Call my name 3
あの日以来今日までアイゼン・ラッドがオルガの元を訪れることは薄々感じていた通りなかった。
仕事が忙しい彼は結婚式やその後の休暇の為に結婚式前日まで仕事に奔走していたらしい。使用人やアネットが結婚式当日まで顔を見せることがなかったアイゼンを庇うようにしてやけに明るい声をあげながらオルガの髪を丁寧に櫛でとかす。ゆるく後ろで編みこまれた髪に小さな白い花を挿しこまれるのを、鏡越しにじっと見つめながらオルガは周りに気がつかれないようさりげなく腰に手を当てた。
全身が余裕で映る大きさの鏡の前に立ちコルセットをきつく結びあげられると、オルガは背骨がメキメキときしむような感覚に襲われた。だんだんと息苦しくなっていくのに眩暈を覚えながら目の前に柱に爪をたてる。
息苦しさを通り越して痛みを感じ始めたオルガは、侍女やアネットが先ほどまで必死になってフォローをしていたアイゼンのことを思い出す。
(ひどい、くまだった………)
数日前にあったきりの旦那様の目の下に色濃く残ったくまを思い出しながら……、というかそれしか印象に残っていないオルガは息を吐いてくださいという侍女の言葉にのろのろと従いながら苦悶に顔を歪ませた。
イネスとオルガ、見た目はそっくりだったのだが体つきとなると話は少し違った。オルガはイネスより若干ふくよかな身体の持ち主で、イネスの為にしつらえた衣装は全体的に苦しいサイズとなっていた。特にこのウェディングドレスはその最もたるものだった。オルガは食事を抜くなどの涙ぐましい努力をしていたのだが―――やはりまだきつい。
地獄のような締め上げが終わり、とろりとしたさわり心地の繊細な花の刺繍がほどこされた白いドレスを着せられた。オルガはその場に座り込みたい気持ちに襲われたがなんとか耐えた。体調の悪そうなオルガに心配したアネットがそっと耳打ちしてくる。
「………一時間だけの辛抱です」
一時間もこの状態が続くのかと思うとオルガは目の前がぐらりと回るのを感じた。気持ちが負けたら駄目だと自分に言い聞かすが、一度折れそうになった心を再び持ち直すのは中々難しい。
「イネス様。大丈夫ですか……? 」
アネットは出会ってからずっと食の細いオルガを心配している様子だった。出された食事にほんの二口程度口をつけると、すぐにナイフとフォークを置いてしまうオルガを心配そうに見つめていた事を思い出すと、オルガは申し訳ない気持ちに襲われた。
心配してくれるアネット、そして自分自身の為にも出された食事は全ていただきたがったのだが―――今日のことを思うとそれもできなかったのだ。
そして今のこの現状を思うと、その判断は正しかったとしか思えない。
傍から見れば緊張ゆえに食べ物も喉を通らない様子のオルガを、心配そうに見つめるいくつもの視線を煩わしく感じてオルガはそれを遮断するようにして静かに目を閉じた。
確かに緊張感もあるのかもしれないが、それはアネットたちが思っているような類のものではなかった。………大勢の人をこれから騙さなければならないという緊張感もあるのだが物を食べれない、食べない原因はそれではない。
原因はイネスが消え、オルガが身代わりになると決まったあの時。
目の前に立つ母が久しぶりにオルガと視線を合わせながら言ったのだ。
「婚儀まではあまり食べないように」
もとから食の細かったイネスより若干ふくよかな体系のオルガの身体には、イネスの為に用意したドレスが合わないのではないかと心配した母の言葉だった。
オルガは母の言葉に従い今日のこの日まで耐え続けた。あの日からオルガはほんのわずかなスープや野菜しか口にしていない。
その上、今日徹底的にしぼりあげられたウェストにオルガは気持ち悪さを覚えたが、出てくるようなものは胃の中に入っていないはずなので、結婚式の最中に戻してしまうなどという最低最悪のことはないだろう。オルガは背中に冷や汗をかきながら、拷問のようなこの時間が早く終わるのをじっと耐え続けることしかできなかった。
目の前の神父が誓いの言葉を言っている―――みたいだ。
その時オルガはよく響きこれまで多くの人々の心をうってきたであろう神父の声が、ひどく遠くから聞こえてくるような感覚に襲われていた。
参列者の間を進んでいる時も長いウェディングドレスの下の足ががくがくと震えていた。
オルガが気分の悪さをごまかすように浅く息を吐いていると、小さいくだが忙しなく上下しているオルガの肩に隣に立つ男の手がかかった。
そのとたん、急に周りの声が鮮明にオルガの耳に入ってきた。
神父の「誓いのキスを」という言葉が耳に入ってきたと同時に、白いレースのベールでふさがれていた視界が開ける。気持ち悪さゆえに伏し目がちになっていたオルガの頬を男の硬い手がおおう。大きなそれが血の気の失せた頬を優しく撫であげるのを感じて、オルガはその手に誘われるようにしてゆっくりと瞳をあげた。
「……あっ…」
オルガはまだうっすらとくまが残ったままのアイゼンの顔をまじまじと間近から顔を見上げることになった。
唇が触れあいそうなその距離に、照れるでもなくじっと見つめてくるオルガにアイゼンは唇が今にも触れそうな距離で一度止まった。
