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一夜明けて



クウェリルは、目の前に広がる草原の中、一人ぽつんと立ちすくんでいた。

全方位見渡しても、何も見当たらない。


「クウェリル、今度は僕たち何てこともない土地に生まれてしまったみたいだね」


声がして、振り向くとそこにはヴォ―デンは少し残念そうに笑っていた。

一体どこから現れたのだろうか、驚くクウェリルの耳に、もう一つの声が入った。


「何もないからこそ、いいのでしょう」


ドーエはクウェリルの顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。


「ねぇ、ここは一体どこなの? 私たち、あれからどうなってしまったの?」


クウェリルは慌てて二人に尋ねた。

しかし、ようやくそこで自分がはつらつと言葉を発せられる状態であることに気が付いた。

手を上にかざしてみれば、それは間違いなく十三歳という年齢にふさわしいハリをしていた。


「どこと言われても……。そうだなぁ……」


ヴォ―デンはクウェリルの勢いに戸惑ったように言った。


「そうねぇ……」


ドーエとヴォ―デンは二人、視線を交わした。


「私たちが共に歩むには適している地だということだけは確かね……」

「……適している?」


クウェリルの困惑した表情に、二人は慌てた。


「あぁ、そんな顔をしないでくれ。僕たちはもう君を悲しませることは二度としない。僕たち三人なら、どこへだってやっていけるさ……」

「そうよクウェリル……。私たちは貴方のすべてを愛しているもの……」


ヴォ―デンとドーエはにこやかにクウェリルに手を差し出していた―。






全身にのしかかる痛みで、クウェリルは声にならない悲鳴を上げた。

目を開けると、視界は暗く自分が今どこにいるのか、さっぱり分からなかった。

しかししばらく暗い闇の中、目だけを開けて考えてみると、自分の視界を狭めているのが目の前にのしかかる大きな木材だということが分かった。

大きなそれは、とてもクウェリルが動かせるようなものには見えなかったが思い切って両腕で押してみると、案外すんなりそれはクウェリルの体から離れた。

視界が晴れるとともに、クウェリルの鼻には嗅いだことのない異臭が漂ってきた。

それは、まるでこの世の悪いもの全てを全て燃やしてしまったかのような匂いで、クウェリルは急いで鼻をつまんだ。


(一体ここはどうなっているというの……?)


広がった視界で見た先は、それは悲惨なものだった。

視界は、もやがかかったように不鮮明で、クウェリルは思わず目をこすった。

しかし、その手には煤がついており、それが目に入ってしまったのか余計に視界がぼんやりとした。

辺りは黒い煤のついたぼろぼろの木材が、あちこちで山を作っていた。

先ほどまでは気が付かなかったが、クウェリルがいた場所も、それは小さな木の山の上だった。

驚き、足に力が入ってしまったクウェリルにより、その山はバランスを崩し何個か瓦礫がもっと下へ落ち、クウェリルは転げ落ちた。

クウェリルはされるがままに落ちると、ようやくとある一角で止まった。

あちこちを瓦礫にぶつけ、全身が痛みに悲鳴を上げる中、クウェリルは自分がさきほどまで鎮座していた辺りを見上げると、黒で染まった中、そこにはそぐわない美しくきらきらと輝く赤いものを見つけてしまった。

目を逸らそうとも、その輝きは増々クウェリルの目から離れようとしなかった。


(嘘よ……絶対に違うわ……)


クウェリルはそれが自分の予想と外れることを祈った。

手足を使って、瓦礫の山を無我夢中で上った。

とても人の手が加えられたとは思えない瓦礫の中には、鋭くクウェリルに牙をむくものも混じっていた。

途中、服の裾が裂けてクウェリルの足を止めたり、手の平に一筋の傷をつくったりもしたが、クウェリルは構わず上り続けた。

息を切らせ、上った先にクウェリルが見たのは、屑の間にきらきらと輝くルビーの宝石だった。

震える指先で、それを拾い上げたクウェリルは、手の平にそれを大事に抱えた。

それが、誰の所有物であるか、クウェリルはよく知っていた。


(クウェリル、これは長年このオーロ王国に伝わる宝石なのよ。これはいつかあなたのものになるわ……。それまで私が大事にしておくから、安心して頂戴)


母、ドーエはよくクウェリルに言って聞かせた。

クウェリルは何もかもを思い出した。

この瓦礫の山がかつて自分が生活していたオーロの城であることを―。

次の瞬間、クウェリルは慌てて瓦礫から逃げるように転げ落ちた。

自分が立っている場所、そこに、かつてクウェリルと会話をした人間が埋まっている可能性に思い至ったからだ―。

クウェリルは波打つ心臓に合わせて震える口から、白い息が出ていることに気が付いた。

辺りも肌を刺すような冷たい風が吹き荒れている。

ここはもう、炎に包まれたあの場所ではなかった。

冷たい冬の外―。


(私だけ生き残ってしまった―)


かじかむ手の中には、ドーエの残したルビーが入っていた。

あまりにも強く握りしめたために、手には爪の跡が痛々しく残っていた。

ルビーを見ていると、クウェリルはあの迫りくるあの炎を思い出し、息が上手くできなくなった。

思わずうずくまると、視界に溶けた銀のようなものが木にへばりついているのが目に入った。

クウェリルはそれを見るとかつて使っていた食器なのかもしれない、と再び嫌な想像で頭が埋め尽くされた。


(私だけ生き残った……。お父様もお母さまもいないというのに……私には何もない、これからどうすればいいの―)

