序章
クウェリル=オーロが少しでも欲しいと願えば、それは三日三晩の内にはこの、オーロ城の中に慎重に運び込まれ、彼女の目の前に姿を現すのだった。
例えば十の時、彼女は海を渡った先にある陸のまた更に向こうの僻地にあるという、まるで空に浮かぶ雲のようにふわふわと軽い見た目をしている、一口口に含めば頬がとけてしまいそうなほど甘い食べ物があると知った。
「ねぇお父様」
クウェリルは前を歩く父ヴォ―デンの足元でゆらゆらと動くマントの裾をきゅっと握った。
小さな力を見逃すことなく足を止めた父は、振り返れば満面の笑みを浮かべていた。
「どうしたんだい、クウェリル」
「あのね……私どうしてもこの目で見てみたいものがあるの」
クウェリルは本でしか見ることが出来ないそれを、食べてみたいと父王にねだった。
するとどんな手を使ったかはクウェリルの知るところではないが、次の日起きてみればクウェリルの枕もとには小さな雲があったのだった。
多くの人がクウェリルをなんと恵まれた環境にあるのだろうか、とそう羨ましがることだろう。
実際、彼女の両親であるヴォ―デンとドーエはオーロ王国国王と、副王という立場を最大限活かして彼女の望みを叶えてやろうと日々努力していた。
しかし、クウェリルだけはただ一人自分のことをまるで籠に囲まれて空に飛び立てない哀れな鳥のようだと思っていた。
クウェリルが今自分が置かれている立場をそう解釈する訳を知れば、きっと多くの人は彼女をまるで感謝の気持ちの欠片もない、わがままな王女だとは思わなくなるだろう。
「クウェリルお嬢様、お目覚めですか?」
控えめなノックと共に扉の向こうから聞こえる声は、聴きなれたものだ。
目を開けると視界は真っ暗だった。
今が朝か昼かは分からないが、雨音がしない今日は、外は確実に明るいだろうに、窓のないこの部屋に光は一切入らない。
視界に入ったのは、程よく柔らかく沈み、体を支えてくれるベッド。
肌さわりの良い絹のドレス。
ベッドを包む、レースの天蓋。
どれも、いつもと変わらない風景だった。
「えぇ、今起きたわ」
クウェリルの声は、とても十三歳の少女とは思えないほど、掠れた声だった。
主人の声を合図に、扉が開くと、中に入って来た誰かが照明をつけたおかげで、部屋は明るくなり急な光に、クウェリルは目を細めた。
部屋には、十人ほどの女が中に入って来た。
彼女らは揃って同じ、茶色の細く長いワンピースを身に着け、真っ白の前掛けを身に着けているが、先頭の女だけは橙色のワンピースを着用していた。
「おかげんいかがでしょうか」
先頭の女、メイリィは尋ねた。
彼女は、年配の人間が多くを占める、この城の召使いたちの中にいると、一人浮いてしまうようにまだ若かったが、十三歳にして次期国王の座が約束されているクウェリルと並ぶと、幾ばくか年を重ねている女であった。
いつも変わらずキュッと結ばれた口角からや、一本も残さず綺麗にお団子にくくられた茶色の髪からは、彼女の几帳面な性格がうかがえる。
切れ長で美しい目は、広い視野を持ちクウェリルでも気づかない自身の変化に一番に気付いてくれた。
「……あまり顔色が良くないようですね……失礼いたします」
基本無口な彼女は、表情もあまり変わらない。
しかし、そんな彼女にしては珍しく、一瞬眉間に皺を寄せるとクウェリルの額に手を伸ばした。
額に感じたメイリィの手の平はひんやりとしていて、クウェリルはそれが心地が良かったが、同時にその手のぬくもりで、彼女の胸にはもやがかかった。
「熱はないようですね……しかし、今日のお食事は欠席された方がよいかと思われます」
「……いいえ、顔色が悪いのはきっといつものだから気にしないで」
クウェリルは幼いころから体が弱かった。
一日中、ベッドと友達である必要はなかったが、彼女が持つ体力は、棲み家であるこの大きな城を一周するにもやっとのものしか彼女にはなかった。
その上、クウェリルはいつも顔色を真っ白にさせていたため、城を歩くと皆が彼女の体調の心配をした。
起きた時から、寝るその時まで、どうにも毎日けだるさを感じ、それはまるで枯渇状態のまま、生命活動をしているような、そんな感覚だった。
クウェリルにとってはもはや、不調が当たり前であった。
(この気だるさがなかったなら、どれほど良かったか……)
毎朝こうして体調を尋ねられることに対しても、日に日に不満の気持ちは膨らむ。
勿論、自分の体調を心配して大人たちがとやかくクウェリルに口を出すのだと分かってはいたが、その気持ち自体を素直に受け入れることが出来なかった。
クウェリルの耐え難い大人の気遣いとして、まず挙げたいのが彼女の部屋についてだった。クウェリルの部屋は、窓はついておらずまるで箱の中のようで、クウェリルは一日の多くをそこで過ごした。
しかし、クウェリルが望んでいたのは決してかごの中の鳥のように部屋に閉じ込められている今の状況ではなかった。
胸にため込む不完全燃焼の気持ちが、大きくなりすぎて爆発しないように、時々クウェリルはメイリィに背を向けて小さくため息を吐いた。
「昨日もいつの間にか眠っていたみたい。気が付いたら朝だったの。何かあるとすれば……今日の夜のことで少し緊張しているみたいね」
「左様でございますか。しかし……少し過ぎた言葉ではあるかと思いますが、クウェリル様の気が乗らないのであれば、両陛下に正直に申された方が良いかと」
メイリィはひどく真剣な顔で言った。
「……メイリィは相変わらずね。緊張だって全然大したことないわ。それに、今日という日くらい、何とか気合いで乗り越えないと」
クウェリルは体の怠さをごまかすように、自分にも言い聞かせた。
今日という日は、クウェリルが鳥かごの中から飛び出せる貴重な日だった。
その理由とは、この城で生まれた時から定められていた婚約者である、隣国の王子との結婚に関する最終確認を行うという前々からの約束があるからであった。
隣国のオーゴデン王国と、クウェリルたちオーロ王国はすぐ隣に位置する国ということもあり国土や貿易の問題で度々争っていたが、特に両国の間に流れる大きな川―ローエヴィ川の水質問題についての長らく争っていた。
