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短編2

真実の愛? 素敵ね、応援するわ!

作者: 猫宮蒼



 アリシア・ヴォドイールの婚約者でもあるレオニール・ガラッドが口を開いたのは、ほとんど反射だった。


「お前、馬鹿だろ」


 レオニールは普段一応それなりに――貴族の令息として――猫をかぶったりもしているし、初対面も同然の相手に馬鹿だと言うような事はしない。普段なら、するはずがないのだ。


 けれどもまだどこか呆然とした様子のその男を見て、意識する以前に口からするっと言葉が出てしまっていたのである。


 それは道端を歩いている猫を見て「あ、猫だ」と言うくらいの、言っても言わなくてもどうでもいいようなものだった。

 とはいえ、馬鹿と言われた方がどうでもいいとばかりに受け流せるか、となると微妙なところだ。


 相手が自分より愚かで負け惜しみで言っている、とかそういうのが明らかになっているのならともかく、ほぼ初対面の相手に挨拶よりも先に馬鹿呼ばわりされて、にこやかに対応しろというのは中々に難しいものがある。


 まず常識を持った相手なら、今この人は何を言った? と少なからず考えて言葉の真意を探るだろうし、そうでなくともいきなり馬鹿にされたのだ。カチンとくるのは当然だろう。

 内心で不快感を持ったとしても、それを表に出さずあえて言葉の応酬をかわす、なんてことをする者もいるかもしれない。


 レオニールに声をかけられた男は、一瞬何を言われたのかわからない、というようにぽかんとした表情を浮かべていたが、それでも一瞬遅れで気付いたのだろう。カッと顔を赤く染め、何かを言おうとして――


「何してんだ新入り! さっさと来ないか!!」

「え、うわっ!?」


 レオニールに反論するよりも先に、いつまでたってもやってこない事に痺れを切らした使用人の一人に襟首を引っ掴まれて強引に引きずられていった。


「まだ自分は貴族のつもりだったのかな……だとしたら馬鹿すぎる……」


 引きずられて遠ざかっていくその姿を見て、レオニールはそう呟いたのだった。



 先程引きずられていった青年は、カディル。かつてはクロニスという家名を名乗ることを許されていた、伯爵家の令息だった。そしてアリシアのかつての婚約者だった男でもある。


 かつての婚約者だった男がアリシアの館で使用人として働いているのには、まぁそれなりの――そこに至るまでの話というものが存在する。


 すっかりカディルの姿も見えなくなったのもあって、レオニールは何事もなかったかのように屋敷の中を移動して、アリシアの待つ部屋へと向かった。


「レオニール様、お待ちしておりましたわ」

「すまない、遅れてしまっただろうか?」

「いいえ。時間通りですわ。わたくしが待ち遠しすぎて今か今かとそわそわしていただけですもの」


 ふふ、と笑うアリシアに、レオニールはもう一度すまない、と言って彼を目撃したものだから、とこたえた。

「彼……? あぁ、カディルですわね」

 婚約者の口から自分以外の男の名前が出るのはあまりいい気分ではなかったけれど、しかしアリシアの口から出たカディル、というその名はまるで、どうでもいいものの名称のように温度がない。

 今でももしかしたら……とレオニールが勘繰る間もないくらいだった。


 庭に咲いている花の周りを飛んでいる蝶々の方がまだアリシアの声音も感情がこもるのではないか、と思える程に。


 淹れられたお茶をしばし見て、少しの間をおいてからレオニールはカップを持った。

「結婚式まであと数日、思っていたより準備が早く終わってしまって、正直まだ実感がないんだ」

「まぁ、不安ですの?」

「不安? いや、夫としてしっかりと君を支えてみせるとも。ただ、前の婚約者だった人がいる、というのが少しだけ」

「まぁ、わたくし真実の愛に割り込むつもりなんてなくってよ。むしろ、あの二人が真実の愛だと言ってくれたから、わたくしは間違いを犯さずレオニール様と出会い、結ばれる事になったのですから」


 そういうアリシアの表情は、心底から嬉しそうで。

 これを表向きだけのもの、とは思いたくなかった。



 ――事の発端は、と言えば。


 果たしてどこからと言うのが適切なのか、レオニールにはハッキリとはわかっていない。

 ただ、アリシアの家、ヴォドイール家の後継ぎはアリシアで、彼女は結婚とともに女侯爵となる事が決まっている。

 他の国では家長は男である事が絶対、なんてところもあるけれど、少なくともこの国では女であっても家を継ぐ事は可能だ。

 それもあって、ヴォドイール家は将来女侯爵となるアリシアの夫となる相手として、それなりに婚約者としてどうだろうか、という釣書が多く届けられたのだという。

 家を継げる人数は限られているけれど、しかしだからといって跡取り一人だけしか育てない、という貴族の家は少ない。世の中それなりに物騒なので、言葉は悪いがいざという時のスペアとして子は複数いるのが望ましいとされているのが現状だからだ。


 日々の生活、健康に気を配っていても、それでも病気になる時はなるし、病気一つ知らない健康体であろうとも、賊に襲われ、だとか馬車が横転して、だとか、乗馬の最中に馬が突然暴れだし、なんていう事故に巻き込まれる事だって考えられる。世の中にあふれるありとあらゆる可能性を全て封殺できるか、となると無理な話なので。

 それにそういった危険が一切なかったとしても、生まれた子が跡取りとしてやっていけるとはとてもじゃないが言えない、なんていう場合だって有り得るのだ。

 そういったあれこれを考えるなら、子は複数いた方がいい、となるわけで。

 それに、跡取りにならずとも使い道は他にもある。


 といっても、跡取りにならない子が思惑通りきっちり別の使い道として利用できるか……となると、それはそれで微妙なのだが。思い通りになる世の中であるのなら、誰も苦労はしない。


