Call my name 24
翌日イネスはオルガが持ってきたミントグリーンの服を着ながらじっと馬車に揺られていた。延々続く変わり映えのしない風景から目を逸らし静かに瞳を閉じながら一日中揺られていたが、ついに馬車が音を立てて止まった。馬車の外からは人の話し声がして誰かが外で待っていることがすぐにわかった。外から聞こえてくる会話から相手が誰かすぐにわかったイネスは意を決した様子で馬車から手を出す。すると待ちかねていたとでもいうように手をぐっと掴まれる。イネスはその強引な手に少しむっとしながらも振りはらうことはせずにとりあえずは素直にその手を頼りに馬車から降りた。
「お帰りなさいませ。奥様」
外に顔を出したと同時に頭を下げるずらりと並んだ使用人たち。
イネスはそれを見渡してから、ゆっくりと自分の手を掴む男と初めて視線を通わす。
「………………君は、誰だ」
すぐに気がついたアイゼンにイネスは思わず笑ってしまった。実の親でさえ時折間違えるというのにこの男はすぐに気がついた。
イネスはそれが何よりの答えのような気がした。
「どうも初めまして。イネスと申します」
イネスのその言葉にアイゼンは眉間に大きな皺を寄せた。……ずいぶんと迫力のあるその顔に、この顔と色濃く残ったくまを見てもなお優しい人だと言い切った妹を尊敬しながら困惑した様子の男に話しかける。
「ごめんなさい。あなたの奥さんじゃなくって」
はじめはわけがわからないと言った様子で立ち尽くしていたアイゼンだったが、ようやく頭が動き出したみたいでこちらに詰め寄ってきた。
「イネスはどこだ!?」
「残念ながらイネスは私です。落ち着いてください。全て説明しますので」
詰め寄ってきたアイゼンを静かな声でなだめながらイネスはアイゼンの隣で何が何やらわからないといった様子で立ち尽くしている執事を見る。
「少し疲れたのでまずは休ませてくれないかしら? 一日中馬車に揺られてお尻が痛いの」
そう言うとイネスはアイゼンより先に屋敷の中へ入っていってしまった。
一人残されたアイゼンは頭を抱えてしゃがみ込みながら「……イネ…ス?」愛しの妻の名前を呼ぶのだった。
「では君がイネスで、あのイネスは―――」
「私の妹です」
同じ顔だというのにここまで印象が変わるものなのだろうか。
目の前で足を組みながらすでに三度目になるこの問いを少しめんどうくさそうに繰り返すイネスを見ながらアイゼンは目をこすらずにはいられなかった。
見た目は確かにそっくりだが、感じる印象は間逆だ。
「妹―――? 聞いたことがないぞ」
確か、あの夫婦の間に生まれた娘は一人だけだ。突然出てきた妹という単語にアイゼンは眉を潜める。
「あの父と母の間に産まれたのは確かに私一人です」
それでわかった。
「あの子は―――父が他の女性との間に設けた子供なの」
「………そうなのか」
「ええ。あの子はずっと屋敷から出ることを許されなかった。………母が、それを許さなかった」
その告白にアイゼンは爪が食い込むほど掌に力を込めた。
イネスが、あの子が言っていた様々な言葉が脳裏をよぎる。
あの暗い図書館にしか居場所がなかったのか―――。あの森の中の寂しい屋敷で、たった一人でこれまで、ずっと。そう言われるとあの性格にも合点がいく。あの子はそうやって成長の機会を奪われ続け、あの屋敷でずっと息を潜めて生きてきたのだ。それこそ死んだみたいに。
「そういうこと、だったのか」
「こちらがあなたを騙したのは確かな事実です」
「ああ」
イネスは神妙な顔で両手をぎゅっと重ねると、妹と唯一違う藍色の瞳で哀願してくる。
「でもお願いです。あの子の気持ちだけは疑ないでください。………あなたからもらったという香水瓶を本当に大切そうに握りしめていた。他の物は全部私に差し出してきたのにあれだけは手放せずにいた」
後半になって感情が入るにつれてブルブルと震えだしたイネスの声にアイゼンは何も言わずに立ち上がる。そのまま立ち去られると思ったイネスはすぐに追いすがろうとする。アイゼンは追ってくるイネスを後ろにそのままドアを開けると、部屋の外で待ち構えていたレイモンドに声をかけた。
「今日と明日の俺の仕事は無しにしろ」
突然すぎる宣言にドアの外で事態をすでに把握していたレイモンドは真面目な顔で頷くと目の前を颯爽と通り抜けていくアイゼンとイネスを静かに見送るのだった。