炎が明かしたもの
「貴方の両親は、こんなこと出来ない。これは断言できるわ」
少女は、憐れむような目で遠くを見つめていた。
「だったら私も出来ないわ……」
心底がっかりした気持ちで、小さくクウェリルが言うと、少女は力強く肩を掴んできた。
「いいえ! あなたは違うのよ!」
少女が肩を掴む力はとても強く、クウェリルはきしむ痛みに呻いた。
「言ったでしょう! あなたは私と一緒だと……。こここそが偽りなのよ!」
信じて―――
そうつぶやいた少女の顔はとても、真摯な目をしていた。
クウェリルは、また夢を見ていた。
会った記憶はどこにもないのに、どこか懐かしい雰囲気を漂わせるその少女は、一体誰なのだろうか。
クウェリルは、何か大事な記憶をなくしてしまっているような気がしてならなかった。
クウェリルが現実の世界でまず感じたのは、額の不快な生ぬるさだった。
目も開けないままクウェリルは頭に手を伸ばすと、そこには若干乾きかけている手ぬぐいが乗っていた。
気持ち悪さから、クウェリルはさっと手でそれをのけると体を起こそうとしたが、熱を帯びた体はクウェリルの思うようには動かず、再びベッドに身を預ける羽目になった。
変わらず窓もない自室では、小間使いたちが時刻を知らせに部屋に訪れる以外はクウェリルは今が昼なのか、真夜中なのかもわからなかった。
それにうんざりすると同時にだんだんと記憶がはっきりしてきたクウェリルは、自分がなぜここにいるのかを思い出した。
(私、きっとあれから倒れてしまったのね……)
クウェリルは体だけでなく気分もどんどん降下し、底をついてしまいそうだった。
ゾーデウェルが持ち込んだ、あの手紙のおかげでクウェリルは自分が父と母と血がつながっていないという衝撃の事実を知る羽目になった。
いや、実際に両親はずっとゾーデウェルの追及をかわし続け、彼らの口から出生の事実について聞くことはついに無かったのだが、あの動揺ぶりを考えるに、真相は効くまでもなかった。
クウェリルの脳裏には、ゾーデウェルの哀れみの目がこびりついて離れなかった。
クウェリルはその時初めて自分が憐れまれる立場にあるということを分からされた。
食堂のことを回想すると、再び心臓は締め付けられるような痛みを起こした。
慌ててクウェリルは、自分の体を楽にしようと、のしかかる布団を床に押しやった。
すると、クウェリルの視界にはきらびやかなドレスではなく、純白のシルクの寝間着がうつった。
あの時倒れた後、誰かが着替えさせてくれたのだろう。
こういう時、普通ならこれを担うのはメイリィのはずだったが、最後に見たあの様子だとどうにもこれが彼女のおかげか分からなかった。
(メイリィは今どうしているのかしら)
クウェリルが体調を壊した際には、いつもメイリィが傍にいた。
しかし、彼女どころかクウェリル以外は誰一人この部屋にいなかった。
思い返せば昨日、彼女の様子からしてクウェリルの”あの“問題について、何かしらの事実を知っていたことは確かだった。
クウェリルは自分の体にかかる掛け布団をどかして、ベッドから降りようとしたその瞬間、部屋の扉が酷く優しくノックされた。
「……クウェリル、起きているの?」
それは、母ドーエの声だった。
クウェリルはその声を聞き、ぶら下げていた足を再びベッドの上に持ち上げた。
そして、体を丸めてベッドの上で縮こまった。
(今まで自分を欺いてきた母と話すことなんて、何もない)
クウェリルは、返事をする気は到底起きずただ、無視を決め込むことにした。
「寝ているみたい……。今日はきっと疲れているのよ。……あんなことがあったのだから、仕方ないわ」