目を閉じるわけでもない無粋な花嫁をほんの少し顔を遠ざけて見つめてから、アイゼンは静かに頬に添えていた手を上へとずり上げた。そして周囲には悟られないようにしてオルガの瞼に指先で触れる。反射的に目を閉じざるをえなかったオルガの体調の悪さゆえに青白い肌と紅のせいでやけに赤い唇にようやくアイゼンの唇が重なる。
柔らかな口づけだった。
想像まではしていなかったが、もっと固く乱暴なものだと思っていた。オルガはその柔らかさ、いや優しさと言ったらいいのだろうか。ふわりと優しく触れてすぐに去っていってしまった熱に思わず肩を震わせてしまう。
短い誓いのキスは終わりを告げ、アイゼンはすぐに顔を離してしまう。
とたんにわんわんと鼓膜が震えるほどの拍手が教会内に溢れる。
オルガはその音に身体がぐらりと揺れるのを感じるとなすすべもなく目の前に立つアイゼンの胸に額をつけてしまった。
突然バランスを崩し花婿にもたれかかってしまった花嫁に祝福の拍手をおくっていた人々はざわめいたが、オルガを支えるアイゼンの「緊張したのでしょう」という落ち着いた声にざわめくきは一気に歓声へと変化する。初な花嫁とそれをたくましい腕で支える花婿に優しげななまぬるい視線を全員が向けてくる。
オルガはからかうようにしてこちらの幸福を祈るざわめきに奔流されると、もう耐えられないと力なく瞳を閉じてしまった。
「イネス様、イネス様」
誰かがイネスの名前を呼んでいる。
行儀作法が嫌になってしまったイネスがオルガの部屋で隠れるのはよくあることだった。オルガは慌てた様子の家庭教師の声に重い瞳を開こうと力を込める。
―――なぜイネスを呼んでいるのに、自分が目覚める必要があるのだろうか。
ぼんやりとした頭でそう不思議に思いながら瞳を開き、頭を押さえながら目をはためかせる。
ゆっくりと上体をあげようとすると枕元に付き添っていたのは家庭教師ではなく、アネットだった。彼女はようやく目を覚ましたオルガを見てほっとしたように胸をなでおろした。
「イネス様。大丈夫ですか? 式の途中で気を失われたのですよ…覚えていますか?」
アネットの言葉に、オルガはまだぼんやりとした頭で頷き返す。
(そうだ。私は今お姉さまなのだ―――)
未だにはっきりとしない頭を両手で抱えながら呻くと、アネットが水差しから水を注いで渡してくる。
「あまり食事を召されなかったことと、コルセットの締め付けがよくなかったみたいですね―――そこに緊張も加わったのでしょう」
「ごめ………ん、なさい」
結婚式の途中で意識を失ってしまったということをようやく思い出したオルガはただでさえ白い顔を更に青ざめさせた。オルガのグラスを持つ手が震えているのに気がつくと、アネットは見かねた様子でその手をグラスごと握り締めて支えてくれた。
「申し訳ありません。まだ体調も戻っていませんのに、わたしったら――。式の方は滞りなく終了しましたから大丈夫。大丈夫ですよ」
アネットの優しい言葉と暖かさに、オルガは強張っていた身体からふっと力がぬけるのを感じた。アネットはオルガの指先から力が抜けたのを確認するとグラスをそっと取り上げ、改めてオルガの手を握り締めなおした。
アネットの手のぬくもりに落ち着きかけていたオルガの耳にノックの音が入る。後ろに控えていた侍女がドアを開けると、そこには使用人を引き連れた母の姿があった。
アネットは訪れた母の姿に安心した様子でほほ笑むと、頭を下げてオルガの傍から離れる。そうして後ろへ侍女と一緒に下がったアネットに、母は二人にしてくれと頼み込んだ。
母が娘と二人きりになりたいと言ってそれを止めるものがこの世のどこにいるのだろうか。二人っきりになって落ち着いた空間で慰めるのだろう。そう普通に想像したアネットは深く頷くと、侍女たちを引き連れて廊下へと出て行ってしまった。
オルガは彼女らを引き止めたいと思ってしまった自分を諌めながら、目の前の母に顔を向けることが出来ずに長椅子に軽く爪を立てた。
結婚式の最中に気を失ってしまうという、とんでもない失態を犯してしまったのだ。
しおれた花のようにして項垂れるオルガは、黙って母の言葉を待つしか出来なかった。
「―――あまり、みっともない姿を見せるのではありません」
「………申し訳、ありませんでした」
「……………見つかり次第、すぐに連絡します」
オルガの震える謝罪に、母はそれ以上何もいわずに義務的な言葉だけを口にした。
重い沈黙にとうとう顔を上げることができなくなってしまったオルガが俯きながら震えていると、呆れてしまったのだろうかそれ以上何も言わずに部屋を出て行ってしまう。
オルガはそれにほっとすると身体から一気に力が抜けるのを感じて再び長椅子に倒れこんでしまう。
ずいぶんと早く退室して行ってしまった母と入れ違うようにして部屋へ戻ってきたアネットは落ち込んだ様子のオルガに気がつくとそっと近寄ってきてくれた。そして長椅子から力なく落ちたままのオルガの手を拾い上げ再び握り締めてくれる。そのぬくもりに再びほだされかけたオルガだったが、すぐに避けるようにして腕を自分の胸元まで持ち上げてしまう。
イネス以外の人間と触れあうことがなかったオルガにとって他人と触れあうということは慣れないものだった。傷ついた動物が我が身を守るようにして身体を小さく丸めたオルガ。その肩をアネットの柔らかな手が宥めるように数回撫でてきたのだが、オルガは優しいそれに答える術を知らなかった。