草木で出来た校内
クウェリルが長いこと眠っていた部屋は、この学校の生徒が怪我や病気などの際に訪れる処置室なのだと男は言った。
人形遣いが集められたこの学園における処置室といえども、案外特別に変わったところがある訳ではないのだ等と考えながら男と二人、並んで部屋を出たがクウェリルは自分の認識の甘さに気が付くほかなかった。
一歩その部屋を出て目の前に広がった光景に、クウェリルは目を瞬かせた。
処置室も、オーロの城における雨の日の食堂ほどの薄暗さを感じていたが、廊下に出てみれば、それはまだ明るい方だったのだと気づかされた。
出入口で立ち止まったクウェリルの目の前の廊下は、まるで夜の闇をそのまま室内に持ってこさせたかのように暗いかと思えば、しかしあるものがもたらす明かりによって、何とか右左が分かるほどの明るさを手に入れていた。
その、暗くとも明るい光景で、クウェリルは妄言としか思えなかった男の話を信じるほかはなかった。
それは、とても信じられないが、何と恐るべきことに、炎々と燃える炎が、まるで個体になったかのようにその形を保ち、そしてクウェリルの方へとゆらゆらと飛んできていたのだった。
暗闇を炎が朧げに照らす―そんな目の前の光景に、思わず身動きも取れないクウェリルの前を、今度は視界の端から向かってきた炎の玉が横切った。
途端にクウェリルは炎が持つ熱さを感じ取り、急いで身を引いてそして自分の髪の毛が焦げていないかどうか、慌てて髪をかき上げて、異変がないかを懸命に確かめた。
「髪が! ねぇ、焦げて千切れちゃってたりしていないわよね?」
「そんなに取り乱さなくても、ミリクィである君が燃えて灰となってしまうことなんて決してないよ」
男は隣で必死に髪をまさぐるクウェリルを見て大げさだと笑った。
しかし男の膝近くへ、クウェリルの頬を掠めかけた炎の玉が頭一つ分ほどの距離まで近づいたことを認識してしまえば、彼はクウェリルが飛びのいた距離の倍は後ろへ移動し、その後ぜいぜいと息を吐いた。
「よりにもよってどうして僕にばかり寄ってくるんだこの玉は! 僕はササール(草木の人形遣い)だぞ!」
男は声を荒げながら、ローブの膝付近―炎の玉が近づいてしまった辺りを擦った。
クウェリルは男のあまりの変貌ぶりに、自分の興奮が少々なりを潜めたのが分かった。
「ねぇ、その……私がミリクィ(水の人形遣い)っていうのだとすればその炎の玉をわざわざ避けて歩く必要はないの?」
「えぇ?……まぁ君にとってはこれは全くの無害だからね。ミリクィの多くは平然とこの玉が浮かぶ空間を通り抜けているよ」
男は自らのローブの焼け跡探しに些か熱中しすぎているものの、クウェリルの疑問に返事をした。
「だったらこの学校は私たちミリクィにとって大分有利な状況にあるということよね? そして貴方たちササールにとっては……とても危険な場所よ」
屈んで長いこと下を向いていた男は、クウェリルの言葉に急に勢いよく顔を上げたが、上げたその顔には今の言葉は心外だと大きく書いてあった。
「世の中はそんなに不平等でもない。上を見上げてごらん」
男は上へ向かって指を指したのでクウェリルもならって天井を見上げた。
するとそこに見えたのは、結構な高さはあるものの、至って普通な木材を使用した天井があるだけだと思った。
しかしそれも束の間、クウェリルの頭上をまたもや炎の玉が漂うと、暗がりに紛れていた天井の全貌が明らかになった。
まず視線を奪うのは、この廊下の天井一体を横断してしまうかというほど長く、そして太い木の幹だった。
そしてそれを中心に、どこから生えてきているのか少しちいさめの木の幹や、枝、そして多くの葉で天井は覆いつくされていたのだった。
あんぐりと口を開けて首を上げて、荘厳な天井を見つめるクウェリルの耳に、男の声が入って来た。
「天井だけじゃないさ。壁も、床も。この建物自体が草木で出来ている」
言われて目線を下げ壁を見てみれば、そこにはやはり大きな幹が外との仕切りの役割を果たしていたり、対照的に小さく細い木々も絡み合いながら隙間を埋めていた。
