魔王に囚われた聖女、逃げられません!~~
アイリスは必死に抵抗していた。周囲には彼女を取り囲む魔族たちの気配があり、肌に刺さるような冷たい視線を感じる。しかし、その中でも圧倒的な存在感を放つ者が一人、
ゆっくりと彼女に歩み寄ってきた。
その男、魔王アスタロスは、闇夜の中でもはっきりとわかるほどに洗練された細身の体つきをしていた。
だが、細いだけではない。服の下に隠れている筋肉の力強さを感じさせる。
まるで蛇が獲物を見定めたかのように鋭い金の瞳で、アイリスをじっと見下ろしている。
「聖女アイリスか…噂どおりの美しさだな。だが…勇者の仲間にしては、少々無防備ではないか?」
アイリスはアスタロスの言葉に反応し、険しい表情で睨み返した。
「あなたのような者に、聖女などと呼ばれる筋合いはないわ…!」
彼女の声は震えていない。強い意志と誇りが、恐怖を超えて彼女の内から湧き上がっている。
だが、アスタロスはまるで子供の戯言を聞いているかのように口元に笑みを浮かべ、すっと手を伸ばした。瞬間、何も抵抗する間もなく、アイリスは彼の手の中で捉えられていた。
「お前に選択肢などない。」
アスタロスの声は冷たく、どこまでも絶対的なものだった。
その声の力に、アイリスは一瞬、動きを封じられる。
心の奥で勇者や仲間たちのことを考えながらも、どうすることもできない恐怖が彼女の心を支配し始める。
「このまま…魔王に屈するというの…?」
アイリスは自問自答するが、その瞬間、強引に腕を引かれ、気づいたときには冷たい牢獄の中に閉じ込められていた。
闇に包まれたその空間には冷たく重たい鎖が彼女の手首と足首を拘束している。
光はわずかに漏れるだけで、薄暗く静寂が支配していた。
どこからか響くアスタロスの声が彼女の耳に届く。
「逃げようとするな。お前には…ここで俺の望むものをすべて手に入れるための、ただの駒になってもらうだけだ」
アイリスはその言葉に強い嫌悪を覚えながらも、次第に薄れる意識の中で誓う。
「絶対に負けたりしない…。どんな状況でも、私は勇者たちの仲間であることを忘れない…!」
だが、彼女の言葉は闇に吸い込まれていくように消え、冷たい静寂だけが再び彼女を包み込んだ。
魔王の館での囚われの身
牢の中で何日が過ぎたか、アイリスにはもはやわからなかった。
薄暗い石の部屋には、窓もなく、昼夜の区別すらつかない。
だが、いつしかアイリスはこの冷たい静寂に馴れていった。
ある日、突然牢の扉が音もなく開いた。薄暗がりの中から現れたのは、屈強な悪魔の戦士だった。威圧的な姿で立ちはだかりながら、彼女に低く告げる。
「聖女アイリス。お前の牢生活は終わりだ。
魔王様のお考えで、好きに館内を歩くことを許された。
だが、外へ逃げることは許さぬ。
それに、逃げようとしてもこの城から出ることなどできぬ」
「どういうこと…?」
戸惑うアイリスは悪魔の言葉を疑いの目で見つめたが、彼の表情は変わらず、冷たく無慈悲だった。
悪魔の案内で牢を出たアイリスは、やがて広い石造りの廊下に立った。
魔王の館の内部は壮麗で、まるで巨大な迷宮のようだ。
彼女の目に映る壁には、古びた魔法の紋様や装飾が施され、謎めいた力が感じられた。
「ここから…出られないと言うけれど、どうせ、偽物の檻にすぎないわ」
アイリスは覚悟を決め、自分なりに脱出の道を探ろうと決意した。
そうして歩き始めると、どこからか気配を感じた。視線を向けると、遠くの廊下の奥に堂々とした姿が浮かび上がる。
それは…魔王アスタロスその人だった。
アスタロスは彼女が出てきたことを当然のように見つめ、わずかに笑みを浮かべている。
