【7.故郷の弟】
夜空を埋める星々が、東からの淡い乳白色に舞台を譲るころ。
人々の営みは始まって、やがて林の木々の間から、大地は光を受け入れる――
「アレッタ」
「んが」
「起きなさい。アレッタ」
「ん……」
寝床が藁であっても羽毛でも、目覚めが遅いのは変わらない。
右手は赤みの入った髪の上。膝が曲がって太腿が露わになった姿で子供のように眠っていた小さな王妃が、厚い右手によって起こされた。
瞼を開くと、ルシードの切り株みたいな大きな顔と、ギョロっとした眼が飛び込んでくる。
「あ……おはようございます……」
「まったく……大きくなっても、朝弱いのは相変わらずだな」
「あは」
一瞬驚くも、平静を装ったリアがゆっくりと上半身を起こすと、面目ないといった表情で、赤みの入った癖毛の上から頭を掻いた。
コンコン
突然に、扉をノックする乾いた音がやってきた。
我に返った寝起きの王妃は、ボサッとした髪の毛を左右に振って、咄嗟に隠れる場所を探した。
「……」
しかしながら、質素な生活の中には見当たらない――
「誰か?」
ルシードは、尋ねると同時に、扉を引いた時にできる死角に潜むよう、リアに視線と指先で指示をした。
察すると、王妃は寝ている間に自身で剥ぎ取った麻のシーツを手にして素早い移動を果たすと、小さく丸まってシーツを被った。
「ウィル!」
木製扉の向こうから、慣れた声。二人の緊張が緩和した。
「一人か?」
「うん」
ルシードが安堵の息を吐き出すと、ギィッと鳴きながら扉が開いた。
「おじさん!」
「どうした?」
「アレッタは?」
「……」
少年の目的は明確だ。
一途な双眸に圧されると、ルシードはスッと右手の人差し指をウィルの眼前に立ててから、右下へと徐に倒した。
「何してんの?」
示されるままに身体を伸ばし、扉の向こうで巾着袋みたいになっているリアの姿を見つけると、少年は訝しそうに尋ねた—―
「これ、アレッタにあげる!」
得意気に、両腕に抱えた麻袋を机の上に乗せると、ドカっという低音が木造の家屋に響いた。
「なんだこれ?」
麻袋に付着した黒土が、机の上に散らばった。眉尻を下げたルシードが、不思議そうに尋ねた。
「タマネギ!」
「タマネギ?」
ウィルが明るく答えると、ルシードが訊き返す。
「アレッタが、欲しいって言ってた!」
「わ。ありがとう!」
思わず立ち上がった小さな王妃が、胸の前で手を組んだ。
往路の道中で、トゥーラでは、根菜が足りないとぼやいていたのだ。
種子の分を残したら、食料はどうしたって減ってしまう――
「これ、内緒で持ってきただろ?」
「そうなの?」
断定を含んだルシードの問い掛けに、心配顔のリアが続いた。
一人暮らしのルシードに、養母であれば土の付いた食材は与えない。
「……」
ウィルは無言となって、やがて頷いた。
同年代の子供としてはむちっとした立派な体躯が、幾らか萎んだように映った。
「しょうがないな……」
ルシードは、ウィルの頭を撫でながら優しい声を渡した。
黙って持参した事実は感心しない。
しかしながら、なんとかしたいという彼なりの想いは、汲んでやりたかったのだ。
「アレッタ、ちょっと待っててくれ」
「はい」
壁に掛けられた麦わら帽子を手に取ると、ルシードは机に置かれた麻袋を右手に掴んで、ウィルを連れて出て行った――
「戻ったよ」
「おかえりなさい。上手くいったんですね」
しばらく経ってから、無邪気な声がして扉が開くと、丸太に膝を揃えて座ったリアの微笑みが、二人を出迎えた。
「お見通しか」
頬を緩めて呆れると、ルシードは被っていた麦わら帽子を外して、リアの赤みの入った髪に預けた。
「玉葱を持って行って、『先に採ってすまないが、分けてくれ』 って頼んだんですよね? ローリさんなら、全部くれると思います」
「正解だ。量が分からんでは、向こうも困るからな」
リアの才覚は、生まれ持ったものではない。
ルシードが傍らで育て上げ、日々を遊ぶ中で培われたものである。
ワルフに続いて、ロイズにアレッタ……有能な人材の輩出を、今度はウィルが担うのか?
