【5.王妃様の外遊①】
(前回まで)
リャザン公国の小さな要塞都市であったトゥーラは、リャザンの重臣ワルフの画策によって独立を果たした。
決して望んだわけではなかったが、ロイズは国王となり、伴侶のリアは王妃となった――
トゥーラの独立を城下に宣言してから数日後。
緩やかな春の木漏れ日の中、馬に跨った男と、つばの広い麦わら帽子を被った小さな旅人が、カルーガに向かって軽やかな歩みを刻んでいた――
巣立ちの季節である。
二人の頭上で、親子だろうか、小さな茶褐色の三羽の鳥が、若葉の芽吹いた枝から順々に飛び立っていった――
「カルーガに、一人で行く?」
「うん」
数日前の国王居住区。ラッセルと「連日の農作業のおかげで身体が締まった」 「力こぶが大きくなった」 などと会話を交わしていたロイズの元へ、赤みの入った癖のある髪を揺らしながら、リアがお願いがあるとやってきた。
それから飛び出した内容に、ロイズが驚きの声を上げたのだ。
「なんで?」
王妃が一人で外遊するなどと言い出せば、理由を訊くのは当然である。
「ダメ?」
大きな瞳の上目遣い。ロイズの眼下で穏やかに首を傾げると、リアは猫のように両の指を丸くして、甘えるような仕草を装った。
「可愛く言ってもダメ!」
「ちっ」
否定された新米王妃は、思わず聞こえよがしの舌打ちを放った。
「……」
しかしながら、止められる筈もない。
無茶な提案も、理由があっての事だろうとロイズも内心では理解をしている。
「じゃあ、ラッセルを護衛に連れて行くから!」
許しが出ないのも想定内。
少し迷ったふりをして、新米王妃は追加の条件を提示した。
「私ですか?」
突然の御指名に、ラッセルの薄い顔が驚いた。
「新任の国王を、連れ出す訳にはいかないでしょ? 誰が内政を見るの? 今はこの人が先頭に立つ姿を、みんなに見せる事が大事なの。指揮系統を乱したら、派閥を作る温床にだってなりかねない」
「それは、確かに……」
リアの発言に、尚書は納得を示した。
それでもロイズの表情は、渋いままである。
「本当は、あなたと二人で行きたいけどね……」
ロイズの胸元に視線を預けると、王妃は残念そうに呟いた。
「……」
「今なら、スモレンスクは攻めてこないと思うの」
「……」
「何かあったら、スグ、引き返すから」
「うーん…」
上目遣い。矢継ぎ早に詰め寄られ、国王となったロイズは困惑の表情を浮かべた。
「今しか、出来ないの!」
「わかったよ……」
引かないリア。結局ロイズは溜息を一つ吐き出して、渋々ながらも納得をした。
「ありがとう」
許しが出ると、リアの表情が途端に明るくなって、ぴょんと跳ねるような笑顔を覗かせた。
「無理を言って、ごめんなさい」
続いて感謝を口にする。
赤みの入った癖のある髪の毛が、頭と一緒に垂れ下がった――
「いいよ。ただ、三人で行きたかったな…」
「そうね…」
「そうですね…」
ロイズの希望が零れると、寂しそうに口を開いた王妃のあとから、ラッセルも続いた。
「言っとくけど、三人目は、あなたじゃないからね?」
「……」
「え?」
勘違いを指摘され、ラッセルの動きが静止した――
「三人目というのは、私の知っている方ですか?」
トゥーラの都市城門を潜って1時間。当時の会話を思い起こして、ラッセルが眼下の麦わら帽子に尋ねた。
細い目の、凹凸に乏しい貧相な顔立ちではあるが、栗毛馬に跨った姿はなかなかに凛々しい。
「ワルフ。名前だけは、知ってるんじゃない?」
「ワルフさん…」
どこかで耳にしたような? ラッセルは呟くと、暫くの時間を求めた。
「リャザンの役人よ?」
「ああ。最近、昇進された方ですね」
結局反応を見かねたリアが、自ら答えを渡した。
現在のラッセルは同盟締結の準備中。
数日ごとにやってくる使いの者に、リャザンの内情を伺っていた。
午前の間は書類作成。午後からは農作業が最近の日課である。
「ロイズは『三人で』 と言ったけど、リャザンの役人じゃあ、長期休暇は無理よね……」
「そうですね……」
リャザンは大国だ。どこかの国の王妃のように、外遊したいと申し出て、簡単に許しが下りる筈もない。
「でしたら、ワルフ様を同盟締結の交渉人に指名して、トゥーラに来て頂くというのは如何でしょう? 外遊でしたら、時間も取れますよ?」
「……」
明るい声の提案に、王妃はしばらく考えを巡らせると、麦わら帽子の角度を変えることなく口を開いた。
「ワルフは多分、そんな事を望んでいないと思うの。それに…あなたはそのうち、ワルフと会うでしょうから……話は、ここまでにしておくわ」
先入観は霧を生む。
一つの予言を口にして、視線を上げた王妃は理解を求めた。
「……はい」
麦わら帽子の鍔の下。赤い髪を上げた少年の装い。王妃の表情には、未来に対する憂いが覗いた。
「よろしくね」
続いた不意打ちのような微笑みに、男の心は少なからずやられた――
「不満?」
「いえ…」
話の続きは気になるが、それ以上の感情を宿した。
悟られぬよう、ラッセルは木々の間に覗く青い空へとふっと視線を預けた。
春を迎える林の中。茶褐色の鳥たちは、2羽と1羽に分かれて枝に止まって、二つの揺れる背中を静かに見守っていた――
