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うちの屋根に住み着いた魔女の駆除

 屋根裏が鳴いている。

 眠気を引き裂く爪の音が、薄い天井板を震わせ母の寝息を苛む。

 ――俺は知ってる。

 あいつらの爪先は電線を走る鼠より鋭い。

 鳴き声は鳥より醜く、笑い声は人より狡猾だ。

「英明、起きてるの?」

 台所から呼ぶ母の声は、熱を含んだだし汁の匂いと共に胸に滲んだ。

 目を開け天井を睨む。

 まだ、いる。

 誰が法を作った。誰が退治を禁じた。

 役所の窓口で丸められたパンフレットの束が、今も机の隅に転がっている。

「追い払ってください。法律で駆除は禁止されています」だと。

 ふざけるな。

 寝息を奪われてまで、俺たちは何を守ってる?

 布団を蹴る。

 乾ききった脚立を軋ませて、屋根裏に続く点検口を見上げた。

 母が寝間着姿のまま、障子の向こうに立っているのがわかる。

「英明……やめときなさい。夜だし……」

 声は優しい。

 優しいだけで何も変わらない。

「大丈夫。――すぐ終わるから」

 脚立を蹴って登る。

 点検口の先に埃と鼠と、そしてあいつらの影がある。

 月が覗く。

 古びた瓦の隙間から空の奥を覗き込むと、電線が軋む音がする。

 影がひとつ枝のように絡んで、こちらを見下ろした。

「……やあ、正義の味方様」

 鳴き声じゃない。声だ。

 人の喉で発せられる女の声。

 俺はモップの柄を握り直す。

 夜気に染まった金属音が屋根裏に小さく弾けた。

 ――この手が悪だと笑え。

 誰もやらないなら、俺がやる。

 柄の先端を突き上げる。

 瓦を震わす重い衝撃と、何か柔らかい羽根の感触。

「――くくっ、無駄だよ。ヒーローくん」

 影が逃げる。

 点検口から月明かりが洩れ、埃の向こうに白い尻がちらりと揺れた。

 母が小さく呻く。

 俺の背中に夜風と怒りが同時に刺さる。

「全部、ぶっ潰してやる……!」

 モップを振る腕が、軋む屋根裏に震えている。

 人の都合も、法律も、善も悪も――

 屋根裏で夜泣きする化け物に、そんなもん通じるわけがない。

 脚立を揺らす度に、屋根裏の埃が肩に落ちた。

 膝の上、モップの柄が軋む。

 軋んだ金属と自分の呼吸音だけが、この小さな洞窟の壁を叩く。

 暗闇に目が馴染むと、わずかな月明かりが、奥の隙間を白く照らしていた。

 小枝、コンビニのビニール紐、母が干し損ねたピンチ……それらが瓦の下で絡まり、呪われた塊を編んでいる。

 ――巣だ。

 頭の奥がきいんと鳴った。

 何度追い払っても戻ってきた理由。

 どれだけ殺虫剤を吹きかけても、嘲笑いながら飛び去った理由。

 巣の中心にひとつだけ、滑らかで小さな殻が夜気に鈍く光っている。

 ……あれか。

 モップをそっと屋根に横たえ、膝で進む。

 瓦が悲鳴を上げ、外の電線が軋む音が遠くに響いた。

「は……」

 声が漏れた。

 殻の輪郭に指を伸ばす。

 冷たい夜気に爪の間の皮膚がちくりと痺れる。

 触れた瞬間、心臓がひとつ増えた気がした。

 掌の奥に柔らかい温度が宿る。

 これを潰せば――

 母さんはもう夜泣き声に目を覚まさなくて済む。

 あいつらは帰ってこない。

 法? 罰金?