「気に入ったか? この城は、お前がこれから長く過ごすことになる場所だ。少しは慣れておけ」
「どうして…私に自由を?」
「その方が都合がいいからだ。ここから出られるはずもないし、お前に反抗されても、俺には痛くも痒くもない」
アスタロスの声はどこか嘲りを含みながらも、自信に満ちている。
彼にとっては、アイリスが何をしようとも絶対的な支配の手から逃れることはない、という確信があるようだった。
アイリスはぎゅっと拳を握り、冷静を装って答える。
「こんなところにいて、私は何をさせられるというの? どうせあなたの戯れに付き合うつもりもないわ」
だが、アスタロスはその言葉に微動だにせず、むしろ彼女を興味深そうに見つめた。
「聖女、お前はまだ理解していないようだな。俺の城で、お前に拒む自由などない。いつの日か、俺に協力してもらうこともあるかもな。」
そう言うと、アスタロスは身を翻して去っていく。
アイリスはその背中を睨みつけるが、無視されていることがますます彼女の怒りを煽った。
数日が経ち、アイリスは館内をさまよううちに少しずつこの城の様子を把握していった。
豪華な食堂、広大な図書室、そして強い魔力を感じさせる謎の部屋たちが並んでいる。
だが、外に通じる扉を見つけることはなかった。
どこもかしこも魔法の結界が張られており、無理に進もうとすると重圧がかかり、進むことができない。
それでも、いつか脱出できる隙を探すために、彼女は毎日この館の中を観察し続ける決意を固めた。
「まだ諦めないわ。どんなに囚われても、私は絶対に逃げてみせる…!」
魔王の城での日常
魔王の館に囚われてから幾日も経ち、アイリスは逃げられないことを改めて実感していた。
城中のあらゆる扉や窓、壁に張り巡らされた結界が、その絶望感を強めている。
だが、それでも彼女の心は折れなかった。限られた中で、自分にできることを見つけようと、次第に館での生活に適応しはじめた。
魔王城の暮らしは思いのほか静かで、騒がしさとは無縁の場所だった。
アスタロスの命令で、彼女は館内の庭や図書室を自由に使うことを許されていた。
館の中には、歴史の書物や魔術の書が数多く収められており、日がな一日読み耽るのも悪くはないと思うようになっていた。
ある日、アイリスが広い図書室で本を開いていると、ふと静かに足音が近づいてくるのを感じた。
顔を上げると、そこには魔王アスタロスが立っていた。
「ふむ、聖女が我が城でゆったりとくつろいでいるとはな」
「くつろいでいるわけではないわ。退屈しのぎに読んでいるだけよ」
とアイリスは冷たく返すが、その声は以前ほどの緊張感に満ちていなかった。
アスタロスは肩をすくめると、彼女の読んでいる本のページに目を落とす。
「それは古代の魔術書だな。人間には到底扱えない魔法ばかりだが、興味はあるのか?」
「私が扱えないのはわかってるわ。でも…魔法の知識を得ておくのは、損ではないと思うから」
アイリスは平然とした顔で答えたが、実際には、彼のことを少しずつ理解しようとしている自分に驚いていた。
思えば、彼との会話も以前より増えている。いつの間にか、アスタロスとのやりとりは日常の一部になりつつあった。
しばらくすると、アイリスは朝の日課として城の中庭を散歩するようになっていた。
館の中にいることが多いとはいえ、美しい庭や咲き誇る花を目にすると、心が少し和む気がした。
その日も朝の光を浴びながら庭を歩いていると、再びアスタロスが現れた。
彼はふと庭の花々を見つめ、静かに口を開いた。
「人間の世界の花だ。お前たちが好むものを取り入れているのだが、どうだ? 気に入っているか?」
