Call my name 11
未だに慣れない共寝に明け方になってやっと深い眠りに落ちることが出来たオルガが昼近くに目覚めるとすでにアイゼンの姿はすでに隣になかった。
寝不足気味のふわふわしたままの頭でオルガは体を起こすとぼーっとしたままの寝台の脇のベルに手をかける。
あちらの家にいた時は服を着る時は簡単なものばかりだったので自分一人で大丈夫だった。しかしこちらにきてからはいくら普段着といっても紐やボタンが多く、デザイン自体も複雑な形のものなので自分一人で着られるものは少ない。
それに普通の貴族の人たちは自分で着替えるということはないらしい。だからオルガはこのベルがまるで犬を呼ぶみたいで慣れないと思いながらも、さすがにこの寝巻姿のままで廊下に出るのはマズイということは理解していたので未だに慣れないベルを恐る恐ると言った様子で揺らすのだった。
するとすぐに赤毛の侍女がやってきた。
オルガはまだ半分寝ぼけた顔で侍女の朝の挨拶に頷きながら答えた。
用意された洗面器で顔を洗った後にドレスの紐を背の後ろで結ばれていると、後ろにいる侍女が珍しく口を開いた。
「今朝早くに旦那様がお仕事で、奥様の実家の方へ向かわれました」
オルガは少し沈黙してから「そう」と気のないそぶりで返事をした。
「奥様を連れて行かれるか迷われた様子でしたがよく眠っていらっしゃったので。三日程度で戻るとのことでした」
「……ほんとうに急なのね」
レースを全ての穴に通し終えた侍女は一つ息をついてからそれを結び付ける。
そして椅子にオルガを座らせると髪に櫛を通し始める。起きてからずっと手持無沙汰なオルガは髪を少し後ろに引っ張られながら鏡越しに侍女を見つめる。
「ご実家でとれる珍しい花の香料をすぐにでも商品化したいらしいですわ。花の命は短いものですからね。急いで現地に向かわないと枯れてしまうことや一番香りだかい時期を逃してしまうこともありますから」
そういってほほ笑む侍女の話を聞いて、オルガははじめてアイゼンの仕事の内容がわかった。思わず「そういう仕事をしていたのですか」と漏らしそうになったオルガは開きかけた口を閉じて、さすがにそれを聞くのはどうかと思ったので黙って髪を結いあげていく侍女を見つめた。
オルガに見つめられていることで緊張したのか侍女の動きがぎこちなくなる。髪を整え終わるくらいにようやくそれに気がついたオルガは視線をそらしながら、そういえばこの侍女の名前を自分が知らないことに気がついた。
「……あなたの名前は、なんというのですか?」
侍女は最初自分に言っているのだと思わなかったらしく、周りにいる他の侍女に目を向ける。キョロキョロとあたりを見渡してからようやくオルガが自分を見つめていることに気がついた侍女は顔を真っ赤にすると小さくオルガに聞こえるだけの声量で「リリアと申します」と告げるのだった。
オルガはこの赤毛の侍女が何も告げずに姿を消してしまった時に探し回ってくれた子であるということは覚えていたので、リリアの方をちゃんと向いてから「あの時は何も言わずに消えてしまってごめんなさい」と小さく謝った。
突然使えるべきものから謝罪を受けたリリアは非常に慌てふためいたが最後には小さく頷いてくれた。
お昼に近くなりいつものように訪ねてきたアネットにオルガはぎこちなくだが先日の礼を告げた。目の前で頬笑みながら茶菓子に手をつけるアネットは謙遜しながらお茶を口に含んだ。
穏やかなティータイムを楽しんでいる様子のアネットの先日の剣幕を思い出す。この人は怒らせたら怖い人なのだということがわかったので少しびくびくしながら、そういえばと先日のレイモンドという人物のことを尋ねてみる。
アネットのあのせっついている様子をみると非常に近しい人物のようだと思ったオルガは、あの後うやむやになってあれっきりな彼の名前を口に出した。
「この前のレイモンドという方は……?」
オルガの言葉にアネットはティーカップを置くと意外だといわんばかりに目を見開いた。
「あら。まだ紹介されていませんでしたか?」
「ええ…」
「ええっとですね、彼、レイモンド・ミハエルは―――私の夫です」
アネットはふうっと息をつきながら顎に手を当てた。
「レイモンドったらまだ紹介されてなかったのね――。紹介が遅れてすみませんでした」
アネットはうふふと頬笑みながら再び焼き菓子に手を伸ばす。アネットの謝罪にオルガは首を大きく横に振る。