 笑わせるな。

 ――正義は、屋根裏にはいない。

「……悪だろうが、なんだろうが……」

 指を丸める。

 殻の中身が、じんわりと指先に滲む気がした。

 そのときだった。

 背後で空気が裂ける音がした。

「なにしてるの……!」

 あの声だ。

 黒魔女か白魔女か――知ったことか。

 振り向くより先に指を閉じた。

 殻が骨のように鈍く割れた。熱い黄身が掌を滑る。

 血のように生ぬるくて、どこか甘ったるい匂いが鼻を刺す。

 影が月を裂いてこちらへ飛んでくる。

 巣を守りに戻ったのか。

 笑えよ。

 ――お前の子だろうが、何だろうが。

 俺が斬る。俺が正義だ。

 脚立が震えた。

 俺の背中に、羽音と女の吐息が迫る。

 夜風が耳の奥で爆ぜた。

 影が飛んだ。

 黒か白か――その輪郭に、もはや意味はない。

 魔女の爪が頬をかすめる。

 薄い皮膚が裂け、鉄の味が舌に滲む。

 痛みより先に笑った。

 背中のモップはもう遠い。

 掌には、ひび割れた殻と滲む黄身だけ。

「……来いよ」

 声が震えない。屋根の縁が足裏に軋む。

 魔女が月を背にして吠えた。

「巣を……あたしの子を……!」

 髪が夜気を裂いて伸びる。

 指先の爪が、夜空の刃となって俺を切り裂こうと迫る。

 だが俺の足は動かなかった。

 恐怖はもう何処にもない。

 屋根裏に棲んだのは恐怖じゃない。

 ――寄生虫だ。

「お前の子だろうが、巣だろうが……」

 左手を伸ばす。熱い腕を掴む。

 皮膚じゃない。骨でもない。

 鳥と人と虫の、全部を煮詰めたような生臭さが指の奥を這い上がる。

「俺が、斬る!!」

 脚立に片足をかけ体重を預ける。

 屋根の縁をつかみ体ごと魔女を引き倒す。

 魔女の悲鳴が夜空を突き抜けた。

 軋む。瓦が崩れる。

 肩が外れそうな衝撃が背骨を揺らす。

 次の瞬間――

 俺の手の中で、魔女の腕が千切れた。

 血ではない。

 黒い羽根の塊が、濁った液体を撒き散らしながら屋根を滑り落ちる。

「――あっ……!」

 魔女が壊れた翼をひらめかせ、もつれた悲鳴を引き裂きながら瓦の斜面を転がっていく。

 誰もいない路地の奥で、何かが鈍く砕ける音がした。

 屋根の上には、黄身の乾いた残り香と俺だけが立っていた。

 モップはもう必要ない。

 掌に刻まれた卵の感触が、まだ皮膚の奥で脈打っている。

 夜空の月が雲間から顔を出し、瓦の欠片を青白く照らした。

 ――これが、俺の正義だ。

 誰が鬼と呼ぼうと構わない。

 誰が笑おうと構わない。

 この家を守るのは俺だけだ。

 屋根の上は、あまりに静かだった。

 魔女の羽根が風に舞い、壊れた瓦の隙間から夜気が冷たく指先を舐めていく。

 脚立をゆっくりと降りた。

 夜明け前の空気が戦場の熱をすっかり奪い去っていた。

 軒先に転がる瓦片の間に、黒い羽根が一枚だけ残っている。

 指先で摘んでみる。

 脆い。爪を立てると、すぐに粉になる。

 もう泣き声はない。

 屋根裏はただの木と瓦の隙間に戻った。

 ドアを開けると、台所から味噌汁の湯気と、母さんの湯気混じりの声が迎えた。

「英明……外、寒かったでしょ」

 エプロンの端を握りしめたまま、母さんは俺の頬の傷を一瞬だけ見た。

 何も言わない。言わなくていい。

 俺も何も言わない。

「ごはん、できてるから。……食べたら少し寝なさい」

「うん」

 テーブルの上、茶碗の湯気が胸の奥の冷たい穴を塞いでくれる。

 頬の傷の痛みだけが夜の名残だ。

 テレビでは、別の町の魔女被害がニュースで流れていた。

 行政の無策を笑うキャスターの声が、茶の間に乾いた埃のように散らばる。

 母さんの背中越しに窓の外を見た。

 電線の先に黒い影が二つ。

 まだ懲りていない。

 巣が潰されても、卵が割られても、あいつらはまた来る。

