
喉奥の酸っぱさを無理やり唾で押し流し、鉄の刃を両手で握りしめる。
「……守るって決めたんだ……!」
震える膝を叱りつけるように、血の沼を蹴ってクロはエミリーの背を追った。
砦の奥へ――
生と死が腐る場所へ――
二人の影が溶けていった。
砦の廊下は、どこまでも血の湿気がこびりついていた。
奥から響く低いうなり声が一斉にざわめきに変わる。
クロが剣を構える。
だが――
「……っ、来るぞ……!」
暗がりの奥から、牙と爪を剥いた魔物たちが群れとなって押し寄せてきた。
赤い目がいくつも光る。
飢えた唸り声が廊下を震わせる。
そして――
その全てが先頭を歩くエミリーに真っ直ぐ飛びかかった。
「エミリーっ――!」
クロの喉から悲鳴が洩れた瞬間だった。
少女は杖を肩から外すこともなく、足を止めることもなく――
瞼を伏せ、唇を一切動かさず、ただ細い指先をひと振りした。
無音詠唱。音が無かった。
炎の音も爆ぜる叫びも、何も。
ただ――
魔物たちの体だけが一瞬で白い閃光に包まれた。
皮膚が裂け、骨が焼け、血管の奥まで燃え尽きる。
断末魔すら声にならず、ひとつ、ふたつ、みっつ――
影が崩れるように砦の石床に灰を落とした。
クロの剣先が小さく震えた。
「……嘘……だろ……」
暗い廊下に立つ少女の栗色の髪がふわりと舞う。
冷え切った瞳だけが次の標的を探すようにわずかに瞬いた。
「……十匹や百匹。言ったでしょ?」
埃の匂いをかすかに含んだ声がクロの背筋を撫でた。
――この人にだけは絶対に逆らえない。
生き物の本能が鈍い恐怖を刻み込んだ。
それでも剣を握り直す自分が少しだけ誇らしくて――
クロはその背中を再び追いかけた。
砦の奥――
最深部の広間には、ひび割れた石の玉座と、そこに根を張るように座り込んだ異形の魔物がいた。
膨れ上がった肉塊の中で、数本の眼がぎょろりとこちらを睨む。
牙を打ち鳴らすたび、肉の奥からずるりと血混じりの唸りが漏れた。
クロは唾を飲み込み剣を握り直す。
さっきまでの雑魚とは桁違いの圧力が、肌を刺すように突き刺さる。
(……来る……!)
次の瞬間、魔物がうねるように身を起こした。
肉の山が崩れ牙が血泡を飛ばし――
「……ほんと、ぬるいなぁ」
エミリーのため息混じりの呟きが、クロの耳をかすめた。
「エ、エミリーっ……!?」
振り返るより早く少女は杖を肩から外した。
先ほどまでの無音詠唱すらない。
ただ一度、杖をひと振り――
それだけ。
巨大な肉塊の中央に、針のように細い白光が刺さった。
一拍遅れて、広間全体が昼間のように輝き、光と熱が血と肉の塊を中から弾けさせた。
衝撃波が石壁を揺らし、飛び散った肉片が一瞬で灰に変わる。
あっけなく、空気だけが鎮まった。
クロの足元には、もう敵の気配はどこにもなかった。
「……終わりっと」
エミリーは小さく口を開けてあくびを噛み殺すと、杖を肩に戻した。
「……おい……俺って……」
喉から情けない声がこぼれる。
「……俺って……ここにいる意味、あったのか……?」
振り返ったエミリーの視線は、いつもの気怠さを纏ったままクロをふわりと見下ろした。
「んー……あったんじゃない? 盾」
その一言がクロの胸を見事にえぐり抜いた。
声も出ない。
それでも彼女の背中を追わずにいられない自分が、ひどく惨めで可笑しくて。
砦の出口へと進む足音だけが、薄暗い空気を静かに切っていった。
砦の外、砕けた石門の前で、白い陽光が二人の影を長く引き伸ばしていた。
エミリーは砦を振り返ることなく、杖を肩にかけてすたすたと歩き出す。
その背中に、クロが声を上げた。
「――おい! 待て、エミリー!」
振り向かない彼女に、クロは息を荒げて駆け寄ると――
唐突に、腰の布をがばっと引き下ろした。
「見ろ! ほら! 縮んでないぞ! 俺は怯んでなんかないんだ! ちゃんと男だ!」
砦の門をくぐろうとしていたエミリーが、足を止めた。
振り返る。
無言で視線が、クロの股間に落ちる。
一秒。二秒。三秒。
栗色の髪の奥で、翠の瞳が無慈悲に細められた。
「……阿呆。」
たった一言だった。
それだけを置いて、エミリーは何事も無かったかのように再び砦を離れていく。
「お、おいっ……え、ちょ……」
門の前に半裸のまま取り残されたクロは、しばし膝を抱えた。
風が吹き抜ける。
虚しさが骨の奥を凍らせた。
「……くそっ……!」
慌てて腰布を引き上げ、剣と荷物を抱えて遠ざかる小さな背中を追いかける。
