朱殷に染まる森
長く伸びた髪を両手で抱え、わたしは暗い森の中を必死に走った。
裸足の足裏に、湿った土と尖った小石や木の根が突き刺さるように襲いかかる。踏みしめるたびに鋭い痛みが電流のように走り、尖った根に足を取られて何度も転んだ。
「痛い……」
けれど、それでも足を止めるわけにはいかない。
『見つかったら石像生活に後戻りだ!』
そんな根拠のない直感が、背中をぐいと押してくる。
それに従うように、全身泥まみれになりながらも、金色の光に照らされながら森の奥へ奥へと足を進めていた――。
『……音が、しない』
それに気づいた時、わたしは初めて立ち止まった。
虫の羽音も、鳥の声も、獣の気配すらない。雨音と自分の呼吸音、それだけが森を支配していた。
『きっと生き物たちは空からの攻撃に驚いて森の奥に行っちゃったんだ……。わたし、これからどうしたらいいんだろう……』
相談する相手も、助けてくれる人もいない、不安で押しつぶされそう……。でも、もう戻る場所もない。
「どこか安全な場所を見つけないと……。せめて雨風がしのげて、身を隠せるような場所……」
そんなことを考えながら再び走り始めると、足裏に、グサリと鈍い衝撃が走った。
「うぐッ⁉」
見下ろすと、足の裏に突き刺さった枝の先が、足の甲からコンニチハしていた。再生能力のおかげで血は出ていないけど――やばい、これ……。
急いで引き抜こうと枝を握りしめる――
「ちょ、待って⁉ 傷が……傷が塞がってる⁉ 刺さったままで⁉」
枝が刺さったまま、まるで何事もなかったかのように皮膚がふさがっていた。その異様さに、冷や汗が背中を伝う。
「い゙い゙ぃぃ……っ、ちょっと勘弁して……っ‼」
意を決して、ずっぷりと肉を裂きながら枝を無理やり引き抜く。
「あ゙だだだッ!やだもうなんなの⁉ この体‼」
震える声で不満を漏らし、傷がふさがるのを確認して再び歩みを進めるのであった。
――どれぐらい走っただろうか……、かなり距離を移動したにもかかわらず、この体は不思議なほど疲れを感じない、不安と焦りで精神的な疲れだけが蓄積していく。
「……結構 走ってるのに、全然バテない……、息切れもしない……。怪我もすぐ直るし……いや、今はありがたいんだけど……、この体どうなってるの?ちょっと怖いかも……」
人体の限界を、超えた自分の体に、不安がじわりとこみ上げてくる。
そんなことを考えながらも進んでいると、雨は細くなり、森の様子も少しずつ変化していることに気付く。
浅い場所に群れていた、葉の薄い広葉樹や、細くスラリと伸びた針葉樹といった“陽樹”の姿は少なくなり。代わって、背が高く、葉も濃くて厚い“陰樹”が目立ち始めていた。
葉の隙間から見上げても、空は見えない。
『このまま森の奥へ行けば、空の奥にいた“何か”からも隠れられるかも』
そう思った瞬間、空気の重みが変わった。
雨の匂いにまぎれて、どこか鉄臭いような、濃くて錆びたようなにおいが鼻をついた。
――ぬるり、と何かを踏んだ感触が……。
「……っ、なにこれ……」
泥にまみれた毛皮。四本の細い脚。片目を抉られ、腹を裂かれた小動物の死骸が、そこに横たわっていた。
小さなその身には、何かに引き裂かれたような鋭い傷が残されている。
「びぇッ‼」
まだ暖かい。ついさっき、殺されたばかりのようにすら見える。
さらにその先にも、何体もの動物の亡骸。首を喰いちぎられたもの、体を半分にされたもの――どれも、街の猟師たちが森の浅い場所で狩っいた小動物ばかりだ。
『マズい!マズい!マズい!マズい!やばい生き物の縄張り入っちゃったかも!』
呼吸が荒くなっていく。逃げなきゃ、隠れなきゃ、どこかに……。
そのとき、背後で茂みが揺れ、わたしは反射的に振り返った。
そこにいたのは黒いイヌ型の獣。
体高は一・五メートルぐらい、頭の位置がわたしの背丈よりも高い。
全身の毛は短く、泥水と雨にまみれて貼りついており、まるで油で濡れたモップのように汚れている。
牙が収まりきらない口元からは、だらりと泡混じりの涎が垂れている。
目は赤く爛れ、瞳孔は開ききって、こちらをまっすぐ見ていた。
「うッ、うそ……いや、来ないで……来ないでよッ……!」
わたしが立ちすくんだ、その瞬間だった。右の木の影から――!
「わっ⁉」
側面から飛び出してきた別の個体が、ガブリ、と右上腕に喰らいつき、そのまま走り抜けて行った。
その瞬間、真っ赤に熱した鉄の杭を肩に打ち込まれたような衝撃が走る。
「ひぎぃッ‼ああぁ?ああァッッ⁉」
とっさに確認すると肩から先が無い!
