家が続くならどちらでもいいそうなので、妹と元婚約者に任せて家を出ました
選んでいただきありがとうございます。
ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
クラウディア・ベルンシュタインは、自分の婚約者が妹に膝枕されている光景を見ても、最初はそこまで驚かなかった。
驚く前に、廊下の角で足が止まった。
午後の客間は、やけに明るかった。窓際の花瓶には母が好む白い花が挿してあり、昨日クラウディアが「水を替えないと茎が腐ります」と言ったものだ。水は替えられていない。茎は少し濁った水の中で、見事に傾き始めている。
なるほど。
花瓶も、家も、だいたい同じかもしれない。
「……何をしているの、ルド」
声を荒げたつもりはなかった。だが、ルドウィックは跳ね起きた。膝枕されていた人間の動きとしては、たいへん素早い。平時の書類確認にもその速度がほしい。
「いや、これはその……」
「お義兄様、最近お疲れみたいでしたのでぇ」
妹のテレサは、そう言って胸を押し付ける角度だけは完璧だった。
完璧なのはそこだけだった。
十七歳になっても帳簿の見方が分からず、「小麦価格が上がるってことは、小麦農家がみんな幸せってことですよね?」と言い切る女である。幸せなのは中間で値を吊り上げる商人であって、小麦農家ではない。そこを説明すると、テレサは「でも小麦が主役ですよねぇ」と言った。物語ではない。流通である。
一方で、婚約者ルドウィックは、別に愚かではなかった。
書類も読める。社交もできる。剣も普通。笑顔も普通。貴族の婿としては、可もなく不可もなく、天井に届かないが床も抜けない程度の能力はある。
だからこそ、ベルンシュタイン伯爵家は成り立つ予定だった。
実務八割を叩き込まれた跡継ぎのクラウディア。そこに、平均点を安定して出せるルドウィック。派手ではないが、潰れない。劇的な発展はなくても、橋は落ちず、税は荒れず、冬の麦は足りる。
そういう設計で、家は回るはずだった。
「相談なら、応接机を使いなさい。膝は家具ではないわ」
「お姉様ってぇ、そういうところが怖いんですぅ」
テレサは唇を尖らせた。
最近、その言葉をよく聞く。
帳簿の桁を間違えたので直したら怖い。貴族名簿を覚えなさいと言ったら怖い。商人との面談で途中から菓子の焼き色を褒め始めたので止めたら怖い。
怖いとは、便利な言葉だ。
使えば、自分の間違いが少し可愛く見える。
「クラウディア、テレサ嬢は君を慕っているんだ。もう少し柔らかく……」
ルドウィックが言いかけた。
クラウディアは彼を見た。
彼は目を逸らした。逸らすなら最初から言わなければいいのに。人はなぜ、途中まで勇気を出してから急に撤退するのだろう。橋の真ん中で引き返す兵みたいである。
「三の鐘に会計確認があります」
「あ、ああ。行く」
「三の鐘です」
「分かっている」
分かっている人間は、三の鐘までに来る。
クラウディアはそれを口にしなかった。言えばまた怖いと言われる。言わなければ仕事が遅れる。
この家では最近、その二択ばかりだった。
◇
「クラウディア。お前、少し厳しすぎるのではないか?」
その夜、ルドウィックを交えた晩餐の席で、父がそう言った。
クラウディアは一瞬、誰の話だろうと思った。