影はまた二つになった。
でも歩く距離だけはどうしても縮まらなかった。
ジュレ村の酒場。
いつも通りの昼下がり――
だけどテーブルの上には、昨日よりもずっとずっしりとした金貨の袋が鎮座していた。
「んー……今回は、大仕事だったし……」
エミリーは袋を小さく開き金貨をすくいあげては、ぱらぱらと指の間から落とす。
クロは向かいで腕を組んだまま、その手つきを黙って見ている。
「で、取り分は?」
我慢できずに問うと、エミリーはあっさりと言い放った。
「99.99%が私」
「……お、おい!?」
「クロはただ後ろを歩いてただけ。盾にもならなかった。文句ある?」
にっこり笑ったその顔は、どこまでも可愛くて――
どこまでも悪魔だった。
クロの喉がごくりと鳴る。
「……文句、ありません……」
情けなくも、絞り出すように答えた。
小さな金貨一枚だけが、彼の手元に転がってきた。
「じゃ、これで好きなもの食べなさい」
「……」
エミリーは金貨袋を抱えて、椅子を引いた。
「――あ、ちなみに次もよろしく。盾さん」
くるりとスカートを揺らし店を出て行く背中を、クロは睨みつけた。
(……いつか、絶対ヒィヒィ言わせてやる……!)
負け犬の遠吠えどころか妄想だった。
(妊ませて、腹ボテにして、文句言わせない……!)
頭の奥で、どうしようもなく下衆な誓いが渦巻いた。
でも――
声には出さない。
出せない。
可愛い顔した悪魔の弟子には、まだまだ勝てそうになかった。
その夜――
村の小さな宿の二階。
月が薄い雲に滲んで、静かな廊下に灯が揺れている。
クロの部屋。
寝台の上、クロは布団を頭までかぶり、息を潜めていた。
(……くそ……)
脳裏に焼き付いて離れない。
昼間、報酬を独り占めしてふわりとスカートを揺らした後ろ姿。
砦の中で、血まみれの石床をすたすたと歩く小さな背中。
そして――
布の向こうに透ける、あの柔らかな胸と、きゅっと締まった腰のくびれ。
「……くっ……」
指先が布の中を這う。
喉が熱を含み、吐息が喉元を滑る。
(……いつか、あの身体……俺のものに……ヒィヒィ……)
半端な誓いが、熱の中で何度も繰り返される。
そのとき――
「ドンッ!!」
お決まりの、宿の薄い壁を貫く鈍い衝撃音。
クロの動きが硬直した。
「――またやってるでしょ」
壁越しに聞こえる声は静かで、冷たい。
月明かりに溶けるように。
「……いい加減にしないと……本当に黒焦げにするから」
一拍、息を飲む間をくれることもなく。
「……わかった?」
正義を問われた。でも硬い無言。
返事をしても考えを止められる事はない。
だけど――
「……わかった……すみません……」
情けない声が誰にも聞かれないように布団の中で震えた。
外の雲が流れて月の光がまた静かに廊下を照らす。
クロはそっと、汗を拭った手を握りしめる。
(……くそ……絶対ヒィヒィ言わせて、孕ませてやる……)
その呪いのような独白だけが夜の小さな部屋に微かに残った。
翌朝――
宿の一階、まだ人の少ない食堂。
パンの焼ける匂いと薄いスープの湯気が、小さな木のテーブルに漂っていた。
エミリーは片肘をついて眠たげにパンをちぎっている。
栗色の髪が肩にふわりとかかり、襟元から小さな鎖骨と、柔らかそうな胸の起伏がちらりと覗く。
クロは向かいの椅子に腰かけたまま、意識していないふりをしながら――
視線がつい、そこに吸い寄せられてしまう。
(……ああ、くそ……)
指先で頬杖をつきつつ、口元。
小さく開いて、熱いパンをふーっと冷ましてから、もぐもぐと噛むその唇。
昨日、夜中に何度思い出したか分からない。
「……ん?」
エミリーが気配を察したように、瞼をうっすらと上げた。
翠の瞳がまっすぐにクロを射抜く。
「……クロ?」
パンを咀嚼しながら、頬をわずかに膨らませたまま。
「……な、何だよ……」
視線を慌てて外そうとするが遅い。
「……また、見てた?」
小さく、低い声。
「……べ、別に……」
言い訳する前にエミリーは眠たげにため息をついた。
「……隠れて見てるつもり? バレてないとでも思ってるの?」
冷めた声がパンの香りと一緒にクロの胸を突き刺した。
「……っ……」
見ない方が不自然だろう。夏は正しいのか。その言葉を飲み込んだ。
椅子の背に思いきりもたれかかって、クロは無言で目を逸らす。
(……いつか絶対、ヒィヒィ言わせてやる……!)