しばらく間が空いた後、ドーエが誰かに声を潜めて話しかけた。
「そうだね……」
低く、鼓膜を震わすようなその声で、ドーエと一緒にいるのはヴォ―デンだと分かった。
「今日はもうクウェリルの顔だけ見たら、僕たちも寝てしまおう。きっとそれが良い」
ヴォ―デンのその言葉に、クウェリルの心臓は飛び跳ねた。
慌てて寝そべり、足元の掛け布団を頭の上まで持ち上げると、クウェリルは自然と息を潜ませていた。
布団の中で耳をジッと澄ませていると、かすかにドアが絨毯に擦れる音がして、二人分の足音が響いた。
一歩、二歩―。
そして、クウェリルのほんのすぐ近くに来ると、その足は止まった。
クウェリルの心臓は、今までで最も早く波打った。
しかし、二人はクウェリルに話しかけることも、乱れた布団を直すこともせずに、しばらくクウェリルの傍にいた後、入ってきた時と同様に、静かに部屋を出て行った。
ドアノブが回り切り、完全に扉が閉まったということが分かった後も、クウェリルはしばらく息をじっと殺した。
それから一体どのくらいたっただろうか。
さすがに二人が遠ざかっただろうと確信が持てたところでクウェリルは掛け布団からのそのそと顔を出した。
ベッドの中は、二人の気配に神経を尖らせていたために体温が上がったクウェリルのせいで、とても熱くなっていた。
久々の冷たい空気に、クウェリルはすうと鼻から息を吸った。
(私に何を言うつもりだったのだろう……?)
少しだけ頭が冷めたクウェリルは、ドーエとヴォ―デンが自分に何を言うつもりだったのかを考えた。
(きっとみっともなく言い訳を並べるつもりだったはず……。とてもじゃないけれどそんなもの、聞いていられないわ)
クウェリルは、自分にこんな事態になった訳を言って聞かせる二人を想像すると、再び体温が上昇するような、そんな気になった。
(どんな理由であれ、私に長年真実を話さなかったこと、それこそが変わらない事実―)
クウェリルはヴォ―デンの蒼白ぶり、そしてドーエの嫌に落ち着き払った先ほどの様子を思い出した。
どうしてこのようなことになってしまったのだろうか。
つい朝までは、自分の父、母と慕っていた人間だったはずなのに、今となってはこの世で最も信頼の出来ない人間となっていた。
温かみを感じるドーエの優しい笑みも、瞳の奥に透けたヴォ―デンの慈しみも、その全てが虚像だった。
これまでの二人との記憶を遡れば遡るほど、クウェリルはその思い出全てが空虚なものに思えた。
気が付けば、クウェリルの喉には熱い塊が押し寄せてきた。
しかし、クウェリルはそれ以上上に上がってこないように、無理やりに目を瞑り、流れ出てくるそれを押し込めようとした。
心が擦り切れたために、体も休息を求めていたようで、クウェリルはすぐに、再び長い眠りに落ちた。
あの日から何晩たったのか、クウェリルが分かるすべはなかった。
それは、クウェリル自身がこの部屋の外とのつながりを一切遮断していたからだった。
ドーエとヴォ―デンは度々クウェリルの部屋を訪れた。
扉の向こうから呼びかける声に、クウェリルは絶対に応えず、その度に二人はクウェリルの部屋に立ち入り、クウェリルの様子を窺った。
何度目のことだっただろうか。
毎度のごとく足音を殺してクウェリルの傍に寄ったドーエとヴォ―デンに、クウェリルはとうとう気が付いた。
ドーエもヴォ―デンも、クウェリルに対して、何をしなかった。
部屋に立ち入る前に一声かける以外は、一声もかけずただクウェリルの近くまで来てすぐ踵を返すだけ。
部屋に入れば一声もかけず、指一本も触れはしない。
(もしかして、私が向き合うまでその時まで、待つつもりなの?)