少なくとも、今この屋敷で一番厳しくされているのは毎月の帳簿だ。帳簿は泣かない。泣かない代わりに、間違えると容赦なく家計を刺してくる。ある意味、テレサよりよほど誠実である。
「厳しい、ですか」
「テレサも最近泣いてばかりでな……」
父は困ったように言った。困っている人間は普通、肉の焼き加減に満足そうな顔をしない。横では母が「そうなのよぉ」と頷いている。テレサは伏し目がちにスプーンを持ち、たいへん傷ついた顔をしていた。三日前、厨房で焼き菓子をつまみ食いして叱られた時と同じ顔である。
「お姉様って、すぐ怒るんですぅ」
「怒っていないわ。貴女が税率計算を三回間違えたから修正しただけよ」
「でもぉ、怖かったですぅ」
「泣いておりましたわ」
「泣いてたな」
母が補強し、父が頷いた。
さらにルドウィックまで、「まあ、言い方は少し」と控えめに頷いた。
お前も頷くのか。
クラウディアはルドウィックを見た。彼は悪人ではない。むしろ善良寄りだ。善良寄りだが、今、「税率計算を三回間違えた」という事実より、「テレサが泣いた」ことを優先した。
恋愛とは恐ろしい。
人類の判断力をごっそり削るらしい。
「では次から、“税率を三回も間違えられるなんてすごいわテレサ”と言えば?」
「嫌味ですぅ!」
「正解した時だけ褒める方式に変えても?」
「プレッシャーですぅ!」
「難しいな……」
父が真面目な顔で呟いた。
お前が参加するのか。
クラウディアはナイフを置いた。刃先が皿に当たり、小さな音を立てる。使用人の一人が、すぐに視線を伏せた。笑うのを耐えたのだろう。分かる。私も耐えている。
「まあでも、家が続けばどちらでもいいのよねぇ」
母が軽く言った。
「そうだな」
父も頷いた。
クラウディアは思わず聞き返した。
「どちらでも?」
「優秀さで言えばお前だが、ルドウィック君とテレサの相性も悪くないようだしな」
「若い者同士でうまくやるなら、それでも」
軽かった。
びっくりするほど軽かった。
夕食後の果物を梨にするか葡萄にするかくらいの軽さで、伯爵家の跡継ぎの話をしている。この人たちは家を何だと思っているのだろう。恋愛成就の鐘か何かだろうか。鳴らせば収穫量が増えるとでも。
テレサが、ちらりとルドウィックを見た。ルドウィックは少し照れた顔をした。
照れるな。
家が傾いている話をしてるってーの。
クラウディアはそこで、ふっと理解した。
ああ。
この家、思ったより駄目だ。
◇
三週間後。
父に呼ばれたクラウディアが執務室に入ると、父の机の上が片付いていた。
普段なら、父は開いた書類の上に別の書類を置き、封蝋の欠片と砂糖菓子の包み紙を同じ皿に載せている。今日はそれがない。机の端に、白い皿だけが残っている。砂糖菓子は一つ減っていた。
深刻な話の前に食べたらしい。
落ち着きたかったのだろう。
甘いものは時々、人に勇気を与える。与える方向を間違えることもある。
「クラウディア。お前にはしばらく領地を離れてもらう」
父が言った。
「……はい?」
「領地を離れてもらう」
「……理由を聞いても?」
親子としてはかなり丁寧に聞いたつもりだった。胸の内では、理由を聞く前に結果が分かっている。父の隣には母がいて、そのさらに横にテレサがいた。呼ばれてもいない妹が執務室にいる時点で、話の中身はほとんど決まっている。
「テレサとルドウィック君に任せてみようと思う」
………ほぅ??
