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この世で最も望む姿



クウェリルが目を開けた先に見たものは暗い闇だった。

ぼんやりとした頭は、いつもと変わらない暗い自室での寝覚めだとばかりに思ったが、しかし頬に当たるガサガサの感触は明らかに自室のシルクのベッドとは違う違和感があった。

頬や手のひらに当たるそれは、下手に動かすと柔らかな肌を傷つけてしまうだろうと、クウェリルは直感した。

状況を把握しようと身を動かそうとすると、一瞬でも首を動かすとピリリと神経が悲鳴を上げてクウェリルは指一本も動かせないまま、自分の今の状況について考えた。

この事態に至る前のことを思い返すと、寝る前は恐らくクウェリルはいつもの自室のベッドに入っていたはずに違いなかった。

一体誰の仕業だろうか―。

考えてみるとただ一つの可能性―王族に反旗を翻す者の仕業により、このような馬小屋のような場に放り出される羽目になっている可能性が高かった。

ヴォ―デンとドーエは無事だろうか。

自分の状況を考慮すると二人も同じようにまた別の場所に捕らえられているか、もしくはもっと最悪の状況か―。

クウェリルは目を強く瞑り、二人が力なく地面に横たわっている姿を排除しようと試みた。

王族に生まれたからには、いつ自分の身が危険に晒されるか分からないということはよく両親から聞いていた。

両親から話を聞いた時は、口ではいつか来るかもしれないその日に向けて心構えをしておくと言っていたものの、いざその身になると今の状況に頭が追いついてない自分にクウェリルは情けなくなった。

クウェリルは腕に力を入れて身を持ち上げようとすると、手のひらがちくちくと痛んだ。

何とか上半身だけは起こすと、床に敷き詰められたものを一つかみし暗い中睨むとそれは藁のような緩衝材だということが分かった。

その時、ふと鳥が羽をはためかせ飛び立つ音が耳に響いた。

途端に室内に月の光が差し込んだことで、現在が夜だということが分かった。

クウェリルが首に手を当てながら音がした辺りに目を遣ると、そこには小さな小窓が付いていた。

恐らく、窓のへりに先ほどまで鳥がたたずんでいたために、部屋の中は暗かったのだろう。

朧げな月光では部屋の中の正確な間取りは分からなかったが、それは暗い中でも、とても広い空間が広がっているように感じた。

ぼんやりとした視界で見る未知の空間に、クウェリルは特に天井の広さに目を引き付けられ、ずっと上を見上げていると、まるで吸い込まれそうな心地でクウェリルは不思議な気持ちに浮かされた。

視界一杯に広がる天井に、あまりにも目を奪われ、上へと持ち上げられた首が頭の重さに耐えきれず再び床に転がることになろうかというその瞬間、クウェリルの体はどこからか聞こえた爆発音に飛び跳ねさせた。

少しの後、爆発の衝撃によりクウェリルの耳はキーンと耳鳴りが襲った。

今自分がいる部屋だけでなく、建物全体が揺れるほどの爆発は一体どこで起こったのか、クウェリルは少なくともこの部屋ではないということしか分からなかった。

慌ててこの部屋以外の情報が得られる窓に駆け寄ったが、小さい上に高い位置にある窓はクウェリルが背伸びをしたところで届くはずもなく、外の状況を把握するのは難しかった。

クウェリルは諦めて再び部屋の中央に戻ると、藁で敷き詰められた床の中で一か所だけ藁が周辺に飛び散り、その下の土がむき出しになっている部分に気が付いた。


(さっきまでこうなっていたかしら?)


クウェリルは足で藁を踏みつけながらそこに近づいた。

近くで見ると、それは明らかに何かの力が加わって藁が散っていることが明らかで、かがみ、手で藁をもっとかき分けるとその部分が綺麗に四角に切り込みが入っていることに気が付いた。

一見しただけで分かる切れ込みの不審さに、クウェリルは眉を寄せた。

そして立ち上がろうと床に手をついたその時、クウェリルは自分の体を上から見下ろし自分の両足と両腕が自由であることに今更ながら気が付いた。

もしクウェリルが今ここにいる理由が監禁であれば普通は手足の自由は奪われるだろう。

そうであればクウェリルが寝ていた間にここへ運び込まれた理由は増々疑問を呼ぶが、自分の意思でここに来たわけではない以上、この場から逃げ出さなければならないことに変わりはない―。