クウェリルは自分の行いがとうの昔に見透かされていたことを途端に恥じた。
眠りに落ちて声が聞こえないふりも、ベッドの中で頭をすっぽり覆いかぶさることも、全てドーエとヴォ―デンとの対話を拒むためだと、二人は気が付いていたのだ。
証拠に、ドーエもヴォ―デンも直接何かをクウェリルに行わない。
二人は気が付いているのだ。
クウェリルの部屋の扉は、クウェリルの心内を明かすかどうかの、案内門だと。
クウェリルの頭まで覆う掛け布団は、クウェリルの最後の砦のだということを。
気付いた瞬間、クウェリルの中から自分から二人に行動を起こすという選択肢は消えた。
意固地になったクウェリルは、長く部屋に籠り続け、底をつきそうな最後の体力を何とか絞りきり、部屋の内の扉の前にテーブルを移動させ、その上に二脚の椅子を積み上げた。
目の前に立ちはだかる、籠城のための大きな砦をまばたきもせずにじっと見つめた。
体力が限界を迎え、ベッドに向かおうとしたその時だった、
ドーエとヴォ―デンは再びクウェリルの部屋の前に立ち、声を掛けた。
「クウェリル……そろそろご飯を食べないと体に良くないわ……」
とうとうクウェリルの体調を心配した二人は、いつもとは違う呼びかけをした。
しかし、クウェリルの体は空腹を大したことだと思っていなかった。
真に死に向かっているクウェリルよりも、ヴォ―デンの声の方がよっぽど覇気がなかった。
「……部屋に入るよ?」
ヴォ―デンのおそるおそると言った声に、クウェリルはじっと扉の行く末を見つめた。
ドアノブが回されると、扉は少し開いたものの、すぐに机につかえて扉の動きを止めた。
つかえた後も二、三度扉はガタガタと揺れたが、すぐに扉は元の場所に収まった。
扉はそれから動くことはなく、三人がいるこの空間には痛いほどシンとした静寂が襲った。
クウェリルは耳を澄ませたが、二人の話す声は何も聞き取ることが出来ない。
クウェリルは無意識に歯を食いしばっていた。
(ほら、見て見なさい。私のことなんて対して大事だと思ってないのね。こんなにすんなり諦めてしまうのだから)
クウェリルからは乾いた笑みがこぼれた。
ドーエとヴォ―デンの愛をはかったが、それが予想と一つも違わなかったことに、クウェリルの心の深い部分を抉ったのだ。
だらりと体の力を抜くと、クウェリルはベッドに倒れ込んだ。
上を見上げると、天井には暗い闇が広がっていた。
もう二度と目覚めないつもりで、ベッドの上で静かにクウェリルは目を瞑った。
「早くその時が来ればいいのに……」
少女は待ちきれない、とうずうずとした顔で言った。
「その時って?」
「正しい運命に沿う時よ……」
「じゃあ今は間違っているということ?」
クウェリルの問いに対して、少女は不思議そうな顔をした。
嫌な頭痛で、クウェリルは目覚めた。
頭は割れそうなほど、ずきずきと痛んだ。
頭を押さえてベッドの上で暴れると、呼吸が荒くなるにつれ、のぼせたかのようにくらくらして、クウェリルは目を回した。
息を荒くさせ、必死に痛みに耐え続けると、次第に痛みは引いたが、今度は異様な暑さがクウェリルを襲った。
(暑い……、とても冬とは思えない……)
クウェリルは、自分が冬を越してしまったのかと思うほどの暑さに困惑した。
吐く息さえも熱を帯び、体の中には熱がこもっていた。
ぼーっとする頭で部屋を見渡すと、積み上げられた机と椅子に一瞬驚いた。
眠る前に自分がした行いをすっかり忘れていたのだ。
クウェリルは体を冷ますためにベッドから抜け出そうと身を乗り出したその瞬間、膝から崩れ落ちた。
何日も横たわり、栄養もろくにとらなかった体はついに限界を迎えていた。
せめて床に座ろうと腕に力を込めてみるも、クウェリルの寝そべった体はぴくりとも床の上から浮かなかった。
