無題
タイトルが結局思いつかなかったので無題です。
投稿用に書き上げましたが、出すのをやめて必要なくなったのでここにあげておきます。
バーク・シュツィナという一人の人間を生み出した世界。そしてバーク・シュツィナという人外を生み出した世界。どちらも同じ世界で、俺にとっては非現実じゃない、これが現実だった。
俺は突出した特技、外見の魅力っていうものがてんでない、普通にしてつまらない人間だった。
学校を出てすぐに働きだした会社に勤め、定時に上がり、パサパサする数日前買ったパンと少しのおかずを食べ、寝て、起きて、同じ一日が再び始まる。
けれども、そんな日々が今は懐かしいとすら思える。
そんなありふれた、道路を行き交う一人のような人間であったのは数年前まで。
俺は今、人間をやめて、獣人というものをしているのだから。
朝は嫌いになった。仕事も当然無くなった。
そもそも、俺が人間ではなくなってしまったのは、俺が働いていた会社のおかげだった。
薬品会社に勤めていた俺は、新薬の開発のプロジェクトを同僚にもちかけられ、五年もの時間を掛けて作られた新薬は“人間を誰でもアスリートのような超人にする薬”というもの。
そこで俺の出番というわけだ。平凡を絵に描いたような俺は大抜擢され、その効果を確かめるために口にして、今に至る。
中身は少し根暗になったぐらいで、特に変化したのはやはり、外見だった。
まず髪の毛が、強い衝撃で白髪に成り果て、顔は岩のようにゴツゴツとして目はくぼんだ。体に茶色い毛が獣のように生え、耳は尖り、歯は鋭くなった。
身長は一気に伸び、軽く背中が丸くなって一層不気味になり、俺の姿を見た同僚全ては言葉を失った。この世の絶望が、その瞬間俺に目掛けて落ちてきたようなものだ。
力は数段強くなり、視界は悪いが頭が冴え渡って、耳が研ぎ澄まされる。
しかしそんな無駄な能力が拾い上げた一言は、ちっともいい言葉なんかじゃない。
『化け物だ…』
俺は、それから物凄い金と、家を与えられ、人間から隔離された場所に追いやられた。
何不自由なく暮らせる毎日に灯る、闇…。憎しみで頭がどうにかなってしまいそうになった時、俺はどうしても忘れられない存在を思い出していた。
「エリーナ…」
恋仲にあった女性の名前、久しく呼んでいないその名前をじっくりとかみ締めて俺は情けないことに、涙をこらえられなかった。窓の外から入ってきたチラシに、その名前を見つけてから、心がざわめいていた。
エリーナは幼い頃から、植物が好きな大人しい女だった。俺と交際している間も、いつも癖のように口にしていた、花屋を開くのだと。その念願が、俺の知らないところで叶ったらしく、街で撒かれていたものが部屋に紛れ込んでしまったのだろう。ここ数年、この冷たく、四角い家から一歩も出ていない。
そんな俺の心を強く目を覚まさせるように突き動かすこのチラシに、ついに、数年ぶりとなる外出を決めた。
フードを目深く被り、サングラスをかけた。この体は日光にひどく弱く、目が痛むのと、少しでもこの肌が隠れればいいとこんな温かい日にコートも羽織った。
そろそろと家を出て、数年ぶりに見た街は、俺の存在なんてすっかり忘れたように明るく、賑やかで。俺はその眩しさに、胸が痛かった。
しばらく歩いていても、不審がった目を向けられるものの、悲鳴や、驚いた声は上がらない。
安心して歩いてゆくと、チラシの地図通り、そこには申し訳なさそうに小さく営む花屋が、オープンしていた。
エリーナは変わらなかった。
優しげな笑顔を行き交う人に向けながら、花に水を与えている。俺はここにいる、ここにいて、こうしてお前に会いに来た。そう伝えようとする唇が、縫われたように動かない。俺は今はもう、彼女の知る男ではないし、人間ですらないのだ。
ふと、彼女が俺に気がつき僅かに目が合った。こんなヘンテコな格好をしているのに、エリーナは変わらぬ笑顔を向けそして俺に言った。
「お花、いかがですか?」
俺は言葉につまり、立ち尽くした。怪しがられる、そう焦って花に目を走らせた。目に留まったのは、時期になってきた黄色くて可憐なひまわり。エリーナが好きで、昔はよく家の庭に種を蒔いていたのを思い出した。俺は声を出しそうになって口を覆い、指を差してひまわりを買うことを伝えた。
「ひまわり?」
尋ねられて頷けば、無言な俺に嫌な顔一つせず、彼女は数本ひまわりを包んで俺に手渡した。手が触れたら、嫌がられるのでは、と手を引っ込めようとしたが、逆にエリーナは俺の手を掴んで、しっかりと花束を握らせた。