心の奥にまたひとつ、惨めで幼稚な誓いだけが増えた。
エミリーの小さな胸元には――
柔らかそうな秘密が、今日も平然と隠されていた。
パンを食べ終えたエミリーは、最後にスープをちびちび啜ると、ようやくクロに正面から向き合った。
翠の瞳が、どこか面白がるように揺れている。
「……クロ。次の仕事、決めたわ」
「……は? また勝手に……」
反射的に返すクロを無視して、エミリーは鞄の奥から、くしゃっと折り目のついた手紙を取り出した。
「王都から正式依頼。聖女様の護衛」
「……聖女?」
「そう。清く尊く、心の奥までお日様みたいな女の子。――だからクロには絶対に手を出させないから」
にや、と笑う口元だけが小さく意地悪い。
「……おい待て……そんな大役、俺でいいのか……?」
思わず弱気な声が漏れる。
砦で無力を思い知らされたばかりの自分に、聖女の護衛など――
普通なら無理だ。
だがエミリーは平然と、杖の先をクロの額にちょこんと突きつけた。
「クロは前に立って斬るだけでいいの。私は後ろで魔法で掃除するから」
「……結局、俺が盾……」
「そうよ。可愛い私の下僕兼聖女様の盾。――あ、でも変なこと考えたら黒焦げだから」
ぱちん、と指を鳴らすと、杖の先が一瞬だけ青く光った。
クロの背筋に冷たい汗が伝う。
(……くそ……絶対、いつか……ヒィヒィ言わせて、腹ボテにしてやる……!)
呪いのような決意を口に出すことはできない。
「さ、荷造りするわよ。王都まで三日はかかるからね」
すたすたと立ち上がるエミリーの背中を、クロは慌てて追いかけた。
この世で一番怖い女の背中を――
きっと、まだ当分は。
王都へ続く街道沿い、旅の宿の小さな馬屋の前――
聖女の姿は噂に違わず光そのものだった。
柔らかな金髪を肩まで垂らし、薄く微笑む顔は穢れを知らない泉のよう。
その隣には甲冑をまとった凛とした女騎士が寄り添うように立っていた。
「――はじめまして、大魔導師エルクーナ様の最後の弟子……エミリー・ウンコータレ殿ですね」
女騎士は小さく膝を折り、聖女もまた胸の前で手を重ね、礼を示す。
エミリーは気だるそうに帽子を直しながらも、片手だけひらりと上げた。
「気にしないで。私は気楽な隠居の身だから」
控えめな言葉の奥でも、その名の重みは確かに二人に届いている。
――だというのに。
後ろのクロは、騎士の引き締まった腰の曲線と、聖女の透けそうな白衣の胸元を順繰りに舐めるように視線を滑らせていた。
(おいおいおい……聖女も女騎士も……こりゃ眼福……!)
鼻の奥で小さく笑いを噛み殺すクロ。
その不埒な熱を女騎士がふと感じ取ったようにエミリーへ小声で問う。
「……あの、後ろに居るのは?」
エミリーは半目でクロを一瞥すると、肩をすくめた。
「――あれ? 肉壁の下僕よ」
女騎士の眉がぴくりと動く。
「肉壁……?」
「そう。敵が来たら盾になってくれるの。安心して。調子に乗ったら私が殺すから」
聖女がぽかんと口を開ける横で、女騎士は息を呑んだ。
クロはというと、女騎士と聖女の視線が一斉に自分へ刺さり――
ニヤつきかけた顔が慌てて引きつった。
(……いつか、絶対ヒィヒィ言わせて孕ませてやる……!)