頬に触れる床すらも熱かった。
動けず、どうしようもなくなったクウェリルは小間使いの部屋につながるベルを見上げたが、到底それに手は届きそうにない。
途方に暮れたクウェリルは、身をなすがままに任せた。
すると、床につけた耳から、轟音が響いていることに気が付いた。
その音は、とても人がなす音には思えないほど、不気味なその音に、クウェリルは身震いした。
自分の知らない外で、何かが起こっている―。
確信を持ったクウェリルは、力のはいらない腕を叱咤しながら、腕を前に、前にだし這いつくばって遠い扉を目指した。
嫌な予感がクウェリルを扉に近づけた。
瞬間、目指していた扉が大きく揺さぶられた。
「クウェリル! 返事をして! お願い!」
ドーエの悲痛な声が扉越しに響いた。
二人を拒絶していたことも忘れ、思わず反射的に返事をしようとしたが、カラカラの喉では、吐息のようなかすかな空気だけがクウェリルの口から出た。
クウェリルは喉に手を伸ばした。
唾液を飲み込んで何とか声を出そうとするものの、喉の中はまるでピッタリくっついたかのように、声が通る隙間などなかった。
「クウェリル! お願いだ! ここを開けてくれ!」
扉を叩く音とともに、今度はヴォ―デンの緊迫した声が届いた。
「クウェリル! 私たち、どうしてもあなたに言わなければならないことがあるのよ……」
ドーエの懇願する声も続いた。
それに応えるためにクウェリルは机の椅子を掴んでみたが、それはびくともしなかった。
クウェリルは過去の自分を恨んだ。
数時間前の自分をひっ叩いてでもこんな障害物は作ってはいけないと伝えたかった。
クウェリルは目の前に積み上げられた机と椅子を見上げた。
目の前のそれは、クウェリルとドーエ、ヴォ―デンを阻む醜悪な悪魔にすら見えた。
突然クウェリルは息を呑んだ。
それは、限界まで伸ばした手をよく見るとまるで老婆のようにしわしわになっていたからだった。
慌てて引っ込めて反対の手で包んだ指は、カサつき、関節にはひびが入っており、指以外も顔の皮膚も全身の皮膚の何もかもがまるで一滴の水分も含んでいないような肌触りだった。
思えば唇も、乾ききりぱっくりと割れていて、舌で触ると血の味が滲んだ。
クウェリルは、今すぐにでも自分が死神に連れ去られてしまうようなそんな恐怖で全身を震わせた。
クウェリルは死に近づいている体を、外から守るように手足を抱えて丸まった。
丸まると、体の脈打つ音を感じられて自分がまだ生きていると実感出来て少し安堵したが、すぐに動く度にひび割れる全身の皮膚に、またひどく怯えた。
(眠ってはだめよ。頑張って起きていないと……)
クウェリルは抗いきれない眠気に襲われ、気が付いたら目を半分も閉じかけていた。
寝てはならないと本能が訴え、何とか目に力を入れようとするものの、クウェリルの意識は再び夢の中に落ちかけていた。
必死に視界に映る、自らの指に力を入れて、床をひっかいた。
しかし、それを見ていると意識はいつの間にか再び遠くへ……。
クウェリルは何回も同じ動作を繰り返した。意識があるうちにかろうじて指を動かし、しばらくしたら、瞼がとてつもなく重くなった。
その瞬間だった。
クウェリルの頭に衝撃が加わった。
それと共に、ぴくりとも動けないクウェリルの耳に必死な声が入り込んできた。
「クウェリル! しっかりしてちょうだい!」
一瞬の後、クウェリルの体は異常な熱風に包まれた。
そして、クウェリルは首を動かせなかったが、かすかな視界の向こうに、赤いものが広がっているように思った。
「クウェリル! あぁ、どうしてこんなことに……」
クウェリルは、自分の背中に不快でない、温かな重みを感じた。