ルシードは、聡明なる王妃に目尻を下げると、続いて眼下のウィルにも視線を注いだ――
「さて、もう行きなさい。着く頃には、日が暮れる」
「……そうですね」
促すルシードの発言に、リアが寂しそうに呟いた。
「もう、行っちゃうの?」
途端に少年が、声を高くして訴える。
「うん……ごめんね。でも、切り株までは、一緒に行こうね」
「……」
成長した男児の両肩にそっと手を置いて、リアが正面から諭すと、暫くの時間を置いてから、ウィルが小さく頷いた。
「ちょっと、外で待っててくれる?」
続いて声を渡すと、少年はテーブルに載った玉葱の入った麻袋を持ちあげて、無言のままに重い足取りで扉へと向かった。
やがて鈍い音がして、外気が入り込む。最後にはパタンと物憂げな音が届くと、静寂がやってきた。
「ルシードさん。これを……」
リアが口を開くと、赤い印が四隅に付いた、一通の文を差し出した。
「これは?」
「トゥーラが落ちる時、開けてください」
「……」
左手で受け取って、ルシードが不思議そうに尋ねると、真っ直ぐな視線が注がれた。
訪れた真の目的は、先のお礼ではないのだ――
「……分かった」
旅立ちを促すも、養父としての立場を放棄したわけではない。
瞼を閉じたルシードは、リアの覚悟を受け取った。
「お前のことだ、色々起こっても、やっていけるだろう。それでもな、総てが思うようには行かないって事だけは、忘れるなよ」
「……はい」
優秀であろうとも、経験の浅い若人は未熟に映る。
ルシードの忠告に、リアは小さく頷いた。
「恐らくは、次にスモレンスクと戦う時、分かるだろう」
「……」
どんな言葉を語っても、経験の総ては伝わらない。
もどかしいと感じても、どうにもならないものなのだ――
諦めを胸に抱きつつ、それでもルシードは予言のような言葉を送った――
「さあ、行きなさい。リア……」
ルシードは、大きな瞳を真っすぐに認めると、その名を口にした。
「はい……」
呼称の意味を、理解する。
大きな瞳には、自然と涙が溜まった。
紡がれた日々の数々が、感傷を呼び寄せた――
ついには抑えきれず、両腕をふっと差し出すと、小さな身体はルシードの胸へと飛び込んだ――
「ありがとうございました……」
数十秒の別れの儀式は、新たな覚悟を宿す、準備の時間である。
厚い胸板から、リアは名残り惜しそうに両手を離した。
「……身体にだけは、気をつけなさい」
「はい……」
俯いて、両の目尻を左手の甲で拭うと、小さな王妃は顔を上げ、努めて明るい微笑みを贈った――
「お待たせ」
静かに外で待つウィルの背後で扉が開くと、二人が姿を現した。
王妃は鍔の大きな麦わら帽子を深く被って、春の陽気なのに男物の厚手の衣服を羽織っていた。
ルシードの家屋はカルーガの東端に建っている。
人目を避ける為に林まで歩いたら、厚い上着は脱ぎ捨てて、後からルシードが拾う手筈となっていた。
「行こっか」
「……」
赤い目をしたリアが促すと、何も語らずに、少年は小さく頷いた。
「先ずは、林まで競争!」
左腕を前に伸ばして突然の高い声。王妃は過去との決別を果たすように駆け出した。
「え? 待ってよ! アレッタ!」
いきなりの号令に、ウィルの動きが思わず止まる。
「僕、玉葱あるんだよ!」
「あ、そっか」
駆け出した華奢な両足が、揃えて止まった。
「じゃあ、二人で持って行こう」
面目ないと振り向くと、右手を前に差し出して、ウィルが追い付くのを待つ事にした。
「……」
微笑ましい姉弟の後ろ姿を、ルシードは古びた扉の手前に立って、懐かしそうに見送った――
「……」
切り株までの帰り道。
麻袋の両端をそれぞれに持った二人は、無言であった。
リアにとってのウィルは、年の離れた弟のような存在だ。今生の別れという訳でもない。
明るく振る舞うには違和感を灯して、普段通りを努めた――
しかしながら、ウィルにとってのリアは、姉ではなかった。
13の階段を前にして、胸を締め付ける感情が、一歩一歩、足を刻む度に増していく。
袋の一端を持つリアの右腕が、時折り後ろに引っ張られた。
麦わら帽子を被ったお姉ちゃんはその度に、怒るでもなく、目尻の下がった憂いの瞳となって、ウィルの歩みが追いつくのを待ってあげるのだった――
「……」
5年の歳月は、思春期を迎えるには十分な時間であった。
