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Call my name  作者: 森彩子
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Call my name 12



「連絡もせずに突然訪問することになってしまってすみませんでした。リーグ殿」

突然屋敷を訪れた非礼を詫びながら頭を下げると雨に濡れた前髪から水滴が落ちて暗い絨毯に染みを作った。

頭を下げたままのアイゼンの前に老いた執事が静かにタオルを差し出すと、アイゼンはその好意を素直に受け取って濡れた髪を雑に後ろに撫で上げた。タオルをそのまま肩にかけたまま前に座るイネスの父親に視線を向ける。

「遠慮せずにしっかりと拭いてください。風邪でも引かれたら娘に合わす顔がありません」

リーグはそう穏やかに言いながらアイゼンにもソファーに腰かけるよう促してくる。素直にその言葉に甘えて腰を下ろして落ち着くとそこではじめてアイゼンは気がついた。

「アウラ様は―――?」

屋敷に入ってから一度も姿を現さない奥方の名前を心配に思って問う。

突然の雨で暗くはなっているがまだ寝るにはあまりにも早すぎる時間帯だ。アウラのことを聞かれたリーグは疲れたようなため息をひとつ漏らすと額に手を当てながら重い口を開いた。

「妻は、今体調を崩していまして……」

「それはそれは、いつからなのですか?」

結婚式の時は普通に見えたのだが。アイゼンは式の事を眉間に皺をよせながら思い起こしてみた。

「式が終わって、こちらに帰ってきてからすぐに」

「………イネスは知っているのですか?」

誰も聞いている者はいないと言うのに自然と小さくなってしまった声のままでアイゼンが尋ねると、リーグは今度こそ顔を伏せると力なく首を横に振って見せた。

義理の父のひどく憔悴しきった様子を見て、アイゼンは宥めるようにして自分が持っている声音の中で一番穏やかに聞こえるであろう声で囁いた。

「では家に帰ったらすぐにイネスに伝えましょう。なんだったらこちらに見舞いにくるのもいいかもしれないですね」

アイゼンの最もな提案に対してリーグは黙ったまま頷くにとどまった。

奥方の調子が悪い。しかも一人娘が結婚した直後からと言ったら、その原因は大事な一人娘が手元から巣立って行ってしまったことによるものだと考えるものだが―――。イネスを見ている限り世間一般のそれが当てはまるかどうかもいまいちわからないが、ここではこう言って理解のある優しい婿であった方がいいだろう―――。

アイゼンは打算的な考えの底で、俯いた拍子に綺麗に撫でつけられていた髪がほつれ落ちてリーグの頬に影を差すのをじっと見つめる。白髪が交じり始めているがその色はまぎれもなくイネスのものと全く同じものであった。

当たり前だ、親子なのだから―――。

アイゼンは自分がらしくもないことに、少し落ち着かない気持ちになっていることに気がついた。どうやらこの親子はなんでもないと口ではいいながら他人の気持ちをモヤモヤと引きつける雰囲気を出す達人のようだ。

すっかり意気消沈しているリーグに、身体の調子がおもわしくないアウラ。

ただでさえ鬱蒼とした森の奥にある屋敷だが、主人二人の不調もあいまってか、以前来た時よりも更に重苦しい空気が漂っている。

アイゼンは暗い屋敷に暗い主人と思わず漏れそうになったため息をこらえて、憔悴しきっているリーグにかける言葉を探すのだった。



音もなくすべるように歩いている侍女たちは本当にこの世に存在しているのだろうか。

リーグとアイゼン。二人だけの寂しい晩餐は早めに終りをつげアイゼンは客間へと案内される途中だった。

すれ違う使用人にほろ酔い気分の頭で非常に馬鹿げたことを考えながら、アイゼンは前を歩く執事の後をふらりふらりとついていく。

こちらについたとたんに降り出した雨に花畑を視察していたアイゼンはびしょ濡れになってしまった。

あの花畑から一番近いのが、すでにとっておいた町の宿ではなくイネスの実家だった。山の寒さと雨の冷たさに骨の芯まで冷え切ってしまい宿まで耐えきれる状態ではなかったアイゼンは申し訳ないと思いながらも連絡なしで突然訪問することになってしまった。

結婚を申し込みに来た日以来の突然の訪問をした非常識な婿をリーグは眉を顰めることなく快く迎え入れてくれた。

時間がずっと昔から止まってしまっているかのような長い廊下を歩いていると、執事がようやく立ち止まって客間のドアを開いてくれた。

ここが今日一日の宿か。突然の訪問にもかかわらず綺麗に整えられた室内にアイゼンはそこでやっと力を抜くと執事を見送ってから窓際によって窓を開く。

古い窓はしっかりと窓枠にはまってしまっているらしく開けるのにコツが必要な様子だった。アイゼンは乱暴に力を込めながら窓を開けることに成功すると外に顔をだした。するとひんやりとした冷たい風に頬を撫でられる。

「真っ暗……、だな」

開いた窓から見えるのは黒く塗りつぶされたことによって大きく一体化してしまった森の木々と、その頭上にぽっかりと浮かぶ月だけ。

月光によって形だけが浮かび上がる木々は、ざわざわと不穏にざわめきあっている。姿の見えないものたちが木々の隙間から無遠慮な訪問者を不躾になめるようにして見ている様を思わず想像してしまった。