「クウェリル……ようやく会えた……」
今度は、先ほどよりも少し重い体重を、全身に確かに感じた。
それは、ドーエとヴォ―デンがクウェリルの体を寝たままの状態で覆ったためだった。
しかしクウェリルは、全身に重みを感じたのにも関わらず、つい先ほどまでよりもずっと楽なような気がした。
ドーエとヴォ―デンは、クウェリルの砦を飛び越えてやって来てくれたのだ。
「ヴォーデン、扉を閉めてください!」
ドーエの叫びの後、クウェリルの部屋は少しだけ熱がましになった。
クウェリルは、ドーエに体をひっくり返され、安心感で満たされたその腕の中に納まった。
何日かぶりに見たドーエの顔は、とても一国の王妃とは思えないほど推奨しきっていた。
いつもきっちり結ばれた髪は、あちこちからほつれてしまっており、艶も感じられなかった。
きらびやかなドレスではなく、今のクウェリルと同じような寝間着は、とことどころ黒いすすがついており、普段の清潔さはどこからも感じられない。
とまどいもなくのばされた指がクウェリルの頬に触れた瞬間、顔をしかめてドーエは手を引っ込めた。
しかしドーエはまじまじと自分の指を見た後、迷わず再びクウェリルの肌に触れた。
「クウェリル……。もっと顔をよく見せて……」
クウェリルはどこから力が湧いてくるのかも分からなかったが、自然に自分から頬をドーエの手に寄せていた。
クウェリルの頬に延ばされた指は、不自然な熱さと、触感を持っていた。
しかし、いつも指にはめているルビーの指輪の部分だけは妙に冷たくクウェリルは少しだけその冷たさに、頬の熱を冷ました。
「……こんなになってしまって……。本当に申し訳ない……」
近づいて来たヴォ―デンはドーエと同様の様子だったが、ドーエとは違い前面に困惑が出ていた。
「いや、これは私たちのせいなんだ……。こんなことになるなんて、私たちはどうしてこう愚かなんだ……」
ヴォ―デンは嘆き、クウェリルから顔をそむけた。
しかし、すぐにクウェリルをちらりと見ると、観念したように体をクウェリルにグッと寄せ、ドーエとは反対の方の、クウェリルの手を掴んでぎゅっと握った。
クウェリルはあれだけ熱さに参っていたにも関わらず、両親の手の温かさに、まるで心が溶けるような気持ちで満たされた。
「クウェリル……貴方がこんなに忍耐強い子だったなんて知らなかったわ」
ドーエは目を細めてクウェリルを見て、しみじみと言った。
そっと撫でられた頭が、手に添えられた手の平がずいぶんと心地よく、クウェリルは気持ちよさげに目を閉じた。
「君はいつもそうだったね……。私たちのわがままにも長いこと付き合ってくれていた」
ヴォ―デンが後悔をにじませた声色で言った。
「そう。全部私たちのわがまま……」
目を開けて見た二人の悲痛な表情に、クウェリルは首を振ろうと頭を持ち上げたが、ヴォ―デンによって制された。
「クウェリルの優しさに僕たちは甘えてきた……。周りの多くの人々に言われ続けてきた、僕たちが君に行ってきたことの異常さを……」
「……ゾーデウェルさんにも悪いことをしたわね……。結局あの人が一番クウェリルのことを思っていたに違いないわ。……私たちよりずっと」
ゾーデウェルと聞き、ヴォ―デンの手に力が入るのがクウェリルには分かった。
次の瞬間、クウェリルの体はヴォ―デンによって持ち上げられた。
そして、横抱きにされ三人共にクウェリルのベッドまで進んだ。
ヴォ―デンの歩みで揺れる視界の中、扉の下から真っ赤な炎がとうとう部屋に入り込んでくるのが見えた。
驚いてヴォ―デンの腕を掴んだが、ヴォ―デンはクウェリルを安心させるように、優しく微笑むだけだった。
クウェリルは、その表情に思わず腕をつかむ手を緩めて代わりにヴォ―デンの肩に顔をうずめた。