「リア様の兵法は、どなたかに教わったのですか?」
暫くして、ラッセルが再び口を開いた。
国家の争いに女が関わるなど、考えられない時代である。彼の問いかけは、尤もであった。
「……誰かに、教わったものでは無いわ」
視線を前に向けたままで、リアは簡潔な答えを口にした。
「……」
馬上の従士は黙したままで、麦わら帽子の向こう側にある表情をなんとか読み取ろうとした。
しかしながら、分かる筈もない。彼にとっては、ひどく歯がゆいものであった――
「知っての通り、カルーガは、トゥーラとスモレンスクの間にあるのね。でも、どちらにも属さないまま、今までやってきた村…」
やがて、リアがぽつりと口を開いた。
「そうですね。あの村は、ヴャティチの森の中。お互いの緩衝地のような役割を担っていますね。宿場としても良い位置で、お互いが情報交換の場として、併合しようとしなかった。余計な干渉をして、相手と結託されるのを双方が恐れたのです」
「そうね。カルーガは傷ついた人々が流れてくる村でもあるの。そんな村だから、リャザンやスモレンスクだけじゃなくて、キエフは勿論、ノヴゴロドの戦いなんかの情報も沢山入ってきた……私達はそれを聞いて、戦況を地面に描いて、いつも先の予想をしていたの」
「予想?」
王妃の口から飛び出した、思いもよらない言の葉に、ラッセルは細い瞳を強くした。
「そう。小競り合いも含めて、戦いの行方をね……」
「ロイズ様もですか?」
「そうよ? でも、あの人は……私達に勝った事が、一度も無かったけどね」
言いながら、小さな右の手指を口元に寄せると、リアは懐かしそうに瞳を細くして、クスリと笑った。
「え? 勝つか負けるか……であれば、さすがに当てられそうですが?」
二分の一を何度も外すとは、信じ難い。
「勝ち負けだけじゃないわ。どうやって勝つのかを、予想したの」
「え?」
「そのうち、負けた方がどうやったら勝てたのか、考えたりね。ほんとに、子供らしくないわよね」
言いながら両手を上に広げると、王妃は懐かしそうに口角を上にした。
(この人は…)
当時は子供の遊びだったとしても、その戦術が先の戦いで、立派に生きた。
さらっと言い放った華奢な両肩に、ラッセルは驚きを通り越して、畏怖すらも胸に宿した。
「ワルフ様とは、いかがだったのですか?」
無意識な質問に、リアの表情が僅かに曇った。
彼女の聡明な頭脳から、子供の頃の記憶が思い起こされた――
「今回は、俺の勝ちだ。スーズダリがリャザンに勝つよ。優勢のままだ!」
短い青草を毟った手作りの土の上。小さな男の子が得意げに、今より小さなリアに対して勝利の宣告を行った。
「未だよ! 退きながら戦って、林に隠した伏兵で叩けば、分断できるわ!」
水分を含ませた土の上には、耳に届いてきた限りの戦況図が描かれている。
大きな瞳に光を宿して、小さな少女は自信に満ちた言葉を吐きながら、手にした木の枝を使って説明を始めた。
「数が違うよ」
「動きが止まれば、数なんて関係ないでしょ!」
そんな二人のやりとりを、ロイズは大きな切り株に座りながら聞いている――
「あまり……悔しい思いをした記憶は、無いのよね……」
言葉とは裏腹に、小さな王妃は細い肩を落として、どこか寂しげな表情を浮かべた。
「ふう。さすがに疲れてきた。ラッセル、交代」
青空の下。林を抜けると日差しがやってきて、リアが命じた。
「はい。さすがにお疲れでしょう」
太陽も高くなってきた。リアは朝からずっと歩いている。ラッセルは労いながら馬を下りると、背中を丸め、踏み台となって、王妃が鞍に跨るのを助けた。
「ありがと」
「いえいえ」
胸に沸き立つ想いを、抑える事ができない。従士が理想とする女性像は、仕えるべき彼女である。
伝える事は当然ないが、二人きりの道中は彼にとってはこの上ない喜びであったのだ。
ラッセルは仄かな香水の香りを浴びながら、細い目を無くして労いの言葉に応えるのだった――
「次に見える林の中に、オークの切り株があるの。そこからは歩くから、よろしく」
「はい。畏まりました」
馬上の人となった王妃が指示を送ると、ラッセルは手綱を掴んで馬と共に歩みを始めた。
かぽかぽと、蹄の音が心地よい。
大地に芽吹いた緑。さえずりを愉しむ雲雀。時折り吹き抜ける風までもが、二人を歓迎しているように思えた――
「じゃあ、ここからは、干渉ナシでお願い。村に入るのは、陽が沈んでからね」
「はい。お気をつけて」
緩やかな起伏を歩んだ先で、白樺の林が目前に迫った。
目標の切り株は見えなかったが、小さな王妃は指示を伝えると、ふわりと下馬をした。
「ここまで、ありがとうね。カルーガには温泉もあるから、ゆっくりすると良いわ」
「はい」
右手を軽く掲げてにこやかに語ると、新米王妃はラッセルに背中を向けて林の中へと歩きだした――
小さな背中が、更に小さくなってゆく――
ラッセルの細い瞳は、愛する妹を見守る優しい兄のような心持ちとなって、しばしの別れを惜しむのだった――
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