胸の痛みは増すばかりだ。

クウェリルが心臓に手を置くと、いつもと変わらず冷たく固い感触があった。



「ねぇ、貴方……。こっちを向きなさい」


突如頭上から声がして、クウェリルは思わず尻餅をついた。

見上げた先にいたのは、白い、絹のような美しくストレートの長い髪をなびかせたクウェリルと同年代ほどの少女だった。

彼女はクウェリルと負けずとも劣らない、とても驚いた様子で目を見開いていた。

クウェリルは心臓がひっくり返る思いだった。

さきほどまで、確かにここには誰もいないはずだったにも関わらず、この少女は一体どこから来たのか―。


「……貴方は一体誰なの?」


クウェリルは悲鳴交じりの声を出した。


「……私の名はクレラよ」


自分以上の驚きを見せたクウェリルに、少女は多少落ち着きを見せて言った。

太陽を背に、凛と立つその姿は気品があった。


「クレラ……? 聞いたことがないわ……。一体どこの国から来たというの?」


クレラと名乗ったその少女は、雰囲気だけでなく身に着けている衣服も高貴な身分を思わせた。

髪とよく似た色合いの白のドレスは、袖の先の細かい部分まで美しい刺繡が施されていた上に、輝く装飾品も、とても品がある輝きだった。

彼女は頭からつま先の靴に至るまで豪勢なもので身を包んでいた。

それは、クウェリルが普段着ていたものと差異はなかった。

ただ一つ、クウェリルが絶対に身に着けないような古臭い茶色の、宝石も何もついていない寂れたネックレスを除けば―。

クウェリルは自分と同等の身分であることを前提で問いかけたが、それはどうやら間違いではなかった。


「私はミルジャリーの第一王女よ」

「ミルジャリ―?」


ミルジャリ―という国はとても聞きなれず、クウェリルは首をかしげた。

城の中で囲われてきたクウェリルだったが、オーゴデン、アイゴスフォを含め近隣の国の名は知っていた。

そのため、目の前の少女は遠い国から来たのだろうと察した。


「ミルジャリ―ってどこの辺りなのかしら……。ごめんなさい、私知らないことが多くて……」


自分の統治している国を知らないなどと言われて不快に思わない王族などいない。

クウェリルは申し訳なく思いながらもおそるおそる聞いた。

なぜなら、確かならこの少女についてもっと知るべきだと思ったからだ。


「いいえ、知らなくて当然よ」


クレラは、クウェリルの言葉に苛立つどころか、急に機嫌をよくして答えた。


「貴方は世界について無知そのもの……」


その言葉は何ら間違ってはいなかったが、クウェリルの癇に障った。

語気を強めてクウェリルは言った。


「貴方が一体私の何を知っているというの?」

「まぁ、機嫌を悪くしないで。そのままの意味だったのよ……。だって貴方は偉大なる世界について何もしらない……」


クレラは眉を寄せたクウェリルの額をつんと指し、そのまま頬に指をすべらせた。


「やめて! 触らないで!」

「一体誰のせいでこんなにひどいことになったのでしょうね……」


拒絶するクウェリルには構わず、クレラは頭の先からつま先までクウェリルの全身をじっとりと嘗め回した。


「オラマごときが、アルムに対してこの仕打ち。到底許されることではないけれど……」


クレラはそこまで言うとクウェリルを通り越して背後にある瓦礫の山を見た後、口角を歪ませいびつに笑った。


「一体何がおかしいというの? これを見て笑えるなんて、あなた変よ!」


その笑みを見た瞬間、クウェリルはこの少女とは到底分かり合えないと確信を持った。


「何の罪もないオラマに手を下すのは、もちろん許されていないわ。けれどこれは例外でなくて?」


クレラは足元に転がるかつて何かの形だった屑を、美しい靴のつま先でちょいと蹴った。


「さっきから、オラマだとか、アルムだとか一体何なの?」


クウェリルが苛立ちながら言うと、その言葉を待っていたというようにクレラは顔をほころばせた。


「この世にはアルムとオラマという二種類の人間がいるのよ。私とあなたはその二つで言うアルムに当たるわ」


クレラは嬉しくてたまらないといった表情で言った。

クウェリルは世間知らずな自覚はあったが、クレラの言うことは一般的に知っているべきものではないように思えた。


「えぇそうよ。私たちは選ばれしアルムなのよ。……貴方の両親を名乗っていた二人とは違ってね……」


彼女の言葉で突然、クウェリルの脳内には目の前の少女がもっと幼い日の様子が思い起こされた。

それは、今までずっと夢で見てきた、あの髪の白い少女だった―。


「……ねぇ、もしかして私たちは以前に会ったことがあるのかしら?」


今度はクレラが目を見開く番だった。


「えぇ! そうよ! ようやく思い出してくれたのね……」


クレラはにっこりと笑うと、そのまま手に付けていた真っ白の絹の手袋を外した。

クウェリルは驚き、声を上げそうになった。

なんとそこには、澄んだ青色の石が手の甲に埋められていた―。


「これがあなたにもあるのでしょう?」


クレラは迷うことなく、クウェリルの胸元に手を当てた。

クウェリルが息を呑んだ次の瞬間、胸元は冷たい風に晒された。

クレラがクウェリルのドレスの胸元に手を伸ばし下ろしたのはあっという間だったため、一瞬呆気に取られて石が晒された自分の胸元を上から見ていたが、クウェリルは慌ててクレラから距離を取り、自分の胸に埋められた石を両手で守った。