しかしクウェリルが生まれた頃、ようやくいがみ合いが落ち着いたという。
両国は、平和条約を結んだ。
そして、表立っては言わないものの、その証としてオーゴデン王国の第二王子であるドロリア=オーゴデンがオーロ王国に婿入りすることとなった。
現在の二人の関係性は、婚約者同士ということになる。
今日は陰気臭い自室から飛び出しても、誰にも咎められない貴重な日であるはずだったが、クウェリルの顔は特段喜びの表情を見せているわけではなかった。
隣国の王子であるドロリアとは生まれた時からの付き合いで気心が知れた仲だったが、さすがに婚約ともなると気が重かったのだ。
将来国を背負う立場にあるクウェリルたちは、婚約でさえも自らの意思が尊重されることはない。
国にとって、利益になるかどうかその一点がただ大事だった。
「申し訳ありません、クウェリル様はもう幼い少女でないのを度々忘れてしまいます」
「私ももう十三よ」
「えぇ、そうでございましたね」
オーロ王国では、成人の年齢は十三である。
クウェリルが十三になる今年、二人の婚約を正式に結ぶこととなっていた。
クウェリル自身も、自分が成人だという自覚を持てないままで、周りにとって庇護対象であるままだと感じていたが、間違いではなかったようだ。
ふと、クウェリルは体を余計に重くさせる、将来に対する不安をかき消すそんなきまぐれを思いついた。
メイリィは、一晩クウェリルの体を温めていた上掛けをはがそうとしたが、クウェリルはその手を上から包み、自分でめくった。
そして、体を動かそうと力を入れると、クウェリルのしたいことに気が付いたメイリィが慌てて体を支えようとクウェリルにその手を伸ばしたが、彼女はそれを軽く払った。
もぞもぞと動いて、クウェリルはベッドに腰掛けると上目遣いで固まったままのメイリィを見た。
メイリィは、目を合わせると苦笑して前に結ばれたクウェリルの寝間着のリボンにそっと手を掛けた。
「ここからは、私たちに任せていただけるでしょうか?」
「えぇ、お願いするわ」
メイリィの驚いた顔に、いくらか胸が軽くなったクウェリルは、それ以上のことは自分よりもずっと手慣れた皆に、身を任せることにした。
メイリィはあっと言う間にクウェリルを肌着だけの状態にしてしまうと、用意されていた布を隣のメイドから受け取り、失礼します、と丁寧にクウェリルの体にあてた。
クウェリルの体をふく布は体を冷やさないように、温かい水で濡らされていた。
メイリィの、慣れてはいるものの、しかしどこまでも優しいその手つきを眺めていると、ふと後ろの少し癖っ気のある藍色の髪を別のメイドにくくられていることにクウェリルは気が付いた。
その心地よさを感じクウェリルは目を閉じたが、反対に心はどこか冷めていた。
(いつもと何も変わりない穏やかな朝。たとえ王位を継承したとしても、命が尽きるその時までこの平穏な日々が覆されることはないのでしょうね)
クウェリルは、小さいながらも美しい水源に恵まれたそんな豊かな王国、オーロの第一皇女として生を受けた。
皆が羨む美しい衣服、広く豪勢な城、そして使用人たちにかしづかれる毎日。
誰もが羨む日々が、彼女の掌中には確かにあった。
しかし、彼女が本当に望んでいたものはそこにはなかった。
メイリィ達はあっという間にクウェリルの身支度を整えると、しゃがみ込み靴を差し出した。
「ご支度が整いました。お食事に向かいましょう、陛下達がお待ちです」
重い食堂の扉が開かれると、まず目に入るのは部屋いっぱいの細長いテーブルだった。
この城に客人を招く際にはこのテーブルは撤去され、この食堂は彼らの交流の場となるため、このテーブルはクウェリル達以外の目に晒されることはごくわずかだった。
しかし、日の目を見ることも少ないそのテーブルは、その必要もないのに何十人と座れるほどの長さを持っていた。
二人はこんなにも長いテーブルを持て余しているようで、狭いであろうにいつも端に寄せ集まって座っている。
端の席には父ヴォ―デンが、彼の斜め前の席には母ドーエが座っていた。
ドーエの向かい、それがクウェリルの定位置だった。
二人を待たせているということで、クウェリルは気持ち速めに足を進めて部屋の端に行く。
メイリィが背後で椅子を引き、クウェリルは漸く腰を下ろした。
「クウェリル、おはよう。昨晩は良く眠れたかしら?」
優しく微笑んでクウェリルに話しかけたのは、母ドーエ。
あごの先が細く、細さを感じる輪郭ではありつつも、顔のパーツ、特に目や鼻は丸みがあり、どこか親しみやすさのある顔で、目尻には笑い皺が濃く刻まれていた。
白い髪は、朝からきっちりと結い上げられており、ピンとした背筋等は、まだ夢と現実のはざまにいるかのようにぼんやりとしたクウェリルとは対照的だった。
身にまとう控えめではありつつも、細かいパールが太陽の光を反射し、温かみを感じるベージュのドレスは、いつも穏やかな彼女にとても良く似合っている。
綺麗に揃えられた指先には、いつも彼女が身に着けている大粒のダイヤの指輪がはまっていた。
「まだ眠そうじゃないか、昨日はよく眠れなかったのかい?」
ぼんやりとして、返事をしないクウェリルの代わりに父ヴォーデンが言った。
彼は、クウェリルと同じ藍色の髪の毛ではあるものの彼女にはない、白髪が少しだけ混じっていた。
体格は同年代の男性に比べると少しだけ大きく、それは国を背負う人間にふさわしい力強さを感じさせた。
目は黒く、加えて長く垂れた口ひげは、とても印象強く感じられるが、柔らかに弧を描く口元がそれを緩和していた。
「いいえ、お父様。昨日はとても良く眠れたわ。だから余計に、意識はまだ半分くらい夢の中なの」
クウェリルは肩をすくめて言った。
「まぁ、それは良かったわ。でも、無理に起こしてしまって悪いわね。まだ眠りたかったでしょうに。顔色もいつもより、悪いように感じるわ」
「……いいえ、むしろいつもより体調はいいわ」
「いいや、ドーエの言う通り顔が真っ白だよ。まだ朝も早い。どうする? 今からでも寝室に戻ってもいいんだよ」
「……ここまで来たんだもの、もちろんこのまま朝食をいただくわ。それに、食事は三人でという決まりでしょう?」
