13 逃亡
ジョナは湯場から逃げ出すと、王女の居室に逃げ帰った。ジュラメッサジュニアは、ジョナが部屋にこもった様子を見届けていた。
「スラーバ陛下、ジョナは顔を赤くしながら王女の居室に逃げ帰りました。今は王女の居室にこもっています」
「そうか、ジュニア、奴を閉じ込めてしまえ」
スラーバはそう言うと湯船へと出かけることにし、彼の姿はジョナそっくりに変わっていた。
「いいか、あいつを王女の居室から出すな」
「わかりました、陛下。ところでその御姿は?」
「そう、この姿はどこから見てもジョナだろう? そうか、ジュニア、お前はこの術を初めて見るのか。火炎族に伝わる先史人類の技、今の人類に私の姿を私の思い通りに見せる技だぞ」
「私も火炎族ですが、そんな技を見たことも聞いたこともないです」
「そうだろうな。この技はトンガの谷の底で学んだ先史人類の技だ。火炎族であれば、お前も習得できる可能性があるぞ」
「私など滅相もない。御戯れを。私は単なる側近です。すべては陛下のご随意のままに動く存在です」
「そうか。それならば、これから私のやることを、そこで見て楽しんでおれ」
スラーバはジョナの姿を模してアンヘルの湯場へと入って行った。
「あれ、ジョナ。戻ってきたの?」
アンヘルは、ジョナの姿がスラーバの幻影であることに気づいていなかった。
「え、なんでそんなにじろじろ見ているの。さっきまでの態度とはずいぶん違うわね。なんだか視線がいやらしくなったみたい」
アンヘルがそう言うと、ジョナの姿が一瞬揺らいだ。
「そ、そうか」
ジョナの姿はそう言うと、アンヘルの近くにゆっくりと近づいていた。
「あんた、急にどうしたの。まだ入浴中の私にわざわざ近づいてくるなんて。そんな勇気があったなら、なぜ先ほどは逃げ出したの?」
「それは、王女が一緒だったから」
スラーバは正体がばれないように短く答えた。アンヘルはまだ相手の正体には気づいていなかった。
「王女殿下、お部屋にお戻りになってね」
アンヘルがナデジダ王女に部屋に戻るように言った。すると、ナデジダはアンヘルを驚かせる返事をした。
「パパが来たから、ね」
「え?」
アンヘルが驚いている間もなく、ナデジダは部屋へ駆けて帰ってしまった。アンヘルはナデジダが「パパ」と呼んだジョナの姿へ体を向け、無意識に裸身の胸と腰の正面を両腕で隠す格好を取った。
「パパって、王女があんたをそう呼ぶようになったの?」
そう問いかけられたジョナの姿は、無言のままアンヘルに迫っていった。アンヘルは迫る相手の異様な様子をやっと意識した。
「あんた、誰なの?」
「ジョナ、だ」
その短い機械的な答え方が、一瞬アンヘルを安心させた。
「なんだ、緊張しているのね」
アンヘルはそう言うと両手をジョナの影に向けて広げた。だが、そのあとのジョナの影の行動は、アンヘルの予想とは違い、あまりに直接的だった。
「この感触は、やはり若さかね。ナデジダが慕うほどの豊かさだよ」
この言葉と意味、揺らいだ光学的な影、さらに揉みしだく両手によって、アンヘルはやっと相手が誰かを悟った。アンヘルは喘ぎ抵抗しながら、声をやっと上げることが出来ていた。
「ま、まさか。ス......スラーバ陛下。なぜ......こんなことを。あ、......許されない行為です。ジョナが怒ります」
「ほう、ジョナが怒るだと。ジョナは閉じ込めてある。ここには誰も来られないさ」
そう言われたアンヘルは心の中で助けを求めたが、それはかなうはずもなかった。相手は第二夫君陛下であるだけに、助けが来るはずもなかった。
「やめて......」
「ほう、それが人に乞う態度か」
「やめてください。陛下」
「ほう、よい心構えだ。それだけの心構えがあるということだな」
「では、陛下、お許しを」
「いや、ダメだね。ここは誰も来ない。ここで私とお前だけの空間だ。おっと、逃げられないよ」
アンヘルは隙を見て逃げようとしたが、陛下の左腕によって両手を後ろ手にされ、背中から抑えられてしまった。
「いや!」
アンヘルはそう言うと諦めたように目を閉じた。
・・・・・・・・
王女は居室に一人で戻ってきた。様子がおかしい。ジョナはそう感じた。
「ナデジダ王女、なぜおひとりでお戻りになったのですか?」
「パパが来たからよ」
「パパが湯場に入ったから? どういうことなんだか?」
「パパとアンヘルとが、これからあそこで互いにお姿をおさらしになるのでしょ? ちょっと前に、アンヘルが教えてくれたわ。ジョナがアンヘルと互いに真の姿をさらし合ったことがあるって。それが互いの信頼を深めたって」
「なんだよ。それ?」