 ともあれ、アリシアが将来跡取りとなるのは確定事項である。

 ヴォドイール家――アリシアの両親はアリシアが生まれた後も弟か妹を……と思っていたらしいのだが、悲しい事に死産であった。そしてその時の事が原因で母親も衰弱し、後に死亡している。

 故に、この家の跡取りは一人だけで、アリシアの父はそれはもう大事に大事に育ててきたわけだ。


 これで途中、アリシアに何かあったのなら、親類縁者からこの家を継ぐに足る養子を、となったのかもしれないが、幸いな事にアリシアはすくすくと成長し、能力的にも跡取りとして不足なしと言われるまでに育ったのである。


 そんなアリシアの夫に、と殺到したのは、家を継ぐ事のない次男や三男といった令息たちだ。


 家を継がずとも家に残って跡取りの補佐として、という道も確かに存在はするけれど、しかしそれは要は体のいい小間使いみたいなものだ。高給取りと言うわけでもないし、名家であればあの家で当主の補佐をしている、という肩書はそれなりに社交の場で使える事もあるかもしれない。

 しかしそのほとんどは、家を出て身を立てるわけでもなく売れ残ったと思われるのが現状である。行くアテもないからこそ、仕方なく家で面倒を見てもらっている。その代わりに仕事をさせている。そういう認識なのである。


 たとえロクな給料が出なくとも、衣食住の面倒を見てもらっているのだから文句は言うな。

 嫌なら出ていけ。


 そういったものが、まかり通っているのである。


 どこかの家と縁を結び、婿入りを果たせばまぁそれなりに家の役に立ったと考えられるし、ついでに自分も家を出て窮屈な思いをしなくて済むかもしれない。婿入り先でも大変な事はあるだろうけれど、それでも自分が自由にできる金は多少なりとも手に入るだけ実家に残るよりは余程マシ……なはずだ。


 家を継ぐ事のない立場の令息たちは、それ故に婿入り先を得るのに必死だった。

 家が縁談を持ってくることもあるけれど、それだってマトモな相手ならいいが親が金目当てにとんでもない家に婿入りさせようとする、なんて話もちらほらと噂は流れてくるのだ。不安がある令息たちはそれこそ出会いの場でいかにマシな結婚相手を見つけるか……死活問題と言ってもよかった。そういった話は令嬢の方にこそありふれていると思われがちだが、しかし令息にもその話は存在しているのである。


 他家との縁を結べずとも、それでも己の知力や武力でもって身を立てる、という方法もあるにはある。だがしかし、そういった事ができる者たちばかりではないのだ。可もなく不可もなく、という程度の実力しか持ち合わせていないどこにでも転がっていそうな貴族の家に生まれた者、というのは思った以上に存在している。

 それでもどうにか家を出て生活するくらいならできなくもないだろうが……衣食住のいずれかに困るのは目に見えている。実家で小間使い同然に生きるのと果たしてどちらがマシなのかは……生憎と答えが出なかった。


 アリシアは、そういった相手にとって文句のない相手と言えた。

 だが、そんな素敵な相手がいつまでも売れ残るはずがない。

 家の繋がりで知り合いのよしみもあって、アリシアの婚約者はあっさりと決まってしまったのだ。


 それが、先程のカディルだったのだが。



 では何故カディルがアリシアの元婚約者となり、挙句アリシアの家で下働きとなっているのか。


 これにはクロニス伯爵家の事情もあった。

 クロニス伯爵家の領地の隣、そちらの領地を治めていた子爵家とは、お互いに家が近く、それなりに昔から交友関係が続いていたのだそうだ。


 領地が隣、と言っても屋敷が近くなければそう頻繁に会う事もないのだが、クロニス家とマディシャ子爵家は馬車で三十分程度の距離で、それ故に家同士での関係が続いたとも言える。


 領地が隣だからとて、屋敷はそれぞれ端と端、くらいに離れているところもあるので、隣同士だからと言っても必ずしも関係があるわけではないがこの二つの家はどの家から見てもご近所さんと言っていいくらいの距離感だった。

 だからこそ、カディルはマディシャ家の一人娘でもあるサリッサとは幼馴染として親しくしていた。


 ところがだ。


 ほんの数年前、マディシャ家は没落した。

 子爵が借金に借金を重ねた結果だった。

 人の好い子爵は悪い友人をそうと見抜けずギャンブルに誘われ、ずぶずぶとハマり、気付いた時には色々と手遅れだったのだ。

 幸い――と言っていいかはわからないが、借金額は莫大な、と言えるまではいかなかった。

 だが、家を売り、その他の資産を売り払うのは避けられなかった。領地は国に返還し、そうして子爵夫妻は貴族である事を辞めたのである。

 一人娘をどこぞに売り出すような事にはならなかった。そうさせないために、手を尽くしたといってもいい。


 だが、一人娘であったサリッサも当然貴族ではいられない。

 それでも一人娘にまで苦労はさせたくない、とマディシャ元子爵はクロニス家を頼ったのである。

 使用人として、サリッサを雇ってはもらえないだろうか、と。


 愚かな父を恨んでくれて構わない、と言葉を残し、サリッサだけはどうにか生活できるようにと尽力した。


 それなりに長い付き合いがあったからこそ、クロニス家はその頼みを受け入れた。

 親と離れ離れになるのもどうかと思うが、しかしほぼ無一文の身で平民となった夫妻といても、サリッサの生活はままならないだろう。明日食べる物にすら困るかもしれないのだ。

 身内を頼ろうにも、子爵夫妻が既に手を尽くした上でこの選択をした、という時点でお察しである。


 礼儀作法はそれなりに身についた娘。

 まぁ、使用人としてなら何も知らない者を一から教育するよりはマシだろう。そんな打算もクロニス家にはあったのかもしれない。

 大勢の面倒を、と頼まれたのなら断ったかもしれないが、娘一人を使用人として雇って欲しい、という願いならそう難しい話でもない。

 結果として幼馴染として遊んでいた二人の仲は、貴族の令嬢令息というものから、使用人と雇い主の息子という微妙な関係へと変化する事となった。


 まだ幼かったカディルはそれに納得できていたわけではない。

 けれど、サリッサは聡い娘であったから。

 今までのように接してはいけない、と早々に理解していた。

 自分はもう貴族の娘とは言えないし、であればカディルの事は今までのように呼んではいけないとも。


 そうして使用人として相応しい態度をとったのを、カディルは目に見えない壁を作られたと感じたのだろう。それはもうしつこくしつこく絡んだのだけれど、それでもサリッサの態度は変わらなかった。

