Call my name 29
オルガとアイゼンは寄り添うようにして廊下を歩いて玄関へと向かっていた。
すると突然父が目の前に現れた。父の姿を見て怯えたようにして身体を震わせたオルガを支えるようにしてその両肩を掴む。
「夜分遅くにすみませんでした」
アイゼンのとり合えずの謝罪にリーグは疲れたように首を横に振る。
「その子を、連れていくのか」
「ええ、もちろん。彼女が私の妻ですから」
「そうかー―――」
父はそれ以上何も言わなかった。ただ安堵したかのように息をもらすと黙り込んだままのオルガに目を向けた。とたんにびくついたその肩に沈痛な面持ちでそのまま静かに頭を下げる。
「………娘を、頼みます」
父の心からの願いにアイゼンは黙って頷き返した。そして茫然としたままのオルガの肩をぐいとつかんで頭を下げたままの父の脇を通り過ぎて言ってしまう。
オルガはアイゼンに押されるようにして歩きながら、必死で後ろに顔を向けると父はまだ頭を下げたままだった。その背は微かに揺れている。もうその前には誰もいないというのに、深く頭を下げ続ける父の姿をオルガは見えなくなるまで見つめ続けた。
昔は決してこちらを省みることはないその背を大きくて虚しいものだと思っていた。近くにいるのに、遠い人。それが父だった。
時折、悲しげな色を宿して遠くからこちらに向けられるだけの紫色の瞳。どこか遠くを、過去の、失ったものをオルガの瞳に見出そうとするその瞳。
オルガは遠く彼方の存在だった彼もまた何かを失い、どうすればいいかずっとわからずにいた、無力な男だったということがそこでようやくわかった。年老いて、小さくなった背がそれを如実に語っていた。
暗い屋敷を抜け出した二人が玄関の前に立つと夜が明けようとしていた。白み始めた空に二人は眩しげに目を細める。
ずっと続けて馬車に乗り続けることになってしまうが、もうここに留まる必要はなかった。嘘をつく必要はもうない。真実は明かされたし、父からの了承も得たのだから。………そうなってもなお、未だに晴々しい顔をしないオルガがそこにはいた。
オルガの迷いにアイゼンは気がついてはいたが、今のところはこれでいいのだとその背を押して馬車の中へと乗せる。
二人を乗せた馬車が今まさに動き出そうとしていた時、そこにスカートをひるがえして駆け寄ってきた影が一つ。暗い屋敷の影から姿を現した女は間にあったと安堵に胸をなでおろした。
名残惜しげに窓の外を見つめていたオルガはその姿にいち早く気がつくとドアを開け放ってその腕の中に飛び込んだ。
「幸せに、なるのよ」
イネスのその言葉に、オルガは小さく頷き返した。
「お姉さまは―――?」
「私は……この家ですることができた。親不孝なことをしてしまったからな、今はただ少しでも傍にいて―――そしていつかちゃんと胸を張って勉強することを許してもらうよ」
イネスのその決意に、オルガは涙をこぼしながら更に頷き返した。
姉は、正しい選択をした。
オルガの間違いを、ねじ曲がってしまっていた全てを少し強引な形にしろ正しい場所へと押し戻そうと努力するのだと笑う姉が眩しかった。
二人の、母の娘である彼女にだったらきっと成し遂げることができるであろう。近い将来仲睦まじげに寄り添う三人を想像してオルガは良かったと泣く事しかできない。泣き続けるオルガにイネスは困ったようにほほ笑むとアイゼンに視線を向ける。
「妹を頼んだ。あっ、あと当家への援助も変わらずにお願いしたい」
賢しくて、恥を知らない、貴族らしくない女だと思った。恥や名誉などの食えないものを後生大事にするものが多い中で、それを愚かだと笑うものもいるかもしれないがアイゼンはそれが嫌いではなかったのだ。女としてではなく、人として嫌いではない部類にはいる義理に姉にアイゼンは鷹揚に頷き返した。妹にベタ惚れしてるという意外の弱みを見せるのは得策ではないと考えたからだ。