切り込みをしばらくじっと見つめた後、クウェリルはその隙間に入りそうな、自分の指よりも細い棒を探すために部屋を見渡した。

クウェリルは今いる場所が何階なのかは分からなかったが、もし先ほどの爆発が階下で起こったことならば、この隙間を深く削れば爆発の原因となったモノの正体をこの目で見れるのではないか―そう思ったからだった。

クウェリルは部屋をくまなく探そうと、壁まで到達すると一角にクウェリルの背丈よりも少々大きい棚があることが分かった。

棚は三段に分かれており、一番下の段には灰色の砂が入った大きなバケツがあり、真ん中には一本一本が固そうな毛が付いた大きなブラシ、そして一段上の段にはするどい刃のようなものが交差した道具が無防備にもそのまま置いてあった。

部屋を一周してみたものの、変わったところ言えばこの棚くらいで、これがこの部屋が何に使われているかのただ唯一の手掛かりだった。

ブラシは体の汚れをとるために、砂の入ったバケツは用を足すために、―刃のついた道具はいまいち使い方は知らなかったが、クウェリルはここがどうやら何かの動物のための部屋なのではないかという考えに至った。

そう考えると、それまでは認識していなかった獣臭が急にクウェリルの鼻をついた。

藁のさっぱりとした匂いと混じっていたため、気が付くのに遅れたのだ。

クウェリルは部屋全体を角から見渡したが、肝心の動物の姿は部屋のどこにも見当たらない―。

クウェリルの脳内には、爆発による煙が上がる一角の中、赤い炎に身を包んだ、姿がちらりと見える四本足の生物が浮かび上がって来た。

自分の頭の中にしか存在しない動物だったが、その痛ましさにクウェリルは一人、眉をひそめた。

苦い顔のまま、クウェリルは刃のついた道具の先の柄で床の隙間をこじ開けられるかと思い、背伸びをし片手で手前に引き寄せた。

するとクウェリルは恐怖に悲鳴を上げた。

なぜなら、その道具はクウェリルの想像よりもはるかに重かったようで、バランスを崩したために鈍い音を立てながらクウェリルの丁度真横に刃を下向きに真っ逆さまに突き刺さったからだった。

危うく頭上から突き刺さってもおかしくなかった状況に、クウェリルの心臓はしばらくの間大きな鼓動を立てていた。

しばらくして床を見ると、鋭利な刃は周囲の藁を退かし、易々と床に垂直に突き刺さっていた。


(こんなに危ないものを無防備に置くなんてここの管理は一体どうなっているの?)


少しだけ冷静になったクウェリルは顔も分からないこの部屋の管理人に腹を立て息を荒くした。

どこかにいるであろう管理人を睨むように部屋を見渡すクウェリルの視界に、ふと棚の一番下―バケツに入った灰色の砂の中に細長い棒が突き刺さっているのがうつり込んだ。

棒を手に取り、上に持ち上げて見るとその棒は砂をさらさらとかき分け、全貌を露わにした。

棒は最初に見た時よりもずっと長く、クウェリルの下半身ほどの長さまであり、そのためこれがバケツの深い部分まで入り込んでいたことが分かった。

棒は、クウェリルが求めていた先の細い棒ながらも鉄でできており、頑丈そうで、これからやる予定の、床をこじ開けるという無茶な仕業にも耐えられそうな気がした。

クウェリルは刺さったままの刃はそのままに、新しく見つけた鉄の棒を持ち、床の切れ目まで歩くと、握りしめながら細い先を線に沿わせた。

するとそれはまるで、しつらえたかのように隙間にぴったり入り込んだ。

細いだけではなく、長さも十分にある棒は隙間の奥深くまで刺さったものの、クウェリルの力では隙間が多少深くなっただけで、とても床に穴をあけることは出来そうになかった。

呼吸を荒くさせながらも腕に力を入れ続けたクウェリルは、一旦穴を掘ることを辞めると、今度は棒の先を隙間の手前の辺りになるべく棒をねせて横向きに力を込めて突き刺すと、片手で押さえつけながら体を立たせて棒を足で踏み、全身の力を込めた。

すると、クウェリルが先ほど加えた何分の一ほどの力で、床はあっけなく、簡単にその下を露わにした。

土煙をあげながらも持ち上がった土の塊は、クウェリルが十分に両手で持てるほどの厚みと幅で、天井を支えるにしては大分薄いようにクウェリルは感じた。

しかしそれもそのはず、クウェリルが今まで見ていた床の反対側には取っ手が付いておりこの一部分だけは開閉を前提に造られたものだということが明らかだった。

つい先ほどまでこの薄い土の扉に、全身を無防備に預けていたことに背中にひやりとしたものを感じつつもクウェリルが取っ手に手を掛けながらも見たその先にあったのは、とても夜とは思えないほどの明るい太陽のような光だった。