 ここで己の立場を弁えられなければ、カディルの両親に家を追い出されるかもしれないのだ。そうなれば、流石にまだ若い娘が一人でやっていけるか……となれば無理だというのをサリッサは理解していたから。


 けれども、ずっとそれが続くわけでもなかった。

 幼い頃はただの友人としてしか見ていなかったカディルだが、しかしどうしてここまで執着するのか、と考えてそうして遅れて気付いたのだ。

 自分はサリッサを好きなのだ、と。


 貴族ではなくなった娘。

 だが、元は貴族なのだから、将来的に結ばれるのは可能ではないだろうか。

 そんな風に考えたりもしていた。


 だが、土台無理な話なのだ。



 カディルは三男なので。


 いずれは家を出なくてはいけない。

 サリッサがどこかの貴族の家の養子として迎え入れられたとしても、その家だってサリッサを当主に、とはしないだろう。嫁入りさせるための存在になるのは目に見えている。仮にサリッサが貴族として返り咲けたとしても、家を継げるという事はない。であれば、カディルというこちらも家を継ぐわけではない相手と結ばれるというのはちょっと考えても無いとわかる。


 お互いに自立して職を得て、という状態であるのなら可能だろう。

 一応貴族の生まれである、という肩書はあれど、限りなく平民に近しい生活をする事になるのであれば、可能ではある。


 けれどカディルはその未来に納得できなかった。


 サリッサの家が没落したのはもう今更どうしようもない。けれど、没落したのはサリッサが原因というわけではないのだ。

 だというのに、今までの暮らしを取り上げられて平民のように朝から晩まであくせくと働かなければならないのはあまりにあんまりな話ではないか。

 今まで苦労した分、サリッサには苦労のない生活をさせたかった。


 であればカディルはどうにかしてそれだけの財を得なければならないのである。



 そしてそんな時だ。

 カディルとアリシアの婚約話が持ちかけられたのは。


 カディルの両親は、カディルがサリッサを気に入っている事は理解していた。

 だが、それはあくまでも幼馴染という枠組みの中の、幼い頃から自分を知っている同士、という点でだとしか思っていなかった。

 カディルがサリッサを一人の女として見ている、とまでは思っていなかったのだ。

 もっとそれらしくあからさまに態度に出ていれば両親も気付いたとは思うけれど、サリッサは己の立場を弁えていたし、カディルはあからさまに口説くような事はしていなかった。

 あくまでも使用人の一人に目をかけている、という風にしか周囲には見えなかったのである。


 それに、カディルがサリッサに目をかけているのも、サリッサの身の上を知っている者からすればまぁそこまで咎める程のものではない。度を超えたものではなかったからこそ、周囲も微笑ましく見守るに留めていた。これが、お互い立場を弁える事がなかったのであれば、早々に二人は引き離されていただろう。


 カディルの両親はともあれ、このままではカディルは将来家で長男の手伝いをさせるよりはせめてどこかに婿入りさせた方がまだ幸せになるだろうと考えたのだ。

 そして、それなりに友好関係にあったヴォドイール家に話を持ち掛けてみた。


 ヴォドイール家、アリシアの父もどこの誰ともわからん相手を一から調べるよりは、ある程度知ってる相手の方がいいかもしれぬ、となってとんとん拍子に二人の婚約は成立した。

 カディルの事はアリシアの父も幼い頃から一応知ってはいたのだ。

 カディルの方はあまりこちらを憶えていないかもしれないけれど。


 ヴォドイール家の領地とクロニス家の領地はそこそこ離れているけれど、アリシアの父とカディルの父は学生時代親友と呼べる程度の関係だった。それもあって、縁があったわけだ。


 アリシアとカディルは幼い頃から面識があったわけではない。

 けれども婚約の話が持ち上がり、そうして二人で会う事になり。

 あれよあれよという間に、その話は決まってしまったのであった。


 カディルが初対面の時にアリシアに何か失礼な態度をとっていれば、話は早々に無かったことにされていたかもしれない。


 けれどカディルは。


 考えたのだ。


 自分の能力ではどう足掻いても自力で身を立てて出世するような事はない、とわかっていた。自分一人だけならどうにか生活していけるとは思うけれど、しかしサリッサと一緒にとなると難しいだろうという事も。

 サリッサには今まで苦労した分、あまり不自由のない生活をしてほしい。だが、カディルにはそれがすぐにできる程の能力がなかったので。


 ではどうするか。

 実家はサリッサの事情を理解してはいるけれど、だからこそ使用人以上の扱いはしていない。カディルがもっとサリッサを優遇しようとしても、それは無理だろう。心情的に他の使用人たちは理解はしてくれるかもしれないが、しかしいざ実際にサリッサが優遇されるような事になれば内心で不満を持つのは言うまでもない。サリッサが他に、優遇されてもおかしくはないくらいの何かをしたのであれば話は変わってくるが。


 だがしかし、サリッサは聡い娘であったものの、使用人としてみれば普通なのだ。可もなく不可もなく。とびぬけて優秀である、とかではない。まぁ貴族の家で働いている使用人としてならこれくらいは普通なんだろうなぁ、と思われる程度である。

