Call my name 8
街の方へ行くのかと思っていたのだが、窓から外を見ているとどうやら馬車は郊外へと向かっているらしい。
「どこへ行くのですか?」
家を出てからずっと外の流れて行く街並みや田園風景を見つめていたオルガが、隣に座るアイゼンに訪ねてみると一向に返事が返ってこない。
二人っきりで馬車に乗りながら堂々と無視されるなんて、この前ほんのちょっとだけ優しそうに見えたのだけど………。オルガはわからない人だなと思いながらアイゼンの方に顔を向ける。そこでやっと返事の返ってこない理由がわかった。
両腕を抱えそこに顔を埋めるようにして寝ているアイゼンに、こんな体勢でよく眠っていられるなと不思議に思いながらその顔をまじまじと覗きこむ。
こんなに間近からアイゼンの顔を観察するのは初めての事だった。
思っていたより長いまつ毛の下にあるくまは初めてあった頃より大分薄くなっている。
出会ったばかりの時はあまりの形相の悪さに純粋に嫌だなと思っていたオルガだったが、こうして寝ている姿をみると思ったより幼い顔をしていることがわかった。
(そういえばこの人は何歳なのだろう――)
オルガは初めて自分が彼について何か知りたいと思っていることに気がつかないまま、揺れるアイゼンの前髪をじっと見つめ続けた。
馬車がようやくついた場所ですっかり爆睡してしまったアイゼンを揺り起こすと、アイゼンはほんの少し恥ずかしげな顔をして口元をぬぐった。そして何も言わずに先に馬車を下りて行ってしまった。
そんなアイゼンを見送ってからオルガが馬車から下りようと、先に降りたアイゼンがこちらに手を差し出してくる。
ほんの少し戸惑いながらも指先を重ねるとぎゅっと握りしめられた。
オルガは突然のことに思わず離してしまいそうになったがなんとか耐えて馬車から身体を下ろす。地上に下ろされたオルガと入れ替わるように、再びアイゼンが顔を馬車の中にいれると中に置きっぱなしだったオルガの帽子をとってくれた。
バラ色のそれを少し乱暴にオルガの髪を撫で上げてからかぶせるとそのまま先を歩きだしてしまう。オルガは帽子の中でぐしゃぐしゃになってしまった髪を直しながら、再び帽子をかぶりなおすと早歩きのアイゼンの後ろを小走りでついていく。
「どこへ行くのですか?」
馬車の中で無視された言葉を再び問いかけると、アイゼンはすぐにわかるとだけしか答えてくれずに黙々と歩き続けた。
そうやって二人で木漏れ日の中を歩き続けると森の少しひらけた場所に本当に小さな小川が現れた。葉の隙間からこぼれ落ちた太陽の光が水面に反射してキラキラとまたたいている。
オルガは初めてみる小川にふらふらと近寄っていくと小川の縁にしゃがみ込んで流れる水面に顔を映してみた。
「……あっ…」
揺れる水面の底に魚が泳いでいるのが見えた。
人になれているのか、それともあまりにも人がこなさすぎて防衛本能が薄いのだろうか。自分の影の下で悠々と泳ぐ小魚を見つめていると、後ろから覗き込むようにして黒い影がオルガの影を覆い尽くす。
オルガが座ったまま影の主を見ようと上をむくと、当たり前だがそこにはアイゼンの姿があった。
喉を大きくそらしながらこちらを見上げるオルガを上から覗き込みながら「やっぱりこういうのが好きなのか」とアイゼンはやけに穏やかな口調で尋ねてきた。
「下に何もしかずに座りこんでしまったな……」
水際だからなのか柔らかい土の上にバラ色のドレスのまましゃがみ込んでしまった。オルガはしまったと思って立ちあがろうとしたが、アイゼンがもういいとと立ちあがろうとしたオルガの肩を上から掴む。
「こういう所によく来たのか?」