少年から脱皮して、女という存在に、「女性」 という別の対象を生じさせるのだ。
時を経て現れた幼馴染のお姉ちゃんは、目線が同じになり、華奢だった身体が丸みを帯び、気にもしなかった唇に視線が向かう。
他の女の人とは全く違う、特別な女性へと変化した――
湧き出る戸惑いは、隠せない。
どうしたって抗えない、本能からの感情を自覚するのだ――
心が軋む原因の名称を、少年は知らなかった――
「……」
お姉ちゃんだった筈の女性の横顔に、ウィルはそっと視線を移した。
未来を真っ直ぐに見据える大きな瞳は、幼い自分を置いていこうとしている。
滑らかな乳白色の首筋と、ふわりと膨らんだ小さな胸には、自然と意識が向かう。
掴んだら折れてしまいそうな、少し汚れた五本の指には、触れたくとも、麻袋が邪魔をする――
離れたくない……
叶うことはない願いである。
それでも一途な想いだけが、少年の心を支配していた――
やがて切り株が視界に入って、別れの時がやってくる。
覚悟を決めたリアが足を止めてウィルに視線を送ると、思い切って一つを伝えた。
「ウィル、ありがとう。もう、大丈夫だから」
「……」
弟だった彼からの、返事はない。
「ウィル?」
俯いたままの少年に、リアは憂いの表情となって、様子を窺うように覗き込んだ。
「アレッタ!」
次の瞬間、高い声が放たれて、麻袋が地面に落ちて、数個の玉葱が転がった。
両腕をいっぱいに広げた少年が、リアの細い身体に抱きついたのだ。
「……」
身動きが取れない中で、お姉ちゃんは彼から溢れ出る涙を悟った――
哀愁と高揚と、複雑な感情がやってくる……
「痛いよ、ウィル……」
それでも姉であろうとする小さな身体は、彼の想いを受け止めながら、精一杯の抵抗を口にした――
「ウィル?」
「……」
時間にすれば、数分だろうか。
されるがままに身体を任せていたリアであったが、諭すように口を開くと、観念した少年は枯れ葉が枝から落ちるように腕を解いた。
お姉ちゃんの身体は、柔らかで、甘い香りがして、驚くほどに厚みが無かった――
「今日、私がここに来たことは、内緒だからね」
感傷に浸っている時間は無い。
彼の両肩に手指を掛けると、リアはしょぼくれた瞳を真っ直ぐに見据えてから、大事を伝えた。
「うん……」
気丈にも呟いて、少年が続けて口を開く。
「ルシードさんにも、言われた」
「そう……」
隣家へ向かった時に、伝えてくれたのだ。
それならば、春先の戦いの前にカルーガを訪れた事もまた、口止めをしてくれている――
リアはそれ以上は語らずに、またしても養父に感謝した。
「じゃあ。行く」
精一杯の強がりで、男の子は切り出した。
「……うん」
リアが重い心を受け止めると、少年は最後に伝えた。
「ロイズに言っといて」
「何を?」
「『アレッタを泣かすなよ!』 って」
「……うん、伝えとく……」
純真なる眼差しを大きな瞳で受け取って、お姉ちゃんは麦わら帽子の鍔に右手を添えながら、小さく頷いた――
「じゃあ、行く!」
涙声となった少年は、想いを振り払うように短い言葉を吐き出して、くるっと背中を向けて走り出した。
「またね!」
右手を口元に当てながら、小さくなる背中に向かって、リアは大きく左手を振った。
「また!」
ウィルが立ち止まる。振り向いて、両腕を高く掲げて大きく左右に振った。
続いて身体を翻すと、そのまま白樺の木々の向こう側へと行ってしまった――
「早速、泣かしてくれたくせに……」
リアの瞳にも、涙が浮かんでいた。
膝を落として、別れの証を右手で拭うと、転がった玉葱を静かに拾った。
「よし! 行くか!」
帰るべき場所へ――
気合を発して立ち上がる。意気を含んだ一歩を小さな王妃は踏み出した――
「リア様!」
やがて背後から蹄の音がやってきて、護衛として連れてきた、頼りない尚書の明るい声が届いた。
泊まった宿の2階から、リアが姿を見せるのを、彼はひたすら待ったのだ。
どうせ朝から動く事はなかろうと、朝風呂に浸かっていた事は内緒である――
「あれ? 何ですか、それ?」
「収穫よ」
麦わら帽子が傾いて、麻袋を抱えた王妃の大きな瞳が微笑んだ――
お読みいただきありがとうございました。
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