「そうね…美しいわ。意外だけど、あなたがこんなに繊細な場所を作っていたなんて」
「気に入ったものがあれば、それを持つのが当然だ。それに、これも一つの力だろう?」
アスタロスのその言葉に、アイリスは少しだけ笑みを浮かべた。
彼の言葉にはどこか奇妙な誠実さがあった。力こそすべてだと信じる彼の中に、彼なりの感性があるのだと、彼女は感じ始めていた。
さらに日が経つにつれ、アイリスは城内のさまざまな場所に顔を出すようになり、アスタロスとも穏やかな時間を過ごすことが増えた。
時には図書室で古代の魔術について語り、時には庭での花の手入れについて話をする。
「聖女よ、我が館の居心地はどうだ?」
ある日の夕方、アスタロスが冗談めかしてそう尋ねた。
「少なくとも、これまでにない経験ができているわ」
アイリスの返事に、アスタロスは静かに笑った。
その笑顔は、初めて彼女が目にする穏やかなものだった。
そして、アイリスもまた、少しずつ彼への敵意を和らげている自分に気づいていた。
魔王軍の現状と脳筋たち
アイリスが魔王の館で過ごす日々が続く中、彼女は魔王軍の実態にも少しずつ気づき始めていた。
館の中では、時折魔王の側近や将軍たちが作戦会議を開くことがあり、アイリスはその様子を物陰から密かに覗くことができた。
ある日、いつものように庭から城の大広間に向かう途中、アイリスは偶然、魔王アスタロスとその部下たちが集まる会議の場を目にする。
そこで耳にしたのは、彼らのまるで呪文のように繰り返される
「力がすべてだ!」という言葉だった。
「まずは正面突破だ!力で押し切ってこそ、我ら魔王軍の本領発揮!」
「そうだ、全力で戦えば必ず勝てる!」
「知恵など不要!我らに必要なのは、ただ力のみ!」
アイリスは思わずため息をついた。
どうやら魔王軍は、彼女が予想していた以上に「脳筋」揃いの軍勢らしい。
会議での話し合いも、ほとんどが「力で押し通す」や「一気に攻め込む」
といった単純明快な作戦ばかりで、緻密な戦略や策謀といったものはまったく見当たらなかった。
アイリスは魔王の側近、バルカス将軍に特に注目した。
バルカスは、魔王アスタロスに次ぐ戦闘能力を誇り、屈強な悪魔たちからも一目置かれる存在だ。
しかし、会議の内容を聞いている限り、戦術や戦略に頭を使うことはまったくといっていいほどなく、ただ戦場での力と猛進を誇っているだけのようだった。
「バルカス将軍、敵の拠点にはいくつかの罠が仕掛けられているとの報告がありましたが…」
「罠など関係ない!我が拳で叩き潰せばすべて解決する!」
その会話を耳にして、アイリスは心の中で頭を抱えた。
彼らの戦い方は、確かに力強さと恐ろしさを備えているが、戦略もなく突っ込むだけでは、いつか痛い目に遭うのではないかと心配になったのだ。
その晩、アイリスは魔王アスタロスと会話する機会があり、思い切って尋ねてみた。
「ねえ、あなたの軍、力があるのは確かだけど、戦略というものは考えないの?例えば、状況に応じてもっと柔軟に戦うとか…」
アスタロスは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに自信満々に笑った。
「ふん、策に頼るのは弱者のすることだ。力があれば、どんな壁も破壊できる。それが我が魔王軍の信条だ」
アイリスはその言葉に反論しようと口を開いたが、すぐに閉じた。
アスタロスは、まさに自分が築き上げた軍に誇りを持っているのだ。
しかし、同時にアイリスは「魔王軍が力のみで成り立っている」という事実に、彼らが背負うリスクをひしひしと感じていた。
それ以来、アイリスは魔王軍の戦闘訓練の様子を遠くから見守るようになった。
