【三題噺】祝杯・畳・蜂蜜
三題噺のショートショートです。
お題は祝杯、畳、蜂蜜です。
「いやあ、良かった。一時はほんまにどうにもならんで、店をたたもうかとも思っとったんや。これもみんなお前のお陰や。いやいや、それだけやない。みんなにも苦労をかけた。ほんまに、おおきに、ありがとう。今日はみんな存分に飲んで食ってくれ。祝杯や。乾杯!」
「カンパーイ!」
ガチャガチャと、杯が交わされる音が響く。一通り杯が交わされると、その後に大きな拍手と歓声が沸き起こった。皆一様に幸せそうである。皆の顔を一通り眺め終わると、老人は酒をぐっと飲み干した。その顔は今にも泣きだしてしまいそうなほどにしわくちゃだった。
「良かった良かった」
老人は何度も何度もその言葉を繰り返していた。
三か月前、老人は途方に暮れていた。
彼は畳屋の主人で、八十を超えてまだ現役の畳職人であった。今ではこの店でも機械縫いの畳がほとんどであるが、手縫いの畳も取り扱っており、彼は畳を手縫いする技術を持っている、日本でも数少ない職人の一人である。
昨今の住宅事情の変化により、畳の部屋がない住宅が増えたことや、輸入物の安い畳が普及したこと、それなんかはまだ良い方で、酷いものになるとナイロンや発泡スチロール製などの化学製品が使われた、畳もどきのタタミが登場して来て、本物の畳の需要が大きく減ってしまっていた。寺院などの大口の顧客さえも、畳が傷むからとじゅうたんを上にしいたり、畳の上にさらにゴザをしいたりなどして、畳を張り替えることも減ってしまっていた。
そして老人の店への注文はひとつ減りふたつ減り、ついにはまったく注文がなくなってしまった。
時の流れとはいえ、代々続いてきた店を自分の代で潰してしまうことになるのかと思うと、老人は胸が痛んだ。幼少の頃から畳を作ることだけを延々と繰り返してきた自分には、この状況を打破する為の知恵がなかった。良い物を作ることはできる。それもただ良い物ではない。どこの畳と比べても劣らない、一番上等の畳だ。
しかし、今、畳そのものが必要とされていないのだ。自分の人生すべてを賭けて取り組んできたことが、自分の人生すべてが否定されているのだ。いや、自分だけではない。自分の師でもある父、祖父、さらには先祖代々までが、である。老人は涙を堪えきれなかった。
でも……。と思う。自分はまだ良い方だと。自分なんてあと十年生きられるか分からないのだ。それに比べたら、自分の家業を引き継いでやってくれている息子、孫の方がもっと不憫だ。長男だからという理由だけで、半ば無理やりに家業を継がせているのだ。自分と同じように、小さい頃から畳職人になるべく修行させてきたのだ。今になって簡単に他の仕事なんてできるわけがない。他にも自分を慕って働いてくれている職人が何人もいる。
そのことを思うと、老人は途方に暮れるしかなかった。
そんなときに、ふと入った連絡は外国人からのものだった。もちろん、老人は外国語を話すことはできなかった。だが、弟子のひとりに簡単な会話ならできるという者がいた。たまに訪れる海外からの観光客の相手をするのはもっぱら彼の役目だった。彼の話を要約すると、外国で住宅を扱う者だが、本物の日本の畳を使った部屋を提供したい。一度、畳を見せて欲しいのだが良いだろうかということだった。
この話は老人にとって渡りに船であったが、彼には危惧していたことがあった。外国人に畳の本当の良さが分かるものだろうか。畳とは日本の風土に合った家具である。格好だけで取り入れられて、畳の本質が置き去りにされてしまうのではないか。
悩んだ末、老人はその外国人と会うことにした。そもそも今の日本でだって、畳の本当の良さを知る人はほとんどいないのである。ならば視点を変えて、今まで畳を知らなかった人に畳の良さをもっと知ってもらおうじゃないか。
その外国人は店に来ると、実際の畳に触れ、製作工程を見学し、いくつかの畳についての質問をすると、あっさりと大口の注文をして帰って行った。事前にこちらは外国語が不十分なので、ちゃんとした通訳をつけて欲しいと希望したのもあって、見学も質問も、注文もスムーズに進んだ。
なかでも特にその外国人が喜んだのは、畳の手入れの仕方と畳の寿命についてだった。牛乳や蜂蜜をこぼしてしまったときはどうしたら良いのかというのが彼らの質問で、老人はそれについて丁寧に答え、また畳表は裏表に返して使えること、これだけでも四、五年使えるが、裏表使い終わると今度は張り替えができるのだと説明した。畳は一生使えるものだということが分かると、外国人は満足して帰って行った。
そういういきさつで、大口の注文を無事に出荷することができ、また継続して契約を結ぶことができた老人は安堵し、感慨深い表情で酒を飲んでいるのだ。
まさか畳の上を土足で歩き回る外国人がいるとは、夢にも思わずに。
最後まで読んでいただきましてありがとうございます。
すたれていく日本の伝統技術のお話を聞くたびに残念な気持ちになります。私自身も、もっと日本の魅力をアピールできればと思います。
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