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Call my name  作者: 森彩子
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Call my name 28

 突然現れた娘の姿に寝間着姿の母が唇をわなわなと震わせた。

「どうして………っ、どうしてなの」

 イネスは母の責める青い瞳から目を逸らさずにしっかりと見つめかえした。

「見破られてしまったの。だから、もうお終いです。お母様」

 しっかりと屋敷まで送り届けたという報告を受けて安心していたのに、まさか行ったその日のうちに戻ってくるとは思ってもいなかったのだろう。

アウラは疲れたと言わんばかりに目元に手を当てる。そして小刻みに震え始めたアウラに気がついたリーグがそっと宥めるようにしてその肩に手を伸ばしたが、すぐにその手はアウラによって振り払われてしまった。

 胸を抑えたまま苦しげな呼吸を繰り返しながらアウラは首を横に振った。アウラは乱れほつれた前髪の隙間から自分の夫であるリーグを苛烈に睨みつけた。深い海色の瞳を怒りよりも深い悲しみに歪ませて。

 そのまましばらく凍りついたようにして三人は動けないでいたが、アウラが苦しげに声をあげて肩を震わせ激しく泣き始めたことで一気に動き出した。

 イネスはその場に崩れるようにして座りこんでしまった母にそっと手を伸ばす。拒絶されてもかまわないと思ったが、母は娘の手だけは受け入れてくれた。

過呼吸気味になっているアウラの背を撫でながらなんとかソファーの前まで連れていく。

「お母様、ごめんなさい」

 激しい怒りにか、悲しみにか、涙を流し感情を露わにする母にイネスは沈痛な思いでできるだけ優しく声をかけた。

昔から時折あったのだ。ひどく感情を波立たせた母がひどく父を責める時が。

そうなってしまったらイネスがいようがいまいがかまなかった。そんな時の彼女の瞳には憎くて憎くて愛しい父の姿しか見えていなかったのだから。

そんな日には幼いイネスだって言いようのない不安や怒り悲しみに襲われて、オルガにひどい事を言ってしまった時だってある。

「どうして産まれてきたの」

幼い子供だったから何も考えずに、オルガがいるから母親が苦しんでしまっていると簡単に考えてしまった。

姉から言われた突然の暴言に妹は目をまん丸にしてからひどく泣いてしまった。発作でも起きてしまったかのようにして倒れ込んでしまった姿は大嫌いな母と一緒だった。

その後冷静になってからとんでもない事をしてしまったと謝りに行くと、オルガは何も覚えていない様子でこちらを見つめていた。………普通の人間だったら自分の許容範囲のストレスを感じると、身を守るために何らかの防衛反応があるのだろうが(特にオルガは幼かったからという事と、唯一無二のイネスに言われたということもあったから)母はそれを決して許さなかった。

本当に忘れてしまったり、忘れようとすることをしなかった。………いいや出来なかったのだ。

父の罪のなによりの証しである、オルガが、いるから―――。

母だって忘れようとなかったことにしようと思ったに違いない。だけどオルガを見ると、たまらなくなったのだろう。

父のたった一度の不貞を、一度だけだったからこそ憎み続けたアウラはイネスの謝罪に引きつるようにして息を吸い込んだ。

「私は、あなたの為を思って、あの人があなたを望んで、ああいう最近の方だったら、あなたの利口なところもちゃんと理解できると、そう思って―――」

 賢さゆえにうとまれ続けたイネスを思っての結婚だったのだと、アウラは震える声で続ける。

「あなたが、幸せになれると思ったのよ。私とは違って、ちゃんと相手に望まれて、結婚して―――。私とっ……私みたいになって欲しくなかった。こんな思いはもう沢山」

 そういいきると更に泣きだしたアウラの以前より細くなった肩に手を回しながらイネスは目を閉じる。

 父には、結婚する前から好きな人がいたのだ。

若かった父は親が決めた結婚を受け入れるしかなかった。

それは母も同じ事だったのだが、唯一違ったのは母が一目で父を気に行ってしまったという事。

それがアウラの悲劇の始まりだった。

貴族によくある仮面夫婦のように、適当に子供を作って他で恋を楽しめたのならそれはそれで幸せだったのだろう。しかしアウラはリーグに一目ぼれしてしまった。心を通わせる事を願ったのだ―――。愛し、愛される事を。

そんなことを何も知らない父は愛する女を家で雇ったまま―――母と結婚した。

若くて何も知らない娘だった母は不安と期待でせめぎ合う胸を白魚のような手で抑えながらここに嫁いできたのだろう。

そして、出会ったのだ。

この森の奥深くの古い屋敷で、父とオルガの母に。

ずっと一緒にいて気がつかないわけがない。アウラはそこまで世間知らずのお嬢さんではなかった。

時折交わされている二人の密やかだが言葉より饒舌に愛を語り合う熱い視線をアウラはずっと見ていたのだ。

そして、それを見続け、それでも嫁いできたばかりだと言って何も言えなかった。徐々にこちらを見てくれるという甘くて悲しい期待を抱いていた母はイネスを身ごもったのだ。

父の子を宿した母は、後継ぎを産む正式な妻である母の元へ父がやってくるとおもったのだろう。使用人風情に熱を上げていた父も、子が出来たという責任感ゆえにしっかりとこちらに愛を注いでくれると。そう思った。