 いいさ。

 何度でも来い。

 箸を置いて胸の奥でかすかに笑う。

 正義の味方じゃなくていい。

 誰が法を守ろうと知ったことか。

 この家の屋根と母さんの暮らしを汚す奴は――

 俺が斬る。

 モップの柄が、背中にまだ重く残っている気がした。




 夜が明ける。

 鬼はまだ眠らない。

 夜はいつだって終わる。

 だが終わったはずの夜の名残は、人の目に映らない場所で牙を研ぎ続ける。

 英明の掌には、まだひび割れた卵の感触が残っていた。

 どれだけ手を洗っても、洗剤の匂いの向こうに、あの生ぬるい血のような黄身の温度が蘇る。

 朝の台所。

 母さんは何事もなかったように茶碗を流し、鍋を磨いている。

 英明は味噌汁を飲み干し、立ち上がる。

 窓の外に視線をやると、屋根の向こう、電線の上。

 黒い影がまた二つ。

 仲間を呼ぶのか、ただの報復か。

 どちらでもいい。

 正義の味方なんかじゃない。

 ――鬼だ。

 そう思えば怖くない。

 脚立を点検口の下に戻す。

 モップの柄をもう一度、掌で転がして確かめる。

 昼間に戦うのは馬鹿らしい。

 あいつらは月を背にするのが好きだ。

 夜を待つ。

 待つ間に、英明は部屋の隅に積んだパンフレットを破った。

「人道的な追い払い方法」だとか「鳥獣保護条例」だとか――

 何ページ読んでも、あの笑う影には届かない。

 破り屑をビニール袋に詰めると、母さんが声をかけてきた。

「英明……屋根裏はもう大丈夫なんでしょ?」

「……ああ」

 母さんの瞳の奥に、薄い疲れの翳りがまだ残っている。

 だからこそ。もう二度と、あの声で眠りを奪わせはしない。

 夜はまた来る。魔女もまた来る。

 英明の中で夜と鬼は同じだ。

 誰かがやらないなら――

 いや、誰もやれないのなら自分がやる。

 月が昇れば、鬼の刃が屋根を這う。

 何度でも、何度でも。

 窓の外の電線の影が、くぐもった笑い声を吐き捨てたように見えた。

 英明は小さく呟いた。

「……来いよ。今日は、昨日よりもっと斬ってやる」

 誰も知らない小さな城の上で、正義でも法でもない一本のモップが、

 夜風の匂いを吸い込んで、静かに戦慄いた。




 夜が明ける頃、街は何も知らない顔をして目を覚ます。

 通学路を歩く制服の列、開店を待つ商店のシャッター、遠くの鉄塔に絡みつく電線の束。

 そのどこにでも魔女の羽根は落ちている。

 英明は自転車で駅前へ向かった。

 母さんに頼まれた灯油と、冷えた夜気を吐き出すストーブの芯を買うためだ。

 踏切の向こう、屋根の縁に一羽の影が止まっている。

 昨日までなら気にも留めなかっただろう。

 だが今は、羽根の先に息を潜めた悪意の輪郭がはっきり見える。

 ――魔女はこの街を選んだんじゃない。

 この街が魔女を許した。

 行政は手を打たない。

 ニュースでは言う。「調査中です」「検討しています」。

 言葉ばかりで、屋根裏に這い上がるのは結局、誰でもない。

 誰かがやれないなら俺がやる。

 荷台の灯油缶が、ガタガタと小さく跳ねる。

 冬の朝の息が白い。

 英明の中では、夜の匂いだけがまだ生々しく生きている。

 途中の公園で、電線を睨んでいる男に目が留まった。

 見慣れない作業服。胸元には小さく「防除サービス」と縫い込まれた青いワッペン。

 男は電線を睨んだまま、英明に気づくと声をかけてきた。

 「坊や、ちょっと聞くが……。この辺、夜になると騒がしくないか?」

 英明は答えない。

「……魔女の巣、見たろ?」

 男の声には隠しようのない疲れと、何か濁った諦めがあった。

 それでも英明は答えなかった。

「いいさ。黙ってろ。どうせ役所も見て見ぬ振りだ。……俺たちは民間の掃除屋だ。公には何もできん。できるのは――夜の裏口仕事だけだ」

 英明の瞳がわずかに揺れた。

 同類――か?