身を乗り出し、クウェリルの顔色をうかがう両親に、自分のことを思ってのことだと分かってはいたが、また自分の中にくすぶるものがかさを増すようで、ため息をつきたかった。
加えて、幼子でもないというのに自分の思うまま寝てもいい、と勧める両親の自分への甘さと、十三というまだ幼い年齢で婚姻を結ばせることの対照さがおかしく思えた。
ヴォ―デンとドーエの間には、長らく子どもが出来なかったという。
ドーエは、北の国、ミドルエニという国からはるばるこの地までやってきて、ヴォ―デンと結ばれた。
国同士のつながりを強めるために早く結婚した二人だったが、中々生まれない跡継ぎに、離縁の話も出ていたという。
しかし、子どもを諦めかけていた時に生まれた子供、それがクウェリルだった。
そのため、二人はクウェリルを言葉通り目に入れても痛くないというほどかわいがっていた。
よく、どこからか風の噂で入ってくる、病に効くという薬草の話を聞きつけては、彼らは遣いを出した。
しかし、一向に良くならないどころかむしろ年々覇気のなくなるクウェリルに、
彼女の身に、いつ何があってもいいように二人はなるべく家で過ごした。
彼らの娘のための言動は、クウェリルをうんざりさせることも多かったが、しかしクウェリルは自分への愛情のためだということは頭で理解していた。
クウェリルが席に着いた後、すぐさま食前のフルーツが三人の前に運ばれてきた。
この王宮では必ず食事にはフルーツが食前、そして食前の二回に分けて出される。
毎食、色とりどりの季節のフルーツが用意され、見ている分には新鮮さが毎回感じられる。
しかし、これは決して食卓に鮮やかさをもたらすためではなかった。
その証に、その後用意されるメインディッシュは食欲を促すように、シェフが持てる知識を余すことなく使って考えられた、色彩豊かなものだった。
では、フルーツが食事において何の役割を果たすかというとそれは、必ず食事に出されるフルーツとは対称に、絶対に食事に登場しないスープそして、飲み物に理由があった。
スープ、飲み物これらに共通するのは、どちらも液体であるということ。
クウェリルの食事には、液体が排除されていた。
これは、クウェリルだけが持つとある事情によるものだった。
それは、水に触れることも、見ることそれすらも許されないということ。
これは、クウェリルの両親、オーロ王国両陛下の方針のためでその徹底ぶりは凄まじかった。
まず寝起きの身支度の時。
美しいドレスに身を包む前に体を清潔にする。これは、多くの身分の尊い者の間では当たり前のことであり、クウェリルも例外ではなく彼女の髪色に合わせた美しい青色のドレスを着ることが日常であったが、それを着る際の体の清め方というのが他とは違った。
クウェリルの両親、またはおそらくその他多くの王族は湯あみをして、その日用意された衣服を着るが、クウェリルだけはそれが許されていなかった。
代わりに、毎朝メイリィ達メイドが用意した、お湯に浸した布で丁寧に体を拭かれるのだった。
しかし、身のまわりに登場する水というのは案外多い。
その筆頭が食事であり、普通の人間が口にするものは、たいていがのど越しの良い水分が多めのものであった。
対してクウェリルが口にするのは、喉に詰まってしまいそうなほど水気のない食事ばかり―。
そんな奇妙な環境で育ってきたクウェリルだったが、しばらくは自分の置かれている状況に何の疑問も持たずに、ただ与えられる生活を享受していた。
しかし、字が読めるようになったばかりの時、本を読むことに夢中になったクウェリルに、ようやくその時は訪れた。
世には、川や海、湖と呼ばれる透明な液体が流れる自然の造形が存在している。
雨が降る中、外に出てその雨を身に受けたとしても人は体に何の影響も受けない。
人は、一日の汚れを落とすために、液体に身を投げる。
そして、人は水という液体を口にする。
なぜ自分はそれらをしないのか、そう聞いた時の両親は今となっては、動揺というものが全く感じられなかったように思う。
まるで、二人は用意していたかのようにこう説明した。
(いい? クウェリル、これは貴方のためなのよ。貴方は覚えていないでしょうけど、小さい頃に池に落ちて危ない目に遭ったことがあるのよ)
(そうだ。そしてそれからというもの、君は水におびえるようになって日常生活もままならなくなったんだから、今の状況はしかるべき対応という訳だ)
二人の言う通り、クウェリル自身はその出来事を全く覚えていなかった。
二人の話を素直に受け入れたクウェリルは、自分は水を視界に入れるとその日の恐怖が呼び起され、嫌な目を見るのだと理解し、クウェリルは今送るこの生活が異常なものだと知りながらも、それからは静かに目を逸らした。
「今日は昨日と違って天気がいいなぁ。今日という特別な日にふさわしい」
「えぇ、そうですね。毎日こんな風だったらいいのに」
食事が終わって三人の間には、ゆったりとした空気が流れていた。
ヴォ―デンとドーエの話題に上がっているのは、窓の外から差す明るい陽射し。
昨日とは違い、二人の表情はとても明るかった。
クウェリルは、雨にさえも触れることを良いとされていない。
二人にとっては、雨も湯舟のお湯や食事の水同様に、クウェリルに害をなす水と同じ扱いだた。
毎朝、この広間に入ってくるのはクウェリルが最後である。
これは、クウェリルの目に雨を映らせないように、という配慮からだ。
二人は、起きると真っ先に窓を見てその日の天気を確認する。晴れだと二人、顔を見合わせ笑顔になるが、雨粒が窓を叩く日には、二人の間には雨空のようにどんよりとした空気が漂った。
昨日のような雨の日は、素早くベッドから身を起こし、その忌々しい雨をクウェリルから遠ざけるために、執事、メイド全員に早急に指令を出すのだった。
晴れの日には今日のようにカーテンを開け日光を室内にいれるが、雨の日にはカーテンは閉め切るため、この大きな城には一切光は入らなくなる。
しかし、そんな両親の涙ぐむような努力は、実際、クウェリルのためにはなっていなかった。彼女にとって雨の日とは、室内は暗くなるものの、不思議と体調の改善をもたらした。
乾燥して荒れた唇も、舌で触るとふっくらとした触感を感じ、ぱさぱさだった髪も、指でとくとハリを確かに感じるといった具合だ。
