30話
世界が崩壊する音が聞こえた気がした。
全てが真っ白に塗りつぶされていって、あとは何も残らなかった。
誰かの願いでこうなった。願望だ。誰の願望だろう。
——俺? まさか。
小さい頃、母さんが死んだ。特撮や、ファンタジーやSFなんかが好きだった。
人と話すのが怖かった。バイクに乗って、旅をするのが好きだった。
気づけば、殺風景な教室に立っていた。高校の教室だ。乱雑に掲示物が貼られていて、それとは対照的に整然と机が並んでいる。
一人、少女が座っていた。それ以外誰もいない。
燃えるような赤い髪の少女は、高校の制服に身を包んでいた。
「アンタ、ようやく気付いたのね」
それから「本当にバカね」と呟いた。
場面が切り替わる。
幼い頃遊んだ覚えのある公園だった。
ぐちゃぐちゃに踏み潰されたように荒れ果てていて、酷く寂寥感を感じさせた。
そこにもまた、赤毛の少女がいた。
「夢は所詮夢。目覚める時が来た」
零したのは、俺か少女か。
遠くに、巨大な人影が見えた。
そして、気づけばまた俺は別の場所に立っていた。
見覚えのあるそこは、俺たちが一番よく使っていた場所で——俺は唐突に首を絞められた。
少女の手でグッと絞められる。手の先を辿れば、先程の赤毛の少女がいて。
怒っているような、泣きそうな、寂しそうな、吐きそうな、なんて言うのか、俺の語彙力では正確に言い表すことができないけれど、強いて言うなら、そう——絶望しているような顔をしていて。
少女が首を絞めている手に力を込める。俺は苦しくて声を漏らした。
少女が俺の顔を見る。目と目が合って、少女が口を開いた。
「アンタがあたしのモノにならないなら——」
少女の目の淵から雫が一滴、こぼれ落ちた。
視界が滲んでいくのは苦しさからか、俺の目にも少女と同じものがあるのか。
「あたしはなにもいらない」
俺はそんなこともわからないまま、少女はその言葉を口にした。
赤や、白や、紫の花弁が散っていくのが見えて。
世界が崩壊する音が聞こえた気がした。
平凡な家の出だったと思う。父はサラリーマンで、中小企業に勤める営業だった。母は幼い頃に亡くなっていて、あまり思い出がない。まだ小さかった俺を父は男手一つで育ててくれた。
人と話すのが苦手だった。人見知りを拗らせたかのようだった。
他人が何を考えているのかわからなかった。その時々によって言うことが変わるのが理解できなかった。おそらく全て本当のことを言ってるのだろう。その時によってその人の考えが違うだけで。
一人でいることが普通だった。でも一人でいることが好きなわけではなかった。いつも人に飢えていた。他者との繋がりが欲しかった。それができる人が羨ましかった。
自分のことを出来損ないだと思ったこともある。でもそれは自分を育ててくれた父に失礼だから、そういう考えはなるべく持たないようにした。
普通の人がどういう考えで、どういう生活をしているのかがわからなかった。普通とは何だろうと考えた。
普通の人がわからなかったから、普通の人のフリをした。いつしかそれは人間のフリに変わっていった。俺は人間のフリをしていた。
人間のフリをしているのなら、人間のフリをやめた俺は一体何なんだ? 人間ではないのか? 人間ではないのなら、化物の類か? 見た目は人間なのに?