変化する魔王軍の戦術と人間王国軍の戦況
聖女アイリスがさらわれてから、人間王国の軍は魔王軍への敵意を強め、勇者アベルを中心に一丸となって戦っていた。彼らは怒りを力に変え、魔王軍に対して連戦連勝を収めていた。
勇者アベルはその勇猛さと冷静な判断力で、王国軍の士気を保ち、魔王軍の動きを見極めながら、次々と戦果を上げていた。魔王軍はこれまでと変わらず、力で押し通そうとする
単調な戦術に頼っていたため、王国軍にとっては対策が取りやすかったのだ。
しかし、最近になって魔王軍の様子がどこか奇妙に感じられるようになった。
以前のような単純な正面突破ではなく、時折複雑な動きを見せ、
慎重に様子をうかがう場面も見受けられるようになったのだ。
ある日、アベルは王国軍の将軍と共に作戦会議を開いていた。
戦況の変化を報告する兵士の話を聞きながら、アベルは不安を感じ始めていた。
「どうやら、魔王軍がこれまでのような無策な戦術に頼らなくなっているようだ」
「確かに…近頃の魔王軍は、動きに変化があります。
罠を仕掛けたり、奇襲を仕掛けたりと、これまで見られなかった戦術を取り入れているようです」
アベルは眉をひそめ、地図の上に描かれた魔王軍の動きをじっと見つめた。
彼は魔王軍が単なる力任せで突っ込んでくるのではなく、どこか冷静に彼らの動きを分析し、対策を講じるような兆候を感じ取っていた。
「これは…アイリスがさらわれてからのことか」
将軍の一人が神妙な顔でうなずいた。
「聖女アイリス様が魔王の手に落ちてから、魔王軍の様子が変わり始めたのです。まるで、彼らが新しい知恵を得たかのように」
アベルは拳を強く握りしめ、歯を食いしばった。
アイリスの聡明さは王国の誰もが知るところであり、魔王アスタロスが彼女をどう利用しているのか、その真意は不明だったが、彼女が魔王軍の知恵として役立てられているのではないかという疑念がよぎったのだ。
「アイリスが、魔王軍に協力させられているのか・・・・」
アベルは無意識のうちに剣に手を伸ばしていた。
「彼女を救い出さなければ、彼女が利用されるなど…絶対に許せない」
将軍たちも緊張した面持ちでうなずいた。
聖女アイリスの知恵が魔王軍に加わるという事実は、人間の王国にとっても大きな脅威であり、
彼女の存在が王国軍の勝敗を左右しかねないと感じていた。
こうして、王国軍は聖女アイリスを奪還するための新たな計画を立て始めた。
聖女アイリスの秘密の「隠された才能」
聖女アイリスは、人間の王国で聖なる力を持つ守護者として称えられていた。
癒しの魔法や浄化の力で人々を救い、その穏やかな微笑みは希望の象徴だった。
しかし、彼女には誰にも明かしていない、もう一つの才能があった。
それは「戦略」の才能だった。
アイリスは、単なる聖女ではなかった。彼女は、若い頃から戦況や人の心理を読み解く驚異的な洞察力を持っており、戦場の状況を一瞬で把握し、敵の一手先を予測するスキルを秘めていた。彼女の策に従って戦った王国の軍勢は、数々の勝利を収め、王国の繁栄に大きく貢献していた。
だが、この「戦略」のスキルはアイリスの持つ聖なる力とは異なり、王国の中でさえも上層部の数人しか知られていない秘密だった。
もしこの才能が公になると、聖女がただの聖職者以上の存在であり、軍略にまで関わっていると知れ渡るだろう。
人々の信仰心に悪影響を及ぼし、王国の上層部からの疑念も生む可能性があったため、ひた隠しにしていた。
魔王アスタロスにさらわれ、魔王城で囚われの日々が始まってから、アイリスはその力を意識的に封印していた。