クウェリルは運ばれている中、幼い日の頃を思い出した。
体力のなかったクウェリルは、いつも夕食の終わりには眠気に襲われ、食事を中断させヴォ―デンにこうしてベッドまで運ばれていたのだった。
あの時と一寸も変わらず、ヴォ―デンはクウェリルを壊れ物でも扱うかのように大切にベッドに下ろした。
「……クウェリル、今聞くようなことじゃないとは思うが……」
ベッドの横にしゃがみこみ、クウェリルの顔を見上げながらヴォ―デンがたどたどしく、言葉を選びながら言った。
「君は何を望んでいたのか、それを聞かせてくれないかい?」
一呼吸置いた後、ヴォ―デンはクウェリルを良い眠りにつかせるかのように、穏やかに聞いた。
まるで場違いなその言葉に、クウェリルは色々なことを思い浮かべた。
思えば、何をしたい、と思うほど世のことを知らないような気がした。
今まで生きてきた中でクウェリルは知らないことが多すぎた。
ずっと鳥籠のような部屋の中で、匿われて生きてきた。
しかし、今までの人生で寂しさはなかった。
城の中には様々な人間がいて、特にいつもそばにはメイリィがいた。
彼女はこの業火から逃げられただろうか―。
クウェリルは彼女の身を案じた。
オーロ王国の行く先も心配だった。
国の権威を示す城が、この大惨事だ。
遠くで赤く燃え盛る城を見て、恐怖に慄いている国民がいるかもしれない―。
その時この国を任される人間として、ドロリアがいたのをクウェリルは思い出した。
彼は今どこにいるのだろうか。
ここでの滞在の期間を終え、無事に母国へたどり着いていることを願った。
あの日、クウェリルと同じほど彼も動揺していた。
生まれた時から約束されていた婚約の相手が、それにふさわしくない人間だったと知った時、彼はどう思っただろうか。
混乱の気持ちか、軽蔑の気持ちか―。
彼は優しい人間だ、とうとうクウェリルと面を合わせて話す機会は無かったが、彼ならクウェリルの手を拒まない―そんな気がしてならない。
炎に包まれる今、クウェリルが願ったのは変わりのない平穏―ただそれだけだった。
クウェリルはヴォ―デンと目を合わせて口を可能な限り開いた。
「……う? すまない、クウェリルもう一度頼むよ」
ヴォ―デンは真剣にクウェリルの口元に注目していたが、力の入らないクウェリルの小さな口から、伝えたいものを読み取るのは困難を極めた。
そろって自分の口を凝視する二人がおかしく感じ、クウェリルは増々体の力がぬけた。
葡萄―。
クウェリルはその言葉を口で言い表すのに苦労して言った。
「……葡萄?」
ドーエが小さく、信じられないといった表情でクウェリルに問いかけた。
クウェリルはドーエに微笑んで、それを肯定した。
「葡萄……あぁそうね。……結局アイルが採ってきてくれたものを食べることは叶わなかったもの……」
ドーエはぼんやりとクウェリルの答えを咀嚼した。
アイルという名を聞き、クウェリルはあの日が遠く懐かしいことのように思えた。
あれから何日たっているのか、見当もつかないが、こんな事態に陥るに値するほどの日数は経っていないだろうと思った。
「ほかに、ないのかい? 例えば……」
ヴォ―デンは、続く言葉を言おうとして、口を閉ざし目を伏せた。
二人の言いよどむ様子から、クウェリルは、二人が言わんとすることが分かったが、それは真にクウェリルが望むものではなかった。
「ほら、例えば……温かいスープを食べたいだとか。外に出て走り回りたいだとか。あとは……」
ヴォ―デンはぽつりと話を上げ始めたが、手に握るシーツに、皺が寄っていた。
声色は明るいためそれとなく話そうとしているのは分かったが、言い進める内にどんどんヴォ―デンの表情は暗くなっていった。
