Call my name 10
その夜オルガはいつもの通りぼんやりとした目で化粧台の前に座っていた。
侍女に髪を触られることにもようやく慣れ始めてきていたオルガは鏡にうつる自分の気持ちよさそうな顔を見つめる。
他人にあれこれされるのがここまで心地のよいことだと今までしることのなかったオルガ。未だに心の隅に残っている他人にいじられることに拒絶反応を見せる自分がすっかりなりを潜めてしまったのを感じながら、この生活に慣れ切ってしまうと後で大変かもしれないと少し心配になった。
このままこの身代わり生活が続く………とは思えない。どこでどう幕切れになるかはわからないし、そうなった場合のことを思うと考えたくもない。
この最悪の状態で一番よい方法と言ったら、全てを知ったアイゼンが怒ってこの結婚自体をなかったものにしてくれるということだ。イネスは嫁いでもいないのに出戻りということになってしまうが、そうなってしまった場合には父も母もイネスに無理結婚させることを諦めるのではないか。オルガは悶々とこれからの先のどうにもならない事態に思い悩んでいると、少し慌てた様子で侍女が部屋に飛び込んできた。
「旦那様が、今夜から奥様と一緒のお部屋でお休みになられるそうです!」
侍女の少し上ずった声に、オルガはぼんやりとした瞳をようやく向ける。
一緒に、部屋で、休む。
ようやく事態を把握できたオルガは、失敗してしまった初夜の突然の再来に頭を抱えることしか出来なかった。
侍女たちの手によって念入りに身支度を整えられたオルガはフラフラする足取りでなんとか寝室の前までたどりついた。結婚してから今までの数週間、オルガとアイゼンは寝室を別にしていた。建前はアイゼンの仕事が忙しいことと、オルガがこちらの生活に馴染んでいないからというものだったのだが―――。
屋敷のものたちをやきもきさせていることは視線や言葉の端から伝わってきていたので、このままでは駄目だということをオルガは悲しいくらいに理解していた。それでもやはりここまでくるとどうしても臆してしまう。
身代わりの花嫁だというのにここまでやる必要はあるのだろうか、というか許されるのだろうか。
オルガが様々なことでグルグルして途方に暮れていると、夫婦の個人的な部屋が内側から開けられた。こんな時間に、この部屋にいるのは彼しかいない。
思わず下を向いてしまったオルガの目に男の足が入った。
「………何をしているんだ?」
思いっきりこちらをいぶかしむアイゼンの声にオルガはうろうろと視線をさまよわせながら顔をあげる。思い切り弱り切った顔をしていたオルガにアイゼンは呆れたような顔をすると「入りなさい」と子供言うようにして短く言った。
オルガはアイゼンのその言葉に床に縫いとめられたままになっていた足をようやく動かすことができた。
背後でやけに大きな音をたてて閉まったドアにオルガが思わず肩を震わせると、後ろからアイゼンに肩を掴まれる。
「……………怯えすぎだろう」
慌てて悲鳴を飲み込んだオルガに、アイゼンはそう声をかけると落ち着くようにと肩を数度叩いた。
「意外だと思うかもしれないが、慣れた部屋でなければあまり寝つきがよくないらしい。元はこの部屋は俺だけの寝室だったから、今夜からこの部屋で寝ることにした。いい加減疲れもたまって………色々と限界なんだ。――――辛抱してくれ。慣れろ、としか俺には言いようがない」
アイゼンのその弱り切った、こちらに言い聞かすような言葉にオルガは思い切ってアイゼンの方を振り向くことにした。
たしかにアイゼンの瞳の下からは結婚してから今まで一度もくまが消えたところを見たことがない。疲れがたまってどうしようもないというのなら、ここは耐える………というか受け入れるしかないのだろう。
それに元々この部屋は彼だけのものだったのだ。後でぱっと入ってきた自分が、しかもアイゼンには言えないけれど身代わりの花嫁であり正式なこの屋敷の主ではない自分に拒絶するなんて選択肢ははじめから考えられない。
「この前は馬車の中で座ったまま器用に寝ていられたので、本当に意外です」
オルガのようやく出た可愛くない言葉にアイゼンは鼻をならすと「だから最初に意外に思うかもしれないと言っただろう」と肩を上げてみせた。
「本当に意外だったのでつい」