声には出さなかった。
胸の奥で、妙な鳥が鳴いた。ほぅ。そう来たか。なるほど。ついにそこまで。
父の隣で、テレサが勝ち誇ったように微笑んでいる。上品に笑っているつもりなのだろうが、目が先に勝っていた。笑顔にも順序がある。テレサはだいたい順序を守らない。
「お姉様、最近お疲れみたいですもの。少し休まれたほうがいいと思うんですぅ」
「私が?」
「はい。いつも怖いお顔をなさっているから」
誰のせいで。というか釣り目なのは生まれつきよ。
母には答えず、クラウディアは父を見た。
「お父様も、当主としてそうお考えですか」
当主として、とあえて付けた。
父は机の上のペーパーナイフへ視線を落とした。返事を考えているのか、考えている顔を整えているのか、娘にはだいたい分かる。昔から父は、重い話をする時ほど手元の小物に詳しくなる。
「ベルンシュタイン家が続くなら、方法は一つでなくていい」
中身の入っていない良い言葉だった。
「お前が優秀なのは分かっている。だが、家というものは一人で背負うものではない。テレサにも機会を与えるべきだ」
「機会、ですか」
クラウディアはテレサの方を見た。
テレサは少し得意げに顎を上げている。機会という言葉を、自分のために用意された絹のリボンか何かだと思っている顔だった。
帳簿を教えた日のことを思い出す。
最初の十分、テレサは羽根ペンをくるくる回していた。次の十分で、インク壺の縁に小さな花を描き始めた。三十分後には、「数字って、見ていると増えますねぇ」と言った。
増えていない。
増えたら困る。
税率の説明では、「でも、たくさん取ると嫌われませんかぁ?」と聞かれた。そこまでは、まだよかった。嫌われたくないという感覚自体は、為政者にとって完全な悪ではない。
その次に、「じゃあ全部なしにしたら、みんな喜びますよねぇ」と続いたので、話は終わった。
貴族名簿の時は、もっと早かった。
「お姉様、人ってこんなに名前があるんですか?」
この国にどれくらいの人口がいると思っているのか。
しかも、それは人ではなく貴族である。貴族であるならば、自分の周辺の、最低限、敵に回すと面倒な家と、味方にしてもあまり役に立たない家と、親戚面だけは早い家くらいは覚えておかねばならない。
テレサは三家目で眠そうになった。
商人との面談練習では、黙って座っていればいいと言ったのに、茶菓子の焼き色を褒め、商人の孫の話に頷き、肝心の納期交渉が始まった瞬間に「難しいお話ですねぇ」と笑った。
商人も笑った。綺麗な笑顔だった。
あれは、完全に値を上げる時の笑顔だった。
冬支度の説明では、「冬って毎年来るんですか?」と聞かれた。
来る。
冬は来る。
かなり律儀に来る。
「では、ルドウィックとの婚約はどうなさるおつもりで?」
父は一瞬だけ視線を落とした。
それで足りた。
子どもの頃、割った花瓶を自分のせいではないと言い出す前の顔。母に高価な猟銃を買ったことを言い出す前の顔。つまり、もう決めているのに、まだ相談の形だけ残している時の顔だ。
「テレサとルドウィック君の相性が良いようでな」
「そうですか」
相性。
婚約者が妹の膝でくつろいでいた件は、どうやら相性という名前になったらしい。響きがいい。使用人の前で言っても、ぎりぎり食器を落とされない。
「お前には、もっとふさわしい相手を探せばよい。お前なら困らんだろう」
父の声は優しかった。
優しいのに、どこか他人事だった。まぁ自分のことではないので他人事と言えば他人事だが。
クラウディアなら大丈夫。クラウディアなら分かる。クラウディアなら、まあ何とかする。
父は昔から、そういう時だけ娘を信用する。
クラウディアは、持っていた書類鞄を開けた。
革の留め具を外す音が、執務室に小さく響いた。父が目を瞬かせ、母の扇が止まり、テレサの笑みが半分だけ固まる。
「では、領地を離れるための許可を」