年中本調子でないクウェリルは、毎日雨の日だったらいいのに、と必ず寝る前に願うのだった。
「クウェリル、君に手紙が届いているよ」
父ヴォ―デンは、太陽の光を背に受けながら、それに負けないほどの眩い微笑みとともに、クウェリルに真っ白な一通の封筒を差し出した。
感謝の言葉を伝えながら確認したその差出人の名は、ドロリア=オーゴデン。
彼は隣国、オーゴデン王国の第二王子で、クウェリルと同じく本日の主役だった。
オーロ王国に来る際、ドロリアは必ずクウェリル宛ての手紙を寄こした。
今日もいつもと変わらなかったが、クウェリルは自分の持つ手紙の中にまるで金塊が入っているかのように、重くのしかかっているように感じた。
「中を見てもいいかしら?」
「どうせ見なくても分かるだろう。きっと今日の来訪が楽しみだとかそういう内容だよ」
手紙の封を切ると、そこにはヴォ―デンの言う通りの文字が連なっていた。
親愛なるクウェリルへ
この手紙が着くころには、僕はきっともう君の国の領土に足を踏み入れていることだろう。
笑顔で僕を迎え入れてくれると嬉しいな
クウェリルの婚約者 ドロリアより
クウェリルが読み終わったと分かると、横からメイリィが手を差し出しすぐに手紙を受け取った。
「さすがお父様ね。彼、午後にはここへ来るそうよ」
「そうかそうか。今日は天気がいいからね。未来の夫婦が契りを結ぶにはぴったりだ。クウェリル、彼とは仲良くやるんだよ……他でもない、この国の人々のためにね……」
「……えぇ、もちろんよ。胸に刻んでいるわ」
クウェリルはヴォ―デンの真っすぐな視線に、重々しくうなずいた。
今日は、前々から約束をしていた、ドロリアが来るその日だった。
彼は一月ほどの滞在を予定しており、これは今までの付き合いの中では最長である。
婿養子となり、来るいつかこの城に住むことになるドロリアのために、城に慣れてもらおうという目的のためだ。
「クウェリルと彼なら、私の世代よりももっといい時代が訪れるだろう……」
ヴォ―デンは、クウェリルの色よい返事に気をよくしてほほ笑んだ。
「そういえば、昨日アイルが新鮮な葡萄が採れそうだと言っていたわ。頼んで今から採ってきてもらったらドロリアさん達が来るのにも間に合うかも。貴方はどう思う?」
この城のコック長であるアイルという男とも親しいメイリィに、ドーエは尋ねると、彼女はすぐに首を縦に振った。
「今日という記念すべき日にふさわしい食材だと思われます」
「そうよね、じゃあ今すぐ伝えてきてちょうだい。裏の山は登るのだけでとっても時間がかかるんだもの」
メイリィの同意にドーエは機嫌をよくして、にこやかに頼むと、彼女は王妃の命に従い、すぐに部屋を後にした。
メイリィは、ドーエの信頼も厚かった。
「クウェリルは彼が来るまで何をして過ごすんだい?」
「こんなに天気がいい日もなかなかないわ。……そうね、今日は城内を一周してこようかしら」
素知らぬ顔を心掛けて言ってみたものの、クウェリルの言葉に、ヴォ―デンはすぐさま眉を寄せた。
「外に? とんでもない! よりにもよって今日何かあったらどうするんだい? 外は危険だよ、やめておきなさい」
ヴォ―デンは前のめりになってクウェリルの提案を否定した。
クウェリルは、城の外に出ることは数少ない。
ヴォ―デンとドーエはクウェリルがたとえ城内の広大な庭を散歩していたとしても、いい顔をしなかった。
「少し、外の空気を吸いたいだけなの」
「そうは言っても……」
いつもは大人しく従うクウェリルが、珍しく粘ったため、ヴォ―デンは迷いを見せた。
「貴方。これから何をするって、クウェリルは私と一緒に着飾るのに忙しいに決まっているでしょう?」
ちらちらと隣を見たヴォ―デンを見かねて、ドーエが口を挟んだ。
「彼らが来るのは午後じゃない! まだ朝も早いわ」
クウェリルはドーエの言葉に驚き、時計を見たがその針はまだ午前の十時を指していた。
ドロリア一行が到着するまでには、まだ何時間もあることだろう。
「そんなことを言っていると時間はあっという間に来てしまうんですよ? 女の支度は時間がかかるんです」
ドーエは、小さな子供に言い聞かせるように言った。
「分かったわ……」
クウェリルは、諦めてドーエに頷くことに決めた。
母に逆らうと後々面倒なことになるのをよくわかっていたのでここは承諾しておいたのだ。
「さぁ、今日は忙しいだろう。早く食べて準備にとりかかろう」
妻の娘への説得を見届けると、ヴォ―デンはほっとした顔をして、言った。
ドーエと共に支度を始めてから一体どのくらい時間がたったのだろうか。
ドーエは、今日が結婚式の本番かと勘違いしそうなほどの装飾品をクウェリルのために用意していた。
漸く決まったクウェリルの本日の装いは、まずドレスはクウェリルの髪の色と調和する寒色である、鮮やかな紫色のものだった。
それはただ華やかさをもたらすのではなく、色には深みがあり今日という重大な契約を結ぶ場に相応しい色だった。
ちなみに、これを選ぶのに一番時間がかかり、あれほど長く時間に余裕があったというのに、結局ぎりぎりの時間になる一番の原因となった。
主役のドレスが決まれば、後の決定は早かった。
髪飾りと靴は、ドレスの色が目立つ分多少は控えめな装飾で。
少し癖っ気の髪は、きっちりと結ばれており、まとまりがある印象に。
支度を終えると、ドーエと二人で、履きなれない靴ながらも最大限急いで、ヴォ―デンの待つ応接間の前まで来た。
戸を開けると、そこには少しあきれ顔のヴォ―デンが二人を出迎えた。
「ほんとうにこの時間までかかるとはね……」
「だから言ったでしょう、時間がかかると。まだ皆さまいらっしゃっていないですよね?」
「あぁ。もうそろそろ来てもいいはずだが……。今日は風が強いからね、大勢で来ると足取りも必然と遅くなる。もうしばらく待つことになりそうだ」
「昼間はあんなに天気が良かったのに……」
城の中心の部屋で着替えていたため、クウェリルは窓を打ち付ける強風に気が付かなかった。
「そんなことより、ほら見てください。こんなにもクウェリルにぴったりなドレスが見つかったんですから」