 否、違う。

 あいつらは仕事だ。

 俺は――家を守るだけの鬼だ。

 男が低く笑った。

「もし厄介な巣を見つけたら呼べ。金があれば何でも焼いてやる。……ただし、責任は取れん」

 ポケットにねじ込まれた名刺には、滲んだ印字で「夜羽防除」と書いてあった。

 英明は名刺を握りつぶす。

 責任なんて言葉で隠せるものじゃない。

 俺がやる。この手でやる。

 空を見上げる。

 電線の影がゆらりと揺れ、黒い羽根が冬の街にひとつ落ちた。

 再び夜が来る。

 そのとき――この街に鬼がまた一匹、屋根裏を這う。

 冬の夜は早い。

 昼の光が短く逃げ去り、街の屋根の上に再びあの影が舞い戻る。

 英明は名刺を握りつぶしたまま、ストーブに灯油を注ぐ。

 母さんの背中越しに窓の外の電線を見つめる。

 白い吐息が腹の奥をかすかに満たしていく。

『夜羽防除』――

 金さえあれば巣ごと燃やす連中。

 責任は取らない。失敗しても知らない。

 英明は思い出す。

 屋根裏の軋む音。

 母さんの寝息が途切れる音。

 夜中のパン屑と笑い声。

 血の匂いを帯びた黄身のぬるさ。

 あれを、誰に委ねる?

 ――ふざけるな。

 英明はモップを握り直す。

 軋む脚立を再び持ち上げ、屋根裏へ続く点検口の下に据えた。

「英明……また?」

 背後で母さんの声が震える。

 返事をする意味がなかった。

 鬼は人の言葉に答えない。

 脚立を登る。

 天井の埃が頬に触れる。

 月が屋根の隙間を割って差し込む。

 見えた。

 電線を越えて、あの魔女の影が今夜も薄く笑っていた。




 その頃、駅裏の倉庫街。

『夜羽防除』の古びたバンの荷台で、作業服の男たちが缶コーヒーをすすっていた。

「ガキの顔、見たか?」

「見た。……アイツは呼ばねえな。目が違った」

「正義の味方?」

「いや、鬼だ」

 誰かが小さく笑った。

「夜の裏口仕事しかできねえ俺らとは違う。ああいうのが一匹いると助かるぜ。……少なくとも、役所の無能よりはな」

 バンの奥、黒い防除マスクが一つ、月明かりにぶら下がって揺れていた。




 屋根裏に戻った英明の掌には、黄身の感触が蘇る。

 あの温さだけが言葉より確かだった。

「……来いよ」

 月の下、誰もいない屋根の上でモップの柄が小さく鳴った。

 鬼は孤独だ。だから強い。




 夜が明け切らぬ灰色の空を背に、英明は屋根の縁に座り込んでいた。

 破れた瓦の隙間から、冷えた空気が肺を刺す。

 昨夜も――追い払った。

 羽根の欠片が雨樋に引っかかり、じわじわと黒く乾いていく。

 脚立を降り、モップを物置に戻そうとしたときだった。

 玄関前の路地に、一台の黒い車が止まっていた。

 埃一つない無機質な艶。

 ドアが開き、黒いスーツの男が二人、ぬるりと立った。

「……英明くんだね?」

 無表情の男の声は、風に混じって耳に突き刺さる。

「誰だよ、あんたら」

 男たちは名乗らない。

 一人が内ポケットから、革のパスケースを一瞬だけ開いた。

 そこに見えたのは、金色の桜とわずかな墨文字。

 ――公安。

「君のお掃除の話は、もう耳に入ってる」

 笑い声はない。威圧でもない。

 ただ鉄板のように冷たい言葉だけが並ぶ。

「市役所でも、県の鳥獣保護課でも、君の名前は伏せてある。……当然だ、こんな違法駆除を表沙汰にはできない」

 英明はモップの柄を握り直した。

 国家権力? 法の番人?

 ――笑わせる。

 男の一人が一歩だけ近づいた。

「正義を気取るのは勝手だが――君の仕事はもう黙認の範疇を超えた。我々は建前上、君を未成年の軽犯罪者として保護できる。……が、現実はそうじゃない」

 英明の胸がゆっくりと熱くなる。

「つまり……何が言いたい。」

 スーツの奥の目が、まるで冷蔵庫の奥の氷のように動かない。

「我々は君を逮捕しに来たわけではない。……むしろ逆だ」

 男は懐から封筒を出した。

 封はすでに切られ、白い紙が少し覗く。

「魔女――正式名称は『高等都市寄生型鳥獣変異種』。君が潰したのは、その巣と胚体の一部だ。……だが問題は、すでに民間駆除屋を超え、都市インフラ全域に拡散していることだ」