今いる部屋の暗さとはあまりにも対照的なその明るさは、クウェリルの目には刺激が強すぎて、思わずクウェリルは目を瞑った。

しばらくの間光に目をくらませたクウェリルだったが、目を細めつつも階下に落ちないよう腰を引きながら見たそこには、大きく長い螺旋階段が続いているのが分かった。

階段は穴から少し距離を置いた場所にあり、一歩間違えれば簡単に転落してしまいそうな場所から見る長い階段に、クウェリルの頭は、恐怖でくらくらと危険信号を出した。

部屋の中で囲われてきたクウェリルは、ベッドよりも高い場所から足を下ろしたことが今まで生きてきた中でなく、このぽっかり穴の開いた一角から身を下ろすことを想像しただけで、クウェリルの心臓は痛いほどに鳴った。


(足を踏み出したら、階段を転げ落ちることになるかもしれない……けれど、こんな場所にはいつまでもいられないわ―)


クウェリルは視界に入る自分の足が震えていることに気が付いていたが、それ以上に、自分以外の誰もこの小屋から助け出してはくれないのだということも同時に理解していた。

自分で無理やり開いたばかりの、扉がくっついていた部分のヘリを持つと、クウェリルは後ろ向きになってそろそろと体を動かした。

少しでも着地地点と足の距離を縮めようとしての判断だったが、片足だけ宙に放り出し、足場を探ったがそれでも階段に足が届かなかったためクウェリルはしばらくの間足をぷらぷらと揺らす羽目になった。

ほとんどの全体重を腕にかけ力が限界に近づいた頃、クウェリルはようやく自分を信じてずっと握り続けたへりから手を放し、階段へと飛んだ。

目論見通り、着地地点はずれることなくついにクウェリルは足場に着いたが、両足がジンジンと痛み、思わずうずくまった。

勢いよくしゃがんだクウェリルと同じタイミングで、階段もギシっという嫌な音を立てたためクウェリルは今度は違う緊張に包まれた。

しかし着地に成功した達成感に浸る暇も、足の痛みを和らげる間もなかった―なんと、思わず目がくらむほど明るかった室内が、突如闇に包まれクウェリルの視界を奪ったからだった。

一体今度はこの部屋に何が起こったのかと、クウェリルはしゃがみこみ、両足を抱える体制のまま、上を見上げた。

すると途端、クウェリルの左目に冷たいものが滴り落ちた。

目に入った瞬間、反射的に瞼を閉じたクウェリルはそれが何か把握していなかったがその直後、目尻に流れたモノで、目に侵入した異物が何なのかはっきりと分かった。

それは、水だった―。

気付いたのも束の間、クウェリルはすぐに目を擦り水を自分の目から排除しようと試みたが、擦った後に見た手の甲には、水が多少ついたものの、恐る恐る開けた目に映る景色はぼんやりとしたままで落ちてきた水はもはやすぐさま目の中で吸収されてしまったことが分かった。

呆気に取られてじっと見つめたクウェリルの手の甲に、再び水が滲んだ。

しかし、これはクウェリルの目から滲んだ水ではない―またもや天井から水が落ちてきたのだった。

しかも今度は粒ではなく、まるで攻撃するようにしきりに水の大群がクウェリルの体全体に降りそそいだ。

頭、髪そして服―クウェリルの全ては水に浸食され始め、クウェリルは茫然とそれを受け止めていたが、上に向けた手のひらの上にひとしきり大きな水の粒が落ちた瞬間我に返り、そして頭は混乱に陥った。

クウェリルは水から守るためにまず頭を手で包んだが、次の瞬間背中に痛いほどの水がたたきつけていることに気が付き、そうすると今度は靴の中に入ってくる水に気を取られた。


(水が―私の体に触れている―)


全身を手で抱きながら、クウェリルは必死に自ら逃れる方法を考えた。

この不可解な現象が突如起こった訳は何も分からなかったが、部屋の天井を超えた先―藁の敷き詰められた部屋ならば恐らくこの水の攻撃は起こっていないだろうとは思ったが、水がしきりに降り注ぐ天井を再び見上げる勇気はクウェリルには無かった。

