Call my name 1
森の奥にひっそりと建つ古い屋敷に二人の美しい娘が両親と少しの使用人と共に住んでいました。同じ年に産まれた二人はまるで鏡に映し合わせたかのように瓜二つでしたがその中で唯一違うのはその瞳の色。
二人の両親は、海色の瞳を持つ姉には愛を。空色の瞳を持つ妹には罰を与えました――。
カレンダーを見るとすでに春なのだが森の奥のこの屋敷にとって春はまだ遠い存在だった。
太陽が真上の時にだけあたる貴重な日差しを拒絶するようにして閉められた白いレースのカーテンをじっと見つめる女がいた。
人形のようにぴくりとも動かず、一体何が面白いのかじっと風に揺れるカーテンを無感動に見つめ続ける彼女の一日は実に単純なものだった。
無口で、厳格な年老いた教師が訪れる日には一日中埃っぽい図書室に籠って勉強を。
教師がこない日には屋敷に籠って父が若いころに揃えたという古い蔵書に目を通す。
そして時折晴れた日には思い出したように中庭へと一人で降り立つ。
毎日、毎日がそれの繰り返し。
彼女はそれが不幸だとも幸せだとも思っていなかった。
普通の人間だったらそのような生活を繰り返していたら、きっと一度は考えるであろう「幸福とは? 自由とは?」という疑問を考えたことが産まれてこのかた一度もなかったのだ。
彼女が物心ついた頃にはすでにこのような生活のリズムは出来ていて、彼女はそれを黙って受け入れてこれまでの十六年間を生きてきた。
屋敷の立地条件や、両親があまり人づきあいが好きな方ではないことも加わって家族や昔からいる使用人以外とこれまで関わり合うことがなかったのだ。
他人とのかかわり合いによって産まれるであろう情緒などが薄いのと。常日頃からぼうっとしたその生来の性格も加わって、母や口さがない使用人たちに阿呆なのではないかと思われているということは理解してはいたが………。昔はそれを自分が否定されているように感じて悲しいと思ったのかもしれないが、年を経た今ではそれさえも感じなくなってしまった。
人に無視されることにも慣れ、自分の感情さえも無視することに慣れてしまった自分は確かに愚かなのだろう。
静かにそうすとんと納得して、ただ目を伏せることに慣れてしまった。
自分の事だというのにひどく他人事のように感じながらひとつ息をついて目を閉じる。
ああ、なんてここは静かなのだろう―――――。
「オルガ、ついに私の嫁ぎ先が決まったようだ」
夕食後、いつものように両親や使用人の目から逃れるようにして、オルガの日当たりの悪い部屋を訪れたイネスは両手に抱えていた本をベッドの脇に雑に下ろした。そしてそのままの流れるようにして大きな音を立ててベッドの上へと横たわった。
白いスーツの波に顔を埋めるようにして倒れ込んだイネスの乱れた髪を撫でながらオルガも隣に腰を下ろす。
「………今は私達だけなのだからいつもの呼び方でいい」
くぐもった声からはわからなかったが、普段から落ち着いていて氷のようだと評されているほどのイネスも、さすがに今回の事には参っているらしい。しばらくそうして枕に顔を埋めているのをじっと隣でみつめていると、いい加減苦しくなってきたのだろう。仰向けになったその顔には不満か不安にか眉間の間に一本大きな皺が刻まれていた。
深いそれは言葉で伝えるよりも強くオルガの胸を痛ませた。
自分の事ではないというのに、今にも泣きそうに歪むオルガの瞳は雲ひとつない青空のように澄み切った青色をしていた。一方、それを見上げるイネスの瞳は海の一番深い場所の碧みがかった青色をしていた。
ほんのひとさじ違う互いの瞳に映るのは、まるで鏡を見つめているのではないかと錯覚してしまうほどに似た互いの姿。
唯一違う瞳に映した、互いの迷いに満ちた色を見つめあいながらオルガは戸惑いがちにようやく口を開いた。
「相手はどなたなの……? お姉さま」
「最近よく名前を聞く男だ。アイゼン・ラッドと言って―――」
「まぁ」
姉の言葉遮ってオルガは思わず声をあげてしまっていた。
あまり世間のことを知らない妹に自分の婚約者の説明をしかけていたイネスは、オルガのその様子に開きかけていた口を閉じた。
「………どうして知っている?」
「この前お姉さまのお友達が来られていた時に―――偶然出会ってしまって、それでお姉さまと私を勘違いしていたみたいで………」
外部の人間と接するのを快く思われていないことは理解していたので、目をうろうろさせながら決まりが悪そうな様子で白状するオルガにイネスは笑うと手を顔の前で大きく振ってみせた。
「友達、かぁ…………」
イネスの何やら含みのある言い方に気がついたけれど、それに対してどう返せばいいかわからなかったオルガは黙ったままイネスを見つめることしか出来ない。
あまり感情を表に出さないイネスが時折見せる、冷たい笑みの意味が解からずに戸惑っていると、イネスは一つ大きなため息を漏らしてからそれなら話は早いと頷いた。
