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Call my name  作者: 森彩子
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Call my name 15


 母親の事を告げてからすっかり元気がなくなってしまったイネスをこっそり見ていたアイゼンは静かに目を伏せた。

普通だったらすぐにでも家へ帰りたいと申し出るだろうが、あれ以来イネスが自ら母親について口に出したことは一度もない。変わったことがあると言えば、普段から少ない口数が更に少なくなり何か思案にふける時間が長くなった。

 向かいのソファーに座りこんだままぼんやりとティーカップの中で揺れる紅茶の水面を延々と見つめ続けているイネスを新聞を読むふりをしながら見つめるアイゼン。以前より頬が少しこけている。侍女からも食が再び細くなったという報告は届いている。まったく、困ったものだとアイゼンは思わず貧乏ゆすりをしかけた。

 すっかり元気を失ってしまった妻から視線を外さぬままこの前のラベンダーの香料のことを思う。他のものと混ぜてしっかりとした香水にするように命じたものは近々できるだろう。この世でたった一つの香水をプレゼントするなんて言ったら普通の女だったら舞い上がって跳ねまわるだろうが………いかんせん我が妻だけはさっぱり読めない。このままだと母親だけではなく娘の方まで参ってしまうのではないだろうか。そう思うと居てもたってもいられなくなって特に用もないのに名を呼んでしまう。当たり前だがイネスはのろのろと顔をあげる。ゆったりとした動作で視線があった妻を前にアイゼンは迷った。少し早い、どうせだったら香水の完成を待って一緒に見せようと思っていたのだが―――。

「君に、見せたいものがあるんだ」

 それはイネスの家であの部屋を見てからすぐに思いついたことだった。

 首を傾げるイネスに何も言わずに手を取ると連れ出した。何か言いたげなのを無視して一階の奥まった場所にある扉の前までエスコートすると、アイゼンはイネスにその扉を開けるように指示した。

 アイゼンの意図がわからないイネスは不思議な顔をしながらも、素直に扉を手をかけて促されるまま開いた。

「…………」

 言葉は出なかった。開け放った扉の前で立ち止まったままのイネスの背をそっと押して中へと入れる。

「どうした、声もでないのか?」

 黙り込んだままのイネスの両肩を後ろから掴みながら、アイゼンは上からイネスを見下ろす。イネスは瞳をぐるぐるさせながら、圧倒されたみたいに背をこちらに預けてきた。

「君の家へ寄った時例の図書館を見させてもらった。それを真似てみたんだが―――」

「信じられない……」

 ようやくイネスの口から洩れたのはその一言だった。

「別にこれぐらいなんともない。君には、こういう場所があった方が落ち着くだろうなと思っただけだよ」

 思ったより優しい響きをもったその声にイネスはこちらを仰ぎ見てくる。その瞳には本当に不思議そうな色が浮かんでいた。

「どうして?」

「どうしてって―――それを聞くのか?」

 あまりにも真っ直ぐな問いにアイゼンは思わず視線を逸らしかけながら逆に尋ね返す。するとまるで子供みたいに素直に頷くものだから、もう降参するしかない。

「喜ぶと思っただから、だ」

「私が喜ぶと、あなたは嬉しいのですか?」

 まだ聞くか、とアイゼンは唸りながら頷き返した。

 とたんに溢れだした涙にアイゼンはぎょっとしてイネスをひっくり返した。向かい合わせになったところで覗きこもうとすると下を向いて顔を見せまいとする。これでは埒があかないと思ったアイゼンはイネスの顎を掴むと少し強引に持ち上げた。空色の薄い瞳から涙が次から次へと溢れだしてくる。

どうすればいいかわからなくなったアイゼンは、とっさに今までの経験上の事をしてしまっていた。結婚式の時のようにそのまま上体をかがめて、イネスの唇に自然と自分の唇を合わせていた。

突然の事に驚いたイネスは目をまん丸にして更に涙をぽろぽろとこぼしたが、アイゼンの手が後頭部にまわるとゆるゆると瞳を閉じてくれた。

 受け入れてくれたとアイゼンの胸が年甲斐もなく高鳴った。

素直に口づけを受け入れてくれたイネスの横の髪を耳の方に撫でつけながらそっと唇を離す。

「――よかったのか?」

 ほんの数センチで再び唇が触れそうな位置で問うと潤んだ瞳でこちらを見上げてくる。

「―――わかりません」

 結婚しているから仕方ない。当然の事だといつもの可愛げのない言葉を予想していたが、イネスの口から洩れたのはわずかに震えたその一言だった。

わからないと言ってさめざめと泣き続けるイネスを見て、初めて彼女の顔を見れたようなそんな気持ちになったアイゼンはイネスをそっと抱き寄せる。

「泣くな。まるで悪いことをしてしまったかのような気持ちになる」

 アイゼンの胸に柔らかく収まったイネスは胸に額を押し付けたままくぐもった声で「すみません」と呟く。細く白い指先で胸元を押されるとその力のなさにぐっときてしまった。アイゼンが再び口づけようとイネスの顔を再び持ち上げた。

「イネス――」

 万感の想いでその名を吐息混じりに呼んだ瞬間イネスの瞳がばっと開いた。

アイゼンはその瞳に怯えを確かに感じ取って戸惑ったが、イネスはそれを隠すかのように無理やり目を閉じた。

明らかに無理をしているその様子にアイゼンは迷ったが、瞳を閉じてくれたということは自分を少しでも受け入れてくれる気になったのだろうと思いなおして唇を再び重ねる。

先ほどは柔らかく望めばこちらを受け入れてくれるようだったのだが、二度目は固く閉ざされたままだった。強張ったその感触にイネスの難くなさを感じてアイゼンは少し落胆したが、嫌がるそぶりはみせないイネスを口づけから解放した。

時間が、全てを解決させるだろう。

少しずつ慣れていけばいいのだ。わかりあう時間はありあまる程あるのだから。

とりあえず今は結婚式ぶりの口づけを許してくれた妻に感謝しながらアイゼンはイネスの髪に顔を埋めるのだった。




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