威力を増し上だけでなく横からもクウェリルを襲うようになった水の嵐に、クウェリルは一滴も目の中には入らせまいと目を強く瞑ったため右も左も分からない状況になった。

しかし、体は一刻も早くここから逃げようと足を勝手に進め、次の瞬間クウェリルは文字通り、階段から転げ落ちてしまった。

幸か不幸か―螺旋階段だったためにクウェリルは階段の下まで辿り着いた時、降下の最大の勢いで地面に体をぶつけることは逃れたが、それでも回転しながらあちこちにぶつけた体は、頭からつま先に至るまですべてが痛みに悲鳴を上げた。

水しぶきと共に、鈍い音を立てながらお尻から着地したクウェリルは、頭をも階段の手すりにぶつけ続けていたため、少しの間意識を彼方に飛ばしていた。

意識が戻った時、クウェリルの体は既に三分の二ほどは水に浸かっており、その水は胸の辺りにまで達していたため、クウェリルはぼんやりとした頭が急速に覚醒したような気になった。

急いで立ち上がろうと、すっかり水に浸かっていた手を水中で動かしたが、クウェリルは水面に映ったものに、思わずその手を止めていた。


なんと、いまだ上から落ち続ける水に揺れる水面には、真ん中にクウェリル、そしてその両隣にヴォ―デンとドーエがそれぞれにこやかな顔をしてクウェリルを挟んで笑っていたのだ―。


クウェリルがほんの少し気を失っていた間に、自分を見つけてくれたのだとクウェリルは二人の顔を目にしたその時、全身の力を抜いて後ろを振り返ったが、その期待はあっけなく壊され、クウェリルは身を固くした。

クウェリルの背後には、ヴォ―デンもドーエの姿はどこにもなく、ただ自分が転げ落ちてきた木の螺旋階段が水を滴らせながらそこにあるだけだった。

その信じられない光景に目を見開いたクウェリルは、自分が頭を打ってどうにも幻覚を見ているのだと、そう思った。

しかし、再び自分の足が放り出された方の水面を見るとやっぱりそこにはクウェリルを挟んで心底嬉しそうな顔をしてクウェリルをジッと見つめるヴォ―デンとドーエがいた―。

あまりの衝撃に自分の手がすっかり水浸しであるという事実すらも忘れ、目が悪くなったのかと、手で必死に目を擦って違和感を拭おうとしたが、クウェリルの目は、水のせいでもっとぼんやりとするだけで、ヴォ―デンとドーエの顔は一向に消えなかった。

何かの幻覚に襲われているに違いなかったが、クウェリルはどうしても水面の二人から目を離せないでいた。

すると、水面に映るクウェリルは、現実のクウェリルと違うことをやり始めた―水面のクウェリルはヴォ―デンの左腕を取ると自分の右手に回すようにねだり、今度は左にいるドーエの右手を取り、これまた自らの腕に回すようにドーエに微笑んだ。

目の前に映る少女は自分であるはずなのに、自分の意思とは違う行動をしているということが不思議でたまらなかったが、クウェリルは水面のクウェリルが羨ましくて仕方が無かった。

何故なら二人はクウェリルの無茶ぶりに苦笑はしたものの水面のクウェリルの好きなように両腕を自分の腕で絡ませ、その後三人顔を見合わせて笑っていたからだった―。

水に浸かった体は冷え続けているにも関わらず、ヴォ―デンとドーエが見る、水面のクウェリルを見つめる優しい表情を見るとクウェリルの胸にはとても熱い何かがせりあがってきてクウェリルは嗚咽をもらした。

鼻も熱くなり、視界も潤むと、クウェリルの目からあふれ出てきた涙が天井から堕ちる水と共に水面の三人を揺らしたものの、みなはいまだ互いの顔をほほえましく見つめ合っていた。

次の瞬間、クウェリルは勢いよく全身を起こし膝立ちになると、前のめりになって水面に両手を叩きつけていた。

そして、食い入るように、クウェリルの動きで揺れたヴォ―デンとドーエの顔を見つめた―。

いつの間にかクウェリルの鼻が水にくっつきそうになった頃、クウェリルは何故だかここが世界で一番幸福な場所だという気持ちに胸を支配されていた。


(いつまでもこうして三人でいられたら他には何もいらないわ―。たとえどんな場所であっても、そこはきっと天国でしょう)


膝立ちになったクウェリルの体でも水が肩につくほど、いつの間にか水位は上昇していたが、そんな非常事態にも一向に気が付かず、クウェリルはひたすら食い入るように先ほどよりも大分近くなった水面を見つめ続けていた。