「……それに……もっと自分の意思で人生を歩みたかっただとか……」
ヴォ―デンの言葉を汲んでドーエがクウェリルに問いかけた。
二人の表情は暗いものの、覚悟を決めた人間の表情だった。
(馬鹿ね、私はもうそんなもの望んでいないというのに)
クウェリルは二人の顔を見るとだんだんと笑みがこみ上げてきた。
まるで戦場で、上官からの命を待つ兵のような顔をした二人に対し、クウェリルの口角には笑いが滲んだ。
皮膚をひきつらせながらも、微笑んでいるクウェリルに対し、ドーエとヴォ―デンは顔を見合わせた。
「違う……? だったら……水でめいっぱい遊びたいとか……」
ヴォ―デンはしばらく考えた後、絞り出して言った。
クウェリルは、水で遊ぶなんて考えもしなかったため、それがどんなに楽しいことなのだろうか、と一瞬思いを馳せた。
しかし、考えた後も首をゆっくりと振って、否定した。
「……もっと他にあるだろう? ……君には、たくさんのことを強いてきた自覚が私たちにはある……」
ヴォ―デンは眉を寄せて苦し気に言った。
クウェリルのありもしない本音を引き出したくてたまらないようだ。
クウェリルは念のため、もう一度楽しいことを考えてみたものの、思いつくのはやはり、一つだけだった。
「水に触れるな、口にするな、むやみに外に出るな……。果ては身勝手に国をあなたに背負わせた……」
ドーエは苦々しく言った。
クウェリルはその言葉に首をかしげた。
国を背負う立場にあるのは、二人も同じ―。
それをクウェリルに背負わせるなど、言うのはおかしなことのように感じた。
しかし、クウェリルの口から出たのは疑問の言葉ではなく、苦しげな咳だった。
「クウェリル! ゆっくり呼吸をするんだ!」
慌ててヴォ―デンとドーエはクウェリルを横向きにして、背を撫でた。
既に、息を吸うのも精一杯だった。
時間は有限―。
ヴォ―デンとドーエもそれを感じ取った。
少しだけ落ち着いたクウェリルを見ると、二人は顔を見合わせてぽつりと話し始めた。
「貴方を一目見た時、私たちは天からの遣いだと、そう確信したわ……。だってあんなに神秘的な光景、とてもこの世のものとは思えなかったの……」
ドーエの目はクウェリルと交わっていたが、しかし遠い向こうを見ているかのような、クウェリルはそんな気がした。
その時、クウェリルの胸がずきりと痛んだ。
「正直に言うと、あの時の君は僕たちにとって劇薬だった。君にすがってしまうという選択しか取れなかった……。僕たちは必死だった。君をなんとしても、この国の王にするべきだと思った。それが、オーロのためになると信じていたからだ……」
ヴォ―デンが語気を強めて言った。
「成長していくにつれて、貴方は天からの遣いではなく、深い湖の底から来た遣いなのかと思うようなことが徐々に増えていった……。忘れもしないあの日、まだ庭の中央に噴水があった時……」
ドーエは口に当てて、言葉を詰まらせた。
ヴォ―デンはドーエを痛まし気に横目で見た。
「君は……噴水の中に落っこちてしまったんだ。……しかし、僕たちがそれを見た次の瞬間、水は高く舞い上がり、君の頭上をめがけて真っ逆さまに落ちて行った。僕たちは慌てて噴水に近づいた……。最悪の事態まで予想していた……」
ヴォ―デンは声を掠れさせて言った。
顔は真っ青で思い出したくもない、と言った様子だ。
「けれど、僕たちが見たものは違った……。君は……全身が水浸しだったものの……今までにないほど生き生きとした表情で、そこで笑っていたんだ……」
両親の心に、今でも重くのしかかるその記憶は、クウェリル本人は全くもって記憶の中になかった。
徐々に鈍る頭で、必死に過去を思い出したが、どこにもその記憶は見当たらなかった。
「君には滑稽に思えるだろうが……あの時僕たちが思ったのは……」
