みんな鉄郎の夜
朝、目覚ましが鳴ると私は飛び起きて鏡へと向かった。そこに写っているボサボサヘアーの女の子を見て、安堵のため息をつく。
「よかった…私、まだ私だった」
この街のほぼ全員に鉄郎の霊が憑依してから、約一週間が経った。最初は大混乱が巻き起こった市内も、今ではほぼ九割が鉄郎に掌握され、平穏を取り戻しつつある。最初の夜はみな動きや言葉遣いが鉄郎っぽくなるだけだったが、三日目には憑依された市民の顔や体つきまでもが鉄郎そのものへと変化していった。四日目にはみな人格さえ鉄郎になっていった。こぞって取材に来たマスコミや学会の研究者たちも、今ではすっかり鉄郎顔だ。街はすっかり鉄郎に染まっていた。
「いってきます」
「…………」
私は台所のお母さんだった鉄郎に声をかけ、学校へと向かった。お母さん鉄郎は何も言わず物珍しそうに私を見るだけだった。不思議なことに鉄郎達は元の自分の日常を覚えているのか、たとえばお母さん鉄郎は同じように家事をしたりして日々を過ごしていた。人格や姿形は鉄郎そのものだが、その生活は元のままだ。おかげでこの街は狂気の沙汰の中で何とか崩壊せずにいた。
「おはよう、みゆき」
「おはよう、誠一」
教室に行くと隣の席の誠一が私に声をかけた。彼はまだ鉄郎になっていない。私もそうだが、鉄郎に憑依されなかった「生き残り」も数名この街にいた。大概は街を逃げ出してしまっていたが、中学生の私たちにこの街を出て暮らしていけるほどの経済力はなかった。それに逃げ出したところで、今では隣街はおろか県外にまで「鉄郎」は広がっていた。空気感染していくウイルスのように、いずれは日本全国の人々がみな鉄郎になるのは時間の問題かもしれない。
「みゆきはそろそろ鉄郎になる気ないの?」
「無いに決まってんでしょ!バカじゃないの!?」
誠一がわざとらしく小声で尋ねた。私たちは自分たちがまだ「鉄郎」じゃないことを強調するために、敢えてお互いを名前で呼び合っていた。冗談じゃない。仮に異次元的な特殊能力に目覚めるならともかく、誰が好き好んで自分以外の平凡以下になるものか。まあ彼が平凡以下なのかどうか、私も正直よく知らないが。
「そういうあんたこそ、そろそろ鉄郎になっちゃんじゃないの」
誠一をからかったつもりだった。だけど誠一は笑いながら「それもいいかもなぁ」と椅子にもたれかかった。私は無言で彼を見つめた。
そうなのだ。街中みんなが鉄郎になった今、こうして鉄郎じゃない私たちの方が何だか異質な存在に感じてしまう。教室を見渡しても、そこには誠一と私以外全員鉄郎しかいない。みんな同じように机に突っ伏したり、ノートに落書きなんかして朝のホームルームを待っている。多数決の論理とでも言うのか、「自分」を保っている正常な方が、異常な気がしてならない。誠一が諦めたように笑った理由も、私には痛いほど理解できた。
「…ヤだからね。私」
「わかってるよ…」
ガラッと教室の扉が開いた。鉄郎の姿をした教師がムスっとした表情で教壇に向かう。私と誠一とその他大勢の鉄郎達は私語を止め正面の黒板に向き直った。
数日後の朝、目覚ましがなると私は飛び起きて鏡へと向かった。そこに写っている私を見て、安堵のため息をつく。どうにかまだ私は私のまま生存中だ。だけど、一体いつまで…。重たい考えを振り切って、私は学校へと向かった。
校門をくぐると、玄関前に鉄郎だかりができていた。私が近づくと、皆一様にじろりと私を舐めるように見てきた。私は思わずたじろいだ。
「な…何?」
ぞろぞろと校舎から集まってきた鉄郎たちが私を取り囲む。どこを見渡しても鉄郎、鉄郎、鉄郎だ。私は頭がクラクラしてきた。そんな鉄郎の壁が、無言でじりじりと迫ってくる。恐怖に駆られた私は鉄郎たちを突き飛ばして教室へと走った。汗が体中からドッと湧き出てくる。
「誠一!助けて!」
私の隣の席に座っていた誠一が、ゆっくりと振り向く。その顔は、もうあの日の誠一じゃなかった。
「いやああああああ!!」
私は教室を飛び出し屋上へと走った。下の階からぞろぞろと、鉄郎たちが追ってくる。階段を駆け上がり屋上へ飛び込むと、そこにも大勢の鉄郎が待っていた。色んな角度から、鉄郎が私を見ている。
「いや…もういや」
逃げ場を失った私はその場に座り込んだ。涙で滲む景色の向こうで、一人の鉄郎がゆっくりと階段を上がってきて、私に手を差し出した。
「大丈夫だよ。みゆき。怖くない。君も鉄郎になろう」
「イヤよ! 誠一みたいに私を名前で呼ばないで!」
鉄郎になるくらいなら、死んだほうがましだ。私は意を決して近くの手すりまで走ると、そのまま勢いよく身を乗り出した―。
「はっ…!?」
と、そこで目が覚める。気がつくと私は見慣れた天井を見上げていた。朝の陽が差し込む部屋の中で、心臓の音がやけに大きく耳に響いた。背中にかいた汗がべっとりとシャツを濡らしている。とても嫌な、怖い夢を見ていた気がする。なんだか全国の鉄なんとかさんに申し訳ないような…。私はよろよろと起き上がり、階下へと向かった。ふと鏡を覗き込む。
私だ。正真正銘の私本人だ。
よかった、全部夢だったんだ。安堵のため息をつき、上機嫌のまま朝食をとった。何だかいつもの景色も新鮮に見える。
「行ってきます!」
夢と違い鉄郎じゃないお母さんは、何だか若返って見えた。ウキウキのまま小走りで学校へと向かう途中、私はとうとう違和感に気がついた。
おかしい。すれ違う人たちはみなそれぞれ別の顔だ。鉄郎っぽい仕草をしている訳でもない。まさかこの人たち全員に、死んだ鉄郎の霊が憑依するなんて、そんな馬鹿げた話があるはずもない。だけど、後ろ姿を見ても全く見覚えのない赤の他人のはずなのに、何だか見覚えがあるような…。
「おはよう、みゆき!」
その時、後ろから男の声が聞こえた。声だけでわかる。誠一だ。私は何だか嬉しくなった。
「「「「「「「「「「「おはよう!」」」」」」」」」」」
道行く人たちが、私と一緒に一斉に声の方へと振り返った。