ジョナは幼いナデジダからの指摘で赤面をした。だが、次の瞬間冷や汗をかき始めながら独り言ちた。
「陛下はアンヘルと会ったばかりだ。それが信頼を深めるというのは、段階がいきなりすぎる」
「それは私にはわからないわ」
王女はそう言うと、外の風景と自分の遊びに夢中になっていた。
「おかしい、陛下が何を求めて? まさか」
ジョナは王女の部屋を抜け出そうとすると、扉の鍵が締められており、また、周囲は監視が厳しそうだった。外へ出る策を考えて居室の窓を開けると、階上からアンヘルの悲鳴が聞こえた。ナデジダもそれに気づいたようで、不安そうな顔をしてジョナを見つめた。
「ナデジダ王女殿下。外の様子がおかしい」
「アンヘルが助けを求めているのね。でも、パパがいるはずなのに」
ジョナはアンヘルがスラーバ陛下に襲われていることを想像したのだが、それをナデジダ王女に言うわけにはいかなかった。
「殿下、ここで待っていてください。アンヘルを助けたら必ず迎えに来ます」
「気を付けて。前のパパは怖くないのに、やっとまた会えたパパは怖い人になっているの。もしかしたら、一緒にいちゃいけない人よ。だから、パパが怖い人になってたら、逃げて。でも、パパが普通の人に戻っていたら、パパも助けてあげて」
ナデジダのこの指摘はジョナを驚かせた。ナデジダにとっても、再会後のスラーバ陛下が何か怪物のように感じられる存在なのだろうか。
ジョナは居室の窓から車両の屋根へと這い上がっていった。その王家車両は涙滴型であったため、後ろ側から頂上の湯場へと這い上がっていくのは容易かった。そして、ふたたびジョナの耳にアンヘルのあきらめの悲鳴が聞こえた。その途端、ジョナは屋根までの残りの距離を一気に駆けあがっていた。
「アンヘル。そしてお前は誰だ」
「ジョナ、だめ。この方はスラーバ陛下よ」
「スラーバ陛下、だと?」
ジョナは目の前にジョナ自身の姿を見せている人影に戸惑った。目の前のジョナの姿をしたスラーバは片手で縛り上げたアンヘルを固定し、他方の片手でアンヘルを愛撫していた。だが、ジョナは、その人影の中に隠れているスラーバの姿を見出した時、思わず怒りに震えて独り言ちた。
「アンヘルを汚すその不潔なる手、ゆるせぬ」
「許せなかったらどうするのかね?」
「陛下、という尊称をもう使うまい。その不潔な手をアンヘルに触れるな。不潔なる者スラーバ」
「ほお、ここから無事に逃げようというのか」
スラーバはそう言うと同時に指輪のガーネットを光らせた。スラーバは一瞬ジョナを模した姿を消し去り、火炎族の姿を垣間見せた。次の瞬間彼の姿は木精族スラーバの姿に戻っていた。「スラーバ、お前は火炎族なのか? それとも詛読巫の王家の末裔か?」
「ほほう、その名をなぜ知っている? だが、私は違うぞ」
ジョナはその答えを聞いていることはできなかった。それは、ジョナめがけて各種の武器、剣と槍が殺到してきたからだった。
「これは古代の渦動結界の技 霊剣操だろうか。ならばその核心たる太極さえ処理すれば」
ジョナはそう悟ると空刀と真刀とを出現させ、渦動結界の中心にいたスラーバに襲い掛かった。ジョナはそのままスラーバの指輪を奪い、アンヘルを縛り上げていた縄を取り上げてスラーバを縛り上げ、そのうえで猿轡をはめた。
「ナデジダ王女の父親ということだけで、あんたの命は奪わない。だが、僕たちを追ってこないほうがいいと思うよ」
ジョナはそう言うと、アンヘルを背負いながら縄を伝って王女の居室の窓まで下りて行った。
「ナデジダ王女殿下、アンヘルを取り戻してきました。僕たちはここに居る悪い奴から逃げなければならないのです」
「アンヘル、私を置いていかないで」
「でも、御父上がいらっしゃるではないですか」
「あの父は、本当の父ではないかもしれないわ。あの人は本当は怖い怪物よ......あの人が悪い人のボスなのかもしれない......」
ナデジダ王女のその指摘は思わぬ言葉だった。ジョナはそう小さく答えたナデジダ王女を抱え、そのまま車両から離脱していった。
しばらくたち、スラーバはようやく救い出された。そして怒りに燃えた彼は、ナデジダ王女まで連れて逃げられたことを知り、しばらく戸惑っていた。だが、われに返ると怒りに震え、全軍にジョナたち三人を捕捉するように指示を出した。だが、それは黒軍全体に混乱をもたらすだけだった。
「おのれ、やつらは王女まで奪っていったのか。だが、それならば彼らは王国の中で動くだけじゃ。それを捕まえればよいことじゃ」
スラーバはそういうと、ようやくジョナたちの捜索の手を緩めさせたのだった。