「いいえ」
「あちらはこっちより自然が多いのではないか?」
「危ないと言って両親が許さなかったので―――」
危ないと言われて外にだされなかったのはイネスだ。
オルガは出たいと言ったことが一度もなかった。
暗い屋敷でイネスが持ってくる本や図書室の本を読み、時折中庭で花を手折って下手くそな花冠を編み上げる。家庭教師の気難しい老人に叱られながらも勉強をして―――。
静かな、思わず息をするのも億劫になってしまうほどの屋敷を思い出したオルガ。
そんなオルガの暗い顔に気がついたのかアイゼンはオルガの頭から帽子を取り去ってしまう。
いきなり帽子を雑に取り上げられたオルガが乱れた前髪の間から見上げていると前髪を撫で上げてくれる。
「だからそんなに白いのか。君はもっと陽にやけた方がいい」
「白い方がいいと聞きましたが………?」
急に開けた視界でまぶしさに目を眇めながら尋ねると、アイゼンは隣にいつの間に持ってきていたのか厚めの布を引いて自分はその上に腰を下ろす。
自分だけ腰を落ち着けたことでようやく一心地ついたのか、少し砕けた様子でこちらに目を向けてくる。
「もう売れたのだからいいだろう。夫である俺がいいって言っているんだ。………もっと君は健康的になるべきだと思う」
アイゼンに真正面から真摯な瞳で見つめられるとオルガが思わず立ちあがってしまった。するとアイゼンの足がオルガのドレスを踏んでいたみたいで、勢いのままに前につんのめってしまったオルガはそのままどうすることもできずに水面に顔から飛び込んでしまった。
オルガは産まれてはじめての小川の冷たさに心臓が痛いほどに弾むのを感じた。
それほど深いわけではなかったので、ぬかるんだ小川の底に両手をついて水面に顔をのぞかせる。
前に垂れてしまい視界を邪魔する前髪の合間からアイゼンの方を見ると、アイゼンはこれまで見たことがないほど瞳を大きく開いてこちらを見つめていた。
「………すまない」
一応助けようとしてくれたのだろうか、途半端に腰を浮かしたままのアイゼンが、恨めしそうなオルガの視線に気がついてわずかに肩を震わせながら謝ってくる。
オルガはどうしたらいいかわからなくて、そのままの体勢を保ったままで水につかりながらアイゼンを見つめ続ける。
そうしているとついに耐えきれなくなったといわんばかりにアイゼンが腹を抱えて笑いだした。
「そんなに、目を開くことができたのか! 今にも落ちそうだぞ」
ハハハ、と少年のように軽やかに笑い続けるアイゼンを見ていると恥ずかしくなってきたオルガは「あなたもそんな風に笑えるんですね」という嫌味をなんとか返すことしかできなかった。
ぬれ鼠になってしまったオルガに笑いながらアイゼンが手を伸ばしてくる。手を借りて小川から上がったオルガが前髪を絞っていると、アイゼンが後ろにまわるとオルガの真似をして後の方の髪をしぼりはじめる。
オルガはそちらまで汚れてしまう必要はないのにと思いながらも、自分でやるよりは彼がやるほうが確実だろうと思ってそのまま身を任せた。
「ドレスは――どうしようか?」
アイゼンはオルガのびしょぬれのドレスを持ち上げながらこっちに問いかけてくる。
どうしたらいいかわからないオルガが「こうしてたら乾くのではないですか?」と言うと、アイゼンは「これだけ濡れたら無理だろう」と笑いを殺しながらこちらを見てくる。
「着替えも持ってきてないし、家まで帰るにも時間がかかって絶対に風邪をひくな…」
じゃあ、どうしたらいいのですか。
アイゼンの風邪をひくという言葉でようやく寒気を感じたオルガは両肩をかかえて大きく震える。
