記憶巡りの風
暗闇の中で目を開く。背中にはやけに冷たい汗が流れている。辺りを見回せばいつもの自分の部屋だ。
「夢……か。」
如月鏡花〈キサラギキョウカ〉は小さく呟くと細長く息を吐いた。
「アレは誰だ?」
鏡花は首を捻る。夢に出てくるのはいつも同じ男だ。
「あれ?」
顔が思い出せない。いつも同じ人が出てきて……男である事は確かなのにどうしても顔が思い出せなかった。でもその男はいつも同じ事を鏡花に問いかける。
『忘れ物は無いかい?』
と。その声はひどく鮮明で、なんとなく懐かしい感じがして、鏡花はいつもそこで目を覚ます。
「忘れ物……」
考えてもわからない。答えてくれる人間など勿論いない。鏡花は5年前から一人暮らしだ。まだ二十歳だが母親を5年前に亡くし仕事人間の父親にマンションを与えられ毎月生活費として百万貰い生活している。現役大学生の鏡花には少々額が大きいが鏡花の実家は名の有る財閥なので令嬢である鏡花はパーティーなどが有る場合には出席しなくてはいけないのでその度に服や小物を買わなければならないのでいたしかたない。そんな風にいわゆるお嬢様な鏡花は執事やメイドのいる生活をしていたが性格じょう堅苦しいのが嫌で母が亡くなった直後に家を出た。
「はぁ……」
鏡花は溜息を吐く。
「忘れ物なんて……」
鏡花の呟きが部屋の暗闇に吸い込まれる。と誰もいないはずの部屋の隅から
「わからないの?」
クスクスと笑う声がした。少年のような澄んだ良く通る声だ。声の主はなおも続ける。
「大切なものだよ?君にとって……ね。」
「あんた誰?」
鏡花の呼びかけにスッと姿を現したのはブラウスに半ズボンの少年だった。
「はじめまして如月鏡花さん。ボクの名前はミチネコだよ。」
ミチネコと名乗った少年は深紫の髪を揺らしながら首を傾げニッコリ笑った。
「ミチ……ネコ?」
「うん。」
「変な名前ね。」
「そう?」
「そうよ。それに……どこから入ったの?鍵、閉まってたでしょ?」
鏡花は訊ねる。確かに寝る前に戸締りはしっかり確認した。どこも開いていなかったはずだ。
「どこからって……そこからだけど?」
そう言ってミチネコが指をさしたのは壁際に置かれた鏡。
「鏡?」
「そう。ボクは鏡の向こうから来たんだ。」
「どう言う意味?」
「そのままだよ。ボクは鏡の国の住人だから、こっちに来るためにはあそこを通る必要がある。」
「あっそ。」
「それだけ?」
「他に何言えって言うの?それよりもあんたが何しに来たかが知りたいわよ。」
「それは教えられないなぁ。」
ミチネコはクスクスと笑う。
「どうしてよ?」
「ボクは君に会うのが役目だからね。」
「役目?」
「そうだよ。ついでにヒントを置いていくよ。」
「ヒント?」
「うん。えっとね……あぁそうそう。君の夢に出てきてた男の人 は君の知っている人だよ。」
「知ってる……人?」
「うん。ボクが言えるのはここまで。答えは君が探すんだ。」
そう言うとミチネコは鏡へ入っていこうとする。鏡花は慌てて声を掛けた。
「どうやって探すの?」
するとミチネコはちょっと振り向いてニッコリ笑いながら
「まずは風を見つけるんだ。」
「風?」
鏡花が首を傾げ聞き返した時には既にミチネコの姿は無く大きな姿見が有るだけだった。 翌朝。鏡花は学校へ行くため最寄り駅までの坂道を下っていた。
「まったくなんだったのよ。だいいち風って何よ。」
鏡花がブツブツと呟いていると
「おはよう鏡花ちゃん。」
隣の部屋に住んでいる親友の橘杏奈〈タチバナアンナ〉がニッコリと微笑んでいた。
「おはよう杏奈。」
二人が挨拶を交わし歩き出そうと一歩踏み出したところで
〝ゴウッ〟
と、強い風がふいた。思わず目を瞑った鏡花が目を開けると辺りの景色が変わっていた。
「どこここ?」
鏡花が途方にくれていると
(ママー)
後ろから声がして振り向いた鏡花の目に幼い少女が映る。
「あたしだ。」
鏡花は呟く。目の前の少女は紛れも無く幼い頃の自分。ならば
「お……母さん?」
鏡花は視線を戻す。そこにいたのは若い頃の母。
(鏡花!)
そう言って微笑む母は走り寄る幼い鏡花を抱きしめるしかし、
「あたし、こんな場所知らない。」
鏡花の記憶の中の母は車椅子だ。
「こんな……こんな公園なんて知らない。」
鏡花が呟くと
『本当かい?』
夢の中の声が響いてか鏡花は顔をあげた。そこにいたのは
「おじい様……」
目の前にいたのは鏡花の祖父だった。
『やっと気づいてくれたね。鏡花。』
そう優しく微笑む祖父の顔を見た瞬間周りの景色がグニャリと歪み病院の景色になった。目の前には手術
中の赤ランプ。
「あ……」
鏡花はそれを見て誰かが怪我をしたことを悟る。周りでは大人たちが話している。
(まさか華恋〈カレン〉が鏡花をかばって怪我をするなんて。)
(もしかしたら一生歩けなくなるんでしょう?)
(鏡花はどうする?事故のショックで記憶を無くしたのだろう?)
(本当のことをわざわざ教える必要が有るかね?)
(そうよね。まだ幼いし。お母さんは始めから足が悪かったと言っとく方がいいかも。)
『大丈夫かい?鏡花。』
祖父にそう聞かれ鏡花は自分が泣いている事に気づいた。
「あ……お母さんが……歩けなくなったの、あた……あたしの……せい?」
『そうじゃないよ鏡花。』
「でも……」
『鏡花、良く聞いておくれ。』
祖父はそう言ったが鏡花にその声が届く事は無く鏡花は発狂したように叫んでいた。
「いや……いや……いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「鏡花ちゃん!」
鏡花はハッと目を開けた。最初に見えたのは心配そうな杏奈の顔だった。
「よかったぁ。鏡花ちゃんずっと魘されてて……大丈夫?」
「あっうん。」
鏡花は曖昧に返事をすると
「ちょっと実家行って来る!」
そういって部屋を飛び出した。
「お父様!」
ノックもせずに父親の書斎に入ると少し驚いた顔をした父親は首を傾げ
「何だ鏡花?いきなり入ってきたら驚くだろう。」
「そんな事どうでもいいわ!お母様の事教えて欲しいの。」
「どうした急に。お母さんの話ならさんざんしただろ。」
「本当の事を知りたいの。お母様の足の事よ。」
「そうか。そうだな、鏡花ももう大人だ。話すよ。」
「ありがとう。」
そう言って鏡花はまた涙を流した。