「ありがとう」
それから、いけないと分かっていながら俺は同じ時間に毎日毎日エリーナを見に、花を買いに行った。既に部屋は買ったひまわりで埋め尽くされていたが、ひまわりを買うのは、彼女の店をほんの少し助けるのと、彼女自身に会いに行く為の口実にすぎない。もしかしたら新しい恋人だっているかもしれない、不気味な客が毎日くると、本当は怖がらせているかもしれない。それでも会いに行くのはやめられなかった。少しでも俺だと気づいて欲しくて、ただ無言でひまわりを買うと、切ない気持ちになった。
ある日、エリーナは俺にこう尋ねた。
「どうして毎日ひまわりしか買わないの?」
俺は答えられなかった。そんな俺に、エリーナは呟く。
「ひまわりを買いに来るあなたを見ていると、亡くなった恋人を思い出すの…彼の家でね、毎年夏になると植えていたから…私が一番ひまわりが好きだからって」
その声はいつくしみに満ちていて、俺は感情があふれ出すのをせき止められず、走り出した。買った花も落として、エリーナに背を向け、走った。
家に近くなる頃には本当に獣になったように四本の足で走りぬけ、慣れた四角く、俺を閉じ込めるための檻の中で泣いた。
体中の水分が吹き飛ぶほど泣いて、俺は悟った。そうだもう彼女とは一生ずっと一緒にはいられない。
一日中泣いて、部屋には狼のようなうめき声が広がり、そのまま気づけば眠っていた。
翌日、家のドアを叩く音に、驚いて目を覚ました。
この姿になってからの来客は、初めての経験だった。そっと窓から来訪者を覗き込んで、更に驚いた。そこにいたのはエリーナだったのだ。俺は急いでいつもの格好になると、ドアを開ける。彼女は困ったようの微笑んで、いつもより多い数十本のひまわりを俺に渡した。
「ごめんなさい、家分からなくて…色々歩いていたら大きな足跡があったからここかしらって…迷惑だった?」
俺は答えられない。彼女はそれでも一方的に続けた。
「今日は…ね、お別れにきたの、実は店、オープンしたばかりなのに経営がうまくいかなくて…閉めなきゃいけなくなったの」
「…………!」
「それで最後の…ひまわり、あなたに会えて、本当によかったわ、じゃあ、ね…」
エリーナが店を始めて、通いだしてから一度も出していなかった声が、ようやく出た。しゃがれていて、とてもじゃないけどきれいではない声。だけども彼女を呼び止めるのには、十分だった。
「エリーナ!」
エリーナは振り返らなかった。ただ黙って立ち尽くした彼女の腕をやんわり引くと、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「…やっと名前を呼んでくれたのね」
「…えっ?」
「私…目が合った時から、あなたなんじゃないかって、分かってたの、バーク」
心臓が、一際音を立て、俺は唇をかみ締めた。頭が真っ白になって、彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら、背伸びをして、俺のフードをはぐり、胸に顔を埋めて泣いた。
「どうして…どうして教えてくれなかったの。私はあなたが死んだと知らされていたのよ」
「………こわかった」
抱きしめたくても、俺の両手は少し力を込めると彼女を殺してしまう。涙を拭いてやりたくても、鋭い爪先が彼女の肌を傷つけてしまう。ひざをつけば、すぐそばに彼女の顔がある。俺は俯いて続けた。
「これ以上…人間ではなくなる自分がこわくて…見られたくなったんだ…」
部屋は温かい黄色で染まっていた。何万本にもなって、枯れて、しぼんで、もう見る影も無いものもある。それでも窓が少ないこの四角い家を照らしてくれた。その支えになったひまわりを見渡して、エリーナは俺の背中に手を回した。
「馬鹿ね、あなたは何も変わってないじゃない、あのときからずっと、優しいままよ…」
それから俺は知った。幸せというのは、どんなに絶望に潰されようが、自分で見つける意思がある限り、舞い戻り、続くのだと。
簡素なワゴンいっぱいに詰めたひまわりがそれを教えてくれている、そしてその隣にいる愛しい妻が。
考えてみれば、人間ではなくなった時のほうがとても生きているという充実感がある。
爪の先にひまわりを摘んで、俺は快活な声を出すよう、努めながら叫んだ。
「お花、いかがですか…!」