差し出した書類は、三枚。
一枚目は、クラウディアが一定期間ベルンシュタイン領を離れる許可。二枚目は、ルドウィックとの婚約を解消し、テレサへ婚約者を変更することへの家長承認。三枚目は、家族からの帰還要請にクラウディアが応じる義務を持たないという確認書だった。
まさかまさか、この書類を出す時が来るとは思わなかった。ここまでとは思いたくもなかった。だが致し方なし。
「これは……用意していたのか」
「はい」
「なぜ」
「必要になる可能性がありましたので」
テレサが小さく息を呑んだ。
「お姉様が帰ってきたくなっても、居づらいと思いますよぉ?」
クラウディアは妹を見た。
大丈夫だ、問題ない。
万が一にも、帰ってきたいと思わないだろうから。
「心配してくれてありがとう、テレサ」
そう返すと、テレサは少し不満そうな顔をした。ほしい菓子が手に入らなかったときの顔と一緒である。
父は書類を読んでいた。
決して愚かではないので、きちんと読んでサインしているはずだ。父は怠惰ではあるが、文字が読めないわけではない。自分に都合の悪い条項を見落とすほど幼稚でもない。
だから、これは父の判断だった。
父が署名し、印章を押した。赤い蝋が潰れる音がする。甘くも苦くもない、ただ熱い匂いが少しだけ漂った。
「これでよいか」
「はい。ありがとうございます」
クラウディアは一礼した。
「では、失礼いたします」
止める者は誰もいなかった。
◇
出立は翌朝になった。
夜のうちに雨が降ったらしく、玄関前の石畳には黒い染みが残っていた。御者は眠そうな顔で手綱を確かめ、馬は白い息を吐きながら、なぜ自分がこの家の揉め事に巻き込まれているのか分からない、という顔をしている。
その気持ちは分かる。
クラウディアの荷物は少なかった。衣服が数着、書類、手帳、現金、紹介状。家を出るには少なすぎるが、面倒なものを置いていくにはちょうどいい。
玄関前には、父と母とテレサ、そしてルドウィックがいた。
ルドウィックは昨夜のうちに話を聞いたのだろう。こちらを見るたびに視線が泳ぐ。泳ぐなら川にしてほしい。人の婚約を流した男が、玄関先で小魚みたいに目を揺らしている。
「クラウディア、その……」
「ルドウィック様」
呼び方を変えると、彼は分かりやすく顔を強張らせた。
「テレサをよろしくお願いいたします」
「あ、ああ」
「帳簿は毎日見ることをおすすめします。三日空けると、戻すのに十日かかりますので」
「分かっている」
「最初は一枚目からです」
「……そうか」
なぜ少し意外そうなのか。
帳簿はだいたい一枚目から見る。途中の気に入った頁から読むものではない。恋愛詩集ではないのだから。
テレサがすかさずルドウィックの腕に自分の腕を絡めた。勝ち誇った仕草のわりに、爪先だけが寒さで忙しく動いている。
「お姉様、どうかお元気で。家が恋しくなっても、わたくしたちのことは心配なさらないでくださいねぇ」
「ええ。心配しないわ」
それは本心だった。
クラウディアは、彼らが失敗すると予測しているだけで、心配はしていない。
父が重々しく頷いた。
「しばらく外で学ぶのもよい経験だ」
「はい」
「落ち着いたら、戻ることも考えなさい」
「帰還要請には応じない旨、昨日ご署名いただきました」
「いや、そうではなく、家族としてだな」
「家族としても、書類は有効です」
沈黙が落ちた。家的には追い出したことにしたくないようだ。
馬が鼻を鳴らした。
たぶん馬の方が理解が早い。
母が慌てたように笑う。
「まあ、そんな固いことを言わなくても。あなたのお部屋は、いつでも帰ってこられるように残しておくわ」
「えっ」
テレサが声を上げた。
全員がテレサを見た。
「だ、だって、お姉様のお部屋、日当たりがいいんですもの。わたくしの帽子部屋にちょうどいいかなって……」
帽子部屋。