イネスとオルガの生家であるこのマルグリット家は今から遡ること4代前に王妃を輩出させている歴史のある貴族の一つではあるが、最近ではその台所事情は微妙なものであった。
それと比べてアイゼン・ラッドは彼の父親の代でのし上がってきた、所謂成金というものであった。
今までだったらそんな成金風情に娘をやるなんて言語道断だったのだろうが、それを思わず受け入れてしまうほどに我が家は切迫した状況なのだろう。
オルガは唇を噛みしめながら、まるで我が家を助けるために貢物のようにして嫁へと差し出されそうになっている姉を悲痛に満ちた瞳でじっと見つめた。
「お前が泣いてどうする?」
涙がたまった目のはじをイネスの白い指先がそっとなぞる。困った奴だと笑う姉の手をとってオルガはそのまま頬にあてた。
それは母に理由もなく怒られ、それを見て見ぬふりをする父に幼いオルガがまだ傷ついていた時から変わることのない慰めの動作だった。この手はオルガにとって、唯一の救いの手だったのだ。
涙のしずくをそっとぬぐいとってくれたイネスに、オルガがおずおずと抱きつくと、同じ背丈だというのに広く暖かい胸がそこにはあった。そうしてゆっくりと背をさすられ、頭を撫でられるとオルガはそこでようやく泣きやむことが出来るのだ。
オルガにこの家でただ一人、無償の愛を与えてくれた生まれ年が同じ姉であるイネスがここからいなくなる―――。
イネスのためではなく自分のこの先が不安であるがゆえに流れ落ちてきた涙に恥ずかしくなって瞳に力を込める。そうしても、どうしようもなく流れ続け止まることのない涙と弱くて情けない自分に嫌気がさして項垂れる。イネスには泣き顔を見せたくない。泣いてもしょうがないという諦めと、姉がいなくなるという絶望にその膝に崩れるようにして顔を押し付けた。暗い視界の中で上等なバラの刺繍がされたスカートに涙が染み込んでいく。
「今からそれでこれからどうする? 私が本当にここからいなくなった時にお前がどうなるかそれだけが心配でならないよ」
そういって呆れたようにして笑うイネスに、オルガは寂しさと不安に泣くしかない自分を更に恥じた。
「ごめんなさい。一番辛いのはお姉さまなのに……私ったら本当に駄目ね」
オルガは涙で滲んだ瞳を手の甲でこすりあげると、そのまま勢いをつけて顔をあげた。涙の膜がとれ晴れた視界に飛び込んできたのは当たり前の事だがイネスの姿だった。
その瞬間オルガは稲妻に打たれたかのような感覚に陥った。素晴らしい事を思いついてしまったという喜びと同時に、恐ろしい事を思いついてしまったという不安。
海の一番深いところを閉じ込めた理知的な瞳。色素の薄いミルクティー色のとろりとした腰ほどまでの豊かな髪。あまり太陽の光が降り注がない深い森の奥で産まれ育ったがゆえに透き通るように白く傷一つない肌。形と色の良いつややかで赤い少し薄めの品の良い唇。
―――まるで双子みたいな、私達。
実の父や母でさえ時折間違えてしまうほど似ている二人。鏡のような互いの顔をじっと見つめ続けながら、オルガは自分の考えは思い違いではないと必死で自分に言い聞かせた。自分が考えついたある提案に空色の薄い瞳を大きく見開きながら細く白い喉をごくりと上下させる。
両親に何も言えない自分たちは、このままだったらなすすべもなくこの流れに身を任すことしかできないだろう。
大切な、唯一の家族であると言っても過言ではない姉。彼女を助ける術が一つも浮かばない、愚かで弱い自分が嫌になり消えてしまいたいと思ったその瞬間に唯一導き出すことができた………一見すると馬鹿馬鹿しい思いつき。
それは賢いが優しいイネスは決して思いつかなくて、愚かで人でなしなオルガであったからこそ思いつくことができたものだった。
誰もが傷つき、だけどその中でイネスだけが傷つきながらも自由を手に入れることが出来る唯一の方法。
「―――私が、私がお姉さまの代わりになります」
それは両親が不幸にも幸いなことに与えてくれた、瞳を閉じてしまったらそっくりなこの器を利用することだった。
普段は自分の意見を何一つ言うことがないオルガの強い物言いとその突拍子もない内容にイネスは呆気にとられている様子だった。
いつもは理知的な光を決して失う事がないイネスのまん丸に見開かれた瞳に、オルガはここだと畳みかけるようにして言葉を続ける。
「お父様やお母様だって私達のことを見間違える時があるのだから、他人だったらなおさらでしょう」
「しかし、しかしそれでは何の解決にもならない」
驚きながらもようやく自分を取り返したイネスのもっともな言葉にオルガはそうだと頷き返す。
そんなことは重々承知なのだ。
両親にこの事はすぐにばれてしまい何の解決にはならない。ほんのわずかな時間しか稼げないだろう。しかし、オルガはそれで十分だと言いきった。
「どうせばれてしまうのだろうけど、その時あなたがここにいなければこの結婚を駄目するか―――私を代わりにするしかなくなるわ。だって私とあなたはそれこそ両親が間違えるほどにそっくりなのだから………誰にもわからない」