 元が貴族の娘と考えるなら、行儀見習いとして、というのであれば問題はなかったかもしれないが、没落して既に貴族ではないただの使用人として見るのならどこまでも普通。


 カディルが家の後継ぎで、サリッサは彼のお気に入りである、というような状況であるのなら優遇されていてもまぁ周囲は受け入れたかもしれないが、そうではないので。

 サリッサは特別扱いをされる事はなかったし、カディルもそうしたくてもできる状況ではなかった。


 だが、カディルがアリシアの婿となったのであれば。

 アリシアは優秀な娘だった。

 そんな彼女の補佐、といってもあれもこれもと望まれているわけではないのは、何度か顔を合わせて話していくうちにいやでも悟った。

 女侯爵として独身のままだと周囲が放っておいてくれないからこそ、とりあえず伴侶がいればいい。ついでに跡取りを産むにあたって、自由に身動きできなくなっている間、代理で動いてくれればそれでいい。

 アリシアが今の時点で夫となる相手に望むのは、精々それくらいであった。


 だからこそカディルは思ったのだ。


 ロクに働かなくてもそこそこ裕福な暮らしができそうだし、そこからどうにかしてサリッサにも楽をさせてやれないだろうか、と。


 あれもこれも、とアリシアが自分と同じくらいの能力を伴侶である相手に望むようであったなら、カディルは早々に無理だと諦めただろう。けれども、そこまでの事は望まれていなかったからこそ。

 余計なことを考えてしまったのである。



 ――サリッサはそれなりに自分の生い立ちを理解していたし、故に立場も弁えていた。


 幼馴染だったけれど、今はもう気安く接してはいけないカディルとは一線を引いて周囲の誰が見ても間違えなどないとわかるように。

 それでも、今までのように絡んでくるカディルの事は内心で嬉しくもあった。

 なんだかんだカディルの事をサリッサも好きだったのだ。

 好きな相手が自分に構いにやってくる、というのは、自分の立場を考えればなおの事嬉しかった。今までのように、とはいかなくても、それでも言葉を交わすことができるのは嬉しかったし、貴族ではなくなったとはいっても、見捨てられてはいないと思えた。

 貴族じゃなくなったなら、もう今までのようにカディルが話しかけてくれることもなくなるのではないか、と思っていたから。

 使用人になってなお、今までのように接してくれるカディルの事をサリッサは早い段階から好きになっていたのだ。元々淡い恋はあったのだと思う。家が没落して、その気持ちを諦めるつもりだった。けれど諦めきれなくて。

 両親がせめて自分だけは職を持って、生活できるようにとクロニス家へ話を持ち掛けてくれたから、好きなカディルと離れる事もなかった。


 だが、その好きという気持ちが周囲に露見すればたちまち自分は引き離されるだろう事を理解していたから。


 この気持ちは決して誰にも知られないように、とサリッサは心の中にしまい込んでいたのである。


 ところが、それでもその気持ちが揺らぎそうになる事はあった。


 カディルとアリシアの婚約が決まった時。


 あ、カディルは私じゃない人と結婚するんだな、と思った瞬間胸が引き裂かれそうな痛みに襲われて、夜に一人、こっそりと泣いた事だってあった。泣いた事すら周囲に気づかれないように気を付けたけれど、それでも、そこから徐々にほころびは出ていたのかもしれない。


 二人が顔を合わせて交流する時、サリッサはカディルの背後に控えていた。アリシアの背後にも彼女の家の使用人が控えていたから、別にこれは何もおかしなことじゃない。

 お互いが屋敷を行き来して交流している時に、サリッサはカディルの奥さんになる人をじっと見ていた。


 綺麗な人。


 仮にサリッサが貴族令嬢のままだったとしても、とてもじゃないが敵わないだろうと思える美貌。

 サリッサのかつての家は子爵家で、財産もそこまであったわけじゃない。

 だから、ドレスだって既製品にちょっと手を加えた程度のものしかなかったし、髪飾りだって貴族であった頃の事を思えばこどもっぽいとしか言いようのない物ばかりだった。

 自分が貴族として生きていた頃の記憶と、今目の前にいるアリシアとを比べても、比べた分だけ惨めになるだけだった。


 とっくに使用人としての暮らしに慣れてしまった今、髪の毛だって一応手入れはしているけれどアリシアと比べれば艶も何もあったものではない。

 爪だって、水仕事をするから指先は荒れている。荒れていないであろう、つるつるの指先もピカピカに磨かれた爪も、昔のサリッサならともかく今のサリッサにはないもので。


 アリシアに対してカディルの態度は、でれでれしているというわけではない。あくまでも一般的な貴族令息としてのもの、だとサリッサは思っている。それだけが、少しだけ安心できた。


 これで熱烈にアリシアを口説くカディルなんてものを見せられたなら、きっとサリッサは冷静ではいられなかっただろうから。

 表に出さないのは得意だけれど、でもいつまでもしまい込んでおけるわけじゃない。


 サリッサの取り繕おうとして、しかし取り繕いきれなくなってきた態度に最初に気づいたのはカディルだった。カディルはサリッサの事をよく見ていたからこそ、自分の好きな相手だからこそ気付いた。なるべく表に出さないようにしていても、それでもふとした瞬間サリッサの表情に翳りがあって、何かを思い詰めているというのには気付いていた。


 だからこそ、どうにかこっそり二人きりになった時に聞いてみたのだ。



 サリッサはカディルがそこまでしてくれるとは思っていなかったから。


 だから、つい。

 言ってはダメだと思いながらも、それでもついポロリと本音を零してしまったのだ。


 自分はもう貴族じゃないからカディルと結婚するなんて無理な事も、それでもどうしても、自分以外の女と結婚するカディルの事を見ていると胸が締め付けられるように苦しくなることも。頭ではわかっていても、心が痛いのだと。


 ずっと幼い頃のままだったなら。

 そうしたら、結婚だとか後を継ぐだとか、そんな事を気にせずずっと一緒にいられたはずなのに。

 けれども時間は止まる事はない。もうカディルもサリッサもお互いが無邪気にいられる時間は過ぎ去ってしまった後なのだ。


 カディルもまたサリッサのそんな告白に、胸を打たれた。


 サリッサがあまりにも一線を引いた態度で接してくるものだから、自分の事はなんとも思われていないのではないかと思っていた。しかし彼女の本心はただただカディルを想うもので。

