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Call my name  作者: 森彩子
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Call my name 2

 ガラガラと音を立てて回る車輪を尻の下で感じながら、オルガは睡魔とひたすら闘い続けていた。

朝早くから昼過ぎまでの長い時間を馬車に揺られていると、隣に座る迎えの者との会話も途切れてしまった。元々オルガの口数が少ないということもあったが、それでもどれだけ口達者な者でもこの数時間をずっと話し続けるということは不可能だろう。

二人だけの空間にはただただ車輪の回る小気味のいい音だけが振動と共に鳴り響いている。寝不足気味だったオルガは最初うるさく感じられたその音がだんだんと心地のいいものになっていくのを恨みながら、重くなっていく瞼の裏でイネスが居なくなった日の朝を思い出す。

オルガは自分がただ思い出しているだけなのか、それともこれが夢なのかもわからずに、目の前に浮かびあがってきた父と母をあの時と同じく見つめた。

イネスが屋敷からの逃亡を果たしたその朝。娘がいなくなったことを知らされた母は気を失い、父は結婚を前に姿を隠してしまった娘に顔を青ざめさせていた。

比較的おとなしかったイネスの突然の反抗に、二人はどうしたらいいのかわからない様子だった。

親戚の家に行くわけでもなく突然煙のようにして姿を消してしまったイネスに、母はそんなに結婚が嫌だったのかと泣きわめいていた。取り乱す母の肩を父が支えるように抱き宥めている姿をじっと見つめていると、先にその視線に気がついたのは父の方だった。

父は一瞬驚いたみたいで紫の瞳を見開いてから、それがイネスではなくオルガだということに気がつくと明らかに落胆して見せた。そんな父はオルガから目を逸らそうとしたが、途中でやめた。

今にも逸らされんとしていた紫の瞳がオルガの姿をとらえる。珍しく真正面からこちらをじっと見つめる父の瞳にオルガは静かに哀しくほほ笑みかけた。

父がオルガを呼ぶとその胸の中に顔を埋めていた母が声をあげて顔を逸らす。今だけはこの顔を見たくはないのだといわんばかりのその態度に、オルガはそっと目を伏せながら何かを閃いた様子の父のもとに一歩踏みだしたのだ―――。

 あの日を思い出していたオルガの耳に、隣に座っているラッド家からの使いの者であるアネットの柔らかい声が入ってくる。ゆるゆるとしたあまやかな声にオルガがそっと目を開けて視線を向けると、心配げな鳶色瞳がこちらを覗きこんでくる。

「イネス様、どうされました? もしかして馬車に酔われましたか?」

じっと目をつむったまま寝た様子でもないオルガの様子を心配したらしい。オルガはこちらを心配してくれるアネットに静かに首を横に振る。

「………少しだけ、疲れました」

そうですかと細く漏らしてからアネットはしたり顔でうんうんと頷いてから、柔らかくほほ笑んでみせた。

「結婚の準備は大変ですものね。花嫁衣装はもちろん、嫁いだ先で必要になる新しいドレスや靴、鞄、帽子選びに採寸作業。女性ですからそういったことが嫌いではありませんが、いろいろと考えてしまって疲れますよね。新しい生活のために準備されたものは嬉しいですが、目の前にそろったそれをみると自分もついにお嫁に行くのかと、思わずため息をつきたくなるその気持ちわかりますわー」

………おっとりとした様子のアネットは、喋り出すと意外にもおしゃべりだった。

ドレスの採寸などはイネスがすませてくれていたので、オルガはすでに出来上がっていたそれを使用することになった。だからアネットが言うそういった憂鬱や喜びには共感できなかったが、とりあえず頷いておくことにした。

不器用なその笑みにアネットが胸の内で「はげまさなければ」という使命感を強く感じてしまったなんて、人の心の機微に鈍感なオルガがわかるはずもなく。それで終わりになると思われた話に熱が入る。

「結婚前に私たち女性は嬉しさと同時に不安になります。顔も見たことのない人のもとに嫁ぐなんて珍しくない世の中ですもの。不安になるなというのも無理な話ですわ」

結婚前の女性の気持ちを語られオルガは「そうなのですか」と一応頷き返した。

「でもね、そんなに緊張なさらなくたって大丈夫ですわ。今日初めて会う私が言うのもあれなのですが、アイゼン様はよい方ですよ…………えぇ」

オルガは普通の女子だったら気にしたであろうアネットの微妙な沈黙を特に気に留めなかった。

「そんなに―――緊張しているように見えますか?」

アネットは小さく整った桜色の指先をそっと自分の顎もとへと持っていくと小さく息をついた。

「見えます。私自身も夫に会うまでは不安で不安でたまらなかったものですから、その気持ちよくわかりますわ」

遠い昔に思いを馳せるように目を細めるアネットにオルガは黙って頷き返えした。

「でも大丈夫ですわ。共に時間を過ごすうちに、互いが大切な存在へとなっていきますから」

「つまり慣れろということですね」オルガは思わず口に出しそうになったその一言をなんとか飲みこむと、大変貴重な助言をしてくれたアネットに感謝の言葉を小さく述べた。

アネットはそれに安堵したようにほほ笑むと、それからはオルガの気持ちをはかって話しかけてくるとはなかった。




 結婚式は三日後に迫っていて様々な準備や身体を慣らすためにも父や母よりも先に帝都に足を運んだオルガは、ようやく動かない地面に足を降ろしたことにほっと胸をなでおろした。