内心だけの惨めな誓いを胸に、クロは黙って肉壁の役目を背負った。
王都へ続く街道を、護衛の一行は静かに進んでいた。
聖女は馬車の中、エミリーは気まぐれに馬車の横を歩く。
その隣を甲冑に身を包んだ女騎士とクロが歩いていた。
――問題は、そのクロだった。
(……良い形……)
女騎士の鎧の隙間から覗く、柔らかそうな胸の起伏。
腰の曲線から繋がる甲冑越しの臀部の形。
クロは目を細めて、手が勝手に――
すっと女騎士の尻へと伸びていく。
「……ん?」
無言で気配に気づいた女騎士は、背後を振り向くと同時に――
鞘に収めた剣の柄で、クロの額を容赦なく殴打した。
「ぐはっ!?」
情けない声を上げてクロは土埃の上に転がった。
女騎士は無感情な瞳で冷たく問う。
「――何をしている」
クロは慌てて手を挙げ、頭を押さえながら苦し紛れの言い訳を吐く。
「む、虫が……! 止まってたから……!」
女騎士の瞳は一瞬だけ見開かれ――
次の瞬間には剣の切先がクロの股間にじわりと向けられていた。
「次は――そのポークビッツを切り落とす」
澄んだ声が何よりも鋭く冷たかった。
クロの喉が情けなく鳴った。
(……エミリーだけでも怖いのに……こいつもか……!)
背後では、帽子の庇を直しながらエミリーが聞こえよがしに呟いていた。
「……ほんと、去勢しようかな」
小さく背筋が凍る音が、クロの心の奥で鳴り響いた。
日が暮れた。旅の途中、街道脇で野営する事になった。
焚き火は薪を吐き尽くし、微かな残り火だけが二人の影を映している。
聖女は薄い毛布にくるまれ、無垢な寝息を立てていた。
その隣では女騎士が背を預けたまま、剣を抱えて半眼で休んでいる。
クロは少し離れた木陰に潜み、じっと聖女を見ていた。
(……はぁ……神様っているんだな……)
布越しの白い曲線。
吐息でわずかに動く胸のふくらみ。
理性の紐がぷつりと切れる音が、自分にだけははっきりと聞こえた。
「……くっ……」
ズボンの紐を指先で緩める。
焚き火の残り火が、寝顔をほんのりと照らす。
(……こんな天使みたいな子を……)
喉奥で熱い声を噛み殺した、その瞬間――
クロの背後で、ゴソリと布が鳴った。
「……え……?」
振り返ると、毛布に包まれていたはずのエミリーが、髪をぼさぼさにしながら無言で起き上がっていた。
月明かりの奥で、翠の瞳が一瞬だけ細められた。
次の瞬間――
「ドゴッ!!」
木霊する鈍い音。
「ぐおっ!? おおおおおっ……!!」
股間を両手で押さえ、クロは焚き火の灰の中に転がり込んだ。
エミリーは乱れた髪を指で整えながら、吐き捨てるように一言。
「……寝ろ、変態下僕」
再び毛布を頭までかぶり、ぴしゃりと寝息を装った。
クロは呻き声を漏らしながら、月明かりに照らされる焚き火の残り香を恨めしく睨んだ。
(……絶対、いつか……ヒィヒィ言わせて……孕ませてやる……!)
情けない誓いだけが、夜気にひどく空しく溶けていった。
朝露が街道を薄く覆い、焚き火の残り香に鳥の囀りが混じる頃。
馬車の脇で、エミリーは荷物を整理しながらのんびりと朝日を浴びていた。
クロはと言えば――
片膝をつき昨夜の痛みを引きずったまま、遠巻きに荷物をまとめている。
聖女はその姿を一瞥し、声を潜めてエミリーに近づいた。
「……エミリー様……あの……」
金糸の髪がふわりと揺れて、青い瞳が伏せられる。
「……あの方は……大丈夫なんですか?」
声には確かな戸惑いと、かすかな怯えが滲んでいた。
エミリーは荷物の紐をきゅっと結びながら、微かに口元を緩める。
「……心配しないで。あれは、ああいう生き物だから」
小さく肩をすくめ聖女の澄んだ瞳をまっすぐに見た。
「大事なのは貴女だけ。――契約通り、ちゃんと守るわ」
聖女はほっと胸に手を当て、小さく息を吐いた。
その横でクロだけが遠目にそのやり取りを見て――
噛み締めた奥歯の痛みを無理やり飲み込んだ。
(……くそ……いつか……!)
