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手記2

 レネの住む村から私の住む街までは、馬車を乗り継いで丸一日程の距離しかない。

 だが、そのたかが丸一日程の距離でも景色や風習は大きく様変わりするもので、毎回村から街に戻ると舗装された道と、行き交う人々と馬車の多さには驚かされるものだ。

 街の喧騒もどこか遠く、ぼんやりと馬車の中で買い付けた糸を眺めていると、不規則な石畳の上を跳ねる車輪の、腹の底に響く音と振動が一段と大きくなった様な気がする。

 きっと街の大通りに出たのだろう。

 あそこは人通りが最も多いせいか、石畳の磨耗が他よりも激しく、馬車で移動するとこうして酷く揺れるのだ。

 案の定窓の外に視線を向ければ見れば、そこは良く知った大通り。

 だがタイミングが悪かった。

 たまたま視線を向けた先に、得意先の令嬢が日傘を差し、従者を引き連れすました顔で買い物をしていたのだ。

 私がそれに気付いた時には彼女は朗らかな笑顔で会釈をし、従者に私の乗っている馬車を止めさせ静々と近づいて来ていた。


「御機嫌ようヘイスター様。今日は納品にでも行ってらしたのですか? 丁度私もそろそろ新しい物をお願いしようと思っていたところですの」


 彼女が近づいてくると貴族特有の鼻につく香水の香りが馬車の中に広がった。

 街中に居てもこれだけ香るのだ、屋敷の中はさぞお花畑だろう。

 蝶もそう勘違いしたのか、一匹の真っ白い蝶がエレノアの周りを優雅に飛び回っている。


「これはこれはエレノア様。香水は新作ですかな? とても良い香りで……良くお似合いです。今日は納品では無く、今年初物の糸を買い付けに行っていたのですよ」


 馬車の扉を開け手を差し伸べると、エレノアは私の手を取り向かいの席に腰掛けた。

 エスコートした際に軽く触れただけだが、エレノアのしている手袋は相当上質な生地の物のようだ。

 それに近くで見てみれば、手袋と同じく纏っている淡い緑色のドレスも相当上等な物のらしい。

 安物特有の不快な触り心地や衣擦れの音は無く、ここで私がその素材は雲か綿かと尋ねてみたら喜ぶかもしれない。


「ふふふ。ヘイスター様は刺繍の事以外は本当に疎いのですね。この香りは香水ではなくってよ? これは髪につけるオイルの香りですわ」

「髪のオイル! ははあ、それでですか。髪が輝いておられるのは」


 そんな贅沢な物が今貴族の間で流行っているのだろうか。

 確かに髪全体に艶があり、毛先まで潤いに満ちているように見える。

 エレノアはその言葉に満足したのか、手を伸ばし私の隣に置いてある籠の中の生糸の一つを手に取り、光にかざすようにしげしげと眺め始めた。


「あの村の糸は相変わらず美しいですわね」


 レネ達に是非聞かせてやりたい言葉だ。

 私は直接こうして客の声を聞く事は出来るが彼らは出来ない。

 数個の生糸をそれぞれ順番に眺めたかと思うと、満足そうに元の場所に戻しつつエレノアは着けていた手袋を差し出してきた。

 無言で差し出された手袋を受け取りつつエレノアの視線を辿ると、それは生糸の籠に注がれていた。


「この手袋に刺繍をお願いしますわ。色はそうね……ゴールド。ゴールドワーク。私の髪の色に合わせた金色の、出来るだけ豪華な物が良いわ」


 ゴールドワーク。黒地の物だったらよく栄えるだろうが、依頼は純白の手袋に金の刺繍。

 今回買い付けた糸の中でも金糸は最も量が少ない。

 社交界で見せるには見栄えの良い貴重な糸を使った方が良いのだろうが、それならばもう少し吟味した素材で依頼を――いや、日常的に使う物に贅を凝らせる程財力があると見せ付ける為か。

 何にせよ手袋一組に刺繍を施す位の金糸はある。次にレネの所に行くまでの仕事としては丁度良い。


「かしこまりました。エレノア様をイメージした豪華な物に仕上げましょう。では一週間以内にはお届け出来ると思いますが、今年は金糸がこれしか手に入りませんでしたので、通常より少し割高になるかと思われます」


 十分理解しての事だとは思うが、念の為確認をしてみれば案の定、エレノアはそれでも構わないと嬉しそうに笑みを深めた。

 その後エレノアはそのまま馬車で送って行こうかと言う私の申し出は断り、幾つか刺繍のモチーフにしたい物を羅列し世間話をした後、従者を連れ街中に姿を消して行った。

 