「ちぎれた⁉ わたしの右腕‼」
そして一拍置いて、神経が焼けるような痛みが爆発する。
「ッ……⁉ッッ‼ヴうぅぅぅぅぅぅーッ‼ヴうぅぅぅぅぅぅーッ‼」
あまりの痛みに消防車のような奇妙な叫びをあげる。
脳が痛みを処理しきれず、視界にチカチカとノイズのような幻覚が走り、色のない光が弾ける。
「はっ、はっ、ひっ、ひっ……!」
ラマーズ法。わたしが知ってる痛みを誤魔化す唯一の術。どこかで聞きかじっただけの、陣痛に効くらしい呼吸法を、わたしは反射的に繰り返した。
「ひっ、ひっ、ふぅ~~~~……っ、ふぐぅ~~~~~~ッ‼ ……ッ!意味無いッ!」
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていく。けど、それでも呼吸を止めたら死にそうで、ひたすら必死に息を吐いた。
泥に崩れ落ちるわたしの肩の断面から、ニョロリと金色に光る腕のシルエットが生えて、次の瞬間には元どおりになっていた。
「あっあっあっあっ!再生早い!でも痛い!まだ痛い‼」
地面を転がりながら叫ぶわたしの目の前で、右腕を喰っている獣が痙攣を始めた。
目の奥が光り、鼻から蒸気のような煙が噴き出す。
そして……プックリと体が風船のように膨らみ。
“Pop!”
腫れ上がった肉袋が、内部から圧力に耐えきれず、パンッと弾け飛んだ。
肉片と臓物、赤黒い体液が飛び散り、あたり一面にねっとりと降り注ぐ。
近くに居たわたしも飛沫を浴びて真っ赤だ。
「うわあああああ⁉なんで?……爆発⁉わたしのせい⁉」
再生されたばかりの右腕を見る。
「わたしの右腕ってそんな不味かった⁉」
呆然とする暇もなく、もう一体がわたしに向かって突進してくる。
その瞳には、わずかな怯えと、それでも喰らおうとする狂気が入り混じっていた。
「やッ!やめれッ!」
そのとき――風を裂く音と共に、赤い物体が金色の光の尾を引きながら宙を舞い、獣の首に巻きつく。
『何⁉赤い光が⁉』
次の瞬間、ぶりんッ‼っと鈍い音と共に、獣の首が奇妙な角度に折れ曲がった。
そのまま地面に倒れ込み、動かなくなる。
「えっ?……半纏⁉」
わたしの半纏が袖を組み、ゆっくりと下りてくる。
「半纏‼ああぁッ、来てくれたああぁぁぁぁああ……‼」
わんわん泣きながら、しがみつく。半纏は何も言わず、ふわりと肩を包み込んでくれる。
涙と一緒に鼻水まで垂らしてわんわん泣いていると、わたしの背中で再び茂みが揺れた。
『ああぁッ!まだいる!』
さっきの爆発音に誘われたのか、半纏の後を追ってきたのか、獣たちが集まってきていた。
さっきのより小さいイヌ型の個体から、でっかいクマ型の奴まで、目を血走らせて続々と……。
「ひえぇェ!半纏!とッ飛んで、飛んで逃げよう?」
すると半纏が、くるりと振り向き、まるで「下がってろ」と言わんばかりに、わたしの前に出た。
「いやいやいや、流石に――」
半纏が、対峙する獣たちに両袖を向ける――その瞬間、半纏の表面に浮かぶ麻の葉模様が、淡い金色に変わり始めた。
普段は銀鼠色だった文様が、まるで命を得たかのようにゆっくりと明滅を繰り返し、森の闇の中で柔らかく輝いて見える。
その輝きに呼応するかのように、周囲でも金色の粒子が輝きだし、森に潜む獣たちを照らし出す。
「――えっ⁉」
そして纏うように周囲の粒子が半纏がに集まり、袖口に向かって収束されていく。
獣たちも、この異変に危機を感じたのか、こちらに向かって突進してきた!
「むりむりむりむりッ‼」
突っ込んでくる獣たちを前に、わたしはお饅頭みたいに丸まって震えることしかできなかった――。
“Zing! Zing! Zing! Zing!”
――丸まっていると、すぐそばの半纏から、空気を切り裂くような金属音が連続して響いた。
「ッ!なにィ⁉」
顔を上げて半纏を見ると、袖の中から“何か”が、ものすごい勢いで飛んでいく!
“Thunk! Thwuck!Thwuck!”
金色の曳光を引き、流れ星のように飛んでいったソレは、まるで熱した釘をバターに打ち込むみたいに、獣たちの体に穴を開けていく!
