Call my name 22
帰ってきたアイゼンと夕食をとりながらオルガは上の空で思う。こうして彼と食事をとるのはこれで最後になるだろうと。
「今度の休みに舞台でも身に行かないか? アネットとレイモンドも一緒に」
この前ひどく酔って以来禁酒を宣言したアイゼンは水代わりに飲んでいたワインを炭酸水に変えていた。
アイゼンのその誘いにオルガは自然にほほ笑みながら頷き返す。これが最後だと思えばほんの少しでも優しい気持ちに、一番よい自分を見せたいと思うのはおかしいことだろうか。
食事を楽しんでから二人で居間へ戻る。
オルガがソファーに座るとアイゼンも当たり前見たいにして隣に腰掛ける。いつもだったら食後の読書を始めるオルガだったが、今日はその前に言わなければならないことがあった。
「今日、お父様から使いの者が来たの」
執事には口止めをしていたのでそれを聞くのは今が初めてなはずだ。机の上に置いてある焼き菓子に手をつけようとしていたアイゼンは初めて聞く話に顔を上げる。
「お母様の具合がよくないらしくって、一度戻っては来てくれないかと言われました」
「そうか―――」
アイゼンはそう言いながらソファーに身体を預けた。フカフカの背もたれに沈み込みながらこちらに視線を投げかけてくる。心配そうに。
「俺も行こうか?」
「………あなたにはお仕事があるでしょう」
ぐっと思わず飛び出しそうななった何かを飲み込みんでオルガはアイゼンを窘めた。
あなたが来たら、うまくいくものもいかないじゃないと。けどもし着いて来てと言ったら、本当に来てくれるのかしら。
馬鹿馬鹿しいことを考えている自分を嗤いながらオルガはアイゼンを今一度見つめ直した。
「大丈夫。すぐに戻ってきますから」
あなたの、本物のイネスが―――。
オルガは心の中でそっと呟きながら、膝の上に頭を乗せてきたアイゼンの髪を撫でる。珍しく優しいオルガを意外に思ったのか今日のアイゼンは調子に乗ることもなく膝枕だけで満足した様子だった。
「イネス」
「はい」
「これを」
黙ってなすがままになっていたアイゼンが突然決したようにして立ち上がると引き出しの中から何かをとり出した。目の前に突然差し出されたサーモンピンクのリボンがかけられた小さな箱にオルガは目を見張る。
「開けてみろ」
ぶっきらぼうな言葉に促されて受け取るとオルガはそっとリボンにそっと触れる。少し不格好に結ばれた蝶々結びは一目でアイゼンの手によるものだということがわかった。オルガはくすぐったい気持ちでそれを解くと、中に収められていたものを覗きこんだ。
「………これは?」
キラキラとした、まるでダイヤを砕いて溶かし込んだようなガラス瓶をそっと手に取る。
「あの時の香水が完成したんだ」
瓶を握り締めたまま戸惑うオルガの手から香水瓶をかすめ取ると勝手に開けてしまったアイゼン。開けられた瓶の口をオルガの顔の前へと差し出してくる。
「あっ――」
オルガが瞳を閉じると、そこからは確かに自分の家の中庭で毎年のように嗅いできたラベンダーの匂いと、そこにほんの少しだけ最近馴染んだ匂いがした。
「あなたの、においがする」
オルガの言葉にアイゼンは驚いた。その珍しい表情をじぃっと見つめていると、少しおどおどした様子で白状する。
「ほんの少しだけ、俺がいつも使ってる好きな香料も混ぜ込んだんだ。ほんの数滴程度だから気がつかないと思っていたが」
「わかるわ、わかる。だって、この家にいて、あなたといると、いつもこの香りがするのですもの」
オルガの拙いが素直な言葉にアイゼンは苦しげに眉をひそめたように見えた。
自分にしては珍しく素直に気持ちを伝えたと思うのに、切なげに眉をひそめたアイゼンにどうしたらいいかわからなくなってそっとその広い胸に手を当てる。
すると近づいてきたアイゼンの顔にオルガは自然と目を閉じた。これで最後のなのだと思うと何故だが胸が痛んだ。唇が触れたとたんに逸る胸にオルガは戸惑う。
胸が痛かった。先ほどのまでの優しくて穏やかな気持ちとは違い、今はただこの胸が痛む。優しく触れては離れる、未だに戸惑いがちな口づけを受けながらオルガははらはらと泣きだしてしまっていた。
この人はもう私のものでなくなる。自分に対する優しさも、この香水瓶も、全て、本当のイネスのものになってしまう。
オルガはそれが嫌ではなく自然な当たり前のことだと思っていたが、それでも溢れ出る涙を止める事ができなかった。
自分がおかしいということは重々わかっていたが、ついに涙腺まで壊れてしまったのか―――。アイゼンの指先が涙の露を優しくぬぐうのを感じながらオルガは静かに真摯に祈る。
彼が、ずっとずっと幸せであるようにと。