 男の言葉が、冷えた路地の空気より冷たかった。

「国として、公安としても、表向きは存在しない。だが極秘に処理する必要がある」

 英明は吹き出した。

「……はは、なるほどな。今まで屋根裏の糞は放っておいて、都合が悪くなったら鬼に頼るってか」

 封筒を押し付けるように渡す男の手に、英明の指がかすった。

 人間の体温のはずなのに、血が通っている感じがしなかった。

「君のような非公式の刃が必要だ。法の外でしか動けない鬼を――国は飼いたがっている」

 英明の背中で、屋根の上の魔女の羽根がひとつ風に飛んだ。

「……冗談じゃねぇ。俺は誰の犬でもない」

 男は初めて口元だけで小さく笑った。

「犬か鬼か――それを決めるのは、君じゃない」

 英明の胸の奥で、また血が沸騰した。

 封筒を握り潰し風の中で小さく呟いた。

「……だったら俺が決める。この家の屋根を汚す奴は、魔女だろうが――国だろうが斬る」

 冷たい風が路地を走り抜けた。

 スーツの男たちは、それ以上何も言わず黒い車へと乗り込んでいった。

 遠くで電線が軋み、夜の匂いがまた一つ英明の鼻を刺した。




 夜の街を見下ろす古い庁舎の最上階。

 看板には「公益財団法人特殊都市衛生管理財団」とだけ書かれている。

 しかしその奥の鉄扉には、鍵穴が二重に走り、監視カメラの赤い点が睨みを利かせていた。

 英明は、封筒一つを握りしめてその扉をくぐった。

 白い蛍光灯の下、無骨な机が無数に並ぶ。

 迷彩服の肩章を外した男、スーツの袖に拳銃を隠した男、青いジャンパーを着た若い女――

 空気が生臭い。

 役人と兵士と警官が混ざって一つの匂いを発していた。

 壁には小さな金属銘板が貼られている。

 厚生労働省健康局生物防疫課都市衛生管理室。

 英明の背中に誰かの視線が突き刺さった。

「ようこそ、英雄くん。」

 低い声。分厚い指が英明の肩を叩く。

 振り返ると、迷彩の上に民間のダウンを羽織った大男が立っていた。

 腕には、かすかに消し残したパッチ――陸自特殊作戦群の影。

「俺は五十嵐一曹だ、元陸自だが今はここの雑用頭だ」

 隣の机で資料をまとめていたスーツの男が、鼻で笑った。

「元で雑用? 笑わせるな。特戦、SAT、内調、公安調査庁――国が裏口で集めた掃除屋の寄せ集めだろうが」

 五十嵐が肩をすくめる。

「……お偉方は口を閉じたいんだとさ。表向きは害鳥被害でお茶を濁して、裏じゃ魔女ごと街を清掃する」

 英明の掌の中で、ひび割れた卵の記憶が蘇る。

 ここは法の番人じゃない。

 法の外にいることを国が認めた、猟犬の檻だ。

「お前も、ここの犬だ。」

 五十嵐の声が刺す。

 英明の目の奥で、血が小さく泡を立てる。

「違う。俺は犬じゃない。俺は――鬼だ」

 その声に、一瞬だけフロアの空気が止まった。

 机に寄りかかっていたスーツの男が、苦く笑った。

「言えよ言えよ。若いのはいいねぇ……

犬でも鬼でも何でもいい。お前が動けば、俺たちも仕事が楽になる」

 その奥で、タブレットを操る女が英明を横目で見た。

「名前、英雄くんで合ってる?コールサイン決めるから。犬でも鬼でも、どっちでも書いていいよ」

 英明は黙っていた。

 モップの柄を思い出していた。

 ここは魔女を殺すために作られた国の非合法な裏口処理部隊。

 部隊章も、記録も残らない。

 生き残れば金だけは払われる。

 死ねば書類に一行も名前は載らない。

 だが――それでいい。

 英明は静かに目を閉じた。

「……誰もやらないなら、俺がやる。」

 課の隊員たちの笑い声が、小さくフロアに散った。

 この夜から鬼は国の檻の中で吠え始める。



 世間的には、公益財団法人特殊都市衛生管理財団(衛管財団)、所管は厚生労働省健康局生物防疫課。

 その実態は総理直属で、内閣官房機密費で運営されている。

 英明の掌に五十嵐が無造作に載せた黒い影――