エミリーの手の中には揺るがない小さな約束と、その背に隠した誰より鋭い牙が確かに光っていた。
王都へ続く道は、朝の光で白く煙っていた。
街道脇の林に寄り道をして、四人は小さな野営の小休止を取っていた。
焚き火のそばでエミリーは、女騎士と聖女に囲まれている。
「……それでね、その時師匠が怒鳴り込んできて――」
エミリーが気だるげに語ると、聖女は鈴のように笑い、女騎士は珍しく口元を緩めて頷いた。
鎧を外した女騎士の素顔は涼しげで、笑えば年相応の優しさがにじむ。
聖女は相変わらず光のようで、栗色の髪のエミリーと肩を寄せて話し込む姿は、遠目には幼馴染のようにすら見えた。
「……本当に、エミリー様とお話できるなんて……」
「……お前も喋ると普通だな」
女騎士も珍しく冗談を返す。
エミリーはスープを一口すすって、気怠そうに肩をすくめた。
「んー。まあ、女同士ってそんなもんでしょ」
焚き火の向こう側。
その和やかな空気を、ひとりだけ別の意味で熱く見つめる影がいた。
クロだ。
(……うひょ……聖女の胸……女騎士の鎖骨……エミリーは言わずもがな……)
隠れているつもりでも、視線だけは焚き火を貫いて三人を舐めるように往復する。
腰の奥がむずむずと疼くのを抑えきれない。
(……これが、ハーレム……!)
頭の中だけで小さくガッツポーズを作るクロ。
だが――
「……クロ」
エミリーの半目が、ふとこちらを射抜いた。
聖女も、女騎士もつられてクロを見やる。
瞬間、焚き火越しの空気が氷る。
「……何ジロジロ見てんの。虫みたいに」
にこりと笑ったその裏で、杖の先が小さく光った。
クロは慌てて視線を逸らす。
(……くそ……いつか……!)
心の中でだけ惨めなリベンジを噛み締める。
三人の穏やかな笑い声に溶けながら――
彼だけは別の意味で息苦しさを味わっていた。
王都の門が、昼下がりの光に白く光って見えた。
長い護衛の旅路は、ついに終わりが近づいていた。
聖女は笑顔を絶やさずに歩き、女騎士は街門を警戒する視線を鋭く保っている。
そして――
クロはその二人の背中を眺めながら、頭の奥で何かを決心していた。
(……くそ……エミリーも女騎士も聖女も……どうにもならん……! だったら――買えばいい……!)
これまで散々見ては妄想だけで終わった欲望を、金で解決してやる。
これ以上蹴られるのも、壁ドンされるのもごめんだ。
(……今日こそ、ちゃんと出してスッキリしてやる……!)
顔は真剣、考えているのは下半身の救済だけ。
だがその隣で――
エミリーはまったく意に介さないように、聖女と女騎士と肩を寄せ合って笑っていた。
「ほんと、道中は退屈しなかったわ。ありがと、女騎士さん」
「……私のほうこそ。魔導師殿がいてくれて助かった」
「エミリー様……またお会いできる日を楽しみにしています……!」
聖女は柔らかな手をエミリーの指にそっと重ね、別れを惜しむように頬を赤らめる。
「んー。じゃあ次会うときも元気で。……クロは?」
ようやく振り返ったエミリーの視線が、クロを探す。
しかし彼は――すでに視線の先で、門番に小声で聞いていた。
「すみません……安い娼館って……どっちですか……?」
「……はぁ?」
門番の眉がぴくりと跳ねる。
エミリーはため息をつき、聖女の手を軽く握り直した。
「……あれは放っておいていいわ。私、可愛い聖女様と女騎士さんだけで充分」
小さく肩をすくめて、エミリーの笑みはどこまでも柔らかかった。
クロの虚しい背中だけが、王都の喧騒にちっぽけに溶けていく。
荷をほどいたのは王都の片隅、小さな宿の奥の個室。
夜の帳が落ちる頃、街の喧騒から少しだけ離れたそこには、三人の女だけの静かな宴があった。
卓上には、薄い蜜酒の入った小瓶と果物をふんだんに盛った皿。
酔い潰れるほどではなく、ほんのり頬が緩む程度の優しい宴。
「……あの馬鹿は?」
女騎士がグラスを口に運びながら、誰もいない席を顎で示す。
エミリーは肩をすくめ、果物の実をころりと口に放った。