固く抱き合った姉妹は最後に頬を寄せ合うと名残惜しげに離れる。イネスはオルガの背を押して馬車へと乗せると大きな音を立ててドアを閉めた。
動き出した馬車からオルガは身を乗り出しながら手を振る。
母に、母の姿を見ることはついに出来なかった。弱っているという話を聞いていたが、見舞っては気がめいってしまうかもしれないという父の判断だった。オルガを見ても母は喜ばない。そんなことすでに解かり切っていた事だったのが、どうにも苦しいものがあった。
悲しいことに産まれてすぐにここへやってきたオルガにとって確かにあの人が母親だったのだ。
声も姿も覚えていない産みの母親とは違い、アウラは常に屋敷にいた。話しかけられずとも、物心ついた頃からずっとオルガの傍にいたのだ。
イネスに向けられるあの優しい瞳が声がずっと羨ましかった。
いつか自分にも向けられる日がくるのかもしれない。何も知らずにいた幼いころは、無邪気にそう願っていたこともある。使用人は幼いオルガに真実を語るのはあまりにもむごいと思ったのだろう。いずれそういう時がくると夢を語るオルガに………今にして思えば悲しげにほほ笑んでいた。可哀そうなオルガに入れ込んだ侍女はいつも間にか離れていってしまう。ぬくもりを与えては奪われ続けたオルガはそれでも夢を見続けていた。
自分の存在自体が彼女にとって到底受け入れることが出来ないものであるという事を知る前までは―――。
背を向けているがゆえに間違えて優しく声をかけられた時には飛び上がるほど嬉しかった。―――たとえ、振り返った瞬間にその笑顔が消えさることに気が付いていても。
嘘でも、間違いでも、ほんのわずかの希望をそこに見出してはそのたびに絶望し続けた。真実を知ってからは自分の産まれを呪ったものだ。そして最後には全てにおいて無感動になった。全てを真正面から受け入れてしまうにはあまりにも辛すぎておかしくなりそうだと思ったからだ。
望みは受け入れられず、願いは叶わない。
悲しいことだが、それが、オルガが見つけだしたたった一つの真実だった。
幼いころひどい風邪を引いてしまった時があった。肺炎になりかけ苦しむオルガに母が傍についてきたことが一度だけあった。
幼い、自分の娘そっくりなオルガの苦しむ姿を見て思うところがあったのだろう。
イネスに移ったら大変だと騒いだと思ったら枕元に近寄ってきた母に、オルガは思わず幼い手をのろのろと差し出してしまっていた。
そんなオルガに母は最初戸惑った様子だったが、恐る恐ると言った様子で手をとってくれた。その上、額から大量に吹き出し続ける汗をそっと拭ってくれたのだ。更に甘えたくなったオルガが「苦しい」と渇いた唇を動かすと、そっけなくはあったが「もう少しで医者がきます」と励ましてくれた。
それまで一度も触れたことがなかった母のぬくもりに、オルガは知らず知らずの内にほほ笑んでしまっていたのだろう。熱に浮かされ、涙目でほほ笑む幼子に逆に母が泣きそうな顔をしたのをおぼろげに覚えている。
その時幼いながらも母を泣かせるだけの存在である自分が嫌だと思った。
どうして自分の存在は彼女を苦しめるだけなのだろうと。そう思って悲しくなったが触れた手は暖かかった。彼女の不幸の上に成り立つ自分の幸福にオルガはその時初めて自分の罪深さを再認識したのだ。
それでも、オルガにとってあの時間は大切な宝物だった。
イネスにさえ言わなかった、自分の心の奥深くに鍵をかけて閉じ込めた記憶。
手ひどく扱われるたびに辛かった。どうしてと思わずにはいられなかった。
一度も恨んだことはないかと問われると困るが、恨みよりも痛みの方が強かった。愛されたいと、あの人の笑顔が、こちらに向けられることはないかとそう想う瞬間の方が多かったのだ。