 何度やっても満足な結果にならない。

 耳が痛い程の静寂の中響く針を刺す音と糸が抜ける音。

 それと苛立った自分の溜息。

 針山に針を突き刺し、気持ちを落ちつかせる為コーヒーでも飲もうとかと立ち上がったが、その立ち上がった勢いで椅子を倒してしまい酷く頭を抱える結果になった。

 家に戻って半日。

 それ程大した内容の仕事では無いと踏んでいた為、昼頃家に着くなり妻と娘に家族サービスをし、仕事を始めたのは随分夜も更けてからだった。

 妻が寝る前に用意してくれたコーヒーをカップに注ぎ、今し方作業台に投げ置いた試し縫い用の布に視線を向けながらコーヒーを口に運ぶ。

 そこには遠目から見ても、レネの家の壁を這っていた虫が布の上に乗っている様な見るも無残な切れ切れの糸が、どうにか布を貫通しているだけの、試し縫いとは言え余りにもお粗末な物が置かれていた。

 それを見てまた気が昂ってしまいついカップに歯を立ててしまう。

 今年の糸は取れ高が少ないせいか、レネ達は量産させる為普段よりも少ない量の糸をより合わせ生糸を作ったらしい。

 その為少しでも強く糸を引くと瞬く間に切れてしまい使い物にならない。

 作業台から離れたところにある椅子に崩れるように腰掛け、再びどうした物かと頭を抱える。

 以前の様に代替の糸を使用したら信用問題に関わる。

 素直に事情を話せば済む事だが、買い付けの時に糸の数ばかりに目を取られ、初歩的な強度を確認しなかったのは完全なる私の落ち度だ。

 それに納期を決めたのはエレノアでは無く私自身。

 何度か作業台に視線を向けてはカップに歯を立てる事を繰り返し、ようやく腹を括った。

 否定的に物事を考えてしまうのは私の悪い癖だ。

 一週間以内に納品すれば良いだけの話。

 今から村に行き少量でも良いからいつもの金糸を作らせさえすれば良い。

 もしそれでも間に合いそうに無かったらその時はその時だ。

 そうと決まれば話は早い。

 幸い今日村から戻って来たばかりで荷物はそのままになっている。

 数日滞在する事を考え着替えと仕事道具の針を少し、その荷物に追加すれば出かける準備は完了だ。

 使ったカップとポットを簡単に纏め、乱雑な作業台の上の荷物を刺繍箱の中に仕舞っていると、背後の扉が静かに開いた。


「あなた、こんな時間にどうなさったの?」

「ゾーイ……先に寝たんじゃなかったのか?」


 振り向けば妻のゾーイが寝衣の上に一枚ストールを羽織っただけの服装で、ランプを片手に扉の前に立っていた。

 どうやら自分では気付かなかったが、私は相当派手な音を立て作業をしていたらしい。

 ゾーイは、私が夜仕事をする事は珍しくないがここまで物音がする事は無い為、何事かと思い見に来てくれたらしい。


「今日はコーヒー豆を変えてみのだけど、口に合わなかった? あっ、それとも夜食?」


 首の横に流した長い髪を触りながら、適当に纏められたカップとポットを手に取り不安そうに質問を重ねるゾーイ。

 どうやら余計な心配をかけている様なので、私は正直に今あった事を全てを伝えた。

 話を聞いたゾーイは試し縫いをした布を手に、本当ねと一言だけこぼし、不思議そうに生糸の束をランプの光にかざしていた。


「そう言う訳で、今からまた村に行って来ようと思う。さすがにこの時間だから村まで行く馬車は無いだろうから、家のを使うよ。当分の間は外出に不便をかけ――」

「あら、駄目よあなた。明日はソーシャと買い物に行く約束をしているのでしょう? あのお姫様は最近あなたが構ってくれないって、お友達にも言っているらしいわよ」


 そう言えば昼間にそんな約束をしていたのをすっかり忘れていた。

 もしゾーイが起きて来なければ危うくソーシャとの約束をすっぽかす所だった。

 確かに最近は仕事が立て込んでいた上に今年の糸の時期が迫っていたので、妻も娘もあまり構ってやっていなかった。その穴埋めと言う訳では無いが、明日買い物にでも行こうと言い出したのは私だった。

 どうやら私は自分から約束を取り付けると全て裏目に出てしまうらしい。

 溜息をつきながら椅子に座ると、隣でゾーイが小さく笑っている。


「糸と刺繍しか興味の無いあなたも、さすがに自分で紬直しはしないものね。残念だけど、明日の夜か明後日の出発になりそうね」


 ゾーイはまだ少し笑の余韻を含んだ声色で、コーヒーの入ったカップを手渡し私の肩に手を置く。

 もうここまで来ると焦りなど無くなり、気付けば一週間先の納期などどうにでもなると思えてしまった。

 ゾーイから受けとったコーヒーを一口含めば、豆の豊かな風味が口内に広がり呼吸と共に鼻から抜けていく。普段の物よりも酸味も強い気がする。


「新しい豆良いんじゃないか? 何と言うか、深みがあって私は好きだな」

「もう、あなた……。その豆、浅煎りよ」


 もう一つのカップに口をつけていたゾーイがそう言うと、本当に残念そうな溜息をついた。

 どうやら私は本当に物事には疎いらしい。

 まさか一日のうち二回もそれを思い知らされる日が来るとは思いもしなかった。

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