「クロ? ああ、どこかで安い娼婦でも抱いてるんじゃない?」
聖女が目を丸くし、女騎士が思わず吹き出しかける。
「……相変わらずですね、エミリー様」
「……だって事実だもの」
互いの杯をちいさく鳴らす。
淡い蜜の香りが、灯の影と共に夜気に溶けていった。
しばしの談笑のあと、聖女が胸の前で両手を重ねるように言った。
「……また、必ずお会いできますか?」
女騎士も、いつになく真剣な瞳でエミリーを見据える。
「私も……お前とは、もう一度肩を並べたい」
エミリーは小さく笑った。
心底気楽そうで、それでいて背筋の奥に微かな緊張を隠す笑い。
「……じゃあ――」
鞄の奥から、小さな羊皮紙を三枚。
それぞれに自分の名前と、師匠譲りの一言だけをさらさらと綴る。
「これ、預かって。もしもの時は必ず会いに来て」
聖女は両手で包み込み、女騎士は胸当ての内ポケットへと慎重にしまった。
女同士だけの形のない誓い。
「……お互い、生きてまた会いましょう」
蜜酒の残りが三つの杯に注がれ、かすかな音を立てて揺れた。
その夜だけは、わがままな弟子も、戦場を駆ける女騎士も、清らかな聖女も――
ただの女友達として柔らかい時を分け合った。
一方で王都の裏通り、赤い灯の並ぶ娼館の一室。
情事の痕跡がまだかすかに残る寝台の端で、クロは頭を抱えていた。
(……くそっ……ポークビッツとか言いやがって……)
鼻息荒く挑んだものの、あまりにもあっさり終わりすぎた。
むしろ、ほとんど何もしていないのに財布だけが軽くなった。
「……ぜ、全然……スッキリしねぇ……!」
消化不良な虚無感を抱えて、ふらふらと宿へ戻る。
すでに夜は深く、廊下の灯りも少し落とされていた。
クロはそっと、エミリーたちの部屋の引き戸に耳を当てる。
――静かだ。
寝てるな。
(……せめて一目……)
小さく戸を開いて覗いた瞬間、クロの心臓が止まりそうになった。
薄暗い寝室の布団の中――
エミリーを中心に、聖女と女騎士が川の字に並んで眠っている。
聖女はエミリーの腕に顔をうずめ、女騎士も背中側にぴたりと寄り添っている。
無防備な寝顔。
吐息が、三人分重なって小さく揺れている。
(……な、何で……あいつのほうが……)
クロの喉が悲鳴のように鳴った。
(俺は……金払って……情けなく終わって……なのに……! 何であいつは……)
視界の端がじわりと熱く霞んだ。
血の涙を流しそうな感情を、押し殺すので精一杯だった。
――川の字の真ん中で、エミリーの唇だけがわずかに笑った気がした。
クロは歯を食いしばり、情けなく襖をそっと閉じた。
(……いつか絶対……あの腹を……俺の子で……膨らませてやる……!)
自室へ戻る廊下が、今夜ばかりは地獄より遠く感じられた。
翌日の朝は、白い空気と喧騒が混じり合って賑やかだった。
宿の裏庭、小さな石畳の上――
そこに別れを惜しむ影が三つ。
「……エミリー様……本当に、ありがとうございました……!」
聖女は涙をこらえるように、そっとエミリーに抱きつく。
その背中には女騎士の凛とした手が添えられていた。
「……お前が居てくれて助かった。……次も頼む」
エミリーは困ったように眉を下げながらも、二人の肩に腕を回す。
「……あんたたちも、無理はしないで。リタも、アリシアも」
ふわりと自然に呼ばれた二人の下の名前。
その場に居たクロだけが、はっとした顔をした。
「……おい、何で名前……」
しかしエミリーの横顔はいつもの気怠さでクロを一瞥するだけ。
「……は?」
短い問いで氷点下にされたクロは、思わず背筋を伸ばした。
「……な、なんでもないです……」
聖女――リタはくすっと微笑み、女騎士――アリシアは珍しく照れくさそうに視線を逸らした。
エミリーは二人の頭を軽くぽんぽんと撫でて、小さく笑った。
「……また会おうね」
「はい……必ず……!」
「――気をつけろよ」
別れの言葉だけが、朝の喧騒に溶けていった。
クロの胸には嫉妬と敗北感だけが、未だにじりじりと燻り続けていた。