俺は他人のこともわからなかったが、自分のこともわからなかった。
「あんたは、あんたでしょ」
俺にそう言ってくれる人がいた。
一際目立つ赤い髪を靡かせて、いつも勝ち気な表情を崩さない彼女は、俺にとって唯一の他人ではない人だった。他者との繋がりだった。
「人間のフリ? バカね」
彼女は笑って、俺の悩みを吹き飛ばした。
「みんなそんなもんよ。誰だって誰かから見た自分を意識して、それに沿うように生きてるわ。要するに、みんな誰かから見た誰かのフリして生きてんのよ」
もちろん、あたしもね。そう言って朗らかに笑う彼女が印象的だった。
バイクで走るのが好きだった。一人でバイクに跨って走るのは、頭を空っぽにできて、嫌なことを全て忘れられた。
休日にはいつもバイクに乗っていた。山を走ったり、海沿いを走ったり。春夏秋冬、いろいろな表情を見せる自然を走った。
一人で走っていたのが、いつの間にか後ろに彼女が乗るようになった。一人で見ていた景色を、二人で見るようになった。
俺は、日本に生きた普通の人間だった。
大学二年の夏だった。
年々暑くなる夏は、今年も最高気温を更新して、熱中症で病院に運び込まれる人が毎日ニュースになっていた。
俺は大学近くのアパートを借りて一人で暮らしていた。学費は奨学金と父からの振り込みで賄って、家賃その他の生活費は自分でバイトをして稼いでいた。いわゆる苦学生というやつだったのかもしれない。
父に迷惑はかけたくなかった。本当は大学に行かずに、高校を卒業したら働こうと思っていた。でも、高校受験の時に、父に大学には必ず行っておいた方がいい、金は何とかするから心配するな、と口酸っぱく言われて、俺は普通科の高校に進学した。
頭の出来がそんなに良くなかった俺は、高校でそれなりに頑張って勉強して、今の大学に進学した。
将来やりたいことがあったわけではない。でも父に苦労してほしくなかったから、安定した公務員になるのがいいかもしれないとは思っていた。
そんな大学二年の夏、とあるニュースが全国を騒がせていた。俺も気になってテレビのニュースやネットのSNS、掲示板などを覗き込んで情報を集めていた。
岡山県の山の中に、巨大な穴が突然開いた。
原因は不明。穴の深さも不明。面積は、何だったか日本の湖の中で五番目くらいに大きい湖と同じくらいと言っていた気がする。
山が陥没したのかと思われていたが、穴の開き方が明らかにおかしい。そこだけまるで最初から何もなかったかのように切り取られていて、淵からほぼ垂直に穴が開いている。
今は警察と自衛隊が協力して封鎖しているが、連日報道陣や野次馬が詰めかけていててんやわんやの有様だ。
あまりの大穴に気流が下方に流れ込んでいて、穴の上空は飛行機やヘリコプターは危険で飛ばせないらしい。
一体何が起こったのか、どんなことが原因なのか、ワイドショーで自称専門家が好き勝手なことを言っているが、どれも要領を得ないことばかりだ。
もちろん俺にも原因なんてわからない。物珍しさから調べているだけだ。
幸い穴が開いたところは民家がなく、人的被害は無かったらしい。
今のところ穴から何かが出てきたとかいうこともないし、まあせいぜいさっきも言った通り飛行機とかヘリコプターが上空を通れなくなったくらいだろう。
だが、突然の出来事だ。岡山でだけ起こったのか、これから同様のことが他の地域でも起こらない保証はないのではないか。ネットには嘘か真か次は東京に大穴が開くとか、静岡に開くとか、根拠もない噂が飛び交っている。
そんな大穴の情報を眺めて、飽きてから近くにあった漫画を手に取った。少年漫画だったと思う。
敵として巨人が出てきて、主人公たちは協力してその巨人に立ち向かっていく。有名な少年漫画雑誌に連載されていた作品だった。
俺はその漫画を買い集めていた。すごく好きだったわけでは無いが、発売日を調べて新刊を買いに行くくらいには好きだった。
そんな漫画を読んでいると、無遠慮に俺の部屋に一人の少女が入ってきた。ノックもせずに勢いよくドアを開けたのは俺の幼なじみだ。赤い髪を靡かせて部屋に入って来ると、そのままズカズカとベッドに寝転んで漫画を読んでいた俺の目の前にまでやってきた。
「大穴、見に行くわよ」
そう言って入ってきたのと同じくらい勢いよく出て行った。