 それは、スミス&ウェッソンのM&P9cだった。

 米国の警察官が護身用に好んで持つ、9ミリ弾仕様のコンパクトオート。

 黒い樹脂フレームは冷たく、モップの木柄のような素朴さは微塵もない。

「……生意気にも輸入モデルだ。お上が鬼にくれてやる最小限の保険ってとこだ」

 五十嵐が弾倉をスライドさせて、薬室の金属光をちらりと見せた。

「7発マガジン、予備2本。魔女に何発通じるかは保証しねえが、怯ませるには十分だ。噛まれたら撃て、引っ掻かれたら撃て。死にそうなら……自分に撃て」

 冗談のように笑って、五十嵐は箱ごと英明の胸に押し付けた。

 革製のホルスターは、腰のベルトの内側に隠せる設計だ。

 民間警備員用のオプションを改造した課特注のものだという。

 名札代わりの灰色のカードを胸ポケットに押し込み、

 英明はS&Wを一度だけ抜き、スライドをゆっくり引いてみた。

 金属の抵抗が指に伝わる。

 モップの柄のぬくもりとは違う。

 だが――これもまた、俺の刃だ。

「これでお前も、国の鬼。あとは死ぬまで斬れ」

 五十嵐の声が低く笑った。

 金属製のドアの奥で、すでにSATと特戦群のオペレーターたちが次の清掃現場をモニターに映し出していた。

 英明はホルスターの留め具を鳴らすと、壊れた瓦の感触を思い出していた。

 ――誰が飼い犬だ。

 この銃もモップと同じ。汚す奴を斬るためだけに、俺が握る。

 課の奥、かつて書類倉庫だったという打ち放しのコンクリ部屋。

 剥き出しの鉄パイプと剥落した天井材の下、臨時の作戦会議が始まっていた。

 折り畳みテーブルを囲むのは、各組織からはみ出たプロばかりだ。

 陸自特戦群の迷彩を私服で隠した隊員、警視庁SATの黒シャツに拳銃を吊るした男たち、内閣情報調査室の分析官、公安調査庁の黒縁眼鏡。

 ――そして、鬼と呼ばれた一匹。

 プロジェクターには市街の廃ビル群が映っている。

 夜羽防除の民間情報、地元交番の報告、ネットに書き込まれた怪談話――

 全部を擦り合わせ、座標が一つに絞られていた。

「第三区第七棟、元解体予定の雑居ビルだ。最上階から地下ピットまで、魔女の巣穴になってると見ていい」

 SATの指揮官が低く言い放つ。

 頬の古傷が青白い光で浮かんだ。

「現場は封鎖済みだが、近所の連中に不審がられるのが一番面倒だ。魔女の数は最低3体以上、卵は数不明、応戦されれば追跡の可能性もある。……要するに失敗は許されん」

 テーブル上に並んだ写真の端で、五十嵐が英明を顎で示した。

「紹介するまでもねえが――こいつが鬼。今夜の掃除役だ。特戦群の強襲班、SATの制圧班、課の調査班がバックに付く。だが卵と本体を潰すのはコイツの役目だ」

 英明は何も言わない。

 S&Wのコンパクトが腰のホルスターで冷たく沈黙している。

 SATの隊員がニヤリと笑って声をかけた。

「ヒーロー様じゃなくて鬼様だって? 上等だ。お前が巣を切り開け。俺らは後ろで引っ張ってやる」

 特戦群の小隊長は書き込み済みの地図をトントンと叩く。

「一階から二階は我々が確保。三階以降、鬼が突入次第、制圧班は後詰めに回る。魔女が外へ飛んだらSATが追う。……問題あるか?」

 英明の口から乾いた声が零れた。

「――ない。……ただし、逃したら次は俺が斬る。人間もな」

 テーブルの向こうで、誰かが苦笑した。

 五十嵐が最後に小さな黒箱を置く。箱の中にはサプレッサーと追加の弾倉だ。

 国の黙殺がそこにあった。

「夜まで三時間。武装は好きに調整しろ。戻れなくなる覚悟だけはしとけ」

 プロジェクターが落ち、部屋は鈍い蛍光灯の白さに戻る。

 誰もがそれぞれの準備に散っていく中、英明だけが机の上の古い市街地図を見つめた。

 誰もやらないなら何度でも、俺がやる。

 鬼の刃は、また夜を切り裂く。

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