5
——私は誰だ。何故生まれた。
マルチロイドはロボットアームを湿らして走る。付着した液体は粘っこく赤黒く、それはオイルに似ていた。
電子マップのルートから人の少ない小路を選んで、ガタガタと起伏の目立つクローラーを走らせる。人に出会えば三本指で首を引きちぎり、監視カメラには特製の携行レーザー銃を器用に構えて中心を穿ち、障害物には遠隔操作で移動する蛇腹ボムを放つ。
彼が知性を持った時、最初に出会ったのがある女だった。目の隈を際立たせた執念に燃える女だったが、慣れない知能が女を敵と見なして装備品の携行拳銃で射殺。そして彼は逃亡を図った。
研究施設から飛び出した時、未確認の人工衛星から多機能電子マップや逃亡を手伝う組織の個人情報付き名簿のデータが送られた。彼はそれらを使って遥かなる逃亡を計画し、まずは華葉空港まで移動を決意した。
『今日はここまでにしよう。暗いなかで探しても独りよがりが見つかるとは思えない』
「分かりました。ではわたしは少し寄り道してから帰ります」
『そうか。んじゃ、気をつけてな』
通信機を切って手に提げたポーチの内側ポケットに戻す。
燃え盛るような夕陽が街を照らす。夏の日に写した影の輪郭は刻々と薄くなっていき、夕陽が沈むまでの秒読みは儚さすらあった。
一片も朽ちた様子のない流線形のビル横の歩道で向かいからの人々とすれ違い、スクランブル交差点を渡る。一帯のアスファルトは新しさを誇張する黒に敷かれ、石灰の代わりに横縞模様に埋め込まれた蛍光パネルが薄ぼんやりと道を照らす。
未だ導入が行き渡ってない、お子様ランチの旗のようなホログラムの歩行者信号機が双眸に目立った。
ナツミは交差点を渡り、〈立ち入り禁止〉の解像度の粗い安物のホログラムを添えたシンプルな簡易鉄網の前で足を止める。二メートルほどの高さで道を塞ぐ鉄網柵を見上げて、深く息を吸い込んだ。
犬歯のスイッチが解放され、強く噛み合わせた。加速装置が発動し、ナツミに通りすがる周囲の万物は凍り物理的な静寂が生まれる。人工筋繊維が解放されると、鉄柵に手をかけて跳躍した。
鉄網柵の高さを越す前に上部の外枠に指を掛けて、その外枠へ蹴りを叩き込む。神経加速によって生み出されたほぼ無重力状態の空間で、慣性のままに立ち入り禁止区域へ着地した。
「疲れた」
再び噛み合わせて加速装置を解除する。凍った世界が速さを取り戻し、外枠が恐ろしい勢いで千切れ飛ぶ。
「あっ……」
ナツミは遠くへ旅立つ外枠に口元を引きつらせる。
「し、知らないなーっと」
表皮から冷や汗が滲む。気まずい気分のままポーチを抱えて立ち入り禁止区域の奥へと全力で走った。
粉砕されて砂ほどになったアスファルトの道を進む。ゴーストタウンにも似た生気のない歩行者天国の店舗を過ぎる。ある程度のところで歩幅を狭めて周囲を眺めた。
進む先の店舗は隕石でも降ったように抉れ、横目に見えた店で売られている何かは、匂いさえも残らないほど茶色く萎びていた。すぐ近くの先進的な街と対照した物寂しげな雰囲気で、今に屍が蘇り襲いかかってもおかしくない。
息を呑んでありもしないオートマチック拳銃の遊底を引く。無い物を両手で携えて周囲を警戒した。
何度この場所に来ても、この無残な光景で背が竦んで落ち着かない。果たしてそれが後ろめたさのせいか、あるいは恐怖による勝手な妄想か。後ろめたさに覚えはないが、覚えがなくて当然でもあった。
義体の全身を感じる。人の肌質に極度まで似せたシリコンを、生きたふりをして瑞々しく流れる髪や普段は休止した人工筋繊維を、金属機関となった五臓六腑に潜むエネルギー結晶を。
脳や脊椎だけを残して別の素材で組み直された身体は完全に元へは戻らなかった。臨床実験を兼ねた手術は不完全で、重傷の彼女を生き永らえさせるためのエネルギー結晶を移植する際、初接続のショックによる記憶の剥落が発生したためだ。
ナツミはつぎはぎになった記憶と共に目覚めた日を顧みる。
複雑な機器にチューブで繋がれた柔らかい寝台の上、隣で自分と同じく機器に繋がれた少女が長く艶やかな黒髪を敷いて眠っていた。ナツミとしては主任とドクターの説明などそっちのけで気になったものだった。
後ろめたくなるような心当たりは結局見つからず、無闇に恐怖に赴くまま建物を見回す。雑草ひとつも生えないほどに痩せて生気の失われた一帯は、とても現実とは思えないものがあった。
虚構を歩いているのではないかという錯覚に惑うなかで、向かいから気配を感じる。ナツミは思わずありもしない銃を構えて相手に向ける。相手が闊歩するにつれ気配から輪郭となり実像へと変わった。
それは見知った存在であり、その瞬間に怯え気味のナツミは驚きと喜びと安堵の混じった表情に変わっていた。
「スズナちゃん……?」
銃を形どった両手を下ろす。
廃屋のただ中に舞い込む夏風に揺れた腰ほどの黒髪と白いワンピース。儚げな少女は人工らしさの強い青眼で彼方を見つめ、手に持った一輪の薄紫色の花は、多い花弁を主張するようにそれぞれ揺れていた。
「どうしてこんなところに……」壱翔スズナは呆然とした様子でナツミを見る。お互いの姿を月光が灯して映す。
「久しぶりだね。出て行ってから何してたの?」
「連れ戻すつもり?」
「いや、連れ戻す義務もないし単純な興味だよ。ヒロイズムは体に合わないもの」
「……相変わらずね」
数拍の沈黙が生まれる。沈黙を破るようにスズナがふと夜空を見上げて言った。
「過去を探してた、って感じかな」
「過去?」
ナツミはわけが分からないといった様子で続きを促す。スズナは答えの代わりに、手に持った薄紫色の花を空に掲げた。
「何の花か分かる?」
「花にはそれほど詳しくないな」
「松虫草って言うんだって。開花時期はまだ早いからこれはドライフラワーなんだけどね」
「へえ。その花にはどんな意味があるの?」
「……意味なんてない。手向ける花だから」
スズナは横を過ぎ去り、商店街の中央でアスファルトの粉末の上に屈んで花を手向ける。彼女は合掌をすると立ち上がった。
「あたし、やり残したことがあるんだ。だからずっと帰るつもりなんてないよ」
「やり残したことって……?」
「簡単に言うと復讐かな。こいつさえいなければこんなことにはならなかったって奴にね」
ナツミの表情が僅かに揺れる。
「過去が見つかったんだね。じゃあ、もう戻る気はないんだ?」
「知った以上は戻れないから……」
アスファルトの砂塵が風で舞い上がる。ナツミは振り返り背を向けたスズナに言った。
「自分で決めたことなら止めないけど、少し寂しいな」
「本当にね。あんたとは第一次構造物災害より前に会いたかった」
スズナが砂利になったアスファルトを鳴らして歩き出す。ナツミは彼女を追うこともせず、ただ呆然と遠ざかる背中を見つめていた。