 なおの事、カディルはそんなサリッサに報いるためにはどうするべきか……と考えを巡らせたのである。



 そしてその思案は、アリシアが気付く程のものになってしまっていた。


 交流を重ねて何度目だったかは、生憎と覚えていないけれど。

 しかしそれでも、誰が見ても思い悩んでいる、というのがわかるくらいカディルは思い悩んでいたのだ。

 婚約者となった相手の前でもそこまで悩むのだ。きっと深刻な何かがあるに違いない、とアリシアは思ったし、だからこそ話を切り出した。


 悩んでいる事があるのなら、役に立てるかはわからないけれど話してほしい、と。


 カディルは最初、言葉を濁した。


 本人ですら気付かないうちにそこまで表に出して悩んでいたのか、という驚きこそあったけれど、流石に堂々とアリシアに言える内容でもない事はわかっていた。

 だが、その差し伸べられた手は、自分の悩みを打ち明けたとして引っ込められる事はないのではないか? と思ってしまったがために。


 カディルは知らず知らず悩み過ぎて視野が狭くなっており、またその結果として自分に都合のよい方へ事態が転がるのではないか……? と根拠もなく思い込んでしまったのである。そう思い込めるくらいにその時のアリシアが頼もしく見えてしまっていた。


 ここでカディルがもう少し考えてから口を開けば、結果は異なったものになっていたかもしれない。

 だが、馬鹿正直に口を開いてしまったがために。


 彼の人生はここで大きく分岐する事となってしまったのである。


 もしカディルがアリシアの夫として彼女を支えつつ、使用人として働いているサリッサの事を愛人として囲いたいのだ、とでも言えば、まぁアリシアなりに思う部分があったとしても、お互いに弁えた状態であるのなら許可したとは思う。


 だが――


 カディルは、同情を買おうと狙ったわけではなかったが、幼い頃からずっと一緒だったサリッサの事をただの幼馴染として見ていたはずなのに、しかし彼女の家が没落し家の使用人として働いて……と、一から十まで喋ってしまったのである。二人の想いが通じ合った時の事まで詳細に。


 最初は遠慮がちに、しかし語っている途中から興が乗ってきたのかまるで何かの物語のように。


 それは真実の愛で結ばれたのにすぐに引き裂かれる悲劇の恋人、という風に受け取れる内容だった。


 これをカディルが他人事として語っていたのであれば、もしかしたら彼は劇作家になれる道でもあったかもしれない。即興でそれだけ語れる程度に話を作れるのなら、まぁ人気が出るかはさておきそういった道もあっただろう。だが実際これはカディルによる、カディルの身に――サリッサもだが――降りかかった出来事を語っているに過ぎない。


 結果として語っている最中に、自分が悲劇のヒーローにでもなったように錯覚し、少々話を盛ったのも事実だ。



 カディルとアリシア、この二人だけが部屋にいた、というわけではない。

 その場にはアリシアの家の使用人がいた。いつもならそこに、カディルの家からついてきた使用人も控えているのだが、今回サリッサはいずれ結婚する二人、というその姿を見るのが辛くなって他の人に代わってもらっていたために、その場にはいなかった。


 まぁ、いない方が良かったのだろう。


 アリシアの家の使用人がその話を聞いた時、彼らが口をはさむ権利はなかったけれど目はしっかりと感情を持っていたのだから。


 よくもまぁ、そんな話を恥ずかしげもなく堂々と――


 そう言いたげな眼差しがカディルに突き刺さっていたけれど、カディルは悲劇的な状況を語り終えたという謎の達成感によって気付きもしなかった。


 幼馴染であって、せめて少しでも生活を楽にさせてやりたい、という気持ちだけであれば、まだ使用人たちの感情もそこまで悪くはなかっただろう。

 だがそこに愛だの恋だのが混ざってしまった事で、結婚を控えている相手がいるにもかかわらず既にほかの女との関係がある、と言うようにしか受け取れないものになってしまったからこそ。


 アリシアの家の使用人たちの視線がどこまでも冷ややかになってしまったのは仕方がない、というかむしろ当然の話であったのだ。


 アリシアは怒ってもいい。


 そう、使用人たちは思っていたのだけれど。


 だがしかしアリシアの反応は使用人たちが思っているものとは違った。


「まぁ、真実の愛。お互いの立場が異なってしまってもなおその恋を捨てず愛を育て、貫こうというのね。

 素敵、素敵ね。応援するわ」

 手を組んでうっとりとした様子のアリシアに、使用人たちは何も言えなかった。

 そしてカディルは。

 その言葉を聞いて自分にとって都合よく解釈してしまったのである。


 即ち、この家に婿入りする時にサリッサを連れてきてもいいし、そのサリッサのために金を使う事も許されたのだ、と。


 悲劇的な恋愛に酔って語り終えたばかりだったからこそ、そう思い込んでしまった。


 冷静に考えたなら、そんな都合のよい話があるはずもないのに。


 実際、カディルの思ったような都合のよい展開になる事はなかった。


 カディルが帰りヴォドイール家から出ていった直後にアリシアは父へ話を持ち掛けたのだ。

 使用人たちもしっかりばっちり聞いていたので、アリシアの思い込みで話を進めている、なんてこともない。


 アリシアから話を聞いた父はまさかと一瞬だけ信じられない気持ちになったけれど、しかし使用人たちからも確認をとればアリシアの話が大袈裟に盛られているというわけでもないという事を知り、悩んだのは数秒だけだった。



 婚約の解消は速やかに行われた。


 結果としてカディルは侯爵家に婿入りするという事ができなくなった。

 かわりに真実の愛の相手との結婚が許された。クロニス家の――カディルの両親も認めるしかなかったのだ。


 ここで婚約の解消を拒んだとして、アリシアが社交界でカディルとサリッサの悲劇的な恋愛話を誰にも話さないならまだしも、婚約者との婚約がなかった事になったのであれば少なくともどうしてそうなったのかを問う者は現れるだろう。