父が咳払いをした。母が扇を開いた。ルドウィックが空を見る。空に答えはない。
清々しい。
ここまでだと、むしろ清々しい。笑ってしまう。
領地の冬支度より帽子の置き場を心配する妹に、家を任せようとしている。普通なら怒るところだが、ここまで来ると見事な采配だった。崖の縁に花瓶を置いて、「風通しがいいわね」と言っているようなものだ。
「そう。では、部屋は好きに使って」
「いいんですかぁ?」
「ええ。机の下にある古い帳簿だけ、湿気に弱いから移しておくといいわ」
「……古い帳簿?」
「三年分」
「三年」
「帽子より場所を取るかもしれないわね」
テレサはルドウィックを見た。ルドウィックは目を逸らした。もう小魚どころではない。水槽から出た魚である。
クラウディアは馬車に乗った。
扉が閉まる直前、父がまた言った。
「クラウディア。本当に困った時は、連絡をしなさい」
「はい。私が困った時は」
父はその違いに気づかなかった。
母も気づかなかった。
テレサはまだ三年分の帳簿を想像している顔をしていた。ルドウィックだけが、一拍遅れて気づいたように唇を引き結ぶ。
その程度の理解力はある。
だから余計に、惜しくはなかった。
馬車が動き出す。
濡れた石畳を車輪が踏み、屋敷の玄関が少しずつ遠ざかる。白い柱、磨かれた扉、先代から続く紋章。昨日まで自分が守るものだと思っていたものが、今朝は妙に立派な箱に見えた。
中身は、さきほど帽子部屋になった。
クラウディアは振り返らなかった。
◇
半年後。
ベルンシュタイン伯爵家は、冬を越せなかった。
原因はいくつかあるが。
まずテレサが、「領民との距離を縮めたいですぅ」と言い出し、倉庫の備蓄麦を祭りで無料配布した。
発想そのものは悪くない。問題は量だった。
テレサは備蓄麦のうち、どれが祭礼用で、どれが冬越し用で、どれが緊急時用かを知らなかった。知らないなら聞けばよかったのだが、聞く相手はクラウディアと一緒に家を出ていた。
使用人頭のマーサである。
つまり、止める者がいなかった。
「皆様、とても喜んでいますぅ」
「よかったな」
父は微笑んだ。やったことがない施策のため、やってみよう、となったようだ。量を考えて量を。
母も「領民に愛される当主夫婦って素敵ねぇ」と言った。
当主夫婦ではない。まだ婚約者と妹である。細かいようだが、こういう細かさを無視すると、だいたい後でツケが回ってくる。
次にルドウィックが、「減税すれば商業は活発になる」と聞きかじりで税を下げた。
考え方としては、完全な間違いではない。だが、支出を減らさず、備蓄も削った後にやることではない。風邪の人間に氷水を浴びせて、「体温が下がりましたね」と言うようなものだ。
さらにテレサが、商人との契約で納期の確認を忘れた。
「だって、あちらの方、とても良い方そうでしたもの」
「何を話したの?」
「お孫さんが生まれたそうですぅ」
「納期は?」
「元気な男の子ですってぇ」
「納期は?」
ルドウィックはそこで頭を抱えた。
遅い。
抱えるなら契約前である。
しかも、ここで終わらなかった。
テレサは貴族夫人たちとの茶会で、「クラウディアお姉様がいなくなってから、家の中が明るくなりましたの」と言った。貴族夫人たちは上品に笑った。上品に笑う時ほど、話はよく広がる。
翌月には、ベルンシュタイン家は「厳しい跡継ぎを追い出して、妹が恋と改革を始めた家」として知られていた。
恋と改革。
響きは良い。
だが、恋は帳簿を閉じ、改革は倉庫を空にした。
結果。
冬が到来した。今年の冬は特に冷え込みが厳しい。
備蓄不足。
税収激減。
納品遅延。
雪。
物流停止。
終了のお知らせ。
「ルドウィック様ぁ……どうしましょうぅ……」
「いや、だから支払いを待ってもらえば」
「待ってもらえませんでしたぁ」
「なんで!?」
「お姉様がいないので」