ドーエは、待ちきれない、と言った様子でクウェリルの肩を持つとヴォ―デンの前に突き出した。
「……あぁ、まずはクウェリル、君について触れるべきだったね」
ヴォ―デンは、悩んで選び抜いたクウェリルのドレス姿を見るとほほ笑んだ。
「どうかしら、似合ってる?」
クウェリルは裾を意識しながら、ゆっくりとヴォ―デンの目の前で一回転してみせた。
「あぁとても良く似合っているよ。これは彼も見惚れるだろうな」
「そうかしら? まぁ、噂をすればご到着みたいね」
父の言葉に満足気なクウェリルだったが、急にざわめきを見せた外に意識が移った。
風のざわめきの中で何台もの車の車輪が、地面を転がる音が響いていた。
オーゴデン王国からはるばる大勢やって来たのだ。
ヴォ―デンの、下まで出迎えようというその一言で、三人は玄関まで客人を迎えに行った。
三人で長い階段を降りたところで丁度、戸を叩く音がホールに響いた。
執事長が近づき、そっと戸を開けるとそこには大勢の人々が顔を見せた。
一番最初に中に入って来たのはオーゴデン王国国王、ゾーデウェル=オーゴデン。
ずっしりとした重量感を感じるヴォ―デンとは違い、すらりとした細身の体格の男で、とがった細い顎には、髪とそろいの銀色をした、ふさふさの髭が付いている。
「ゾーデウェル、久しいね。最後に会ったのは一体いつだっただろうか。あれかな? 近隣の三か国で集まった時だったかな」
「…………あぁ、おそらくその時だろうね。君は……相変わらず細かいこともよく覚えている」
にこやかに話しかけ、手のひらを差し出し、温かい歓迎の様子を見せたヴォ―デンとは反対に、ゾーデウェルは無表情のまま、平坦に手を差し出した。
手を握り合う二人は、傍から見れば、一方的にヴォ―デンがゾーデウェルの拳を握り、上下に振り回しているような、そんな風にも見えるほど二人の間には調子の差があった。
誰にも心を開かない、孤高の王と名高いゾーデウェルが、ヴォ―デンの根からの明るさを鬱陶しがる、そっけない返事はいつものことであった。
しかし、冷たく返されたヴォ―デンは、機嫌を悪くするどころか更ににっこりと笑った。
人当たりの良いヴォ―デンと人に誤解されがちなゾーデウェルは全く正反対だったが、不思議と仲は悪くなかった。
クウェリルは、父がゾーデウェルに対して友好的な姿を見てきたため、ゾーデウェルの人付き合いに関しての不器用さをよく理解していた。
彼は決して相手を邪険に扱っているわけではなく、向けられた好意をそっくりそのまま返すことは出来ないが、自分なりの精一杯を返そうとはしてくれているのだ。
クウェリルは、ゾーデウェルが多くの大人がそうするように、彼女を保護対象として見ることはせず、ひとりの人間として扱ってくれるため、世間の評価とは違い彼を好ましく思っていた。
そのため、今日のゾーデウェルの態度もクウェリルにとっては気にするほどのものではなく、彼の行動を息子であるドロリアと共にひそかに面白がるのが常だった。
しかし、今日は勝手が違った。
(ドロリアったら、一体どうしたのかしら)
ゾーデウェルに続けて入って来たのが、今日クウェリルと生涯の契約を交わす人物、ドロリア=オーゴデンだった。
彼も、父親と同様すらりとした長身だったが、顔つきは全く似ていなかった。
父の特徴的な顎髭は勿論なかったが、それに加え彼の目はたれ目で、髪は太陽の温かさを思い出させるオレンジ色。
それらは、全て父と対照的な彼の穏やかな性格をよく表しているようだった。
しかし、今日の彼は今までクウェリルが見たことのない、とても険しい顔をしているように感じた。
いつも父の後ろで、クウェリルと共に苦笑しているドロリアだったが今日は様子が違い、まるで婚約者のことを視界に入れないように努力をしているのかと思うほど、ただ父親の背中を見つめ続けていた。
横を向くと、母ドーエがにこやかに招待客を出迎えているのが目に入った。
この場にいる中で、クウェリルだけが婚約者の異変に気が付いていた。
「遠路はるばる来てくれて感謝しているよ。外は風も強くて寒かっただろう? さぁ、食事ももう準備している。温かいものでも食べてゆっくりと話そうじゃないか」
ヴォ―デンは、風と寒さから客人を守るために、早々と城内に全員迎え入れることにした。
ヴォ―デンの許可を聞いたドロリアは、すぐさま国王に代わり外で待つ使用人たちに声をかけると、続々と、およそ百人近くの人間たちが入って来た。
全員が入ったのを確認した後、ヴォ―デンはドーエを連れて先頭を切って階段を上り始めた。
次に続くのは、ゾーデウェル。
そして次はドロリアが続くかと思われたが、彼は扉の前から動こうとはせず、困惑する使用人たちに先に行くように指示した。
「クウェリル。私たちも早く行きましょう」
「……ごめんなさい、先に行っててくれる? 最後についていくわ」
てっきり自分の後について来ていたものと思っていた娘の姿が見えなかったために、ドーエは階段を登り切ったところで、上からクウェリルに声を掛けた。
しかしクウェリルは、先に使用人たちに上に行かせたドロリアが気になり、彼とともにこの集団を後ろから追いかけることにした。
「……行かなくてよかったのかい?」
クウェリルはドロリアの横に並んで人々の背後を見つめていると、低く、そう問いかけられた。
「それはこちらのセリフよ。今日のあなた、らしくないことばかり」
「質問をしたのはこちらだよ。話をそらさないでくれ」
「……じゃあ言わせてもらうけれど、ここに残った理由はあなたのその変な態度が気になったから、それを問い詰めるため……」
貴方は? そう聞くようにクウェリルは首をかしげてドロリアを見た。
すると、ドロリアはくるりとクウェリルから顔をそむけてしまった。
クウェリルはその行動に疑問に思って正面に回り込むと、ドロリアは慌てて顔を下に伏せた。
負けじとクウェリルが下からドロリアの顔を覗くと、ドロリアはひっくり返った声を上げた。
「そんなに顔を覗くことないだろう! 恥ずかしいじゃないか」
勢いよく上げたドロリアは、頬はぴくぴくと動き口角を引きつらせていた。
「恥ずかしい? 何よ、顔にできものでも出来たの?」