アスタロスの前で「戦略思考」を見せれば、彼の信頼を得るどころか、逆に彼の興味を引き、王国への道を絶たれてしまうかもしれない。
それに、彼女自身もこの魔王に力を貸す気など微塵も持っていなかったのだ。
ある日、アイリスはアスタロスに問いかけられた。
「どうしてお前は、ただの聖女にしてはやけに落ち着いているのだ?この状況にも何か裏があるのか?」
彼の問いに、アイリスはふと一瞬だけ緊張した。だが、その美しい笑顔を崩さず、軽く首を傾けて答えた。
「私が聖女としてできるのは、人々を癒し、守ることだけですわ。」
その言葉にアスタロスは一瞬だけ眉をひそめたものの、追及はしなかった。
彼にはアイリスの心に潜むものを見抜けないようだった。
日が経つにつれ、アイリスは魔王城内での生活に慣れ、魔王軍の実情が見えるようになっていった。
彼らが単純で力任せな性質であることも、次第に彼女の目に明らかになっていった。
そしてその度に、心の奥でアイリスの戦略家としての本能が疼き始めているのを感じた。
アイリスは何度も「王国のために、ここで魔王軍の情報を掴むのが最善」と自分に言い聞かせたが、
時折、魔王アスタロスの目に映る「別の一面」にも心が引かれることがあった。
彼の強大な力に溺れることなく、彼自身の信念を貫く姿勢に、彼女はほんのわずかばかりの共感を抱いていたのだ。
そして、ある時、魔王の武将であるバルカスが戦略会議で苦戦を報告した際、アイリスの中に抑えきれない何かが芽生えた。
彼女は、内に秘めた「戦略」のスキルを、王国ではなく魔王軍のために少しだけでも使いたい、
そう思う自分に気が付いてしまったのだ。
「私が力を貸すことで、何かが変わるのかもしれない…」
そう自問自答しながらも、アイリスはまだ誰にもこの秘密を明かすつもりはなかった。
魔王にも、彼女の持つ「もう一つの力」のことは伝えられないままでいるつもりだった。
魔王アスタロスの危機とアイリスの決意
魔王軍はここ最近、幾度も人間王国軍の攻撃を受け、かつての圧倒的な勢いを失いつつあった。
王国軍の進撃は容赦なく、日々の戦況は魔王軍にとって悪化の一途を辿っていた。
そんなある日、魔王アスタロスが出陣し、人間王国軍の精鋭部隊と対峙することになった。
アスタロスは圧倒的な力で敵を蹴散らしていくが、戦局は思った以上に厳しく、いつの間にか彼の体にも傷が増えていた。普段の彼ならば避けられるはずの攻撃が、容赦なく彼の体を貫き、鋭い刃が肌に食い込んでいく。
その戦場からアスタロスが傷を負って城に戻ってきた時、魔王城の全体にも緊張が走った。
彼女の中で何かがささやく。
「彼をこのまま放置するわけにはいかない…」
アイリスは部屋を出ると、傷ついたアスタロスが運び込まれている部屋に急いだ。
彼の周囲には、忠実な部下たちが懸命に彼の傷を手当てしようとしているが、どうにも治療が進んでいない様子だった。
その様子を見て、アイリスは思わず彼に手を伸ばし、言葉をかけた。
「アスタロス様…少し、私に任せていただけませんか?」
彼女の存在に気づいたアスタロスは、眉をひそめたものの、彼女の申し出を拒む力もないほどに疲弊していた。
そして、かすかに頷くと、傷だらけの体を預けた。
アイリスは目を閉じ、両手を彼の傷に向けた。
薄く青白い光が彼女の手から溢れ、アスタロスの体を包み込む。
彼女の聖なる癒しの力が、彼の体に沁み込むたびに、彼の傷が少しずつふさがっていくのが見て取れた。
「どうして…私に力を貸すのだ?」
アスタロスがかすれた声で問いかける。
アイリスはしばらく目を伏せていたが、ゆっくりと答えた。
「私は、ただ誰かが苦しんでいるのを放っておけないだけです。