「何でこれを知っているの? これは……私は限られた人間にしか見せたことがないはずなのに……」


クウェリルは口を震えさせて言った。


人とは少々違う部分が多くあるクウェリルだったが、この胸の宝石が最も大きなところであることに違いはないだろう。

この、クウェリルの胸にまるで埋め込まれたかのようについている深い藍色をした石は、クウェリルが生まれつき持っていたものだとかつてのヴォ―デンとドーエは語った。

クウェリルは生まれたその時からこの美しい宝石を有していたため、人間は誰しもが石を体内に保有しているものだとばかりに思っていたが、勿論そうではなかった。

ヴォ―デンとドーエはクウェリルに対し、この石は自分で大切に守るものだと言い聞かせた。

この石の事実を知っている者は、ヴォ―デンをドーエ以外にはほんの数人の小間使いしか知らないはずだった。

それなのに、目の前の少女はクウェリルが大事にしてきたこの美しい石のありかを迷うことなく当てた上に、なんとクウェリルだけの特別だと思っていた、透き通るような美しさを持つ石を手の甲に隠し持っていたのだ。


「覚えていないのね……。かつてのあなたも私のこの手の甲を見て、全く同じような表情を見せたわ……」


クレラはクウェリルに一歩引かれたことで、行き場をなくした手をそのまま自分の甲に持っていき、石を静かに撫でて言った。


「……私、このことを話したの? 誰にも言ってはいけないと言われていたのに……。全く記憶にないわ……」

「あぁ、そんなことに罪悪感なんて抱かなくていいのよ……。右も左も分からなくさせて自分たちの言う通りに貴方を操りたかっただけの人間の言いつけを破ったからと言ってね」


クウェリルは両親の言いつけを破っていた自分に困惑していたが、そんなクウェリルを見てクレラは苛立ったように吐き捨てた。

クウェリルは、この少女からヴォ―デンとドーエの話題が出ることを予期しておらず、突如彼女の胸は再び暗い闇に包まれた。


「貴方の両親を名乗る人間たちの言うことなすことなんて、全部でたらめなのよ! 貴方は騙されていた被害者なの……」

「騙されていたなんて、そんなこともう思わないわ!」


予想だにしない返しに、クレラは怪訝な顔をした。


「いいえ! あいつらがしたあなたへの仕打ちは到底許されるものではないわ!」

「あれは全て私のためを思ってしたことだった……。私本人がもう許しているのだから貴方がとやかく言うことでなはいはずよ!」


クウェリルはクレラを睨みつけた。

しかし、それに呼応するようにクレラはクウェリルの腕を掴み鋭く叱責した。


「これを見てもまだそんなことが言えるというの? とても私よりも年下だとは思えないわ!」


クレラの言うように、クウェリルの腕は皺だらけで、持ち上げられた拍子に、手の中で摩擦が起きる度にそれは痛んだ。


「それに、これこそが貴方がアルムであるという証拠……。これもあいつらにやられたの?」


クレラはクウェリルの右の手のひらを上に向けさせた。

その手の平の真ん中には、赤い血が一筋真っすぐに線を引いていた。


「……いいえ、これはさっき瓦礫の山を登って出来た傷よ……」


クウェリルは反対の手で握るルビーに力を込めた。


「見てみなさい。血が絶え間なく流れ続けているでしょう? これも水の人形遣いである証拠よ」

「人形遣い?」


聞きなれない言葉に、クウェリルは思わず聞き返した。


「そうよ、人形遣い。アルムという言葉はね、(人形遣いの素質を持つ者)という意味なの。私たち人形遣いはモノに生命を与えることが出来る存在なのよ」


クレラが語るその話は、あまりにも突拍子もない話で、クウェリルは口を開けるばかりで何も言うことが出来なかった。

しかし、そんなクウェリルの様子には構わず、クレラは指を立てて説明を始めた。


「私たちは三つの属性に分かれるわ。一つは草木の人形遣い―。彼らは地中に生えた草木に生命を与える。次に炎の人形遣い―。彼らも同じように火を思うがままに出来る。……まぁ、私たちにとっては取るに足らない存在だけれどね……」


