【50.守備線】
北側から梯子を登り、身を乗り出して城壁を越えたスモレンスクの副将は、急角度の石壁を躊躇なく滑り降りると、ついにトゥーラの城内へと足を踏み入れた。
「ブランヒルさん!」
「来たのか……」
槍を右手に持って走ってくる弟分。丸みを帯びた十代半ばにも見える童顔が、今は頼もしく思えた。
片鎌の槍を構えたままのブランヒルは、労うでもなく、ただ一言だけを呟いた。
トゥーラの美将軍と対峙していたブランヒルだったが、崩された足場と共に落下した味方を救うべく、城壁の真下に向かった。
その結果、城壁を背にした状態で敵の兵士に囲まれてしまったのだ。
そこをカプスが囲いの背後から飛び掛かり、一人の足を折って突破口を作ると、ブランヒルの右側に並び立った。
「状況は?」
「良くはないな。だいぶ、減らされた」
「……」
「後ろは、どうだ?」
「問題ありません。あと、ベインズも、すぐに来ます」
足場を崩された衝撃で、負傷した者は少なくない。
そんな中でも立ち上がり、城壁に背中を預けながらも槍を前へと向ける者。腰をやられて立ち上がる事も敵わぬが、弓を構えて戦う意思を表す者がいた。
窮地の中。なおも戦う意志が宿るのは、部下を見過ごす事無く駆け付けた副将に報いる為である。
カプスの声を耳にして、悲壮感の漂っていた兵士達の表情に、明るさが灯った。
「お節介が、過ぎるな」
「日頃、お世話になってますんでね」
口角を僅かに上げたブランヒルに、カプスは軽妙な言葉を返した。
「ん?」
「どうかしましたか?」
「そう言えば、ベインズは高いところ、駄目じゃなかったか?」
「あ……」
兄貴分の発言に、カプスの表情が停止した。
長身であるにも拘わらず、いや長身ゆえなのか。ベインズは2階の高さでも真下を見ると、脂汗が吹き出すほどの高所恐怖症であった。
梯子を登っている時は空の青だけを見ている。
しかしながら、城壁の向こうに視界が届いたら、高低差10メートルの景色が待っている。
足が竦んで目を瞑る。高所恐怖症の人間に、どうやって降りろと叫ぶのか――
「左へ、移動しましょう……」
どっしりと片鎌の槍を構える兄貴分に身体を寄せると、カプスが呟いた。
城壁を越える直前、左下にはベインズの姿が覗いた。
10メートルも左へ移動すれば、真上にベインズが姿を現して、自分達を視界に入れるだろうと踏んだのだ。
もしかしたら、恐怖に打ち克つ事ができるかもしれない――
「……分かった」
睨み合って膠着状態の続く現状は、射撃塔の二階や三階に配置された弓兵の的になる。
承諾したブランヒルは、左前方へと大きく跳ねるように一歩を踏み出すと、槍を翳して二人を囲う兵士を牽制し、次に左後方へと右足を戻した。
それを5回ほど繰り返し、戦場を左へと移動した。
(すまんな……)
しかしながら、二人の動きに付いてこれない負傷兵は置き去りとなる。
たちまちに捕らえられる仲間を見やって、ブランヒルは心の中で静かに詫びるのだった――
「城壁の上を、狙ってください!」
二人が容易に戦場を移動できたのは、ライエルがその相手をしなかった事も要因である。
勿論ブランヒルが危険人物だという事は承知をしているが、今現在の優先事項は、一人と対峙する事ではない。
侵攻を許した北側の部隊を立て直し、個々人の役割を再認識させる事なのだ――
(こんな小さな国に、あんな奴がいるとはな……)
見るからに若い。
しかし、その献身的な働きと視野の広さ、冷静な判断力は、自身の若い頃と比べても同等以上に思えた。
ブランヒルは自らを包囲する敵兵の向こう側で、槍を手にして指示をする、後でもう一度対峙することになるであろう若者に対して、最大級の評価を与えるのだった――
それは即ち、後の禍根を絶つという思いを、併せ持つという事に他ならない。
「ひぃ……」
二人の侵略者の頭上から、全く覇気の感じられない聞き覚えのある声が届いた。
「やっと来たか……ベインズ! 早く下りてこい!」
