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白の保健室

作者: 柏木桜餅

 都内にある私立高校、その中の僅か六十平方メートル程度の保健室が私の職場だった。養護教諭の仕事は多岐に渡る。生徒の怪我や疾病の応急処置に始まり、在学生の心身の健康を維持するための環境衛生検査や管理、教育など、やるべきこと、やらなければならないことは多くある。一般的な教諭とは違い通常授業がない代わりに生徒の苦悩を聞き、時にはカウンセリングの真似事をしたりすることもあった。そうした仕事の合間に現れる問題児の相手もまた私の仕事の一つである。授業開始を知らせるチャイムが鳴ってほどなくした頃、私の牙城とも呼べる保健室のドアが静かに開いた。以前勤務していた中学校は築年数が経っているせいで建て付けが悪くドアの開閉のたびに不快な金属音が鳴ったものだが、私立というだけありそうした環境の管理はなされているのがこの高校のいいところだ。健全な精神は健全な肉体に宿り、健全な肉体は健全な環境によってもたらされる。それが我が校の理事長の方針だった。ドアの向こうから現れた青年はいつものように気軽に手をあげ「ナベちゃんオハヨー」と声をかけてくる。最も多く保健室に通ったことを表彰する機会があるとすれば、その金メダルは恐らく彼に与えられることだろう。


「おはよう白崎くん。渡辺先生と呼びましょうね」


 私もいつものように訂正した。

 学級を持たない私のような教諭に気軽に話しかけてくれるのは嬉しいし、そうした他愛ないコミュニケーションによって生徒からの相談事がスムーズに進むケースも少なくはないので、私自身はナベちゃんと呼ばれようが名前を呼び捨てにされようが何ら困りはしないのだが、しかし社会人としての振る舞いを先に立ち示すのもまた教諭の役目である。手にしていた水質検査計画表を机に置き、何を言われるよりも先に我が物顔で椅子に腰掛ける白崎くんの元へとOAチェアを滑らせた。


「今日はどうかしたの? またサボりかな」


「サボりじゃないしーナベちゃんヒド! 頭痛いからさー、ちゃーんと岡本センセーに言って保健室に来たんだよ」


 えへへ、と笑う様子からは頭痛に苛まれている気配はない。しかし本当にサボりだった昨日とは違い今日はどことなく顔色が悪いようにも見えるため実際に何かしらの体調不良は抱えているのかもしれない。白崎智慧くん。地元のお寺の息子である二年生の彼は、入学当初から所謂問題児だった。響きが女性的だからと名前で呼ばれるのを嫌う彼は、それでもクラスメイトからはシロと呼ばれそれなりに慕われているものの、巻き起こる問題の渦中にいることが少なくない。よくある不良少年のように素行が悪いというわけではないし悪い噂が絶えないということもない普通の青年。私の目にはそう映るのだが、良くも悪くも人目を気にしない言動が目立ってしまい、上級生にも教師にも目を付けられてしまう、そんな生徒である。一年生のときには如何にも大人しそうな見た目だったのに、二年生になってからは思い切って髪を金色に染めてしまった。理由を聞けば、曰く「周りの評価に合わせただけだよ」とのことだが、その言葉の本心は私には分からない。彼はこの保健室に来る頻度に比べて自分の話をすることが少ないためその真意を今ひとつ掴めていないのである。私の顔を見て笑う白崎くんの視線が閉められた窓へと移動した。涼しげな目元が何度か瞬きをしたかと思うと、彼は驚いたような声音で「またいるね」と声をあげた。


「また?」


「また。ほら、白猫。昨日もそこにいたよ」


 白崎くんの指し示す指を目で追い窓を見るがそこには白猫どころか何もいない。窓の向こうでは昨日と同じく青々と茂ったけやきの木が風に揺られているのが見えるばかりだ。昨日の夜に降っていた雨は今朝にはあがり、今は鈍色の雲を風が押し流し晴天が覗き始めている。昼過ぎにはきっと気温が上がることだろう。


「私には何も見えないよ、白崎くん」


「んー。ナベちゃんってマジで鈍感なんだね」


 これが彼が浮いてしまう理由の一つだと、彼の担任を受け持つ羽地先生が言っていたのを思い出す。霊がいると言われて信じるか信じないか、それは人それぞれ自由ではあるし、お寺のご子息である彼にそうした能力があると言われれば思わず納得してしまいそうになる。しかし私のような仕事をしている人間はまず生徒の心の病を疑わなければならない。見えないものを見えると言い他人の気を引く言動は、強いストレスによる防衛機制の場合も多い。そうした可能性を鑑みて、生徒が出す小さなサインを見逃さないよう動向を注視する必要がある。全てを救えるばかりではないことは勿論知っている。でも出来る限りのことはしたかった。それは昔から一貫して私の信念と呼べるものである。