ヴォ―デンは中々に言葉にするのを戸惑った。
しかし胸を上下させ、懸命に息を吸うクウェリルを見て意を決し、言った。
「君が、いつしか水にさらわれてしまって、僕たちの目の前から消えてしまうのではないかということだった……」
ヴォ―デンの瞳は、真剣だった。
心の底からの、本当の懸念だったのだろう。
クウェリルは自分のこれまでの境遇の理由を本当の意味で漸く理解した。
ヴォ―デンの後ろには、炎が部屋の入口で、扉に押しやられたまま置き去りにしていた机と椅子が炎々と燃えているのが見えた。
あんなに苦労して動かしたにも関わらず、それはいとも簡単に炎に飲み込まれていった。
「私たち、あなたがとても大事だったの……。誰にもその手を渡したくなかった! たとえ、それが神であっても……」
ドーエは言葉の強さとは違い、優しくクウェリルの頬に触れた。
「それからの私たちは、正直に言うと異常だったわ……。貴方を奪い去ってしまうと信じて疑わなかった水は徹底的に君の前から排除した……。水浴、食事、そして城の中の設備まで……」
触れる手が、徐々に細かく震えるのをクウェリルは感じた。
二人は、迫りくる炎に気が付いているのだろうか―?
しかし、クウェリルはそれよりもよっぽど、クウェリルに何も伝えずに死ぬことの方を二人が恐れているように感じた。
「そうだ……。しかし、それにも飽き足らず、これまで以上に君とドロリアの仲を深めようとまでした……」
クウェリルの不思議そうな様子を感じ取り、ヴォ―デンが自嘲気味に言った。
「何でかって? それはまた僕たちが君の優しさに付け込んだということさ……。君は、とても優しい……国の長としての責任を押し付ければ、優しい君が国民や僕たちを捨てて消えることはないと考えたからだ……」
ヴォ―デンは自分がいかに醜い考えを持っていたか、自分を責めて具合が悪くなっているようだった。
クウェリルだけでなく、ヴォ―デンの声にも咳が混じり始めた……。
「許してくれなんて、言うつもりはない。そんなことを言えるような口はどこにも持ち合わせていない……」
ヴォ―デンは息も絶え絶えに言った。
「私たちは本当に愚かだった……。ただ等身大の貴方を愛せばよかっただけのに……」
ドーエは口を震わせた。
自責に駆られる二人を、どうにか納めたかったクウェリルだったが、既に目さえも開けていられる力も残っていなかった―。
かろうじて感じる二人の手をどうにか握り返し、続く後悔の言葉を遮りたかった。
クウェリルの手の動きはほんのかすかなものだったが、二人はきちんと受け取った。
しばらく辺りには炎が、威力を増す音だけが響いた。
「クウェリル。君がたとえどこから来た人間であろうと、どんな役目を担おうとも、それは君であるということに変わりはない……」
静かに、だが言葉の隅には心からの思いを感じるヴォ―デンの言い方に、クウェリルは自分の胸が熱くなるのを感じた。
「僕たちは、君のすべてを愛している」
「もし生まれ変わることがあるのなら、また私たちの元へ来てちょうだい、お願いよ?」
耳から入る言葉は、クウェリルの心を溶かした。
次の瞬間クウェリルの身は、二人の体に優しく包まれた。
人生で、これ以上満たされることはないだろうとクウェリルは思った。
炎の熱も、城が崩れる音も、その何もかも、クウェリルを害するものは、もはや何も感じなかった。
手にあるのは、ただ優しく一生手放しがたい両親の愛。
二人の愛がクウェリルを包んでいた。
「クウェリル、愛しているよ」
ドーエとヴォ―デンは、クウェリルの耳にひたすらに愛の言葉をささやき続けた。
温かな腕に包まれ、遠のく意識の中、クウェリルは胸に二つの雫が落ちるのを確かに感じた―。