クレラは少し笑って言った後、とても大事なことを言うように、大変真剣な瞳をして言った。


「そして最後が水の人形遣い―。私たちのことよ。私たちは水を操ることが出来るのよ」

「水を? 操る?」


クウェリルは急にどこかにぶつけたかのように頭がくらくらとした。

今まで水を避け続けてきた人生に、何らかの意味があるとは思っていたが、まさかこんな非現実的な話だとは思わなかった。

両親はあの炎の中、クウェリルが忘れ去った幼少期の話をした。

それは、きっとこの少女の言うことが正しければ、噴水で水を持ち上げたのはクウェリルが持つという、その”水を操ることが出来る “能力からなるものだったのだろう―。


「水の人形遣いたちは、総じて傷には気を遣うわ」

「一体どうして?」


クウェリルは何もかもが信じられなかったがクレラの、言い分だけは最後まで聞いてやろうという思いで尋ねた。


「これを見たらわかるでしょう? 私たちは血が治りづらいのよ。放っておくと永遠に傷から血が流れ続けるわ……」


クレラが見つめる先の、クウェリルの手の平は確かに、延々と新しい血が流れては地面に落ちて行った。


「私の手の平からは永遠に血が流れ続けるというの?」


クウェリルの顔からはさっと血の気が引いた。


「……対処法はあるわ」


蒼白のクウェリルを見てクレラはそう言うと、ドレスを翻しながら後ろを向き、裾をめくって何かを探し始めた。

何かを手に持ち、裾を直したクレラが再びこちらを向くと、その手には深い青色の液体がどぷどぷと詰められた瓶があった。

明らかに怪しげな瓶に、クウェリルは後ずさった。


「何が入っているの?」


クウェリルは半分悲鳴を上げた。

得体のしれないものを飲まされるかもしれないという恐怖と、このまま永遠に血が止まらないかもしれない、という恐怖がクウェリルの中でせめぎ合った。


「これは、ノーエゴの腹水よ」

「腹水? それにノーエゴって何よ!」


やはり液体はろくなものではなかった。

瓶を手に、迫りくるクレラに、クウェリルは足がすくんだ。


「ノーエゴはお腹ばかりが膨らんだ、水中動物よ。動きも鈍くさいのだけれど、あいにく私たちはこれがないと命が危ないのよね……」


クレラはノーエゴに傷を治されるという事実が不本意なようで、ため息を吐いた。


「さぁ、味はまぁ好んで飲みたいものではないけれど、効き目はばっちりよ」

「まさか! これを飲めと言っているの? 私は液体を口にしたことがないのよ!」


クウェリルは逃げ出そうとしたが、クレラはクウェリルの腕をがっちりと掴んで離さなかった。

クレラは器用にも空いた左手で瓶のふたを開けてクウェリルの目の前で瓶を傾け始めた。

クレラは口を開けろと言うが、それ以前に瓶の中身のあまりの臭いに鼻がもげそうで、クウェリルは嗚咽した。

とても口を開ける気にはならず、クウェリルは瓶から顔を思いきり逸らした。


「いつまで血を垂れ流しているつもり? あなた今まさに死にかけているのよ?」


クレラは何があってもクウェリルにこれを飲ませなければ、という使命を背負わされたような雰囲気を漂わせていた。

クウェリルはクレラから逃げられないと悟ったが、青い液体が舌に触れた瞬間を想像するだけで、再びえずく有様だった。


「一思いにいったほうが楽だと思うわ! ほら、そんなに怖がらないで、貴方のために言っているのよ?」


クレラは、瓶をクウェリルの鼻につけんばかりに近づけた。

ついに、鼻につきぬける魚の生臭い臭いから解放されるために、クウェリルはそれを飲む決意を固めた。

クウェリルは、おそるおそる口を開くと、クレラはその瞬間を見逃さず、九十度に傾けた。

ノーエゴの腹水は想像していたよりもずっと最低の味がした。

舌に触れた瞬間、ぴりぴりと刺激が来てこれは人が口にしていいものなのか、疑問に思わざるを得なかった。

飲み込むのを戸惑ったおかげで、魚を三日間泥に埋めたかのような味をしばらく味わう羽目になった上に、それはぶよぶよとしていたために、口内にまとわりつき、大変のど越しが悪かった。