ルドウィックは最近、よく天井を見るようになった。天井にも答えはない。玄関前の空と同じである。
父は「若い者の自主性を尊重しよう」と言い、母は「でも家族仲は良いわよねぇ」と微笑んで、隠居を始めていた。
仲が良い。素晴らしい。似たもの夫婦。
暖炉にくべる薪がない時、仲の良さだけでどこまで温まれるか、そろそろ実験できそうだった。
◇
クラウディアは、その頃、隣領で普通に働いていた。
「書類処理、早いですね」
新しい雇い主であるエルデン子爵は、机の上の書類を見て感動していた。感動するほどのことではない。一枚目から読み、必要な欄に印をつけ、支払い期限の近いものを前に出し、意味の分からない請求書を弾いただけである。
ただ、それを誰もやっていなかったらしい。
「慣れておりますので」
「前任者の三倍です」
「三倍」
比較対象が酷い。
クラウディアはそう思ったが、口には出さなかった。前職と違い、ここでは帳簿が泣かないし、人も泣かない。しかも、分からないことを質問すると、相手が答える。奇跡のような職場である。
「クラウディア嬢。君、うちに正式に来る気はないか?」
「まだ試用期間では」
「試用でこれなら、本採用にしない理由がない」
子爵は真面目に言った。
クラウディアは少しだけ考えた。
窓の外では、使用人が薪を運んでいる。薪の量は十分。倉庫の鍵は管理され、帳簿は二重に確認され、冬支度の予定表には誰の署名も抜けていない。
冬は来る。
ここでは、ちゃんと来るものとして扱われている。
「ありがたく、お受けいたします」
◇
一年後。
元ベルンシュタイン伯爵家の屋敷では、使用人が全員いなくなっていた。
料理人も、庭師も、御者も、掃除係も、最後には門番までいなくなった。門番がいなくなると門は閉めっぱなしになると思われがちだが、実際には誰も閉める者がいないので、半端に開く。
たいへん象徴的だった。
「お姉様ならできたのにぃ……」
「クラウディアは細かすぎたんだ」
「でも、いないと困りますぅ」
「…………」
ルドウィックは黙った。
最近になってようやく理解し始めていた。
クラウディアは怖かったのではない。
必要だったのだ。
彼女が毎日潰していた小さい問題が、今は全部そのまま襲ってきている。しかも雪崩になって。
「ルドウィック様ぁ、借金取りが来ましたぁ」
「今日で何回目だ」
「十三回目ですぅ」
「多いな……」
父は戻ってきた本邸の書斎で「いやぁ、家とは案外、潰れるものだな」と呟いた。
母は「でも最後まで家族仲は良かったわよねぇ」と言った。
テレサは「お姉様が冷たかったからぁ」と泣いた。
ルドウィックは遠い目をした。
その目には、膝枕の日の柔らかさはもうない。あるのは、三年分の帳簿と冬と請求書を前にした男の、静かな疲労である。
◇
最終的に。
ベルンシュタイン家は爵位返上。
屋敷売却。
借金整理。
父は「家が続くならどちらでもいいと思っていたが、続かない場合があるとは」と言い、母は「まあ、人生って分からないわねぇ」と笑い、テレサは「帽子部屋だけでも残りませんかぁ」と聞いた。
残らない。
家が残らないのに、帽子部屋だけ残るわけがない。
ちなみにクラウディアは、隣領の子爵家で正式に迎えられていた。
「前職では何を?」
ある日、訪ねてきた商人にそう聞かれた。
クラウディアは少し考えた。
「家が潰れないようにしておりました」
「なる、ほど?」
なるほどではない。納得しないで。
だが、子爵は隣で深く頷いていた。
「重要な仕事ですね」
「ええ。本当に」
窓の外では雪が降っていた。
冬は来る。
かなり律儀に来る。
けれど、備えた家には、ただの季節として来る。
クラウディアは温かい茶を一口飲み、今日の帳簿を開いた。
もちろん、一枚目からである。
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