デルタエル公爵家にて4-リタクリスー
氷水で濡らされたタオルが額に当てられて、心地いい冷たさにほうっと息が漏れる。瞼を押し上げれば、心配そうに眉根を寄せて枕元へ侍るナタリーの姿が見えた。
「お加減はどうですか、リタクリスお嬢様」
「だいぶん楽になりましたわ。……どれくらい眠っていたのかしら」
「まだ1時間ほどですよ。お夕食はどうなさいます?」
「紅茶とスコーンでいいわ。ここに持ってきてちょうだい」
ベッドの中でもぞもぞと体勢を変えながらそう言えば、ナタリーはわたくしに少しでも食欲がある事にほっとした様子で了承の返事をした。
「お顔の色もよくなってきて、安心しました。お部屋へ戻られたときは紙のように真っ白なお顔でしたから、私はもう心配で…」
さすがに前世の記憶が突然蘇ったせいで酔ったとは言えず、苦笑を返すしかない。ナタリーは子爵家の三女で、彼女が10歳の7年前から、行儀見習いとしてわたくしの侍女をしている。物心ついたころには傍にいて、わたくしの姉のような存在でもある。
「驚かせてごめんなさいね」
「いいえ、お嬢様が謝ることなどなにもありません! 旦那様が今日突然養女として連れ帰ったお嬢様の話は聞きました。エイドリアン様が下男たちに朝から突然お隣の空き部屋に家具を持ち込ませたりして、何事かと思っていましたが。旦那様にそっくりだそうですね……。奥様がご不在の時に、旦那様も何を考えておいでなのか」
「ナタリー、およしなさい」
「も、申し訳ありません」
わたくしが窘めると、彼女は自分の発言にはっと息を飲み、深く頭を下げた。前世では劣等感を刺激されてしまうので、アティアとはなるべく顔を合わせないようにしていたせいで、彼女が本来どういった出自なのかすら知ろうともしなかった。けれど、あれほどにお父様と似ているのだ。公爵家の血が流れていることは間違いないだろう。
デルタエル公爵家の直系は、お父様しかいない。ならば分家から引き取ったか、本当に愛人の子なのか……。
もやもやとした飲み込みがたい感情は、前世の記憶のせいなのか、今世のわたくしの感情なのか、それすらも解らない。ただ今はまだ、記憶と感情を整理していく時間が必要なのだ。冷静でなくては。そうでなくては、彼女を死の運命から救うことはできない。わたくしはもう、あれほどに深い後悔を味わいたくないのだ。
「ナタリー、お水をもらえるかしら」
「はい、ただいま」
ベッドに半身を起こすと、すさかずナタリーが背にクッションを差し入れる。トレイに乗せて差し出されたコップを手に取り、胸にわだかまる苦い思いを飲み下すようにコップの水を一気に飲み干した。喉を通り、胃の腑へ入ったとたん、待ち望んでいたかのように水分が体の隅々へへ行き渡っていくような感覚を覚える。思っていた以上に喉が渇いていたようだ。思わず深く息を漏らす。
「ふう……」
「おかわりなさいますか?」
「いいえ、もういいわ」
ナタリーが差し出したトレイにコップを置くと、部屋の扉が控えめにノックの音を立てた。ナタリーが応答に出るのを眺めていると、訪ねてきたのがメイドだと知る。その場にメイドを待たせたナタリーが、複雑そうな表情でわたくしの元へ戻ってきた。
「どうしたの?」
「それが、例のお嬢様が、リタクリスお嬢様が臥せっていると聞いてお見舞いに伺いたいとの事だそうで」
「そう……」
「……いかがいたしますか?」
「せっかくだけれど、お断りしてちょうだい」
今はまだ、彼女と向き合う勇気がない。目を伏せると、かしこまりましたとナタリーが頭を下げて離れていく気配がする。再びベッドへ横になって目を閉じると、軽い浮遊感の後にわたくしは再び半端な眠りに落ちていった。
それからどれだけの時間をまどろんでいたのか。曖昧な意識の中で、ふとわたくしの額にひんやりとした心地いい冷気を感じた。額から両目をすっぽりと覆うその感触はとても優しくて安心する。
ああ、これは水魔法を纏った誰かの手だ。そう思い至った瞬間から、そのひんやりとした手がとても温かく感じられた。
冷たいのに温かいなんて、ああ可笑しい。
そしてその優しい手はわたくしの不安も焦りも全て溶かしてしまい、すっかりと安らいだ気持ちで深く眠りに落ちたのだった。