やっとのことで飲み込んだ後、クウェリルは涙目になって、咳を繰り返した。

途中、せっかく飲み込んだもの全てを出し切ってしまいそうになると、それを見たクレラが慌ててクウェリルの口に手のひらを当てた。


「駄目よ! 吐いてしまったらもったいないわ!」


クウェリルは咳を止めるために、しばらく息を止めた。


「なんてことなの……。こんなもの、口にしていいとは到底思えないわ!」


口に残る臭さは完全には消えていなかったが、多少臭いに慣れたクウェリルは一呼吸置くと、完全な逆恨みで、クウェリルはクレラを睨みつけた。

するとクレラは、クウェリルの睨みに対し、まるで心外だという顔をした。


「今あなたのために出来る適切な処置に決まっているじゃない! それに、今ノーエゴの腹水は貴重なものになりつつあるのよ? 阿呆な炎の人形遣いたちによってね!」


クレラは苦々しく吐き捨てた。


「手の平を見て見なさい。傷はもう治っているでしょう?」


クレラの言うように手の平を見ると、信じられないことに、血は一切流れていないどころか、あんなにぱっくりと大きく割れていた傷口さえ見当たらなかった。

クウェリルは様々な角度から自分の手をじっくり見渡したが、やはりそこには傷があった形跡すらない。

それに、気づけばしわしわだった腕も、十代にふさわしいハリを戻していた。

自分の手で腕を摩っても、痛みなど一切感じられなかった。


「一体どういうことなの? どうして傷が? それに皮膚まで治ってるわ……」


クウェリルはとても信じられない気持ちでいっぱいだったが、実際に自分の体の劇的な変化を見ると、クレラの言い分を信じずにはいられなかった。


「だから言ったでしょう? ノーエゴの威力は凄まじいのよ!」

「……えぇ。きっとそうみたいね……」


クウェリルはノーエゴを見たことが無かったが、きっと神々しい姿をしているに違いないと思った。

クレラの話す世界に、クウェリルの興味は引き付けられてきた。


「……それにしても、貴方今まで傷が出来たら一体どうしていたの? まさかここにはノーエゴはいないでしょうし……」


クレラはまじまじとクウェリルの全身を見て、不思議そうに聞いた。


「……私、今の今まで傷なんて作ったこと一度もなかったわ!」

「一度も? そんなことありえないわ!」


クレラは怪訝な顔をして言った。


「いいえ、ただの一度もよ! だって私は……城の中で大切に育てられてきたのよ。そんな私がけがをするなんてありえなかったの」


クウェリルは自分の今までの城での生活をどう表すか迷ったが、それは両親のクウェリルへの過保護ともいえる育て方を、クレラに否定されたくなかったからだった。

しかし、途端にクレラの瞳の奥に垣間見えた深い憎悪により、クレラのヴォ―デンとドーエに対する認識は変わらないのだと悟った。


「それは言い換えれば、それは監禁されていたということよね?」


クレラは声を低くしてそう言った。


「やめて! お父様たちのことを悪くいわないで!」


父、と言った瞬間クレラの表情が強張ったようにクウェリルは感じたため、それ以上、両親を貶す言葉を耳に入れたくなくてクウェリルはしゃがみこみ、耳を覆ってしまった。

しばらくの間、そうしていたが、何もしてこないクレラに疑問に思い、恐る恐る上を見上げると、そこには闇のように暗い瞳で瓦礫の山を見つめるクレラがいた。

しかし、クウェリルは自分を見つめていると分かると、クレラは一風変わって、とても優しく、微笑んでクウェリルに言って聞かせた。


「貴方があの二人を大切に思っていることはよくわかったわ……」


クウェリルはそれがとてもクレラの本意に沿っているとは到底思えず、身構えて続く言葉を聞いた。


「それならなおのこと、あなたはこちらの世界に来る必要があるわ」

「アルムの世界に……?」


クレラは再びドレスの裾を掴むと、今度は長い紐のついた、丸い形の何かを取り出した。


「あぁ、もうこんな時間……」


クレラは、丸いそれを見て、焦ったようにつぶやいた。

言葉から察するに、時計の類であることは間違いなかったが、時計にあるはずの円盤部分に針は見当たらず、代わりにただ少量の液体がぷかぷかと浮いているだけだった。


「ここにいられるのには、限りがあるの?」


クウェリルは言った。


「限りがあるのは私じゃなくて、貴方の方よ」

「私に?」

「えぇ、貴方はもうすぐアルムの世界で生きることになる予定なの……」


さらりとクレラは言ったが、クウェリルにとっては大事だった。


「今すぐですって? そんなこと、頷ける訳ないじゃない!」

「一体どうして?」


クウェリルにとっては、これが理解できない方が不思議な話だったが、クレラは冗談で言っている風にも思えなかった。


「私は生まれた時からここを離れたことはないわ……。勿論、ここで生涯を終えるつもりだった……」


クウェリルの目に映るのは、かつて愛した美しい城の面影などどこにもない、その残骸だけだった―。


「もうここには何もないじゃない」


クレラはクウェリルに倣ってかつて城が建っていた場所を見た後、小さく肩をすくめて言った。


「えぇ、そうよ……。私は全部失ってしまったんだもの……」

「だったらここに未練はないわよね?」


クレラは非常にもそう言い放った。


「でも嫌なのよ……。ここには忘れられない思い出が沢山あるわ……」


クレラは、クウェリルの話よりも美しい靴を汚す煤の方が気になるようだった。


「まぁそれも選択の一つね。けれど、いいの?」


さっと足を上げ、一二度靴を擦った後、クレラは挑戦的な目でクウェリルを見つめた。


「アルムの中に、今とても邪悪なことを考える人物が渦を巻いているわ……。彼の目的は明らかにされていないけれど、私はこう考えているわ……」


クレラは自分の腕で体を抱いて静かに、低く言った。


「オラマを操ろうとしている―とね」

「オラマを……? そんなことが出来るの?」


クウェリルは声を上ずらせて言った。


「もちろん法で禁じられているし、それを行う手法もないとされてきた……。けれど、彼だけは違った……。幼い頃からどんなモノにも生命を与え続けてきた……」

「彼は、水の人形遣いなの?」

「いいえ、彼はかつては炎の人形遣いだったという話よ……」


クレラは曖昧な言い方をした。


「かつて? では今は一体何の人形遣いなのかしら? それに、水や炎やらって、そんなに属性を変えることが出来るの?」


クウェリルはアルムについて、知らないことばかりだった。

もしそれが可能なら、自分が炎をも操れた可能性に思い当たった。

クウェリルの大切なもの、すべてを巻き込んでしまったあの炎を―。


「いいえ、それは出来ないわ。これは生まれつきのものよ」


いともたやすく、クレラはクウェリルの期待を打ち消した。

クウェリルの瞳の奥からは、あの真っ赤な炎が未だ燃え盛るようだった。


「けれど、一つだけ属性を変える方法があるのよ……。それが、闇の人形の使い手となること……」

「闇の人形遣い?」


それが明らかに邪悪な存在だとクウェリルにも分かった。


「かつて、私たち水、草木、そして炎は互いに憎み合って生きてきたわ。水は全ての水分を吸い取ってしまう草木を、その草木は全てを焼き尽くしてしまう炎を、そして炎は、その大きな炎をすべて飲み込んでしまう水を―。三者三様に憎んで、殺し合ってきた―。そしていつしか、その憎悪がアルムからあふれ出てきて、大きな渦を巻いたわ―。人々はその黒い渦を闇と呼んだ……」


クレラは一呼吸を置いて再び話し始めた。


「そんな時一人の人形遣いが現れたわ……これもまた炎の人形遣いね―。彼の人はその闇を使って、人々を恐怖のどん底に陥れた―。黒い炎を掲げ、なんと生命を持つモノを自由自在に操った―」