そして、下を向けば床も同様だった。
今この瞬間までは気が付かなかったが、クウェリルが身動きをする度に、寄せ集まった木々はミチミチと危うげな音を立てていた。
まるで森を飲み込んでしまって造られたかのようなこの建物に、クウェリルは圧倒されしばらくの間見入った。
「……この建物が不思議にも草木で出来ているということは分かったけれど、それがどうして水のミリクィとササールが平等ということにつながるのかしら」
クウェリルは不安定な足場によって転んでしまわないよう、細心の注意を払いつつも男に尋ねた。
すると男は途端に変な顔をした。
「君は今まで生きてきた中で草木に触れると体に異変を起こしたりしなかったのかい?」
その言葉にかつての生活を思い起こしてみたが、男の言うような経験は蘇ってこなかった。
「……いいえ、心当たりは全くないわ」
「本当に? ただの一度も?」
男があまりにも疑うかのごとく顔を見つめるため、クウェリルは自分の記憶を疑った。
しかし、やはり頭のどこにもそんなものは見当たらなかった。
「……私はそもそも草木に触れる機会がめっきり少なかったのよ」
「それも、草木に触れて痛い思いをしたことがあってのことなんじゃないか?」
「いいえ、違うと思うわ。……私は一日、いえ人生の大半を城の中で過ごしていたんだもの」
クウェリルが小さくそう言った後、男は大げさに驚き声を上げることや、憐れむような居心地の悪い視線を向けることはせずに、ジッとクウェリルを見つめるだけだった。
そして、男のその落ち着いた反応が今のクウェリルにとってはとても有難かった。
「なるほどね……、君はずいぶんと大切にご両親に育てられたようだ」
男は腕を組みながらしみじみと言った。
「君には今まで縁のない話だったようだけど、これからはそうはいかないから話しておかなくちゃいけない」
そう言うと、男はおもむろに空中に手を伸ばした。
すると、手を伸ばした先、ちょうど目と鼻の先といったところまで炎の玉が迫ってきていて、クウェリルは、男が盛大な悲鳴を上げる―そう確信し、身構えた。
しかし、男は指先に近づく炎に悲鳴を上げるどころか、息を殺し、ジッと見つめたのだ。
それはまるで炎が近づくことを望んでいるかのような姿勢に見えてならず、クウェリルはこれから何が起こるのか、予測が出来ず、全身に力を入れた。
そして、とうとう男の中指に炎の玉が接触した。
クウェリルは指先が炎の玉に触れる瞬間を見届けた後、今度は男の顔を見たが、そこには眉を寄せてはいるものの、想像よりずっと、力を抜いているように見える顔があった。
「この痛み……久々だな……」
男はそう言うと、炎が触れてしまった指先を顔に近づけて色々な方向から眺めた。
顔だけでなく、声もとても痛みを我慢してるようには聞こえず、クウェリルは無意識のうちに肩に入っていた力をすっと抜いた。
「火傷をしているんじゃない? 私にも見せてちょうだい」
クウェリルは距離をとっていた男に近づき、少々高い位置にある男の指先をのぞき込むために、背伸びをした。
「ほら、僕たちが炎に触れるとこんな風になってしまうんだ」
男は傍らに来たクウェリルに気が付くと、目の前に指先を差しだした。
普通、やけどを負ったばかりの皮膚は赤くなるはずだが、クウェリルが見た男の指先は、茶色く血の気を感じさせない色をしており、これは明らかに軽傷ではないとクウェリルにも分かった。
「早く冷やさないと……。こんな色、明らかに重症じゃない!」
クウェリルは男の指先を見れば見るほどそのあまりの痛々しさに、自分の顔まで歪んでいくのが分かった。
しかし、見上げた先の男の表情はクウェリルの焦りをものともせずに、至って冷静に自らの指先を見ていた。
「そうさ。こんな目に遭ってしまうものだから、僕たちにとっては炎は天敵という訳さ。君がコレに触れたってこうはならない」
男は自分の指を襲った、ゆらゆらと浮かぶ炎の玉を反対の指で指して平然と言った。
その様子に、男にとってこの火傷は想定内のことだったのだと、クウェリルはようやく確信が持てた。