ドロリアは無言で、じっとクウェリルを見た。
「違うの? じゃあもしかして、首かしら」
「どちらも不正解だよ。別に僕の体に異常はない」
「……体……その言い方、もしかして気持ちの問題?」
ドロリアは、深いため息をついた。
「……はぁ、僕にはこういう振る舞いは絶望的に似合わないんだろうな。父さんはいつもこんな風なのにな……。僕って何が違うんだろう?」
「何もかも違うわよ。貴方って笑顔が良く似合うわ。けど、お父様は……」
クウェリルが沈黙すると、今日初めてドロリアは笑った。
「父様に笑顔は似合わないって?」
「似合わないとは言っていないわよ。ただほんの少し……不気味かもしれないわ……」
「へぇ、今の言葉、そっくりそのまま父様に言いつけてしまおうかな」
「やめてちょうだい。一体どんな顔を向けられるか」
クウェリルとドロリアの空気はすっかりいつもと変わらず、なごやかな雰囲気に戻った。
しかしドロリアは、ふと我が返ったように顔を青くさせた。
「……ねぇドロリア、もしかして体調でも悪いの? 今の貴方私よりもずっと酷い顔色だと思うわ」
「……君より悪いっていうならそれはよっぽどのものなんだろう……」
ドロリアは、ほぼ無意識にズボンの腰の部分をさすった。
ポケットに、何かを忍ばせていることは明白だった。
直感で、クウェリルはその中に入っているものを見なければならないという使命感に襲われた。
「……そこには一体何が入っているの?」
クウェリルは上の空の様子のドロリアにそっと近づき、彼の手の上に自分の手を重ねた。
すると、ドロリアは驚き、飛びのいた。
「びっくりした! 急に近づかないでくれ」
「だって、貴方を悩ませているものが、そこにあると思ったんですもの。それに、貴方が目の前の私をほっといて、違うことを考えているから驚いたのであって、まさか私は脅かそうなんて微塵も思ってなかったわ」
クウェリルが少しむっとなって言うと、ドロリアは目を泳がせた。
「いや、そうだね。これは僕が悪かったよ。……でも、これは僕の手には到底負えない話だから仕方がないんだ……」
ドロリアは更に秘密を守るように、ポケットを上から右手で握りしめた。
余計にクウェリルはその中身が気になり、手を差し出した。
「それに何が入っているのか、私とっても気になるわ」
「その手は何だ? 駄目だよ、君にだけは見せられない」
「……今日、貴方は何のためにここに来たのか分かっているの? 私たちはこれから支え合ってこの国を背負っていかなければならないのよ? 隠し事なんて、私ちっとも好きじゃないわ」
クウェリルは自分でも傲慢な言い方だろうと感じていたがどうしてもその中身を見る必要があると思っていた。
ドロリアは、ため息を吐いてクウェリルの先を歩き始めた。
「待って! 話はまだ終わっていないわ」
クウェリルが慌ててドロリアの後を追おうと駆けた時、きらびやかなだけで走るのにはとても向いていなかったその靴を履いていたために、クウェリルは階段の前で盛大に躓いた。
「大丈夫かい? ケガはない?」
ドロリアは血相を変えてクウェリルに近づき、手を差し伸べた。
クウェリルはその手を掴むと、白状するまで決して手は離さないとばかりに力を強く込めた。
「……勘弁してくれ、どうせすぐわかる話だ」
ドロリアは引きつった顔で言うと、ヴォ―デンたちが消えた階段の遠くを見た。
二人並んで食堂に入ると、そこには既にヴォ―デン、ゾーデウェル、ドーエが揃っていた。
ゾーデウェルは相変わらずの無表情で、ヴォ―デンが一方的に話しているようにしか見えず、ドーエはそんな二人の会話をにこやかにうなずいていた。
ようやく部屋に着いた二人に気が付くと、ヴォ―デンは隣の席をぽんと叩いた。
「ほら、そこで突っ立っていないでここへおいで。ドロリア君はそこに」
導かれるままに、クウェリルはヴォ―デンとドーエの真ん中に着席し、目の前にはドロリアが座った。
いつもは三人しか使わず、その長さを持て余しているテーブルも、二人ではあるが、一応人数が増えたことで多少は空白を埋められたように感じた。
「いやぁ、しかしこうして皆で食卓を囲むことが出来るなんて、ついこの間までは想像もしていなかったよ」
ヴォ―デンは、機嫌良く皆の顔を見渡した。
ゾーデウェルは、うんともすんとも言わなかったが、ドーエだけが嬉しそうに夫を見た。
「ついこの間といっても、もうクウェリルも十三歳。それほどあの時から時は経っているということよ」
「そうか……。あれは確かにもう十五年も前のことになるのか」
ヴォ―デンは昔を懐かしむように言った。
あの時、とはオーロ王国とオーゴデン王国が長い歴史の中で初めて平和条約を結んだ時のことを指す。
初めての和睦となった両国の当時は、それはお祭り騒ぎだったと聞く。
かつて、両国の間流れる大きな川の端には、互いに腕利きの射手がいて、泳いで渡陸してくる人間を常時狙っているだとか、川の底には泳ぐ人間の足を食いちぎる魔物を飼っているだとか、そんな恐ろしい噂が流れ、川を渡る人は、好奇心旺盛な、言ってしまえば向こう見ずな人間ばかりだったと聞く。
そんな勇気ある人間たちも、何とか川を渡りきったところで入国のための検問で弾き飛ばされるのがオチだった。
しかし、今では川を渡るための船の行き来が認められ、更には国境の真ん中に、唯一の門が開かれた。
当時、多くの人々は一斉に船に押し寄せ、船から身を投げ出しつつも隣国に思いを寄せたと聞く。
「クウェリルと、ドロリア君。二人が近い年に生まれたのも何か運命を感じてならないよ。まるで、オーロを守るために神による遣いのような気さえする」
ヴォ―デンは腕を組み、しげしげと言った。
ドロリアは、クウェリルの一個年上の十四歳だった。
ヴォ―デンの言葉に間違いはなく、ドーエはそれにうなずいていたが、ドロリアだけは何かいいたげに、隣のゾーデウェルを横目でちらりと見たことに、クウェリルは気が付いた。
しかし、ゾーデウェルはドロリアの方を見ようともしなかった。
突如ドアが開き、滑車の回る音が室内に響いた。
先頭には、料理長であるアイルと、続いてドーエの小間使いであるロセルリと、最後にメイリィが続いた。