「生命を持つモノ? その力を用いて……その、オラマが狙われているということ?」


クウェリルは言いなれない言葉に口をもごもごとさせた。


「えぇそうよ。本来生命を持つモノは私たち人形遣いでも操ることができないとされているのに、闇の力はそれを可能としてしまった―」


クウェリルは人間たちが何かの力に操られ、自分の意思とは違う行動をさせられることに、顔を歪める姿を想像して、ゾッとした。


「けれど、闇の力といってもこれにも限度というものがあるわ。生命あるモノは本来何者にも操られないはずなのにそれを操ろうとするなんて、それ相応の代償が必要よ―。生命を地涌自在に操るには、とてつもない力が必要―つまり、人形遣いとしての寿命を削って闇の力を自分のモノにするということ―」

「寿命を? それって禁忌を犯した代償ということなの? 命を縮めてまで闇の力に溺れるなんて、そんなことあり得るのかしら?」


クウェリルは信じられない気持ちだった。


「……多くの人間がそう思っているでしょうね……。けれど彼らは止まらない、すべてを手中にするまで、どんなモノでも差し出すでしょう……」


クレラは無意識のように、胸元にある古びたネックレスを手でいじった。

そして、重々しく言った。


「けれど、彼らに対抗する手段が一つだけあるのよ……」


クレラの次の言葉を、クウェリルは固唾を飲んで見守った。


「……私と貴方、二人だったら私たちは彼らに対抗するすべを持つの……」

「……嘘よ」

「いいえ、嘘なんかじゃないわ! これは私と貴方に授けられた義務とも言えるべきものです……」

「義務ですって? あなた達の世界のことを今この瞬間まで何もしらなかった私が?」


クウェリルはクレラを見て皮肉な笑いを浮かべた。


「私はあなた達が言うオラマとして生きてきたわ。アルムのせいで私たちオラマがひどい目に遭うと言うのなら、あなた達アルムが責任を取るべきよ!」


クウェリルは冷たく言い放った。


「自分のことをオラマなんて言わないでちょうだい! 貴方はアルムよ!」


クレラはクウェリルの肩を掴み、強く揺さぶった。

まるで目を覚ませというように―。


「違うわ! 私は……アルムなんかじゃない!」


しかし、クウェリルは頑なに首を振った。


「だったら何だというの?」


クレラの問いに、クウェリルは考えを巡らせた。

ヴォ―デンとドーエの元に生まれた次期オーロ王国国王である自分。

クレラがいう、邪悪なアルムたちを、クレラと二人倒すことが出来る可能性のある自分―。


「……私はクウェリル=オーロよ。アルムだとか、オラマだとか私には関係ない……」


クウェリルにとっては、やはり今まで生きてきた世界しか信じられなかった。

その瞬間、クレラの顔に失望の色が浮かんだのをクウェリルは見た。


「今の私には何もないもの……。この惨事を見てごらんなさいよ! 何もかもを失った私に出来ることなんて何もない……」


クウェリルは言い訳をするように早口で言った。

一刻も早く、クレラの冷たい視線から逃れたくて仕方が無かった。


「……貴方が何も持っていないなんて、そんなことないわ」


じっとこちらを見つめて言うクレラの声には怒りや悲しみといった感情は何も感じなかった。

ただ、事実を淡々と述べている―そんな風にクウェリルは感じた。


「確かにオラマの世界であなたが信じていたものは全て消え去った……」


クウェリルは改めて一夜にして全てを失ったことを突き付けられると、喉の奥から深い悲しみが湧き出るのを感じた。


「けれど、貴方はアルムの世界で色んな可能性を秘めているのよ―。それに、貴方だけが持つ特性により、健全なアルムは貴方の救いの手を求めるでしょう……。今この瞬間も、意思を奪われて彼らにされるがままの身になってしまったモノたちが大勢いる―それはどんなにつらいことか―」


クウェリルは自分の肩を掴むクレラの力が、更に増したように感じた。

しかし、今のクウェリルはクレラを跳ねのけてその痛みを解消することが出来るが、闇の人形遣いたちに手に堕ちた人々はどうだろうか―。


「闇の力で操られる人々はその間、意識はあるのかしら……?」

「さぁ、私には分からないけれど自我を保っていても、そんなものとうの昔になくしていたとしても、どちらにしても辛いのは確かね―」


クウェリルは、自分が今クレラよりももっと、耐え難いという感情が表に出た顔をしているだろうという確信があった。


「闇の力はどこまで及んでいるの? いつオラマの人々に牙を向けるのかしら」


クウェリルは恐る恐る聞いた。


「彼らは今、準備期間に入っていると私は見ているわ」

「もしそれが正しければ、まだ時間はありそうなの?」

「いいえ、そうとも言えないわ。彼らの手はすぐそこまで迫っている」


クウェリルに芽生えた期待はあっけなくすぐに消えた。


「闇の人形遣いたちは今現在、オラマの人々を襲う前に、腕慣らしに数々の生物を襲っているわ」

「オラマを操ることは難しいことなの?」

「そうね……そもそもの話、元来アルムが操るのは生命を持たないモノたちだけ―。けれど、オラマは私たちと同じように生きて、そして自我を持っている。これは私の考えでしかないけれど、その自我が強ければ強いほど、従わせるのに大きな労力を使うのだと考えているわ」