ヴォ―デンの黒い瞳が優しく揺れる瞬間が、ドーエの口角が綺麗に弧を描くことが―クウェリルにとっては水に体を浸かり続けることをよしとするほど大事なことのように思えていた。

しかし、クウェリルが夢中になって見つめていた二人の顔から突如笑顔が消え、そして水面のクウェリルはクウェリルから背を向けて地面に横たわった。

ヴォ―デンは水面のクウェリルの頭を支え、ドーエはクウェリルの力ない手を両手で包み込み、深刻そうな表情で何かを言っているのか―口を動かしていた。

倒れる水面のクウェリルに二人が何を言っているのか、それを聞き取ることは当然叶わないにも関わらず、クウェリルが必死に二人の口元に目を凝らしていると、水面のクウェリルに視線を合わせてばかりだったヴォ―デンとドーエが突然クウェリルとこちらを勢いよく振り向き、どんどんこちらに顔を近づけて、そして、突如泡のように水面からぱっと消え去った。

その瞬間、クウェリルは自分の口に水が入って来たことに漸く気が付き、勢いよく水面に口の中の水を吐き捨てた。

鼻から水を遠ざけるために慌てて立ち上がり、気管に入った水を全て出し切ろうとクウェリルはしばらく体を曲げ、ひたすらむせ続けた。

息を深く吸えるほどまで呼吸が落ち着いた頃、クウェリルは自分が置かれた状況を把握した。

何やら熱っぽいモノに浮かされていた間にも水は天井から落ち続け、今では立っているクウェリルのお腹辺りにまで水位は達しており、水が口に入り込んだ時とはまた違う息苦しさがクウェリルを襲った。

逃げようにも、周りを見渡してもそこはまるで海のように一帯は水で支配されていてどこにも逃げ場はなく、階段ですらも下の方の段は水でクウェリルの位置からは見えなくなってしまっていた。


(水を見たらパニックになってしまうから、今あなたが置かれた状況はしかるべき対処なのよ―)


自分がかつて幼い頃、水を徹底的に避けさせる理由を尋ねた際に母が繰り返し言ったことをいまさら自分なりに咀嚼してみると、母の言い分はあっていたようにも、間違っていたようにも思える。

確かに、最初に水が天井から全身に降り注いだ際は混乱して階段を転げ落ちもしたが、今こうして水から逃げられない状況に置かれると案外心は落ち着いていた。

足も震えもせず、両足で水に負けずふんばることも出来ている―最初は両親に植え付けられた先入観が大きく、気持ちが追いつかなかっただけなのかもしれない。

頭が重くなったように感じるほど水を含んだ髪を手に持つと、その見た目の不思議さにクウェリルは思わずまじまじと見た。

しかし、幼少期から抜け落ちることの多かった髪は、水滴を含み、気のせいかかつてはどこにも見当たらなかった艶まであるように感じる。

皮膚も同様で、水につけた手を引き上げて見ると、水滴を付けた腕は、水を拒むどころか歓迎しているようにも見えるほど、ハリがあった。

自分が水の中で立っている―そう改めて認識した途端、まるで自分が水とこの世で一番相性の良い生物のように感じ、先ほどまで感じた胸の息苦しさや、水中での足の動きづらさはどこかに飛んでしまった。

しかし、どんなに心地が良いからと言えど、一生ここにいるわけにもいかず、クウェリルはこの水から抜け出す道を見つけ出さなければならなかった。






水の流れが一か所だけ違う場所―それこそがこの部屋の出口だとクウェリルは考えた。

藁が敷き詰められていた部屋にあった切り込みは、開けて見ると階下につながる戸であることが判明し、この部屋までたどり着いたが結局のところ、ここには建物を揺らすほどの威力の爆発を起こした原因のものも見当たらず、そして肝心の出口も見当たらない。

このことからこの部屋にも階下の部屋が存在しており、この建物自体は確実に三階以上は階数のある塔であると予想がついた。

もし先ほど通って来た天井と床をつなぐ穴がこの階にも存在していれば、水で満たされたこの部屋の中で、一角だけその穴に向かって、水が下に吸い込まれるようになっている場所があるはずだった。

クウェリルは水の抵抗を物ともせず、何も障害のない地上を歩くように足を進めていたが、その軽やかさはまるで多くの人々から、その体の弱さから城の中を一周することすらも止められた少女とは思えないほどだった。