アイルは真っ先にゾーデウェルの元へと向かい、横に立つと一礼し、大粒の葡萄が入った小さな器をテーブルに置いた。
クウェリルは、それはおそらく昼に話していた葡萄だろうと思った。
葡萄はほれぼれするほど大きく育っていたが、ゾーデウェルはそれがテーブルに置かれた途端、顔をしかめた。
一方ヴォ―デンと、ドーエは満足げに今日摘ませたばかりの葡萄が立派であることに夢中で、またしても、客人の不審な様子に気が付いたのは、クウェリルだけのようだった。
「まだこんな食事を続けているのか」
全員に葡萄が行き渡ったと同時に、ゾーデウェルが言った。
「こんなとはいったいどういう意味だい?」
部屋の空気が一瞬にして、冷えたようだった。
ゾーデウェルの、そのけちをつけるような言い方に、ヴォ―デンは若干声のトーンを低くして言った。
「……こんなとは? 君にはきちんと説明しているだろう」
「勿論知っているさ。君の最愛の娘のためだろう?」
ゾーデウェルはちらりとクウェリルを見た。
少々呆れたようなその視線に、クウェリルはいたたまれなくなり目の前の葡萄に延ばす手を引っ込めた。
「それに、さきほど温かいもので体を温めろなんて言っていたが、どうせスープは出ないんだろう? ……せいぜい温野菜といったところか」
「……君の言う通りだ。この屋敷ではスープがテーブルに出ることは一切ない。その代わりがフルーツだ。それは、今更聞くことなのか?」
「あぁ、私は今日が聞くべき時なのだと、そう理解している」
ゾーデウェルは体を固くして、きっぱりとそう言った。
ドロリアは、そんな父の様子を隣で固唾を飲んで見つめている。
「単刀直入に言おう……君の跡取りの出生について疑惑の声が上がっている」
ゾーデウェルはいつもと変わらない調子で、クウェリル達を見渡し、そう言った。
隣では、ドロリアが緊張の面差しでクウェリルを、そして隣を見つめた。
「………一体どういうこと?」
冗談でしょう、そう言って隣を見ると、ヴォ―デンは顔面蒼白の表情で、ドーエは口を一文字に結んでゾーデウェルをキッと見つめていた。
「……一体どうして」
ヴォ―デンは、一瞬にして更けてしまったかのごとく、萎れた老人のようなか細い声を出した。
ゾーデウェルはそんなヴォ―デンを一瞬労し気な目で見たが、すぐに隣のドロリアに目を遣ると、彼はびくりと震え、それからのろのろと机の下で何かを探るような動きをした。
クウェリルの勘が働いていれば、これはおそらくさきほどから彼がずっと隠し持っていたそれだろう。
ドロリアは、おそるおそる机上に一通の白い封筒を出した。
「これは、ついさっきアイゴスフォ王国から届いたものだ」
瞬間、ヴォ―デンは机を叩き、辺りは静まり返った。
一変して、興奮で顔に血液を集めてしまったのか、顔だけでなく目すら充血させていた。
「ボルエゴか! あいつはいつもいつもこうだ! ゾーデウェル、君も良く分かっているだろう? ヤツは俺たちが君たちオーゴデンと仲良くするのが心底気に食わないんだ」
ボルエゴとは、アイゴスフォ王国の現国王を指す。
アイゴスフォ王国はオーロ王国から見て、オーゴデン王国を挟んだ向こうに位置する。
この三か国は長年関係が悪く、特にアイゴスフォ王国とオーロ王国は犬猿の仲だった。
そんな中、出し抜けにオーロ王国がオーゴデン王国と同盟を結び、距離を縮めたためアイゴスフォ王国としては面白いはずがない。
「外交というのは何とも難しい問題が付きまとう。一国と仲良くすれば、もう一方も、という訳にはいかない……」
興奮から顔を真っ赤にさせたヴォ―デンとは対称に、ゾーデウェルはいつもと変わらない様子で言った。
「そうだ……それは俺も良く理解している、それこそ痛いほど……。だが、君にとってどちらを信じるか落ち着いて考えてみて欲しい」
ヴォ―デンはまるでゾーデウェルに命が握られているかのように、必死な声で懇願した。
クウェリルの目には、ゾーデウェルよりもよっぽどヴォ―デンの方が落ち着きがないようにしか見えなかった。
「君の方こそ少し落ち着きを持ってくれ……」
ゾーデウェルにそう諭されると、ヴォ―デンはいつの間にか前のめりになっていた身を下げて、深く椅子に座りなおした。
「まずは……その手紙を読んでほしい」
ゾーデウェルにそう言われ、ヴォ―デンは机上の手紙を、まるで狂暴な獣におびえるかのような瞳で見つめた。
クウェリルは、横目で一向に動こうとしないヴォ―デンを見ると、自分が手紙を一番に読もうと少し身を乗り出したが、それは突如素早い動きを見せたヴォ―デンによって奪い去られた。
クウェリルは伸ばした手の行き場がなくなり、それを引っ込めざるをえなかった。
ヴォ―デンは、破らんばかりの勢いで封を開けると、鼻を近づけて便箋に目を通した。
「どうしてこんなことを……」
しばらく読んだ後ヴォ―デンは弱弱しくそう言い、椅子の上で体を脱力させて手紙を置くと頭を抱えた。
夫のそんな様子に、今度はドーエが手紙を奪い去るとヴォ―デンと同じく夢中で手紙の内容を読んだ。
力が入りすぎたのか、静かな部屋にはドーエが持つ手紙に皺が入る音だけが響いた。
「……いいえ、ここに書いてあることは一切かの王の壮大な妄想だと言えるでしょう」
手紙から顔を上げるとドーエは冷静に、前を見据えてそう言った。
「確かに、彼は少々行き過ぎた言動を起こすことが多々見られる。しかし、続報も入った。この通達を裏付ける重要な証言だ」
「証言? 一体誰からのだとおっしゃるの?」
ドーエは怪訝な顔でゾーデウェルを見た。
「十四年前、ドーエさん、貴方はこの城にいなかったでしょう」
ゾーデウェルはドーエの問いには答えず、問い返した。
この場に集まった者全員の視線がドーエに集まった。
「……何の話でしょう。十四年前、もちろん私はこの城にいましたよ」
「……表向きは、ではないでしょうか」
「……どういう意味でしょうか。もし仮にここを出たとしても、私は行く当てがございません。両親は私がここへ嫁いで間もなく亡くなりましたから」
ドーエは挑戦的な視線をゾーデウェルに向けた。
「えぇ、それは私もよく知っています。貴方の御父上と私の母は従妹同士でしたからね」
クウェリルにとっては、初耳の内容だった。