それを見たアイゼンはとりあえず馬車まで戻ろうといって、オルガの肩に下に敷いていた布を臨時でかけてくる。
草の上にしいてさらに大の男一人が腰を下ろしたので草がつぶれたらしい。青臭いかおりがする布を肩に掛けられたオルガは普通自分のお尻のしたにしいた(しかも直接地面に)のを女性の身体に巻きつけるだろうかとちょっと疑問に思ったが、肩を押されるようにして前に歩けと言ってくるアイゼンの心配そうな顔を見ると何も言えなくなってしまった。
数分おきに尋ねられる「寒くないか?」という問いに、オルガは全て律儀に頷き返し続けていた。
いくら二人がかりで水気を絞ったと言っても未だにスカートの裾から水が滴り落ちている状態である。オルガは最初馬車に乗るのに躊躇したのだが、そうしているとじれったくなってしまったアイゼンの手によって強引に馬車の中に押し込まれてしまった。
アイゼンは巻いていた布でオルガの濡れた身体を遠慮なくぬぐい続けたのだが、すぐにそれもびしょ濡れになってしまい用に立たなくなってしまう。
日陰に入ってしまったゆえに急激に冷え始めたせいで、耐えきれずに大きなくしゃみをしてしまうとアイゼンは馬車の前で馬を操っている人間に窓を開け放って「どこかで毛布でもなんでもいいから調達しろ!」と大きな声をあげたのでオルガは驚いてしまった。そんなことわざわざしなくてもいいと言いたいところだったが、これ以上身体が冷えてしまうと本格的に風邪を引いてしまいそうなので大人しくしておいた。
元から静かなオルガなのだが、ずっと黙り込んでいるのにはさすがに心配になったらしい。アイゼンはオルガの為にと自分の上着を脱ごうとしたのだが、オルガはそれを慌てて止める。
「そこまでする必要はありません」
ぴしゃりと言い切ったオルガにアイゼンは上着を脱ぎかけのまま固まってほほうと眉をひそめた。
「………真っ青な顔でそう言われたって信じられると思うか」
オルガはアイゼンの言うとおり真っ青な顔をしたまま首を大きく横に振った。
「私が風邪をひいても誰も心配はしませんが、あなたが風邪をひいたら多くの人に心配を。迷惑をかけてしまうことになります」
アイゼンはオルガのその言葉に黙り込むと、脱ぎかけていた上着をのろのろと着直しはじめた。どうやらオルガの言いたいことは伝わったみたいだが、どうも機嫌がよろしくないようだ。
オルガはアイゼンの衣服を剥ぐような真似をしなくてすんだことにほっとして、不機嫌を隠そうとしないアイゼンのことを一先ず無視して安堵の息をもらしていると、突然肩をぐいと掴まれた。掴まれた左肩に目をやるとアイゼンの大きな掌に覆われている。
「あなたが、濡れます」
「これぐらいは、させろ」
アイゼンはそうぶっきらぼうにいうと、強引に抱き寄せたオルガの頭を自分の片側に寄せかける。右側に感じるアイゼンの体温にオルガは拒絶する気もしだいに失せて黙り込んだ。
こんな風に肩を寄せ合うだけで冷えた身体が暖まることなんてあるわけないのに、そう思っていたオルガだったがそれはすぐに間違いだということに気づくことになった。触れあった肩と掌以外の、胸のあたりから熱くなっていくような感覚にすぐに襲われた。触れあってなどいないのに暖かくなる胸から全身に血が巡るのと同時に広がった熱をオルガは不思議に思う。
「………お前が風邪をひいたらアネットが――――――、それに俺も心配するのだから………そんなこと言うな」
少ししてからアイゼンが車輪に負けそうなくらいの声の大きさでそう呟いた。
オルガは先ほどまでの震えがすうっと消えていくのに目を瞬かせながら、隣に座る男のことを気配だけで窺う。
この人の傍にいるとどうして暖かいのだろう、と。