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Call my name  作者: 森彩子
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Call my name 14



「……おかえりなさいませ」

 言葉の前に数秒間があったことはこの際とりあえず置いておこう。そう自分に言い聞かせながらアイゼンは玄関にふらりと姿を現したイネスに頷き返した。

四日も家を空けていたアイゼンはすぐに仕事へ戻ると思ったのだろう、冷たい妻はその一言で自分の仕事は終わったと言わんばかりに一人静かに立ち去ろうとする。

どうせ私室か夫婦の個人的な居間だろう。

アイゼンはあっさりとイネスの行く先を当てるとつれない妻の腕を掴んで引きとめた。ゆっくりと振り返るイネスにアイゼンは話があると告げると、返事も待たずに引っ張るようにして居間へと連れて行ってしまった。

そんな二人を見て使用人たちが品の無いことに思わずガッツポーズをしながら見送ったことをすでにここにはいない二人が知る由もなかった。


 手を掴まれたまま強引に居間へと連れ去られたオルガはソファーへと無理やり座らされていた。すぐ隣に座ったアイゼンとの距離を気にしながらちらりと視線を向ける。

「いったい、なんなのですか?」

 そっけない物言いを無視してアイゼンはいそいそと自分のポッケに手を突っ込むと小さなガラスの小瓶を差し出してきた。

「………これは?」

 いきなり目の前に差し出されたそれに当然ながらオルガは困惑した。

「君の実家の中庭に咲いていたラベンダーをほんのちょっとだけわけてもらった。これは正真正銘君の実家でとれたラベンダーの香料だ。俺一人で摘んで作った量だからこれだけしかとれなかったがな」

 そう一気に言いきるとオルガの手を取り左手の内側に一滴落としてみせた。固まったままのオルガを無視してアイゼンの厚い指先が無遠慮にそこに触れて刷り込む。

突然のことになすがままになっていたオルガに調子に乗ったのか、アイゼンは手首を持ち上げるとそこに顔を近づけた。先ほどまでの摩擦で熱くなったそこがアイゼンの息で更に熱くなるのを感じて、オルガは思わず身悶えしたくなるのを抑えながら瞳を閉じた上に更に顔をそむけた。そのまま力任せに捕えられたままの手をひっこ抜こうとしたが、アイゼンがそれ以上の力で握り締めるのでどうしようもならない。

「何もしない。ただ香りを確かめているだけだ」

「―――ご自分の、腕で、確かめたら、いいでしょう?」

 オルガの上ずった途切れ途切れの声にアイゼンは唇の端だけで笑って見せる。オルガはそれが苦手だと思った。

「これは君がつけるものだからこうするのが一番いい」

 そういう、ものなのか。

これを生業にしている人間の言うことなのだからと思わず納得しかけたオルガだったが、アイゼンの息を素肌に感じるとそうも納得していられない。この空間に耐えられなくなったオルガは視線を彷徨わせる。手首に口づけるようにして目を伏せているアイゼンの顔を見ると相変わらずまつ毛が長い。女であるオルガより長いのではないだろか。そして更に注意深く見つめるとその下に影だけでは済まされない色濃く残ってしまっているくまの姿見てとれる。

「―――ちゃんとお休みをとられていたのですか?」

 色濃く残る疲労の影にオルガは思わず声をかけていた。目をふせたまま動かずにいたアイゼンがそこでようやくゆるゆると瞼を持ち上げる。

ああ、見られている。それにやっぱりひどいくま。

オルガはその視線に押されるようにして微妙に身体を後ろにそらす。

「くまが、ひどいです」

「これはもう痕のようなものだ」

「そうなのですか………。確かラベンダーには身体を休める効果があるのでは?」

 それならば他人につけるより自分自身につけた方がよいだろう。

オルガの言わんとしていることが伝わったのか、アイゼンは少し面白くなさそうな顔をしてからようやく顔を離して肘掛けに肘をついた。そうしてから読めない視線をじとりと送ってくる。