クレラの言葉は節々が弱かった。

これに関してはクレラも確信を持った考えではないようだ。


「とにかく、闇の人形遣いは必ずオラマ達を強制的に操ろうとする―これだけは確かに言えることよ」


クレラはそれまでを払拭するように、はっきりと言った。


「そして、そのため大事な場所がある―ヴァンミフ学園よ」

「ヴァンミフ学園……ずいぶん面白い名前の学校ね。けれど、ただの学校じゃないのよね? だってわざわざ闇の魔法使いが狙っているって言うんだから」


クウェリルの脳内のそれぞれは、結びつかなかった。


「どんな学校か、ヴァンミフに行けばよく分かるわ。それが一番よ」

「誰が……その、ヴァンミフに行くって?」

「貴方以外に誰がいるの?」


クレラにとっては至極当然のことだったようで、クウェリルがなぜそんなことを問うのか、と困惑の表情を向けて言った。


「待ってちょうだい。私、それがどこにあるかも知らないのよ?」

「そんなの問題ないわ。そもそもヴァンミフに行くための道なんて知らなくていいもの」

「一体どういう意味かしら? まさか、私のいる場所まで先生がやってきてくれるとでも言うの?」


いつの間にか後ろを向いていたクレラは、視線の先を気にするばかりでクウェリルの求める答えは返ってこなかった。


「あぁ、それってまるで王族の家庭教師みたいね」


クレラはようやくこちらを見て言った。


「まさに私にも、その家庭教師はいたわ……」

「そういえばそうだったわね! 私にもそんな存在がいるのよ……共に家庭教師に教わった身……私たちってどこか似ていると思わない?」


クレラはじっとクウェリルを見つめた。

クウェリルはその時、風に揺れるクレラの白い髪に目を奪われていた。

白い髪は太陽の光を反射して、まるで一本一本が丹精に織られた絹のように美しかったのだ―。

それは、ドーエの眩しいほどの白い髪を思い起こさせた。


「……いいえ、そうでもないわ」


クウェリルの口から出たのは、大分ぶっきらぼうな声だった。

理由は分からないが、クレラはその時初めて悲し気な顔をクウェリルに見せた。


「そう……。まぁそうよね私たちは生まれ育った世界が違うもの」


クレラは髪を鬱陶しそうに手で一つにまとめて後ろへ流した。


「それよりも、貴方はヴァンミフで一番になる必要があるわ。覚悟はできてる?」


クレラは人差し指をクウェリルに突き付けた。


「私、ヴァンミフに行くなんて言ってないわ! 勝手に決めないでちょうだい」

「まだそんなことを言っているようじゃ困ったものね……。別にいいのよ、私は」


クレラはわざと悲痛な表情を作ってみせた。


「貴方がここに留まることで闇の力で自由を奪われるオラマがどれほどいるでしょうか!」

「……脅しのつもり?」

「いいえ、これは事実なのよ。さっきから言っているでしょう? 闇の人形遣いたちは既に動いていると……」


クレラはふとクウェリルの後ろに視線を遣ると、目を丸くし一歩距離を置いた。


「ねぇ、あれ。何かこちらへ向かってきていない?」


クレラの視線の先を恐る恐る追うと、どれほど脳みそが詰まっているのかと思うほど大きな頭をした生物が、極小の手足を一切使わず体を引きずってこちらに迫ってきているのが見えた。

その生き物は、捕食対象を探して一生懸命になりすぎているとしか思えないほど、大きく口を開けおり、その様を見ると、大きすぎる頭はまるで役に立っていないようにクウェリルは思った。


「あれはいったい何なの!? こちらに向かってきているような気がするのだけれど気のせいよね?」


クウェリルは悲鳴を上げた。


「あれは確か……絶滅危惧種の……」

「貴方も良く知らないの?」

「だって本でしかお目にかかれない動物なのよ―あれはヴァンミフで飼育されている動物なの……」


クウェリルはクレラすらも良く知らない生物が迫っていると分かり、足に力が入った。


「まさかオラマの世界で見られるとは思わなかったわ! これってとても貴重なことよ。だってヴァンミフのとある場所に生息している―それしか今生き残っているドルドレの情報はないわ」

「ドルドレですって? こんなの勝手にたくさん繁殖してそうに見えるけれど!」

「そんなにぽんぽん増えたら苦労しないわよ!」


クレラが大きい声を出したことで、クウェリルは飛び上がった。


「いい? ドルドレはオラマとアルムを行き来できる唯一の生物なのよ。貴方の言うように勝手に繁殖してくれたらどんなに良かったか」

「見かけによらないものね……。というか、あんなの初めて見たわ。へんてこすぎて、見かけたらこっちでも話題になりそうなものだけど……」

「言ったでしょう? あれはヴァンミフにしかいないと……。オラマだってその姿を見かけたものは、幸運な人間と言えるでしょう」


その瞬間、クウェリルの嫌な予感が働いた。


「一つ考えなくちゃいけないことがあると思うわ……私、どうやってあの生物と共にアルムの世界へ行くのかしら?」

「まぁ、やっとこちらへ来る気になったのね」


クレラのしたり顔に、クウェリルは再び決意が鈍った。


「例えばの話よ。行くなんて言った覚えはないわ……。まぁ、移動手段にもよるかもしれないけれど……」


クウェリルが言うと、クレラは途端に気まずい顔をした。


「あの背中に乗ればいいのよね? きっとそうでしょう!」


クウェリルは大きく開けられた口は見ないことに決めた。


「……多分そうよ。私も良く知らないけれど……」


クウェリルはクレラの曖昧な言い方に、自分の体を腕で抱きしめた。

ドルドレは、気づけばすぐそこまで迫っていた。


「もう時間がないわね」


クレラが再び時計のようなものを見つめて言った。


「そういえば、私はどうして一番の成績をとらなくてはいけないの? 正直に言って、貴方たちの世界のことを何にも知らない私がトップを目指すなんて容易なことではないと思うわ……」