涙でにじむ瞳で、何度も何度も恨んだ事がある自分の片割れに手を振る。
イネスにほほ笑みかける母の優しい瞳がずっと欲しかった。ずっと、ずっと――――。
オルガは涙をこぼしながら願う。
どうか幸せになってもらいたいと。それは嘘いつわりのない心からの願いだった。
諸悪の根源がいなくなるのだから、きっと物事はよい方向へ向かうだろう。そう自分を卑下しながらオルガは愚かにも願ってしまう。
遠い、遠いこの先のどこかで、どれだけ時間がかかってもいいからあの笑顔を私にも向けてくれたら、と。
諦め続けた心に命を再び与えてくれたのはアイゼンだった。
もはや考えることも出来ずにいたオルガにアイゼンはいつも問い続けた。
「お前はどうなんだ」
少し強引で時折馬鹿にした様子で尋ねられ続けるのは新鮮なものだった。
質問に答えなければ不機嫌になってしまう彼に、オルガは嫌でも考えずにはいられなかった。自分の心とそうして向き合っていく内に、冷たくなってしまっていた身体の隅々まで熱が通う気がした。
彼の質問に答えることによって、オルガは初めて自分の心と対面したのだ。
そうやって初めて気がついた自分の願いにオルガは無謀だと嗤いたくなったが、それでもアイゼンだったらきっとそんな私の愚かな願いも「無謀なくらいがおもしろいじゃないか」と笑い飛ばしてくれるだろう。
それがわかってしまうともう怖いことなど一つもなかった。
屋敷が見えなくなってもずっと泣き続けるオルガの肩にずっと触れるものがあった。森の中の悪路にいくら馬車が揺れようとも離れることがないアイゼンの掌にオルガはようやく顔を上げる。
悲痛な表情をしているかと思っていたのだろう。思ったよりさっぱりとした面持ちで見上げてきたオルガの腫れたまぶたに触れようとしたが揺れる馬車の中では危ないので我慢した。
「お願いが―――あります」
「なんだ?」
「私を、必要だと言ってください」
オルガのその言葉に、アイゼンはその瞳を見つめ続けながら確かに頷く。
「必要だ」
律儀な事にオウム返しで答えてくれた。オルガはそれをしっかりと受け止めてからもう一つの願いを口にする。
「あと、名前を、呼んでください」
私の本当の名前を―――。
オルガの震えて最後が消えてしまった言葉はアイゼンにしっかりと届いたらしい。
「―――オルガ」
あとほんの数センチで耳たぶに触れそうな位置でアイゼンは初めて名前を呼んだ。
―――オルガ、と。
愛する人の口から聞こえた自分の名前に、オルガは初めてこの世に産まれ出たような、そんな思いでアイゼンを見つめる。
自分から頼んできたというのに驚いたような顔をするオルガをみて、アイゼンは仕方ないなといった風にほほ笑んでから両頬を掴む。そして視線を合わせてからもう一度。
「オルガ、オルガ、オルガ、こうして呼ぶとしっくりとくる。これが、お前の本当の名前なのか―――」
そう言って涙を吸いとったアイゼンの唇のぬくもりにオルガはくすぐったいような思いでほほ笑んだ。妻の花がほころぶような笑みを初めてみたアイゼンは少し驚いたような顔をしたが、最後には同じようにして微笑んで見せた。
「結婚してから妻の名を知った夫なんて俺くらいなんだろうな………。とても不思議な気持ちだ。だが、嬉しい」
人肌に触れているということだけではない暖かさに、確かに自分はこの男に愛されているのだということをオルガはようやく理解する事が出来た。
なんと彼がいとおしいことか。
オルガは産まれたての赤子のように涙を流しながら、万感の想いで口を開く。
不安はなかった。ただ何かあるかと言われれば、少し恥ずかしい。
「アイゼン―――」
そうして彼の名前を本当の自分になってようやく囁くのだった。
END
『Call my name』いかがだったでしょうか?