馬車がついた先はラッド家ではなく、帝都の有名なホテルだった。

式を上げる前から家に入るのは常識的に考えてあまりよくないことだったので、結婚式までオルガはここで過ごすことになっていた。田舎から出てきた若い娘だったら豪奢なホテルに心を動かすのだろうが、オルガは特に何かを感じることもなく落ち着いた様子で馬車から下りようとする。

ただ座っていただけだというのに、思ったより自分の身体は疲れているらしい。地面へと降り立った瞬間よろめいたオルガの腕を先に降りていたアネットが支えてくれた。

オルガは思いのほか力強いその掌に感謝の言葉を伝えようと顔を上げる。

「………あっ」

そこにいたのはアネットではなかった。

服が違った。頭の位置が違った。そもそも性別が違った。

男がオルガの腕を掴んでいる。どうりで力強いと感じたわけだ。オルガは見知らぬ男の登場に声を上げるわけでもなくただじっと見つめた。

暗くにぶい光を放つ金髪に、これまた暗いほとんど灰色に近く熱を感じられない青の瞳がこちらを見下ろしている。若い男性の顔をほとんど見たことがなかったオルガには男の美醜がよくわからなかったが、顔のつくりは整っているような気がする。―――それよりまずオルガが気になったのは色濃く目の下に残ったくまだった。その男はしんじられないくらい顔色が悪かったのだ。

黙ったままひどいくまの男と見つめあっていると二人の間にアネットが咳払いをしながらさっと割り込んできた。

「アイゼン様。どうしてこちらに? 今日はお仕事なのでは?」

「たまたまだ」

アネットの口からもれたのは意外な言葉だった。

まさか、これが、この人がアイゼン・ラッドその人だったとは。

オルガはアネットからアイゼンに再び顔を向けると、少ししてからアイゼンは決まりが悪そうに咳払いしながら先ほどからずっと掴みっぱなしだったオルガの腕をそっと離した。

依然として視線を逸らそうとしないアイゼンの熱のない瞳に、オルガはまるで猛禽類に狙われた鼠のような気持ちになって思わず身体をこわばらせた。そんなオルガの様子に気がついたのかアイゼンは隣にいるアネットに声をかける。

「アネット。世話をかけた。感謝する」

静かな低い声でアネットを労ったアイゼンは、頭を静かに下げたアネットに鷹揚に頷いてから再びこちらに視線を戻す。

「イネス・マルグリットだな? 私の名はアイゼン・ラッドだ」

「―――存じ、あげております」

三日後には夫となっている人の名前を知らないわけがない。

オルガはアイゼンの簡単な自己紹介にか細い声でなんとか答えた。先ほどとは違い、ほんの少し落ち着いた気分で陰鬱なその顔を見上げていると、何かが気に触ったのかアイゼンは神経質そうに片眉をあげて見せた。

オルガは不機嫌さを隠そうとしないアイゼンに困惑しながらもなんとか視線は逸らさなかった。少ししてからアイゼンはふっとこちらに興味を失ったようにして目を逸らした。

「朝からずっと馬車に乗っていて疲れただろう。ホテルの部屋はすでに準備ができているからもう休むといい」

アイゼンはそう言い残すと、オルガと入れ替わるようにして馬車に乗り込んで行ってしまった。残されたオルガは小さくなっていく馬車を黙って見送ることしかできなかった。

アネットは馬車が消えてもなおその場から動こうとしないオルガの背を押しながら宿へと足を踏み入れるのだった。

結婚前にあいさつをという話だったが、まさかあれだけで終わりなのだろうか。

オルガはアイゼンの冷めた瞳を思い出すと彼の中での自分の、イネスの価値を見せつけられた気がした。

貴族としての立派な名前が欲しいあちらと、お金が欲しいこちら。

利害は一致しているのだ。だからこの結婚が実現した。

元々これは自分の結婚ではない。結婚に夢を持ったこともなかったオルガだが、それでもほんの少し胸の奥がツンとするような嫌なざわめきを覚えて一人っきりになったとたんため息を漏らさずにはいられなかった。

窓際のソファーに腰を下ろすと瞳を閉じる。嫌なことは瞳を閉じている内に過ぎ去っていくものだということをオルガは短い人生の内で悲しいことだが気づいていたのだ。

しばらくそうしていると確かにアイゼンの言ったとおり自分は疲れていたらしい。再び襲ってきた睡魔に今度は逆らうことなく身を任せながらオルガは久しぶりの深い眠りに身をゆだねるのだった。




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