カプスが警戒しながら顎を上げると、頭上へ届けと叫んだ。
城内に降り立って、崩れそうに見えた敵陣だったが、ライエルの指示によって息を吹き返した。城壁の上に姿を見せた時点で矢羽が飛んできて、石壁を滑り降りたところで槍兵が襲ってくるのだ。
味方の数は、一向に増える気配がない。時間を浪費する余裕も無くなってきた。
数を頼りに南の城門を目指すつもりであったが、こうなっては質にも頼らざるを得ない――
「ベインズ! 支えてやる! 落ちてこい! 傾斜があるだけマシだっ!」
「は……はい……」
続いてブランヒルが声を上げると、脂汗を流したベインズは、顔面蒼白になりながら、なんとか左足を城壁の上に上げようとしていた。
言われた通り、いまさら戻る事など不可能だ。恐怖心と使命感の狭間にあって、僅かだけ、後者が勝っていた。
「……」
だが、瞼は震えて閉じたまま。
開いた瞬間に、石化する化け物を見たかのように、身体が硬直する気がした。
そう考える時点でダメなのだが、考えずにはいられないから恐怖症なのだ――
のそっと動きの遅い長身の男が、城壁の上でナメクジのようにへばりついている。
「痛え!」
当然、射撃塔の弓兵からは標的にされ、そのうちの一本が、甲冑の胴体部分に当たった。
「ぐおっ」
次なる一矢は、左足の脹脛を掠めた。すね当てのある表とは違い、裏側は甲冑で守られてはいないのだ。梯子を登る為に軽量化を図った為であり、仕方がない。
しかしながら、痛みによる怒りが、ベインズの使命感を奮い立たせた。
動けぬままで果てるより、城壁を越え、敵をぶっ倒すという強い闘志が勝った。
「くそっ」
壁と対峙した状態で滑り降りれば、見下ろす事もない。
腕力だけで身体を浮かせ、鈍い痛みが走る左足を城壁の内側へと移動させたベインズは、次に都市城壁の外側にある右足を、城壁の上へと持ち上げた。
「うおっ!」
続いて壁の上部を掴んだまま、敵に背中全部を一旦見せるも、体勢を確保するつもりだった。
しかしながら負傷した左足は、彼の重力を支えることが出来なかった。
「うわああああ!」
悲鳴を上げながら、長身の男がずるずるっと急斜面の石壁を落ちていく。
予想外の状況に、手のひらや太い腕に多数の擦り傷を作ったが、結果として早々に侵入を果たす事に成功をした。
「お……お待たせしました……」
石積みの壁に両手を付けたままの状態で、脂汗を浮かべた面長を左に向けると、ベインズは生気を戻した。
「……」
「お……おう」
カプスが丸い童顔に呆れを浮かべると、ブランヒルはとりあえず了承を伝えた――
「市中に切り込むぞ!」
「はい!」
ベインズが戦列に加わって、質の解消は果たした。
戦場を分散させる事により、集約している敵の防御網を広げる事ができる。
「城門までは、距離がある。市中に入って、東西、どちらかの背後を衝く!」
「おう!」
率いる一団は、カプスとベインズが加わって総勢10名。市中を移動するには丁度良い。
膠着状態から一転。確たる目標が定まって、彼らの士気は一気に上がった。
「声は出さん! 付いて来いよ!」
「はい!」
「はっ!」
返事があったり頷いたり、それらを確認したブランヒルは、若い敵将の位置を注視して、背中を向けた瞬間を狙って飛び出した。
「うわっ!」
「行ったぞ!」
トゥーラの兵数も、決して多くは無い。
腕に覚えのある集団が一方向を襲っては、突破されるのは必然であった。
「俺たちは、行くしかねえんだよ!」
「くそっ!」
先ずは市中に入ることが目的だ。
守備線とは言っても、一つの路地を数人で守っているに過ぎない。
転がっている砲弾という名の岩石を踏み台にして跳び上がり、防御柵を上から蹴り倒して突破口を開いたブランヒルは、片鎌の槍を振り回して市中へと足を踏み入れた――
「私が行きます!」
それに気付いたライエルは、別の路地から全速力で南の方へと駆け出した――
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