 明け透けに質問せずとも、クロニス家かヴォドイール家どちらかの事情で婚約がなかった事になってしまったか、をせめてハッキリさせておきたいと思う家はどうしたって存在する。


 詳しい事情がわからなくたって、面倒ごとを安全圏から眺めるだけならまだしも、知らぬ間に婚約解消に至った原因と下手に関わって自分たちまで巻き込まれる――なんて面倒がないとも限らないのだ。

 であれば、それとなくその話題が出るのは当然の話で簡単に予想できるものなわけだ。


 アリシアは自分に非がないし、更には真実の愛で結ばれていたはずだった二人を引き裂きかねない悪役令嬢みたいな立場になるところだった、なんて話を語らない――はずもなく。

 聞かれたならば間違いなく答えただろう。カディルから聞いた話をそのまま……にできればいいが、そこにはアリシアが聞いた時に感じた分を上乗せしてより悲劇的に、かつロマンチックに話が盛られた状態で。


 アリシアにとってはいい娯楽。

 周囲にとっても一時盛り上がれそうな面白い話題。


 だがそうもいかないのはクロニス家だ。


 幼馴染であった二人が密かに想いを育てていた、というのはまぁ、わからないでもない。

 けれど、カディルの両親は決してサリッサをカディルの嫁にするつもりなんてなかった。ただ、かつての友人に頼まれたのもあって彼女だけでも生活に困らないよう仕事を与え衣食住の面倒を見ていただけで、跡取りでもないカディルと結婚させたからといって、ずっと家に居続けさせるつもりはなかったのだ。


 カディルが結婚して、ヴォドイール家に婿入りする際に流石に女の使用人を、それも年齢の近い相手を連れていくのは問題があるだろうと思っていたから、その頃には紹介状を書くなどして他の家を紹介するか、それともこのまま継続してカディルのいなくなったクロニス家で働き続けるか、サリッサの意思を一応確認しておこうとは思っていたけれど。


 カディルが婿入りする以上、想いが通じ合っている相手を一緒にヴォドイール家に連れていけば余計な勘繰りしか生まれないし、もし間違いがあった場合、そうなるのがわかりきった状態だというのにそれを放置して二人を送り込む形になったクロニス家も何らかの責任を取らねばならなくなってしまう。

 それに、流石にないとは思いたいが、もしカディルがサリッサと子を作ってサリッサが産んだとして。

 その子をヴォドイール家の血縁だと偽って家を乗っ取るような真似をしないか、となると……普段であれば絶対にやらないだろうと思うけれど、しかし欲に目がくらんだ状態の人間は時としてやらかすので。


 何かを思い違ったり勘違いでカディルが暴走した場合、その可能性はゼロではない。


 であれば、カディルと一緒にサリッサもヴォドイール家に、というわけにはいかなかった。


 サリッサの今後の進路を確認するよりも先にカディルがアリシアにとんでも暴露をしてしまった結果、クロニス家はカディルとアリシアの婚約を無かった事にするしかなくなってしまったわけだ。


 アリシアが愛する二人を引き裂くだなんてとてもとても……なんて言うのだ。

 それでも無理にカディルを是非とも婿に! とはとてもじゃないが言い難い。

 結婚前から愛人、それも本命はこちらである、と言わしめている相手がいるとなってしまっては、カディルの両親もカディルを是非とも婿になんて言えるはずもなかった。


 たとえ無理だろうとも、もしかして家の乗っ取り目論んでます? なんていう疑いが向けられる可能性が発生してしまっては引き下がるしかないのだ。それがなければもう少し粘ったはずだけど。


 アリシアにとってカディルという存在は、かけがえのない存在というわけではなかった。

 だからこそ婚約を解消する事に躊躇いはなかったのだ。


 もし、アリシアの愛する人がカディルであったならもう少し揉めるなりしたかもしれないが、ある程度交流してそこそこの関係を築いていたとしても、流石に愛する者が既にいる相手を奪うような真似をしてまでカディルと結ばれたい、と思うまではいかなかった。アリシアにとってはただそれだけの話である。


 だが、ただそれだけの話、で済まない相手がいた。


 カディルである。


 彼は婿入り先がなくなってしまったので、そうなると今後の人生どうするのか、という話を両親とするしかなくなってしまったのだ。


 跡取りはいるし、その跡取りに何かあるような事もない。

 仮に何かあったとしても、カディルがクロニス家の跡を継ぐ事はない。

 補佐として兄の小間使い的立場になるとしても、正直そこまで期待されているわけでもなかった。


 つまりは、婿に行くという話になっていたからカディルの事はクロニス家の誰もそこまで心配していなかったが、しかしこのまま家に残られても……となってしまったわけだ。

 カディルの両親がそろそろ長男に跡を継がせて引退するつもりであったとはいえ、そこでついでに三男坊であるカディルをよろしく……とされても長男だって困るだろう。小間使いさせるにしても、そういう事を今までしてこなかったカディルがどれだけ使い物になるかも……といった話なので。


 なので、カディルという存在はクロニス家にとってお荷物と言っても過言ではないものになってしまったのだ。

 サリッサは使用人としては一応使えないわけではないけれど、二人をいつまでも家においておくわけにもいかず、両親は正直二人の存在を持て余しつつあった。


 真実の愛だなんてアリシアに言わなければ。

 下手に外にそんな話が漏れた以上、二人を追い出せばクロニス家は傍から見ればそんな二人を無情にも追い出した非情な家だ。現実を見据えた相手はそうは思わないだろうけれど、そういった話を娯楽として、また憧れを持つ若い者たちからすればクロニス家は悪の家、みたいに思われてしまう。