限られた時間の中、どうしても気になっていたことをクウェリルは思い切って聞いた。


「入学前からそんなことを言ってちゃだめね……頂点を狙わないとどんどん置いてきぼりにされるわよ」


クレラはため息を吐いた。


「勿論勉強は頑張るつもりよ! けれど貴方みたいにアルムの世界のことをよく理解している人たちと競おうなんてとても無理だと思ってしまうの……」


クウェリルは自分が持つ自信が、深い底に沈んでいくのを感じた。


「いい? 私だって何もせずに色々なことを知っているわけじゃないわ! きちんと家で勉強した成果がこれなのよ」


クレラは遠くのドルドレを顎で指し示し、言った。


「家で? クレラはヴァンミフに通っていないのね……。てっきりヴァンミフの学生だと思っていたわ」

「……私は王族だと言ったでしょう? もう忘れてしまったの?」


クレラは、少し不機嫌にそう言った。


「そうだったわね……。ねぇ、変な質問だけれど、貴方はヴァンミフに行きたいとは思わないの? ……私も城の中で勉強をしていた内は、普通の学校に通いたいと長い間夢見ていたの……」


クウェリルはクレラが同意してくれることを望んだが、しかしクレラの顔が凍り付いたようにクウェリルは感じた


「……いいえ、あんな場所行きたいと思わないわ」

「……あんな場所?」


小さい声だったが、クウェリルは聞き逃さなかった。


「考えれば、貴方にとってヴァンミフへの入学は思ってもみなかったということね! 良かったじゃない」

「えぇそうね……」


クウェリルはクレラの空回りの元気な振舞いが気になった。


「だったらなおのこと弱音を吐いていないで一番をとってくることね」

「どうして一番を? そこに理由でもあるのなら教えてちょうだい」


クレラは急に真面目な顔になり、クウェリルを見た。


「貴方が心配だからよ」

「心配?」


予想だにしない言葉に、クウェリルは驚いた。


「えぇ。こことは比べものにならないくらい、アルムの世界は危険でいっぱいよ……正直、貴方を無理やり連れて行っている自覚はあるの。だからせめてでも自分の身は自分で守れるくらいには強くなって……」


真摯な瞳で自分を見つめるクレラに意識を取られ、クウェリルは背後に近づくドルドレに気が付かなかった。

背中に刺激を受け振り返るとそこにはついに間近にまで来たドルドレがいた。

それは、遠目で見た時よりも更に間抜けな体制で動いているように思えた。

毛皮が一切なく、つるつるの体をしているからか、さきほどのノーエゴの腹水のような臭みは全くなく、クウェリルにとってそれだけが幸いだった。


「ねえ、これはいつまで口を開けているのかしら……」


ドルドレはクウェリルの目の前で大人しく止まった後も、口をおおっぴらに開けたままだった。


「まずは最初の勇気を示すところが来たようね! さぁ、少しの我慢でいいのよ」


クレラの裏切りに、クウェリルは既にヴァンミフでの生活が不安になった。



とうとうクウェリルは、左右迷ったが覚悟を決めて右足をドルドレの口に突っ込むと、ドルドレは更に唾液か何か、口の中の液体を分泌させて、クウェリルが全身を滑り込みやすいようにした。

足が両方入れば後は簡単だった―。

クウェリルの体は頭を覗けば、完全にドルドレの体の中に飲み込まれていた。

傍から見ればそれは恐らく、クウェリルがこの奇妙で貴重な動物に食べられる寸前に命乞いをしているように写っただろう。


「いい感じじゃない! 今までの優柔不断さは何だったのかと思うくらいよ」


クレラはあっという間にヴァンミフへ行く覚悟と用意を決めたクウェリルを手放しに誉めた。


「案外心地いいものね……。どう? あなたも堪能してみない?」

「……いいえ、私は遠慮させてもらうわ……」


ドルドレの口内をぽんと叩くクウェリルに、クレラは即座に首を振った。

そして、時計のようなものを見ると、かがんでドルドレの口に飲み込まれたクウェリルに視線を合わせた。


「ヴァンミフは基本閉ざされた学校教育だと言われているけれど、それでも外部との連絡手段はあるわ」

「まさか、この子が何通もの手紙を加えるんじゃないでしょうね?」


クウェリルは自分の入るドルドレの口の中の天井を見上げた。


「もう愛着でも湧いてしまったの?」

「そうかもしれないわ!」


クレラは笑った。


「この調子なら大丈夫そうだけれど……もし、ヴァンミフで何かあればすぐに私に知らせてちょうだい」


クレラは笑うのを止めると、真剣な表情になった。


「城の人に託せばいいのかしら?」

「その辺はヴァンミフに行けば分かるわ」


ドルドレの口はついに段々と閉まり始めていた。

クウェリルは半分になってしまった視界の先に、悲惨な城の残骸を見た。


(お父様―お母様―。私が進むべき道はこれで合っていると背中を押してくれるでしょうか?)


クウェリルは自分の胸に埋まる宝石に熱が灯るのを確かに感じて、目を閉じた―。






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