オルガが居心地の悪そうな顔をするとそこで不気味な笑みを浮かべる。お世辞でも素敵とはいえなかった。

「君はずっと俺の傍にいるんだからこうするのが一番効く」

そう言い切るとアイゼンはようやくオルガの手を解放した。その言葉に少しの間ぼうっとしてしまっていたオルガは自分の手が解放されたことに気がつくと慌てて胸元に押し当てた。アイゼンはそれをみて更に口元を歪める。

優しいとは程遠い邪悪なそれにオルガは気味が悪いと肩をすくめた。先ほどがずっとニヤニヤしているのだ。いったい何が楽しいのか皆目見当がつかない。

 オルガの心の声に気がついたのだろうか、アイゼンはニヤニヤを潜めると突然こちらににじりよってきた。

「話がある」

「はい」

「君の母上の調子がどうもよくないらしい」

「……はい」

「…うわ言で君の名を呼んでいた」

「そう、ですか」

 オルガの言葉にアイゼンの眉がぴくりと一瞬つりあがる。

「そうですかって、君の母親のことを言っているんだぞ」

 アイゼンの責めるような物言いにオルガは反射的に俯いてしまう。アイゼンはそれを見て迷ったがついには言葉を続けた。

「何があったかはわからないが、あそこまで呼んでいるんだ。一度実家へ戻って顔を見せてあげるといい―――と思うのだが」

 どういう親子関係を築いていたのかはわからない。それでも夢現の曖昧な状態であれほど呼んでいるのだ。愛しくないわけがない。

何かが間違っていたのかもしれないが、それだけが真実ではないはずだ。愛すれば同時に憎んでしまったり、伝え方を間違ってしまったことで更に溝が深まってしまったのかもしれない。すれ違いはあったのかもしれないが垣間見えたうっとうしいほどの愛情をアイゼンは想う。原因はわからないが沈んだ顔をして黙り込んでしまった妻の肩をアイゼンはただ抱き寄せることしかできなかった。



 一人部屋に残されたオルガは先ほどアイゼンに抱き寄せられた肩を抱きしめながら、一人ソファーに座りこんでいた。レイモンドと話があると言って立ち去った彼を見送ることもできずにただ石のようにじっと座り続ける事しかできない。

 母の調子がよくない。

元々身体の弱い人だったのだが………母が夢現で呼んだというイネスの名。それを想像すると胸が痛んで手を当てずにはいられない。

身体は弱かったが性格はキツイ人だった。泣くことよりは怒りを見せることが多い人だ。そんな母がすっかり憔悴しきってベッドの上から起き上がることもままならないなんて―――。

 母が、お腹を痛めて産んだこの世でたった一人の子供、イネス。

本当のイネスは今この帝都のどこにいるのだろう。窓から街の明かりを見ながらオルガは考えずにはいられなくなる。

 では、一体あの時自分はどうしたらよかったのだろうか。産まれて初めて泣いている所を見たイネスを想いだしてオルガは固く目を閉じる。

母が、望んでいる娘は私ではない。きっと帰ってしまっても更にあの人の気持ちを波立たせるだけだ。そんなこと、誰も、望んではいない。

 先ほどのアイゼンの様子を見ると近々強制的にでも家へ戻らされるかもしれない。

オルガはため息をつきながらずるずるとソファーに倒れ込む。

自分で計画したことだというのに今更罪悪感にさいなまれるなんて、なんて都合のいい。いくら自分が苦しもうと一番苦しいのは母と―――結果的に母を捨てざるをえなかったイネスなのだ。

 アイゼンは人として当たり前のことを言って、イネスは自分の諦められない夢のために旅立った。そして、愛する娘を失った母は病んだ。

 やること全てが裏目に出ているような気がしてオルガは急に恐ろしくなった。あの時はあれが最善だと思った。唯一の味方であった彼女の力になればと、そう思った。  あの時の気持ちに偽りはない。しかし今こうやって母の不調を突きつけられると、オルガは自分がひどい過ちを犯してしまったような気がしてならなかった。


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