「まさか、私にそれを言いたいがために自ら炎に触れたというの?」
クウェリルは自分ほどの焦りを見せていない男に対して驚き、そして言った。
「その通り。実際に見た方が早いだろう? そして、君たちミリクィの天敵は草木だ。さて、察しのいい君ならどうなるのかわかるかい?」
男は、すぐ後ろにある壁―細い茎の先から生える黒い色をした葉を指さしてクウェリルに尋ねた。
クウェリルは男の挑戦的な笑みを受けて、目の前のこの葉に、自分が触れてしまえば一体どうなるのだろうか、頭で数々の結果を考えた。
「もし、これに私が触れたら……」
クウェリルはいつの間にか、葉が目と鼻の先まで近づいていた。
「貴方みたいに、皮膚が茶色くなってしまうの……?」
葉は、クウェリルの鼻息で揺れてしまいそうなほど近くにあったが、何故だかそれをじっと見つめるとクウェリルの目は水分を奪われ、乾燥を感じずにはいれなかった。
クウェリルは開けていられないと目を瞑ると、その拍子に目の奥からじわりと涙があふれ出てくるのを感じた。
「惜しいな。君の皮膚は僕のように茶色くくすむことはないよ」
自然には縁遠い城の中で育てられたクウェリルにとって、正解を導き出すのは難しかった。
男はゆっくりと首を振って、クウェリルの言葉を否定した。
「そんな難しい顔をしなくてもいいんだ。物事は単純、草木と水。これはどんな反応をみせる?」
男はすぐ隣にある、辺りで一番立派な大きさの葉を指先でぴんと弾いて、そしてクウェリルを見た。
揺れる葉は、先を目でたどれば太い幹から生えた小さな一本だったことが分かった。
大きな幹は、触れることは叶わない位置にあったが、遠目に見ても幹の一部が今にも剥がれ落ちてしまいそうだとクウェリルは思った。
その枯れかけた幹が水と触れた瞬間一体どうなるのか、クウェリルは頭で考えるとクウェリルは先ほど自分が水攻めに遭い、水中で彷徨う羽目になったあの時の、自分の不思議な感情―まるで自分の体が水を求めているような―そんな感覚を思い出した。
見れば、腕には鳥肌が立っていた。
「さっぱり分からないわ。何回も言うようだけど私、水とは縁がなかったもの」
身震いしたことを悟られぬように、クウェリルは腕を男の視線から守るように自分の胸へと抱きよせると、何度も同じことを言わせるな、と男を非難するように強く睨んだ。
「今僕が答えを言うのは簡単さ。だけど、ここはヴァンミフという名の学園だ。答えを追い求める場所で、人に答えを貰って満足するなんて、それは楽しくないんじゃないか? 僕は君の楽しみを奪いたくはない」
男はクウェリルの睨みをものともせず、むしろにっこりと笑いを深めて言った。
より眉を顰めたクウェリルの肩に手を添え、男は葉の前に誘導すると自身も隣に立ち、二人は葉を間近で見た。
するとどこから取り出したのか、男の手にはコルクの蓋が付いたボトルがあり、その中には
透き通った水があり、男が揺らすたびに水面に波を作っていた。
「学ぶということは、実際に自分の目で見ることが一番だ」
見ていてごらん―男はそう言うとボトルの蓋を開けて、縁を葉に付けたまま、傾けた。
中に入っていた水は、ボトルの傾きに沿い葉に流れ落ちた。
葉に乗らなかったものは、地面に吸い寄せられるように落下し、丁度クウェリルのつま先の辺りで水たまりとなった。
「しまったな、勢いよく傾けすぎた。水浸しになってしまったよ」
せっかくボトルから抜け出せたというのに、居場所がなく零れ落ちる水滴たち―水が葉からあふれるその瞬間にすっかり目を奪われていたクウェリルの耳に、呑気な声が入って来た。
男は下を見ると勢いよくしゃがんだ。
男の頭の頂点をちらりと見ると、クウェリルは再び葉に視線を向けようとしたが、その瞬間、強い力で左の腕を掴まれ、無理やり意識を葉から逸らすこととなった。
予想外の痛みに、今度は自然とクウェリルの眉に力が入った。
「痛いわ、そんなに強くつかむことないでしょう? さっきから行動が突拍子もなさすぎるわ!」