「いいえ。あの人が、紹介なさらなかっただけだと思いますし…」
「あの人って、アイゼン様のことですか?」
アネットの声にちょっとした威圧感を感じてオルガはおずおずと頷いた。
「この前は、名前を呼んでいらしたじゃないですか?」
オルガがはてと首をかしげるとアネットは更に言葉を続ける。
「ちゃんと私は聞きましたよ。びしょぬれになって帰ってきたときですよ。私に怒られているアイゼン様をかばうように言われたじゃないですか」
そこまで一息でいったアネットはそこから少し頬を染めた。
「そういえば……アイゼン様が、温めてくださったって本当なんですの―――?」
唐突な質問にオルガは机に顔を突っ伏したい気持ちでいっぱいになったが、ぎりぎりの所でなんとかこらえた。そんなオルガの心情も知らずにアネットは芝居がかった声で続ける。
「それにアイゼン様だって、イネスとお呼びになられて……」
イネス、という部分だけやけに低くいったのはアイゼンの声真似だろうか。
全く似てない。
オルガはだまって紅茶に口をつけた。
平常心を保とうとするのに必死なオルガに気がついたのか、アネットは全てをわかっている言いたげな意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうやって温めてくださったのですか?」
そこのところを詳しく教えてくれません?そういって紅茶に口をつけるアネットは、この話を肴にするのだといわんばかりの笑顔でオルガに詰め寄ってくる。
「普通に、隣にいられただけです」
どうやって逃げたらいいかわからないオルガは実に簡潔に答えていたが、そんなことで納得するわけがないアネットはさらに突っ込んでくる。
「つまり寄り添いあったということですね?」
「……はい」
「どうしてそういうことになったのですか?」
「…私が、震えていたら、寒いのか、といって」
特に自分の声のトーンを変えることなく普通に喋ったのに、寒いのかと言ったとたんにアネットはきゃあと声をあげた。とたんに話すのをやめてしまったオルガに気がつくと、一つ咳をしてから先を促してきた。
「私が少し寒いといったら、他になにもない、とおっしゃって……それで――」
「それで?」
「それで………」
オルガは救いを求めるように後ろにたつリリアに目をむけたが――無駄だった。
リリアも実に興味深いといった瞳でこちらをみてくる。新しい紅茶をいれにきた侍女の耳もピンとすまされているのを見て、逃げることを諦めたオルガは覚悟を決めて口を開いた。
「肩を寄せられました」
「で、何か言われたのですか?」
「これで寒くないか、と―――」
「それでなんと?」
鼻息がだんだんと荒くなってきたアネットにオルガは若干身を引かざるをえなかった。
「寒くないです、と答えました」
アネットの興奮した様子を見て逆に落ち着いたオルガが動揺を見せずに返すと、それまで嬉々として聞いていたアネットががくっと肩を落とす。
「他には…?」
救いを求める信者のようにさらなる真理の追求を求めてくるアネットにオルガは無情にも告げる。
「特に」
オルガの実に簡潔な一言に、アネットはやけに芝居がかった様子で項垂れてみせた。オルガはようやくこれで矢継ぎ早に行われていた質問が終わったと胸をなでおろそうとしていたのだが、それは甘かった。
のろけるということを知らない新妻に、アネットは更なる武器を持って果敢にも再び挑んでくる。
「では次の質問に行きたいのですけれど…………ようやく寝室を一緒にされたって本当ですの?」
アネットがほんの少し頬を染めながら先ほどより小声で訪ねてきたその質問内容に、オルガは口をつけていた紅茶を思わず噴き出してしまった。
オルガは無表情を装いながらも動揺を隠しきれずに、無言でハンカチを取り出すと自分が噴き出してしまったものをさっとふき取る。その素早い動きにアネットや侍女たちが動く機会を逃してしまう。
ここで何もないというのは駄目だろう。
いくらなんでも、オルガにだって二人の現状がおかしいということに気がついていた。だからオルガはほんのわずかの止まった時間の後に無用な心配と話のネタを与える必要はないという判断を下した。
オルガはわかったのだ。
こういう時は無言でお茶をすするだけで後は周囲がそれを都合よく解釈してくれるということを。
黙ったままのオルガが恥ずかしがっていると思ったのか、アネットはやけにキラキラした瞳でこちらをもの欲しげに見つめたがそれ以上踏み込もうとはしなかった。