自分とドロリア以外に縁を結んだ者がオーロとオーゴデンにいたのだ。
向かいのドロリアに目線を遣ると、彼はずっとクウェリルの方を見ていたようで、二人は目を合わせた。
しかし、クウェリルの視線に気が付くと、ドロリアは気まずい顔をしてすぐに目を逸らしてしまった。
「勿論私も存じております。しかし、従妹とは言えど、一度も顔を合わせたことがないとか」
懐かしい昔話でもするかのようにドーエはこの緊迫した空気の中、淑やかに微笑んだ。
「あの世代はしょうがないと私は思います。……あえて言葉にさせてもらいますが、私たちは過去、互いに敵視し合っていた」
「えぇ、それは勿論私も理解しております。しかし、何がそうさせたのか今となってはそんな過去はまるで遠いものにしかございません」
「……互いに素直になれば、両者にとって利になることしかないと、私たちはそう学びました」
ゾーデウェルは意を決した様子で、更に畳みかけた。
「だから……本当のことを、あなた達の口から直接聞かせてくれませんか。やはりこんな紙切れは到底信用ならないんだ」
ゾーデウェルは、心からそう訴えているようにクウェリルの目に映った。
しかし、ドーエはじっとゾーデウェルを見据えたまま、決してその問いに答えようとはしなかった。
「……貴方、あの年はごく少人数の使用人を連れて、ジョコルィ海岸近くの城に半年ほど滞在していたのでしょう? ……身辺には気を付けた方がよいかもしれませんね」
破られない沈黙に、しびれを切らしたゾーデウェルはドーエに対する多少の失望を混ぜたため息を一つついた後、そう言い、ちらりとクウェリルの背後を見た。
その瞬間、クウェリルの耳にはするどい金属音が響いた。
部屋を出るタイミングを完全に逃してしまっていたメイリィが、葡萄を運んできた台車を倒してしまったのだ。
メイリィは慌てて、台車から散らばったカトラリーを拾い始めたが、震える手では上手く拾えないようで、中々収集がつかないでいた。
見かねたアイルとロセルリがテーブルを一半周してメイリィの元へ駆けつけた。
「……このような大事な場で……大変申し訳ございません」
三人で片付け終わると、今にも倒れそうな白い顔色で、メイリィはひたすらに謝罪の言葉を口にした。
確実に、この件に関して彼女が何らかの情報を知っているのは確かだった。
クウェリルはジッと、初めて見る蒼白な彼女の表情を見つめたが、決して視線が交わることはなく、メイリィはひたすらにドーエの方を見ていた。
「もういいわ、下がりなさい」
メイリィの謝罪が届いていないかのように、ドーエの声は体の芯から冷えるような冷たい声だった。
その声色に息を呑んだメイリィは、顔を引きつらせて、逃げるように部屋を出て行ったが、途中で何回か躓いていた。
ドーエの隣でヴォ―デンは、メイリィに劣らず顔を青くさせ、テーブルに乗せた拳は小刻みに震えていた。
「……ご忠告感謝いたします。やはり、貴方はとても人情に溢れた方なのですね」
メイリィに言ったように、非情な声色ではなかったが、ゾーデウェルに向けられた言葉には確実に棘が含まれていた。
「……いいえ、そのような言葉が似合うような性格ではないことを私は十分に自覚している。それよりも、よっぽどあなた方の方がその言葉に値するでしょう、なにせ自分たちの子ではない者を一から育てあげたのだから……」
ゾーデウェルは、クウェリルを哀れみを含んだ表情で見た。
その瞬間、クウェリルは心臓をぎゅっとわしづかみにされたような痛みに襲われた。
ずっと彼らの話をまるで、自分は全くの関係がない人ごとの話のような気分で聞いていたが、ゾーデウェルが哀れみの目で見たことでクウェリルはようやくこの事態の重大さに気が付いたのだった。
何とか取り繕おうと口角を上げてみせたが、筋肉が震えるばかりでそれは上手く微笑みを造ることが出来なかった。
変わりにクウェリルの今を占めたのは、心臓の痛み。
痛みを増すばかりの心臓を掴むと、クウェリルは更に呼吸をすることも困難な状態に陥った自分に気付いた。
「クウェリル! 落ち着いて、息を吸うのよ!」
肩を大きく上下させ、苦しむクウェリルにいち早くドーエが気づき、娘の背を必死になって擦った。
(胸が痛い……。父様と母様の本当の子どもではなかったことが苦しいの? それとも、ずっと隠されていたことが悲しいの?)
クウェリルは自分の感情に整理がついていなかった。
自分を襲う真実の重さを、受け止めるには、まだクウェリルは幼かった。
クウェリルはいつも顔色が悪いと言われ慣れていたが、この時よりも青い顔をしていることはきっとないだろうと思った。
全員の目は苦しむクウェリルに集中し、遠くなる意識の途中、大きくなるざわめきを、クウェリルは確かに耳にしていた。
「どうしてくれる! クウェリルがこんな風になったのは、君のせいじゃないか!」
自分の足で立つことが出来なくなったクウェリルは、ドーエに体重をかけた後、ずるずると机の下でうずくまると、そこでヴォ―デンがゾーデウェルを責め立てる声聞いた。
「違う! こんなことになるとは到底思っていなかった」
ゾーデウェルは必死な声で否定している。
「ただでさえ、体があんなにも弱いんだ。彼女の目の前で、こんな話をしたらどうなるか少しくらい予想はつくだろう!」
「体が弱いのは、また何か別の問題があるんじゃないのか? 例えば、君たちがあまりにも城の中に閉じ込めているから……」
「私が悪いというのか!」
ヴォ―デンは、声を引きつらせて叫んだ。
父の声が、耳にガンガンと響いて、クウェリルは耳を必死で抑えた。
「父様、そんな言い方はないよ。それに、今はクウェリルのことを第一に考えてあげてくれよ!」
「お前は口を出すな!」
互いに罵り合う声を聞くと、クウェリルは新しい息を吸うことは出来ないのに、嗚咽が止まらなくなりせき込み続けた。
「どうしてそんなことを言い合えるのですか? クウェリルがこんな状況であるというのに!」
どんどんひどくなるクウェリルの様子を見かねたドーエは素早く立ち上がると、心底軽蔑したという声で、両国の王を罵った。
とうとう気を保てなくなったクウェリルの意識は、切り裂くようなドーエの声を最後に、そこで途絶えた。