それが聖女としての務めだと、ずっと教えられてきましたから」
アスタロスはその言葉にわずかに笑みを浮かべた。
そして、心の中でひっそりと思った。彼女が王国の聖女であるということは知っていたが、
今目の前で見ている姿は、どこかそれ以上のものを感じさせたのだ。
治療が終わると、アスタロスの息が落ち着き、傷もほとんど癒えていた。
アイリスは、立ち上がる彼を見つめ、安堵の表情を浮かべた。
「…ありがとう、アイリス」
彼が口にしたその言葉に、アイリスの胸が一瞬だけ高鳴るのを感じた。
彼女の中で抑えていた気持ちが、少しだけ揺れ動く。
「あなたが無事でよかったです。けれど…戦いに出るたびに、無理はなさらないでくださいね」
そう告げるアイリスの顔は、どこか優しさと複雑な思いを宿していた。
それを見たアスタロスもまた、言い知れない感情が胸に広がるのを感じた。
魔王アスタロスの変化とアイリスへの想い
アイリスに治療されて以降、魔王アスタロスの中で、彼女に対する意識が徐々に変化していった。
もともと、彼女をさらった理由は単純だった。聖女を奪い、王国に揺さぶりをかけるため。
だが、それ以上に彼女のことを考えるようになるとは、アスタロス自身も予想外だった。
傷が完全に癒え、再び戦場に立つ日々が戻ってきたが、彼の心の中にはいつもアイリスの姿があった。
魔王軍の重鎮たちが戦況の報告に来るたびに、彼はそれとなく
「アイリスが今どこで何をしているか」を尋ねたり、
彼女が過ごす部屋に訪れる頻度が少しずつ増えていった。
アイリスも、アスタロスが彼女を気にかけていることに気づいていた。
最初は警戒していたが、彼の無骨な優しさや真剣な表情を見るうちに、少しずつ心を開き始めていた。そして、彼と交わす会話が日々の慰めになっていったのだ。
ある夜、アスタロスは意を決してアイリスの元を訪れた。
彼女が夜の静寂に包まれた部屋で読書をしていると、魔王の気配を感じて顔を上げた。
「どうしたんですか、こんな夜遅くに?」
アイリスがそう問うと、アスタロスは少し照れたように視線を逸らしながら答えた。
「いや…その、治療してもらって以来、私は少しばかり…考えさせられていてな。貴女のことを…知りたいと思った」
アスタロスの真剣な眼差しに、アイリスは少し驚きながらも、優しく微笑んだ。
彼女もまた、魔王という存在が持つ威圧感とは違う、アスタロスの内面に魅了されつつあった。
「私も、少しならお話できるかもしれません。でも、魔王様が知りたいのは私のことだけでしょうか?それとも…」
アイリスが意味深な言葉を続けると、アスタロスは一瞬だけ戸惑いの色を浮かべたが、すぐに笑みを浮かべた。
「そうだな、貴女のことを知るためには、もっと自分を知ってもらう必要があるかもしれない」
二人は夜が更けるまで語り合い、互いの立場や考えについて心を開いていった。
それから、アスタロスはアイリスへの気遣いを隠さなくなり、彼女もまた、魔王としての彼に一目置くようになった。
彼らの間には、言葉にはできない不思議な信頼関係が生まれ、気づけば互いにとって欠かせない存在となっていたのだった。
アイリスの助言と戦局の変化
魔王アスタロスは連戦を続けていたが、勇者アベル率いる王国軍の猛攻により、魔王軍は徐々に劣勢に立たされていた。毎度の戦いでアスタロスが負傷を負い、アイリスのもとへ戻ってくるたび、アイリスの心は痛んだ。
魔王軍は強力だが、あまりにも直線的な戦法を好む脳筋揃い。
戦場での判断も「力で押し切る」一辺倒であるため、敵の包囲や奇襲に引っかかり、被害が増大していた。
ある夜、アスタロスがまた新たな傷を負って戻ってきたとき、アイリスは我慢できなくなった。彼がアイリスから治療魔法を受けながら、そっと口を開いた。