階段は部屋の中央に位置し、とりあえず目についた左角まで進んで壁を一周する予定だったクウェリルだったが、移動している間にも頭上から降る、容赦のない水の降り注ぎ方により、水はもはやクウェリルの胸の辺りにまで到達しており、時間は無限ではないことを悟った。

天井から降る水は、手に落としてみると透き通るほど綺麗な透明だったが、クウェリルの体に痛いほど当たる勢いのせいで水面には泡が立っており、絶え間なく降り続けるせいで、その泡はずっとクウェリルが水中の様子の確認を妨げた。

そのため、クウェリルは限られた時間の中、瞬きをする間もないほど水中を凝視しなければならなかった。

壁沿いに歩き始めてから半周をした頃、クウェリルはついに水の流れが明らかに、まるで水中にいる生物に吸い込まれているかのように、下へ下へと水が下がっていく場所を見つけることが出来たが、その時には水の水位はクウェリルの肩につこうかというところまで上がっていた。

水面には渦が出来ており、その近くにクウェリルが立つと水が下へ流れる勢いに巻き込まれそうなほどであった。

再び戸を開けるために腕に力を込めたその瞬間、クウェリルは藁の部屋に戸を開けるのに大層役立ってくれた鉄の棒を置いて来てしまったことに気が付いた。

慌てて中央の、螺旋階段の方を見たが心なしか余計に水の勢いが増すこの部屋の壁から中央まで歩くその時間の間にも、水位はクウェリルの身長を超えてしまうようにしか思えなかった。

到底間に合わないと思ったその瞬間、地にしっかりとつけたはずの足が、力なく折れてしまいそうに感じ、急いで踏ん張るものの、渦を巻く水にクウェリルの体は負ける寸前で壁に力なく全身を預けた。

どんどん顔に迫り来る水に、先ほどまでは相性の良さすら感じていたが、今では唯一の呼吸方法を奪う、悪魔のような存在にしか思えず、クウェリルは顔を青ざめさせた。


(素手でなんとか戸を開けられるかしら? いいえ、地上でも無理だったというのに水中でなんてもっと無理よ)


胸を通り超えて首の辺りまで来た水に、クウェリルは全身が押しつぶされるような感覚に襲われつつも、気道を確保しようと少しつま先立ちになって首を曲げると下を向いた。

すると、幸運なことに、水が体で跳ね返っているのか、ちょうどクウェリルの周りだけ水しぶきによる白い泡が出来ておらず、透明な水はクウェリルの足元を鮮明に見せた。

クウェリルは自分の素足が丁度踏んでいたものに驚いて体のバランスを崩しかけて慌てて壁に手を付けた。

なんとクウェリルの足元にあったのは、恐らくこの部屋と階下をつなぐであろう戸についていた取っ手だった。

迫りくる水による恐怖は、危うく命を落とすかもしれなかったクウェリルに差し伸べられた救いの手を無下にも足で踏みにじっているような気さえ起こして、クウェリルは足を戸の上から退かそうと急いで足を動かした。

しかしその瞬間、極度の緊張状態にあったクウェリルの足は安心感によって均衡が崩れたことにより引きつりを起こし、踏ん張る力を無くしたクウェリルの両足はあっけなく曲がり、クウェリルの体は水中に引きずり込まれた。

生まれて初めて全身、水中に浸かったために、クウェリルは動揺し思わず手が水面に伸びていたが、その手は水中で水を掻くだけで到底水面には辿り着かず、意思とは反対にクウェリルの体はどんどん下へ下へと沈んでいった。

知らず内に口から吐き出た空気が泡となって水面へと浮かんで行った時、クウェリルはそれに目を奪われ、そのせいで更に口からは空気が漏れ出てしまった。

貴重な空気が逃げ、呼吸が困難になってきたクウェリルは最後の力を振り絞り、壁に手を当て上を向いたままの体を回転させると戸に向かって進んで行った。

ようやく取っ手に手を掛けることが出来たクウェリルだったが、壁を片手につけつつも引っ張る取っ手では、戸はびくともしなかった。

それならば、と壁から手を放し両手で取っ手を掴むとクウェリルは更に体に力を入れ両足を部屋の床に付けた。

最後に、出来る限りの力を込め、取っ手を胸に寄せると、ようやく少しだけ開いた穴からどんどん水が吸い込まれていき、思わずクウェリルが取っ手から手を放しても、自然と階下につながる穴は全開になった。

そして、この部屋の水全てが次の部屋に押し寄せるのではないか、という水の勢いと共に、ついにクウェリルは穴に吸い込まれた。




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