オルガが真面目な顔をして頷きながら駄目押しでいうと、アイゼンはおもいっきり深いため息をつくと今日はオルガより先に窓際の椅子に座り込んだ。
「………なんか、どっと疲れた」
「ならミントティーを入れましょうか?」
言ってしまってからもう遅いと言うのに自分の口を思わず抑えてしまう。
夜寝る前にミントティーのような目が覚めるものを勧めてしまうなんて。こういう時こそお酒の出番なのではないか。オルガのしまったという顔にアイゼンは思いのほか穏やかな表情を見せた。
「それはこの前のか?」
「え、ええ。素人が作ったものですから、お嫌ならちゃんとしたものを用意します」
オルガの言葉にアイゼンは静かに首を横に振ってみせた。
「いいや。それでいい」
アイゼンの静かで穏やかなその一言に、オルガはようやく慣れ始めていたベルの存在をすっかり忘れてしまい走りだすようにして部屋を飛び出してしまった。
オルガはアイゼンの慌てたような声を無視してこちらを見てぎょっとした侍女を廊下で捕まえるとお茶の用意をするよう頼み込んだついでにそのまま用意をしようと立ち去る侍女の後を追いかけ始めた。
寝る直前という時間帯に侍女に用事を申しつけたことが悪いので何か手伝うことがあればという思いからのものなのか。それともあの部屋にこれ以上いることがいたたまれなかったためなのかどちらかわからない。
オルガは混乱する自分の頭を両頬を叩くことでなんとか払しょくすると、居心地が悪そうにこちらを振り返り続ける侍女の背中を物理的に押し進めたのだった。
落ち着きを取り戻したオルガが侍女を引き連れて部屋までもどってくると、侍女はお茶の準備を終えると不自然なくらいの早さで部屋を立ち去ってしまう。
いつもだったら自分でお茶の準備をするオルガだったが、今夜はそれをすると侍女が逃げてしまうと思ったので何も手を出さずにいようと思っていたので侍女の素早い逃亡はオルガを大いに動揺させた。
黙り込んだまま座り続けるオルガの視界の端でアイゼンが動き出したのがわかった。オルガが静かに顔をあげるとテーブルごしに座っているアイゼンがちょうどお盆の上のお茶のセットに手を伸ばしたところだった。
アイゼンはティーカップを手に取ると、自分の前に置いてすぐにミントの葉が入っているであろう薄いミントグリーンの缶に手を伸ばした。アイゼンの不器用な手がかなり多めの茶葉を入れたところで、オルガはようやく口を開くことができた。
「………お茶を、入れることができるのですね」
「……こんな簡単なこと出来ないわけがないだろう」
アイゼンは憮然とした顔をしながらその上にお湯をかけていく。
「………何分待てばいい?」
やることがなくなったアイゼンは目の前に置かれたかわいらしいティーカップを見下ろしながら静かに口を開いた。
目の前のチグハグな光景で頭がいっぱいだったオルガははじめそれが自分に対する問いだとは気がつかなかったので数秒遅れて答えた。
「………お好きなように」
「それは答えになってない」
アイゼンのぴしゃりとした物言いに、オルガはちょっと頭を傾げてから自分が好む少し濃いめの抽出時間を口にしたのだった。
その夜からアイゼンはオルガと同じ部屋で休むことになった。
広い寝台の上で横になると微妙な沈黙が二人を包んだのでオルガがどうしようか悩んでいると、戸惑いに先に気が付いていたアイゼンが「寝る」と一言いうと背を向けてすぐに寝息を立て始めてしまった。
オルガはそれに心の底からほっとすると、ようやく瞳を閉じることができたのだった。
緊張ゆえか、いつもよりかなり早めに目が覚めたオルガは昨日の夜はあちらを向いて寝ていたアイゼンがこちらを向いていることに気がついた。
寝起きでまどろんでいた頭が一気に覚醒したのだったのだが、アイゼンが眉間に大きな皺をよせながら変に無理な体勢で寝ていることに気がついた。足は近くにあるが、上半身は反るようにして離れている。
そんな器用な体勢でよく寝ることが出来るなとオルガは不思議に思ったが、人の寝ぞうをとやかく言うつもりはなかった。苦しげな体制と顔をして眠るアイゼンが、場所が違うと眠れないほど繊細さを持ち合わせていることを思い出したオルガ。
隣に自分がいたから眠れなかったのかと思うと申し訳ない気がして音を立てないようにそっと彼に背を向けるのだった。