大穴って、最近出来たあの大穴か? 俺もさっきまで調べてたけどさ。
……あんまり行きたくないんだよな、いい予感がしないし。
まぁでも、一度言い出したら聞かない奴だし、俺が何を言っても無駄だろう。大人しく従って早々に満足してもらうに限る。
俺は机の上に置いていたバイクの鍵を手に取ると、自分の部屋から出て行った。
先日唐突に開いたこの巨大な穴は、底の見えない深い深い穴だった。直径も何キロにも及んでいて、ここにあったはずの山が一つ丸々なくなってしまったほどだ。俺が住んでいた街のほど近いところで発生したこの未曾有の大災害は当然全国ニュースとなって騒がれて、海外からも調査団が派遣されて連日連夜の大騒ぎだった。
バイクから降りてそんな穴の淵まで近づいていく。当然周りは立ち入り禁止処置がされていて、全面封鎖されてはいるのだが、いかんせん広すぎるせいでその全ての面をカバーできているわけではない。俺たちは割と簡単に立ち入り禁止のテープを越えることができていた。
「ニュースで言ってた通り、底の方は何も見えないわね」
「そうだな。……落ちるなよ?」
「落ちるわけないじゃない、小学生じゃあるまいし」
そう言いながら穴の淵ギリギリまで近づいていく彼女に、俺は一抹の不安を覚えた。あまりその穴に近づくのはよくない気がしていた。
「……何にも見えないし、帰ろうぜ。見つかって怒られるのも面白くないし」
「もうちょっと近くで見ててもいいじゃない。どうせ誰もいないし、見つかりっこないわよ」
何も見えない穴の何がそんなに気になるのだろうか。
警察や自衛隊の人が近くにいないとはいえ、巡回はしてるはずだ。遠くない時間にここのあたりも通るだろう。
そもそも、専門家でも何でもない俺たちが穴を見たところで、何がわかるわけでもない。調査に来ている自称ではない専門家の人たちもいるのだから、その人たちに任せて俺たちはいつも通りに生活するべきだ。
そう思った矢先、彼女がバランスを崩した。穴の淵が欠けたのだ。
「あっ——」
まるでスローモーションのように、ゆっくり穴の方へ倒れていく。俺は考えるまもなく駆け出して、彼女の腕を掴んだ。
だが、人間一人の体重は、なんの準備もなく咄嗟に支えられるほど軽くはなかった。
俺と彼女は、一緒に穴の中へと落ちていった。
このまま死ぬのか、と思った。
大穴に落ちて、地面に叩きつけられてそのままぐちゃぐちゃになって死ぬのか、と。
せめて彼女だけでもどうにかしたかった。俺の命は別にどうでもよかった。彼女だけはどうにかして助かって欲しかった。
でも俺には何も出来ない。穴から落ちていくだけだ。
「……ごめん」
落ちながら、彼女が謝ってきた。
咄嗟に掴んで、そのまま抱き抱えた彼女は俺の腕の中にいた。
「何が」
「あんたの言った通り、淵に近づかなければよかった」
「今更だな」
会話をしながら、俺は必死に考えていた。
どうしたら彼女を助けられる? どうしたらいい? 何ができる?
必死に頭を働かせても、そんなアイデアは出てこない。当たり前だ。俺はただの人間で、化け物でも何でもないのだ。穴から落ちたら、そのまま落ち続けるしかない。
「まぁ、あんたと一緒に死ぬなら、それも案外悪くないかもね」
「……そうか」
彼女は諦めたように笑った。俺は諦められなかった。
俺に力があれば。俺に願いを叶える力があれば、彼女だけでもここから出すことができるのに。
俺は彼女を強く抱きしめた。少しでもどうにかしたくて、俺が落下のクッションになれば彼女を助けられるかな、なんてあり得もしない可能性に縋って。
「何か見えてきたわね」
「……黒い球体?」
穴の下の方に、それはあった。
かろうじて届く太陽の光を飲み込んでしまう、真っ黒の球体。世界で一番黒い物質と呼ばれてテレビで紹介されていたものより、なおも黒く見える。不気味な球体だ。
「あれに叩きつけられて死ぬのね」
ぽつりと彼女が呟いた。体が震えていた。
彼女が死ぬ。そんなことがあっていいのか。寿命で死ぬならともかく、こんな誰も見ていないところで、俺なんかと一緒に死んでいいのか。
そんなことあってはならないと思う。強く思う。
けれども、俺にはどうすることもできなくて。
「……ごめん」
今度口にしたのは俺で。
彼女は微笑んで。
俺たちは黒い球体に落下した。