苦しげな断末魔をあげながら、獣たちは次々と倒れていった。
それでもなお、ひときわ素早い小柄なイヌ型の獣が二体、ジグザグに軌道を変えながら、弾幕の合間をすり抜けてくる。
「速ッ⁉ なにあの二匹⁉」
砂色の毛並みが、周囲を漂う金色の粒子の輝きに紛れ、視認しづらい。さらに、走る速度に緩急をつけ、まるで地を這うように低く、速く迫ってくる。
他の獣たちがただ突撃してくるのに対し、こいつらには理性の残り香のような冷静さがある――その動きに、思わず息を呑んだ。
素早い二体の獣に気を取られていたそのとき。
背後に――死角からもう一体、同じ種の獣が音もなく回り込み、わたしに向かって飛び込んできた!
「ひ、ひぃぃぃいッ!」
『三匹目⁉やられるッ!』
半纏の両袖は、それぞれ走り回る二体を指向していて――間に合いそうもない!
わたしは思わず、地面にべったり伏せた。
長い髪が、岸に打ち上げられたクラゲの触手みたいに広がって、なんとも情けない姿だ。
“Gnash! Crack!”
鈍い音と共に、なにかがわたしの髪を激しくかすめた。
だが……痛くない。
恐る恐る顔を上げると、わたしの長い髪が硬化して、飛び込んできた獣の鋭い牙を受け止めていた。
『……え?』
何度か噛み付いてみても、全く歯が立たないみたいだ。
「え、なに……?わたし……やったの?」
攻撃した獣は、明らかに驚いたように飛び退き、決定打を与えられないと判断したのか、そそくさと反転し帰っていった。
残された二体も、数秒の間合いを測った末、一歩、また一歩と後退し、やがて静かに森の奥へと姿を消していった。
「……逃げた?」
彼らにとって、完璧な奇襲が失敗した時点で撤退は理にかなっているのだろう。
むしろ、そう判断できること自体が恐ろしい。
『こんな速くて賢いのがいたんじゃ、飛んで逃げたとしても追いつかれてたかも……わたし、詰んでたんじゃん⁉』
一番の脅威は去ったようだ。
でも、まだ終わってない。
残った獣たちは、あと九体!
わたしの方へ、一斉に殺到してくる!
冷静さも作戦もない、ひたすら、本能に突き動かされるように、真っ直ぐ突っ込んでくる。
『距離が近い!』
さっきの三体に気を取られていたぶん、間合いが詰まっている!
半纏は即座に斉射三連!
最前列の三体が一瞬で吹き飛び、血しぶきを撒き散らす!
そのまま体勢を低くして、残る六体へ突貫!
「うわぁ……」
半纏の接近戦のスタイルは、首一点狙い。
近づきながら弾を放ち、動きを鈍らせた獣の首に巻き付き――ぶりんッ!
別の一体には、袖口に頭を強引にこじ入れ引き千切る!
「う、うわああ……!」
すごい勢いで、首を刈っていく。
獣の咆哮が、悲鳴に変わる。
残るは――最後の一匹。
際立って大きなクマ型の奴だ。
片目は潰れ、胴体には弾を何発も受けているが、それでも立っている。
弾が分厚い毛皮と、岩のような筋肉に阻まれて、致命傷には至っていなようだ。
「……まだ動けるの⁉」
突進ッ!
「速い‼」
即座に半纏が首に巻きつく。
が、効かない!
骨が折れないッ! 体格も、力も規格外だ!
次の瞬間、半纏の袖口から、金色に光る“何か”がニュルリと現れる。
「何を?……ッ!わたしの腕⁉」
そう、最初に喰われた、わたしの右腕だ。
『いつ持ってきたの?ってかどうするのさ?』
再び金色の光が半纏がに集まりだし、袖口に……、いや、取り出したわたしの右腕に吸い寄せられる。
――にょろにょろにょろ~
右腕から、生えてきた……体が、生えてきた!
おそらくわたしの体と同じものだろう……。
「えぇ…(困惑)」
右胸あたりまで再生させたところで――
――それを、半纏は、強引に、口から!強引に!クマ型の体内へと突っ込む‼
するとぶるぶる痙攣し始め、みるみるうちに体が膨れ上がる。
「あっ…(察し)」
“Pop!”
短く、乾いた破裂音とともに、クマ型の獣は膨張しきった風船のように爆ぜた。
中から弾け飛んだ肉片と血しぶきが、あたり一面に降り注ぐ。
「ヴォエ!」
本日二度目の血しぶき直撃に、えずく。
周囲に動くものはなく、かすかに、瀕死の獣たちの苦悶の声が聞こえるだけだった。
朱殷に染まった殺戮の森に、弱い雨が音もなく降り注いでいる。
半纏はくるりとこちらを振り向き――
得意げに袖口にふうっと息を吹きかけ、まるでガンマンのような仕草をしてみせた。
骸の山を背に、鮮やかな布地を揺らして佇むその姿は、誇らしげに見えた。