 そういった馬鹿げた感情を全て一蹴できればいいが、数が多ければそれこそ害虫のようにキリがなくなる面倒ごとが発生しかねない。そちらの処理にかかりきりになっている間に、クロニス家を追い落とそう、なんて考える政敵がいるのであればその事態を招くのは得策とは言えない。



 少々――いや、大分お馬鹿である、とここにきて晒す結果となってしまったカディルを持て余していたのは事実だ。

 しかしこれを解決してくれたのはアリシアだった。


 真実の愛。


 それこそ物語でならよくある言葉だ。


 だが現実でそういった相手を見る機会というのは中々なかった。

 それもあって、アリシアは是非とも近くでその愛の行く末を見守りたい、と言い出したのだ。


 カディルとの婚約は解消された。

 結果カディルの身の置き場がなくなってしまった。

 真実の愛である以上、カディルがサリッサと結婚するのは遅かれ早かれそうなるだろう。

 クロニス家には他に余っている爵位があるわけでもないので、カディルがサリッサと結婚するのであれば、貴族籍から抜けて平民となる必要がある。

 そうなった場合、サリッサはクロニス家で働いているとはいえ、夫となるカディルは生家だからといっていつまでも実家にいられるわけでもない。使用人も足りているクロニス家で、平民になったとはいえかつてはこの家で貴族として育っていた相手を使用人に……というのは他の使用人からしてもなんともやりにくいだろう。


 だが、それらを解決するかのようにアリシアが名乗りを上げたのだ。


 ちなみに婚約が解消された後、アリシアには釣書が殺到したのだが、直々にその釣書を持参しプロポーズしたガラッド家の令息レオニールがアリシアの次の婚約者に決定された。

 レオニールはカディルが婚約者に決まるもっとずっと前からアリシアに想いを寄せていたのだが、アリシアの婚約者を決めるという話が出た時点でスタートに出遅れた事を悔やんで此度は直々に持ち込みに至ったのである。ただ釣書を送るだけならきっとアリシアの目に留まる事はなかっただろうけれど、しかし釣書と本人がセットでやって来た事でインパクトはあった。


 ついでに釣書に本来ならば書かれる事のないアリシアに対する想いの数々も余すところなく伝え――まぁ要するに絆されたのだ。アリシアが。

 少し前にカディルの真実の愛の話を聞いていたのもあって、情熱的に口説かれて胸ときめかせた結果でもある。


 なのでアリシアとカディルがまたもくっつく……などという事は間違いなく有り得ないし、まずレオニールがそんなことは許さないだろう。



 実のところ婚約が解消された時点で、カディルはその場にはいなかった。


 仮にその場に呼び寄せられて事情を聞く流れになったとして、そこでもまた己に酔った真実の愛のストーリーを語り聞かされても、カディルの両親がブチ切れるだけだからだ。

 アリシアの父が淡々とアリシアが聞いた話と使用人もその場で聞いていたという事実確認をして、カディルのかわりにサリッサを呼んで本当に二人は愛し合っているのか、それを聞くだけだった。


 カディルのように己に酔って悲劇のヒロインぶっていたならサリッサの今後も暗雲が立ち込めた可能性は高いが、しかしサリッサはあくまでも冷静に、カディルと想いが通じ合った時の話をしただけで。

 カディルとアリシアの婚約がなかった事になって、カディルとサリッサが結婚することを許された、という話を聞いて、カディルは今後どうするのだろうか……と考える程度には頭が働いていた。


 サリッサはクロニス家で使用人として仕事をもらっていた。

 けれど、カディルと結婚したとして、サリッサは住み込みで働いているけれどカディルは違う。貴族ではなくなるカディルを今後養うのであれば、色々と入用だししばらくは大変だろうなぁ、とサリッサはサリッサなりに考えてはいたのだ。


 だが、そこでアリシアに誘われたから。


 一も二もなく、カディルと話をする前に頷いてしまったのだ。


 アリシアの家――ヴォドイール家で働くことを。


 仕事内容に関しては、今までクロニス家でやって来た事に加えていくつかやる事が増えるようではあったけれど、しかしその分給金も良い。


 サリッサにとっては好待遇といってもいい内容だったのだ。

 カディルの仕事内容も、まぁ力仕事がそれなりにあるとはいえ、男性使用人として考えるならば妥当な範囲内で、こちらも給金は相場といってもいい。


 クロニス家に残るままなら、カディルはきっと小間使いとして仕事というよりはただのお使いレベルの雑用しか与えられないだろうし、給金は衣食住と相殺になる可能性すらある。生家とはいえ平民となったのであれば、今までのような暮らしをするのはまず無理だ。もしかしたら多少は甘やかされる可能性があるかもしれない……と淡い期待をカディルが抱いたとしても、サリッサの目から見る限りそれは無理だと思っている。

 だからまぁ、アリシアの提案はサリッサにとっても渡りに船だったのだ。


 下手に実家でいつまでも貴族令息だった頃のように暮らそうとして、結果家族に疎まれる可能性が高くなるクロニス家にいるよりも、カディルとサリッサ、二人の門出を祝ってくれるアリシアのところで働く方が間違いなく二人にとってもプラスになる。


 そう信じて。



 かくして、カディルとサリッサ、二人は話が纏まった直後にヴォドイール家へやって来たのだ。


 何故だか自分にいいように話が進むと信じているカディルはヴォドイール家へ行くという話を聞いた時にまだ早いだとかなんだとのたまっていたけれど、クロニス家からすれば早いも遅いもない。早いところ仕事に慣れてくれなければ、アリシアだって愛想を尽かして使用人をクビにする可能性だってあるのだ。

 サリッサはもうずっと使用人として働いてきたからこそ、多少夢を見る事はあっても現実を見ていないわけでもないから、使い物にならないと言われて解雇されるという事は余程の失態でもやらかさない限りは無いと思うが、しかしカディルはそういった大丈夫、と言えるだけの保障もない。