 顔を白崎くんに向け直すと彼はまだ窓の向こうの何かを見ることに集中しているようだった。じっと一点を見つめ何かを考えるように口を注ぐんでいる。先日染め直したばかりだという金髪はLEDの光を浴びて根元までがキラキラと輝き少し眩しいくらいだ。鼻筋の通った綺麗な横顔だった。この部屋に足を運ぶ女生徒からの人気も高く、同世代の女子から見る彼はミステリアスで自由で、いかにも魅力的に見えるらしい。大人である私から見る彼は幼く脆く年相応といったものなので、立場が違えば見える世界も違うということなのだろう。白崎くんが視線も寄越さずに口を開いた。


「ナベちゃんはさー、引き付ける才能あるんだよ」


「才能?」


「そ。分かりやすく言うと、あいつらに気に入られやすいの。ナベちゃん優しいから、それが分かんだろうね」


「ん……? 幽霊に、ってことかな?」


 あいつらとは何を指すのか分からず問えば、彼は「うーん」と曖昧な色を含ませて唸った。


「まあ、そんな感じ。幽霊っていうか、魂? 俺もあんまよく分かんないけど。そういうのうちの親父のが詳しいから、今度ちゃんと聞いとくよ」


「……うん。お願いしようかな」


 家庭環境に難があるという話は今のところ聞いていない。羽地先生による家庭訪問でも目立った治安の悪さや家庭内にある歪みのようなものはなかったというから、そうしたことが原因ではないのかもしれない。窓の外に向けて小さく手を振る白崎くんは口元に微かな笑みを浮かべ、それから私の方へと向き直った。いつものように人懐こい笑顔でエヘヘと笑い、右手で自らの後頭部を撫でつける。


「こういうこと言うとさー、引かれちゃうんだよね。だからあんま言わないようにしてんだけど、また言っちゃった。みんなにはナイショにしてね、ナベちゃん」


 うん、と私は頷く。こうして見ると彼は子供だった。私の弟がまだ十歳やそこらだったとき、確かこうして内緒話をされたような気もする。大人になってからは顔を合わせる機会もめっきり減ってしまったが今頃は郊外の一軒家で妻子と仲良くやっていることだろう。

 私は椅子から腰を上げ、今週はまだ誰も使用していない簡易ベッドのカーテンを引いた。一応彼は体調不良でここに来ているのだし形だけでもひとまずは休ませていこうという配慮である。顔色が悪いのだって気になる。ベッドの上の掛け布団をめくる。


「一応熱を測ろうか。準備するからベッドに横になってていいよ」


「はーい」


 大人しく返事をして白崎くんはベッドへと移動した。上靴を脱ぎ、ベッドに腰をかける。その様子を尻目に私は棚の前へと移動した。体温を測ったらその結果と共に羽地先生に連絡を入れ、仮に熱があればご家庭に電話し迎えに来てもらう必要がある。その時に少し白崎くんの話を伺えればいいのだが、本人のいる前ではそれも難しいだろうか。ふと棚の引き戸にはめ込まれたガラスに目をやると、白崎くんの姿が反射してそこに映っていることに気がついた。彼は顔を伏せ、自分の足元を眺めているようだ。ベッドにほど近い床には一匹の猫が座っている。思わず私の口から「えっ」と声が漏れた。一体どこから猫が入り込んだのか。アーモンド型の大きな目と視線が合ったような気がして振り返る。座ったままの白崎くんがこちらを見ていた。その足元にはもちろん猫などいない。窓を開けていないこの保健室に、野良猫が忍び込むルートはないのだからそれは当然のことだろう。


「やっぱナベちゃん才能あるよ。すげー懐かれてるじゃん」


 白崎くんは笑いながらそう言った。何に対して言っているのか、科学的に証明がなされたことだけを根拠としてアウトプットをしなければならない私は何と答えればいいか決めあぐね、口籠ったあと、いつもと同じ口調を意識して「病人は寝てなさい」と言った。窓の外では青い葉に覆われた小枝が小さく揺れていた。

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