黙り込んだままのイネスの指先が忙しなく何度も組み直される。落ち着かない様子のイネスの指先をオルガがそっと包み込む。妹の大胆な提案に動揺を隠しきれない姉を妹は間近から見つめた。
動揺するということはこの結婚がイネスにとって受け入れがたいものであり、こんな馬鹿らしい提案に、ほんのわずかでも心が揺れ動いてしまっているなによりの証拠だった。
「それでは、お前が―――」
イネスの揺れる瞳を見つめながらオルガはそこで今日初めてほほ笑んで見せた。
「いいのです。私はこれから先どうなるのかわからない身。たとえ将来的に結婚することが出来たとしてもどうせ知らない相手。修道院へ行くとしても知らない場所だし―――ほんの少しお姉さまより早くて、行く場所が違う。ただそれだけのことです」
「私は、お前には家やそういう煩わしい事を抜きにして幸せになって欲しいと――…」
イネスの震える声にオルガはそっと目を伏せた。
―――オルガは秘密の子だった。不義の子だった。
この屋敷以外の場所には出されることがない娘。正妻の娘ではないオルガは産まれたと同時に産みの母を失いこの屋敷に引き取られた。
森の奥に屋敷を持ち、あまり外に出ることを好まない父と母だったので、この広い屋敷の隅でひっそりと生きてきたオルガについてこの屋敷の者以外は誰も知るよしもなかった。
意図的にそうしたのか、結果的にこうなってしまったのかは二人に聞いてみないとわからないが、オルガはこれまでそれを聞くこともなかったし、これからもなかった。
静かに息をひそめるようにして育ってきた理由を、ようやくここで見いだせたかのような気分だった。
天啓を受けたかのような思いで悪魔のような事を囁く自分に、罰すべきは私のみと声も出さずに懺悔する。
これまで家の事情とはかかわらずにこれまでひっそりと生きてきたオルガ。
そんなオルガだったら結婚相手に関して父や母はそこまで関心を持たないだろう。だから不自由な生活を送らせることしか出来なかった妹にはせめて暖かい家庭を持ってもらいたい。そう密かに考えていたイネスはその提案を受け入れることができないと首を横に振った。
「お姉さま…」
「それは、できない」
妹を犠牲にすることなんて出来ないとイネスは口を震わせた。
姉のその言葉を噛みしめるようにしてオルガは一度目を伏せたが、振り払うと挑むような瞳で姉を見据えた。
「お姉さまは以前おっしゃっていましたよね。もっと勉強がしてみたいと。この屋敷の中でお父様につけてもらった家庭教師だけではなく、もっと多くの教師人のもとで様々なことを学んでみたいと。……いつか、いつか帝都の学校へ行ってみたいと。あちらだったらこちらと違い女性にも学問の道が開かれていると、そう言っていたではないですか? お嫁に行くために帝都に行くのではないしょう」
それはイネスが密かに、オルガだけに語っていた夢だった。
自分の諦めた夢を語られたことにイネスは苦悶に表情を歪ませる。
せっかく忘れようと、忘れなければならないと思った夢を、突然語り始めたオルガにイネスは黙って目を閉ざすしかなかった。
「お姉さまは本当にそれでいいのですか?」
「………しかし」
「私のことはいいのです。………酷なこと言うひどい妹とお思いになられるかもしれませんが、今は家のことも私の事も忘れてください。お姉さまの正直な気持ちが聞きたいのです。私はお姉さまが自分の夢を諦めることなんて納得出来ない。お姉さまが自分の道を進んでくれるのが、一番嬉しい―――」
オルガの必死な説得はその後朝方まで続いた。
昼間からずっと開いたままだった薄出のカーテン越しに朝焼けが見えはじめたころ、それまでずっと黙り込んだままだったイネスがようやく小さく頷いた。
わずかに揺れたイネスの小さな後頭部を見て、オルガは泣きたくなったがそれをなんとかこらえた。
夜通し行われた説得にお互い疲れきってしまっていたのでそのまま寝台の上に横たわる。横を向けばすぐ目の前にある互いの頬に手を伸ばしながらオルガは悲痛な色を宿したイネスの瞳を幸せな気分で見つめた。
いつも優しく自分を守ってくれた姉の役にようやくたつことができるのだ。
その似すぎている容姿ゆえに母には嫌われたが、そうやって虐げられてきた時間も全てはここに、この人の役に立つために繋がっていたのかと思うと、オルガは劣等感の塊でしかなかった自分のこの器が初めて愛おしく思えたのだった。
二人はこれが何の解決にもなってないことが解かっていたが、どうしようもなかった。妹は大事だが自分の夢を諦めることも出来ない姉と、姉を助けるために盲目になっている妹の利害が数時間の話し合いをかけてようやく一致したのだ。
この先何が起こるのかをわざと考えずに二人は頬を寄せ合った。
産まれて初めて見る涙に濡れたイネスの瞳を見つめながら、オルガは優しい片割れにほほ笑みかける。これが自分にとって最上の幸せなのだといわんばかりに。