「魔王様、少し…戦い方を変えてみませんか?」
アスタロスが驚いた表情でアイリスを見つめる。普段、戦いに口を出さない彼女が、初めて軍略について口を開いたのだ。
「どういう意味だ、アイリス?」
アスタロスの問いに、アイリスは躊躇しつつも意を決して答えた。
「今の魔王軍は、確かに力はあります。でも、全軍が一方向に集中しているのは、逆に弱点にもなります。戦力を適切に集中し、分散させることで、敵の動きを封じることができます」
彼女は地面に簡単な地図を描き、続けた。
「このように戦力を分けて敵を包囲すれば、相手を逃がさず殲滅することができます。
彼らの前線を突破するのではなく、後方から包囲し、逃げ場を塞いでしまうんです」
その提案は、アスタロスにとって衝撃的だった。彼はしばし黙考し、やがてアイリスに向き直って頷いた。
「……なるほど。確かに、力任せの戦いでは勝てない相手もいるかもしれない」
アイリスのアドバイスを受け入れることにしたアスタロスは、次の戦いで彼女の戦略を実行に移した。兵力を少しずつ分散し、王国軍を複数の方向から包囲して、逃げ場を断つように仕掛けたのだ。
戦況は驚くほど好転した。魔王軍はこれまでとは異なる巧妙な戦いぶりで、王国軍を次々と追い詰め、王国軍の勢いは失速していった。
アスタロスが戦場で直接指揮するたび、彼の背後にアイリスの戦略があると気づく者もいたが、アイリスはあくまでその助言を「簡単なこと」と称し、表に出ることを避けた。
アスタロスは戦果に喜びつつも、心のどこかでアイリスの知恵に深い感謝を抱くようになり、彼女の存在が自分にとっていかに大きいかを再認識していた。
「アイリス…お前がいてくれてよかった」
溺愛の始まり
アスタロスにとって、アイリスとの時間は最初ただの興味から始まったものだった。
彼女はかつて敵国の聖女であり、勇者の仲間である。初めて彼女を囚われの身にしたとき、彼には彼女の力を封じ、人間への威嚇を目的に彼女を捕らえていたという純粋な戦略的意図しかなかった。
しかし、アイリスが彼の負傷を手当てしてくれるたび、その聖女のやさしさと賢さに惹かれ、次第にアスタロスの心の中で特別な感情が芽生えていった。
数日後、戦況が落ち着いたある晩。アイリスは広間に呼ばれた。
いつも以上に華美な装飾が施され、テーブルには豪華な料理が並んでいる。
アスタロスはその中央で、彼女を待っていた。
「…これは、いったい?」
アイリスが驚きながら尋ねると、アスタロスはにっこりと微笑んで彼女の手を引いた。
「これはお前のための晩餐だ、アイリス。戦場でのアドバイスをしてくれるお前に感謝の気持ちを表したくてな。今日はゆっくり楽しんでくれ」
彼のその言葉に、アイリスは戸惑いつつも席に着いた。
アスタロスは彼女に尽くすように料理を勧め、彼女がどのような食べ物を好むのか、どのような味が好きなのかを興味深げに尋ねてくる。まるで彼女のすべてを知りたいとでもいうかのように。
「私のために…ここまでしてくれるとは思いませんでした、アスタロス様」
「私がこうしていられるのは、お前のおかげだからな。人間の聖女であっても、今の私にとってお前は…」
彼は少し言葉を途切らせ、照れたように視線を逸らした。
それからというもの、アスタロスのアイリスに対する溺愛ぶりは日に日に増していった。
彼女が食べ物に困らないよう、特別に人間の国から食材を取り寄せたり、
彼女が退屈しないように魔王城の中を案内し、さまざまな魔法書や珍しい道具を
見せたりすることもあった。