 一日でも早く仕事を覚えてある程度使える、と思われなければいけないのだ。



 ――そうしてなんだかんだ勘違いをしたままのカディルはヴォドイール家にやってきて、そこで。



 ようやく現実を突きつけられたのだ。


 アリシアの新たな婚約者、レオニールによって。


 不貞をしていたのか、というカディルの言葉はレオニールによって鼻で嗤われ、それをいうならそっちだろうと返されて。

 まぁ確かにそうだ。

 真実の愛と聞こえは良いが、身も蓋もなく言えばカディルの方こそが不貞をしていた、と言われても否定できないのである。一線を超えるような事はしていなかったとはいえ、これから結婚する相手に向かって想いを通じ合わせた女性がいる、と宣言している時点で不貞をしていた、とまでいかずともこれからすると思われたって仕方がない。


 アリシアの夫の座を捨てる結果になってしまったカディルは、サリッサという真実の愛の相手、という存在とともにアリシアかレオニールの口から社交界でふんわりとでも話題に出されてしまえば、それだけでカディルが貴族として返り咲く事もできなくなる。

 貴族として最低限の教育は受けているからこそ、どこぞの婿に、と望まれる可能性はゼロではなかったかもしれないが、しかしサリッサという存在がいると伝わってしまえば。


 わざわざカディルを選んで婿に、と望むところはほぼ消えるだろう。カディルに望む条件は、決してカディルだけが適えられるわけではないのだから。

 むしろ、真実の愛だと婚約者だった女性に事前に宣うくらいだ。

 今後の二人の行く末を、些細な娯楽として楽しみにする者が増えこそすれ、カディルが貴族として戻れるように……などと考える者はまずもっていなくなる。

 仮にクロニス家に爵位が余っていたとしても、ここまで迂闊な男に爵位を与えてしまえば、次はどんなうっかりが飛び出るかわかったものではないのだ。


 今はまだ若気の至りという言葉で済ませる事ができるけれど、それだってもう少し年月が経過してカディルの年齢が上がればそういった言葉での誤魔化しもきかなくなる。

 それならば、サリッサに手綱をしっかりと握っておいてもらった方がきっと誰にとっても良い結果になる事だろう。



 アリシアの婚約者が変更されていた経緯を聞きたがった友人や知人がいたこともあって、アリシアは自分にやましい部分がなかったのでとても正直に話して聞かせた。

 レオニールもまた友人たちにいつの間にアリシアと婚約したのかと驚かれたりもしたので、経緯はさらっと説明していた。


 かつての婚約者だった男がアリシアの屋敷で働いている、という部分を勘繰ろうとした者も中にはいたけれど、しかしカディルには真実の愛と言えるサリッサがいて、彼女もまたアリシアの屋敷で働くようになったのだと伝えれば。


 アリシアが真実の愛の行く末を見守りたいがために、最悪クロニス家を追い出されて行くあてがなくなるところだった二人を雇ったのだと言われてしまえば。

 そしてそんな二人の様子を語られてしまえば、勘繰るどころか二人の様子の方こそが。


 話を聞く事になった他の貴族たちにとって娯楽そのものになってしまったのである。



 ……といっても、別段燃え上がるようなドラマティックな展開があるわけでもない。

 ただ、てっきりアリシアの夫になってサリッサを愛人として囲えるものだと思い込んでいたカディルだけが、完全に現実を受け入れきったわけではないがために、使用人として働くのもまだどこか納得がいっていないような状態ではあるけれど。


 そんなカディルを叱咤激励して現実を突きつけていくサリッサと、事情を知っているヴォドイール家の使用人たちに囲まれているカディルは、今後どう足掻いたところで使用人として働くしかないのだ。

 クロニス家にいた頃はサリッサは使用人で、カディルは令息だったからサリッサもまた立場を弁え一線を引くようにしていたけれど、しかし今はもう二人とも貴族ではなくなりお互いに元貴族、という肩書があるだけの平民なのだ。

 今まで壁を作っていたサリッサはその壁を取っ払い、かつての幼馴染であった頃のような気安さでもってカディルに接している。


 それこそ、サリッサの家が没落した直後のカディルのように。


 使用人としてとても優秀、とまではいかなくともサリッサは良く働く娘であったから、アリシアもカディルとの様子はどうなのか、というのを休憩するタイミングでサリッサを誘い話を聞くようになった。

 カディルとの婚約がなければ、アリシアがサリッサとこんな風に話をする事はなかっただろう。


 そう考えると、縁とは奇妙なものね……などと思うわけなのだが。


 カディルが内心どう思っているかは別として、サリッサは幸せそうなのでアリシアはそんなサリッサから聞かされる話に耳を傾けるのだ。


 サリッサは幸せそうではあるけれど。

 カディルが果たして本当の意味で幸せになれるかどうかは……まぁ、彼の心次第だ。


 現状を受け入れてサリッサと向き合うのであればよし、そうでなければ……真実の愛を応援するとまで言ったアリシアが敵に回る事になりかねない。そうなる前にサリッサが上手くカディルを引っ張っていくとは思うものの……まぁやはり今後の事はカディルの心次第だとしか言いようがないのであった。

 次回短編予告

 急遽婚約する事になった令嬢と令息の話。

 会話少なめ文章量多めでお送りします。

 今までの短編の中で文字数多いのの中で断トツトップに出たかもしれない。

 恋愛要素低めなんでヒューマンドラマかその他に投稿予定です。

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― 新着の感想 ―
カディル相当のぼんくら感があるのでしっかりと現実に足ついたパートナーがいてくれてよかったんじゃないのかなぁ…ギャンブルにも絶対手を出せないように監督されるのは間違いなさそうですし。後で泥沼になるよりよ…
「まあ、そうなるよな」という順当な展開にも関わらず、何故か漂う「どうしてこうなった」感(笑) まあ、今後この2人がどうなるかは不明ですが、上手くいかなかった時が怖いですね
 なかなか危なっかしいバランスの上の二人ですね。
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