しかし、それはむごくも引き裂かれる。

イネスと同年に産まれたオルガ。

その存在自体が父の不貞の何よりの証しだった。

オルガの母親は、オルガを産んですぐに産後の肥立ちが悪くて死んでしまったらしい。死んだ女が産んだ娘を父は家へと入れようとしたが、母がそれを激しく拒絶した。

初恋の相手を亡くし目に見えてひどく落ち込む父を母は激しく詰った。

同じく娘を―――イネスを産んだ母は、夫だけではなくこの家の嫡子という立場さえもあの死んだ女に奪われるのかと泣き叫んだらしい。

 ―――父は優しくて弱い人だった。

アウラのあまりの消耗具合に、アウラまでも失ってしまうのではないかと思った父はその願いを聞き入れた。産まれてすぐに母を失い、妾腹という立場のオルガを可哀そうだと思いながらも、激しく泣いてこちらを責める母とその腕の中で泣きじゃくる産まれたてのイネスを見て、オルガを正式に迎え入れることを諦めたのだ。

こうしてオルガは隠された子となった。

どうせだったらどこかへ里子として出そうかという話も出たが、なぜだがそれを一番喜びそうな母がそれを許さなかった。

イネスはそれを許さなかったという母に、自分の母ながらも薄ら寒さを覚えたのを未だに覚えている。

母はあの時からずっと壊れているのだろう。

 日に日に、まるで双子のように似ていく二人を見ながら母は胸を痛めた。

そっくりな二人の瞳の色だけが両方の母親の特徴をそのままそっくり受け継いでしまったのだ。オルガの瞳を見て、どうしてあの女に似てしまったのかと母は嘆き続けた。自分の愛する娘とそっくりな容姿を持ちながら、瞳だけは違うオルガに母は精神のバランスを更に崩した。

この子も私が産みたかった、産むはずだったとそう言って父を詰る母をイネスは見たことがあった。その時の父は固まったようにしてただ立ち尽くし、母のこぶしを黙って受け入れていた。

それが罰だとでも言うように。

何も言わない父に母は更にいら立った様子で胸元に爪をたてた。父はそれで受け入れているつもりだったのかもしれないが、母には無言の拒絶に思えたのかもしれない。

何も言わないということは、何も考えていないに相当する―――。

無言こそが一番辛いものだと言うことを父は愚かにもわからずに、更に二人の関係は泥沼のようにしてずぶずぶと底へと沈み落ちていく。

互いに話し合う、許し合うきっかけを見失ったまま。痛みこそが愛だと、何を言っても無駄だと、二人はとうの昔に諦めてしまったのだ。

さめざめとなく母に対し、未だにどうしたらいいかわからない様子でじっと立ち尽くすことしか出来ない父をイネスが見ていると視線があった。

母と同じ色の瞳でじっと見つめると罪悪感にかられた父はいつものように目を逸らすかと思われたが、今回は違った。

しっかりと絡み合った視線の先には紫の瞳があった。弱い人の瞳が。

「お父様、オルガは、アイゼン殿と互いに想いあっていました。―――だから、いいでしょう?」

 とたんにわっと泣き始めた母を抱き寄せながら、イネスは静かに父に問うと、父は小さく「そうだな」と言って頷いてみせた。頷いたとたんに、紫色のその瞳から涙が一筋こぼれ落ちたのが見えたような気がした。

たぶんそれは気のせいではない。

 母への罪悪感がゆえに娘を取り替えてしまう事に関してこれまで何も口出しすることが出来なかった父が、妻と一緒の瞳で自分を見つめる娘を前にして瞳を揺らす。

 母が身体を壊すほどに願った娘の幸せな結婚。

自分とは違い幸せになってもらいたいとそう切に願う妻をみて、父はどんな想いだったのだろうか。イネスとオルガをとり返ることに関してうまくいくと、そう思い込んでしまうほどに未だに心から血を流し続ける妻に、せめて彼女が納得するまで、気が済むまでとでも思っていたのだろうか。

 イネスは自分が家へと連れ戻された夜のことを思い出す。

ベッドの上に横たわった母の背を支えながら起こし、喜びに涙を流す母の背をそっと撫でながら見つめるその瞳には憐れみや後悔だけではない、確かに母を気遣う色が見えた。

あれは、愛とはいえないのだろうか―――。

若さゆえに燃え上がり、周りを傷つけ自分も傷ついても構わない。それでも欲しいと願ってしまうほどの情熱はではないかもしれないが、それでも確かに一緒に長い年月を過ごし、積み重ねてきたものがそこには確かにあった。

 イネスは未だに若いころの痛みを背負ったままの母を抱きしめながら思う。

いびつな、家族だった。

父と母と娘と―――娘。

 母に対する罪悪感で何も言えない父に、義理の娘を愛せず父も許せないままの母。そんな両親とかわいそうな妹を見ながらも結局は何もできずにいた私に、その出生ゆえにずっと閉じ込まれ続けたオルガ。

イネスは父と母に何度も視線を送って見渡しながら、今さらだと思いながらも願う。

いまさらだと、そう思った結果が今のこの状態に繋がっているのだとしたら、それはここで断ち切らなければならない。

今からでも、ほんの少しでも、何か変わることができるはずだ。

自分のしたいことをする前にやらなければいけないことが出来てしまったとイネスは微かにほほ笑みながら母の肩に頭をのせる。

「ねえ、お母様。イネスは幸せです。ちゃんと幸せになりますから―――」

 そう優しく耳元で囁くと、母の震えが少し収まった。イネスはそれをちゃんと確認してから今度は父を見上げる。そして声には出さないが伝わるようにゆっくりと大きく唇を動かす。

愛してる。

と。





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