彼女が驚くと、その顔を嬉しそうに眺め、時には彼女の手を取って城のバルコニーへと連れ出し、
夜空を一緒に眺めることもあった。
彼は彼女をできるだけ楽しませようと心を砕き、彼女の笑顔を引き出すことが、
いつしか自分の喜びになっていることに気づいた。
「アイリス、もしお前が望むなら、この城で…私と共に生きていってほしい」
そう静かに告げたアスタロスに、アイリスは戸惑いつつも複雑な感情を抱いていた。
彼女にとって魔王アスタロスは敵であり、これまで信じてきたものを脅かす存在だ。
だが、その優しさや誠実な態度に、彼女の心は少しずつ揺れ始めていた。
その後も、アスタロスの溺愛ぶりは続き、彼女を守るために護衛を増やしたり、
彼女の部屋に毎日花を飾るなど、数々のささやかな気遣いが彼の心からの愛情を物語っていた。
魔王の本気
その夜、アイリスが星空を眺めていると、気配を感じて振り返る前に、
そっと温かい腕が彼女の背後から回される。
「…アスタロス様…?」
不意を突かれて体が強張るが、彼の力強い抱擁はどこか安心感を伴っていて、
いつもとは違う熱を感じさせた。アスタロスは耳元で低く、穏やかな声を響かせる。
「アイリス、私がこうしてお前を後ろから抱きしめている理由が、わかるか?」
「い、いえ…」
胸の奥が高鳴るのを抑えきれず、戸惑いを隠せないアイリス。
しかし、アスタロスの腕は優しくも力強く、彼女を逃がすつもりはないとでも言うように、
しっかりと彼女を抱きしめていた。
「最初は、単なる興味だった。だが今では…お前が必要だ」
彼は静かに、だが強い決意を滲ませた口調で続ける。
「お前は私にとって…ただの聖女でも、ただの囚われ人でもない。
お前の力も、心も、すべてが私の側にあってほしい。アイリス、私の隣に立ってくれ」
その言葉は、単なる告白などではなく、魔王アスタロスが本気で彼女を愛し、
求めているという決意そのものだった。彼の腕の中でアイリスはその想いを感じ、
心が震えるのを抑えられない。
「アスタロス様…」
彼女の小さな囁きに応えるように、彼はさらに彼女を強く抱きしめ、頭をそっと彼女の肩に乗せる。
「私には、もうお前を手放せない。お前さえ望むのなら、私はお前のためにこのすべてを捧げよう」
その言葉に込められた情熱と誠実さに、アイリスの心は大きく揺れ、思わず目を閉じた。
魔王様と聖女様、お幸せに
激しい戦いの中で互いを支え、そして理解し合った二人の心には、
いつの間にか深い絆が芽生えていた。
ある日の夕暮れ、アスタロスは城の庭でアイリスをそっと手招きした。
彼の表情には、以前には見られなかった柔らかい微笑みが浮かんでいる。
アイリスが近づくと、彼はためらうことなくその手を取った。
「アイリス、私の隣で生きてくれるか?」
その問いかけは、彼の心からの願いだった。
魔王としての傲慢さや強さではなく、ただ彼の純粋な想いが込められていた。
アイリスは少し驚いたが、深く頷くと、静かに微笑んで彼に答えた。
「はい、アスタロス様。私もあなたと共に歩んでいきます」
二人の間に生まれたこの約束は、互いを守り、そして共に未来を築いていく誓いとなった。
魔王としての宿命、聖女としての使命を乗り越えた二人は、
もう離れることはないと決めたのだった。
「アイリス、これからは、お前が私のすべてだ」
そう囁く彼の言葉に、アイリスは優しく微笑みを返し、そっと彼の手を握り返す。
魔王アスタロスと聖女アイリス。二人が手を取り合い歩む未来は、
誰にも壊すことのできない絆で彩られていた。
――お二人が、どうかお幸せでありますように。
――お二人が、どうかお幸せでありますように。
両国の今後がどうなるのだろう・・・・・