アイゼンはまるで自分が子供のころに戻ってしまったような気持ちになった。

ぶるりと夜風の冷たさだけではないものに情けないことに一度だけ震えると、やっとの思いで開けた窓を早々に閉めることにした。ずいぶんと子供じみたことを考えてしまっている自分を愚かだと笑いながら、着替えもせずにベッドの上に座りこむ。薄暗い年代物の壁紙が貼られたままの天井を見上げ、一人きりになったことからようやくほっとして息をひとつついた。

 静かな、静かな森の中の屋敷。

アイゼンは元来静寂を嫌いではなかったが、行き過ぎたそれは中々気を使うものだった。

イネスはここで産まれ、そしてここからあまり出ることもなく過ごしていたのだ。

若い娘なのに、何か楽しいことでもあったのだろうか―――。

彼女は彼女なりに日々の生活の中でそれなりの幸せを見出して過ごしていたのだろうが、それでも想像してしまう。

静かで暗いこの屋敷の一室で飾り気のない寝台に沈むようにして横たわるイネスを。彼女は楽しかったのだろうか、寂しかったのだろうか、満足してきていたのだろうか。

結婚してもイネスが醸し出している暗い、この森の屋敷と同じ空気にアイゼンは未だにイネスに触れていいものなのかどうなのか迷っていた。すでに結婚しているというのに、どこか頑なで一向にその胸の内を見せてくれない彼女の様子に触れる前から不安になっているなんてらしくない。

―――どうにもこうにも、妻相手だとうまく事を運べないのだ。

どうすれば許してくれるのだろうか。自分が強引すぎるのだろうか。それとも言葉が足りなすぎる? 

今まで熱心に心を砕いて女性の事を考えたことなんてなかったアイゼンは唸りながら想像する。

彼女がこの屋敷で何を思ってこれまで生きてきたのかを。

今日は一日移動したので疲れていたアイゼンだったが、一度想像の扉を開けてしまうと睡魔も足音を立てて去って行ってしまう。このまま眠ることが出来なくなってしまったアイゼンは立ち上がると、先ほど別れたばかりの執事を呼ぶためにベルを探す。ベッドの脇テーブルの上、すぐ手を伸ばせば届く位置にきちんと置かれたベルを苦も無く見つけだすと「やっぱりあるじゃないか」とアイゼンは笑ってしまった。

さっき部屋に送って行ったばかりだと言うのにすぐに呼び出しをかけたアイゼンに執事は嫌な顔を一切感じさせなかった。

「すぐに呼びもどしてすまないな」

客人の言葉に老人は静かに首を横に振ると、ご用は何かと静かに問う。

「妻が家にいる時はいつも図書館にいたと言っていたのでな、少し見てみたい」

「………ではこちらへ」

執事に促されるがままアイゼンは屋敷の中を歩き出した。

一階の中庭に面した部屋が図書館だった。執事は重厚なドアをギシギシと音を立てながら押し開けた。

「お嬢様以外、入る者がいなかったもので――」

人が行き交うことが難しいほどに狭い道の両脇に、遥か頭上高くまで聳え立つ本棚がそこにはあった。上から下までみっちりと本が詰まっている。その蔵書に圧倒されていると、執事が小さなテーブルの上に燭台を置いてから梯子にかけられた白い布をほこりを舞いあげながら取り払った。

「彼女は、ここにずっと?」

「ええ。姿の見えない時は決まってここに」

執事は几帳面に布を折り畳みながら頷く。

「ここに、ずっと、か――。確かにこれだけあれば退屈はしないな」

「お姿が見えない時はここか中庭にいるのが常でした」

執事は静かにお辞儀をすると暗い図書館にアイゼンを一人残して去っていく。

一人残されたアイゼンは少し息苦しさを感じながら下から上へとずらりと並んだ本の背表紙に目を滑らす。

娯楽の一つも見当たらないこの屋敷で確かに本はよい暇つぶしになっただろう。

アイゼンは本棚に肩を預けて目を閉じると、イネスが絨毯の上にそのまま腰を下ろして熱心に本を読みこむ姿が安易に想像できた。

 目を開けたアイゼンが指を滑らせながら背表紙を読み上げると、ここには堅苦しい経済論や哲学書から、医学書や図鑑など様々なジャンルの本があることがわかった。

イネスが居た頃から動かされていないであろう梯子を登りきってから目の前にある少し飛び出た赤茶の本を手に取る。

開いてみるとそれはアイゼンにも見覚えのある本だった。

それは妹が小さいころに飽きることなく、擦り切れるほど読み返していた恋愛小説だった。男は王子様。女はお姫様ばかりでこれでもかと言うほど甘い言葉を吐き続ける王子のセリフを妹に音読させられた苦い記憶を思いだしてアイゼンは渇いた笑いを思わず漏らしてしまう。ありふれた設定の話を、妹はそんな兄の気持ちも知らずにうっとりと瞳を輝かせていた。

イネスもこの暗い部屋でこれを読んで胸をときめかせていたのだろうか―――。

自分の身に迫った結婚を前にして幼くて稚拙な恋愛小説を手にしたイネスを思ってアイゼンは黙りこむと、あまったるいそれを閉じて本棚にしっかりと押し込むのだった。






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