更新している内に、タイトルが安直すぎたかしら……と思ったりもしたんですが笑
とりあえず、これで終わりです。
ずっといないものとして扱われていた、唯一自分を呼んでくれたイネスの為に行動を起こしたオルガ。
最後の方で、恨んでいないかといったら否と書きましたが、イネスの身代わりになると決めた時、イネスの為だという想いの奥底には、家族に対する怒りもあったかもしれません。
だけど、あまり人と付き合うことのなかったオルガは、それが憎しみだということにも気がつかずに、モヤモヤとした気持ちを抱いたまま、アイゼンの元へと向かいました。
アイゼンはアイゼンで、おもしろいと思って望んだ女が自分の想像とは違ったので最初は困惑しましたが、素直なオルガに触れる内にこれもこれで面白いかも……とか思っちゃいました笑
よく知らんうちに結婚を決めて、強引に承諾を得る。。。アイゼンのその行動力が怖い。まじ本能のままやで……。欲しいものは欲しい、だから手に入れる! その考えが、商売成功の原動力となっているのか――?
アイゼンの強引なまでに、イネスを求める様子は、アウラがそういう風に求めてもらいたかったという長年のくすぶりに火をつけたのかもしれません。
ないものとして扱われてきたオルガは、アイゼンと過ごし「イネス」と呼ばれるうちに、それは自分ではないという想いに駆られる。アイゼンはアイゼンで、打ち解けたのかと思うたびに拒絶されて、その時に相手の瞳に浮かぶ怯えのようなものを意識して、怒るにも怒れないで心配になってしまう。
何も求めない妻に対して、自分で思いつく限りの喜ぶことをしまくったアイゼンの健気な様子笑に悶えてくれたでしょうか? オルガが素直に喜んでくれると、嬉しさのあまり暴走しちゃうあたりが可愛いなと思いながら書いていました。
だから最後に、オルガが自分から望みを言ってきた時はすごく嬉しかったと思います。そしてその内容が「自分を必要として欲しい。名を呼んでほしい」というものだったのを聞いた瞬間、それまでの物をねだるものたちとは違う、当たり前のことを切実に願うオルガの姿に、絶対オルガを幸せにしなければという想いでメラメラと燃えたと思います。
あとがきって、何をかけばいいの? と思いつつ今この文章を打ってます。
オルガのことを可愛いと言っていただけて、とてもうれしかったです。
オルガは幸せです。幸せになりました。
その後
オルガとアイゼンの間には、アイゼンがオルガを連れ帰って一年後に子供が産まれる。
アネット&レイモンド夫妻より早くに子宝に恵まれた二人(主にアイゼン)は、周囲から(二人の間で起きた出来事を知る者)生ぬるい目で見られることになる笑
アイゼンは子供が出来たと報告した時の、レイモンドとアネットの苦笑する様子と、イネスの明らかに気分が悪いといわんばかりの態度に傷ついたといって、オルガに泣きついたとか、泣きつかなかったとか笑
二人して帰ってきてから、アイゼンだけでなくオルガにもクマができたそうだが、幸せそうに微笑んでいるので周りは何も言えなかったとか、、、笑
イネスはその後、両親の関係を修復しつつ、自分の夢を認めてもらうことで帝都で勉強することを許される。オルガに一緒に住みましょうと言われるが、隣に座るアイゼンが明らかに嫌な顔をしたし、妹夫妻のラブラブな様子も目に毒だと一人暮らしを始める。初めてできた姪は、すごくかわいいらしくしょっちゅう二人の家へと遊びに行く。父と母が隠れてつけた護衛の存在に気がついて、イライラする。
2015年1月27日
追加&誤字脱字の訂正終了しました。ちょこちょこやってるといつまでたっても終わらないな~と思って一気にやりました。
後半については結構追加したのでもう少し登場人物たちの気持ちがわかるようになったかな~と思ったり。
かなり昔の作品ですがこの話を読んでくださってありがとうございます。