「おっと! ごめんごめん。本当は君が夢中になっている、その葉っぱを見てもらおうと思っていたんだが、こっちの方が分かりやすいと思ってね」
非難の声にぱっと手を離すと、男はある床の一点を指した。
それは、葉からこぼれた水が溜まっている場所であった。
「ほら、早く。瞬きをする間にすっかり消えてしまうよ」
男の声に急かされ、クウェリルは膝を曲げ男の横にしゃがむと、指が指し示すその一点を並んで見た。
床は、この館特有としかいいようがない、大小さまざまな大きさをした木々が絡みあった床で、それは先ほど見た時と何ら変わりのないもののはずだった。
しかし、そこに確かにあったはずの、小さな水たまりが無くなっていた。
ほんの一瞬目を逸らした内に、跡形もなく消え去ってしまったのだった。
「あぁ、水に飢えているのかな。もうこんなだよ……。レーホル先生に言っておかなくては」
男は、床を撫でたが天井を向けた手のひらは、水に濡れた様子はなくさらりと乾いていた。
クウェリルも間近で見ようと顔を床に寄せた時、頭皮に冷たい感触を感じ次の瞬間には甲高い悲鳴を上げていた。
「冷たい! 上から何かが降ってきたわ」
頭皮に触れると、その違和感の正体に気が付いた。
クウェリルの丁度頭上に水を垂らされた葉があり、そこから耐えきれなかった分の水が流れ落ちていたのだった。
クウェリルが頭を押さえたまま、首を上に向けていると、男がクウェリルの肩を叩き、そこを退くように急かした。
「少しばかりずれてごらん。いいかい? 今度こそよそ見をしている暇はないよ」
水が引いてカラカラになっていたそこには、滴り落ちてきた水が一滴、また二滴と地面を叩いたことで再び小さな水のたまり場となっていた。
今度は瞬きもせずにそれを見つめれば、ようやくクウェリルは生まれたばかりの水が、徐々に形を小さくして、そして最後には消えてなくなってしまう光景を目撃した。
「どうだい? よく目を見開いて見たか?」
男は切れ長の目を自らの指で無理やりに縦にこじ開ける仕草をした。
「えぇ。水は、何だかまるで床に飲み込まれていったみたい……」
クウェリルは自分でも言っていることがまとまっていなかったが、男は大きくクウェリルの言葉に頷いた。
「飲み込まれる、まさしくその通りと言えるだろう。草木は水と出会ったらすぐに自分の体に取り込んでしまう。僕もササール(草の人形遣い)だからね、水に触れるのは嫌いじゃない」
男は葉から落ちる寸前の水滴を人差し指に取り上げると、親指をすり合わせて水分を手に馴染ませた。
「君たちミリクィ(水の人形遣い)は体の多くが水で出来ているから、例えばこの床に、君が長時間寝そべってしまったとしたらどうなる?」
「……待って。私の体が水で出来ているってどういう意味?」
男はクウェリルの思考が止まっていた隙を見計らったのか、いつの間にか床に寝そべり、腕を大きく上下に動かしていたが、クウェリルは激しく動くその腕を掴み、自分の話を聞くように迫った。
「え? そんなの、そのままの意味さ」
すんと動きを止めた男は、きょとんとした顔でクウェリルを見上げた。
クウェリルは思わず掴んでいた男の腕を離し、自分の両の手の平をまじまじと見つめた。
「そんなに見つめたら穴が開いてしまうんじゃないか」
「……まさか! 私の体に穴が開いたらそこから、水が……」
呑気に笑う男の顔を視界に入れた後、続けて見たさっきと何の変わりもないはずの手の平だったが、そこから開いた穴からあふれ出てくる水を想像して、クウェリルは全身の血(水)が抜けたような気分になり体を震わせた。
「いやいや、言葉通りってそうもそのまま受け取らないでくれ」
「貴方が言ったんでしょう? 体が水で出来ている―それはそのままの意味だと!」
意思に関係なく小刻みに揺れてしまうクウェリルの肩を掴み、男は顔を向かい合わせたが、それは見るからに決まりの悪い顔をしていた。
「そうだったね、君には一から丁寧に教えなくてはならない」
「……そうしてもらえると助かるわ」
とりあえず向かうべき場所まで歩こう―男はそう言うと薄暗い廊下を一歩歩きだした。