【46.王妃の代役③】
北……
眼下で示す国王の注意喚起に、ラッセルの血の気が引いた――
トゥーラの一番高い場所。
細身の尚書は咄嗟に身体を反転し、北西の方を見やった。
飛び込んだのは、長い梯子を持った隊列が、短い緑の上を幾重にも重なって右へと移動している姿であった。
「う、うぁ……うわああああ!!」
痛恨の失策をやらかした。
頼む、気付いてくれ……
ありったけ。胸壁を両手で掴んで胸が張り裂けるほどの大声を西に叫ぶと、ラッセルは頭上で千切れんばかりに両腕を振った。
見張り台の手前ではライエルが、西の城壁の中央にはルーベンの姿が確認できる。
しかしながら、愚かな失敗をしでかした男に、偶然の幸運など起こりはしない。
二人の将は背中を向けたまま、城壁を乗り越えようとする侵略者の対処に追われていた。
「くそっ」
このまま両腕を振りたくって、気付いてくれる可能性に賭けるか……
しかし、猶予がない。
涙を浮かべたラッセルは、足を戻して東を見やり、こちらを見上げるロイズに右から左へ大きく腕を振るって移動を促すと、急いで梯子を下りて西へと向かった――
ガジャァッ!
「きゃあああっ」
北西に設けられた、射撃塔の裏の給水所。
城壁を越えて降ってきた砲弾が、地面を捉えてゴロンと弾むと、大人の腰以上の高さもある大きな水瓶にぶつかった。
南を狙っていたものが、北からの侵入を助けるために向きを変えたのだ。
「ああ……」
給水。並びに救護班の女性たちから悲痛な声が漏れ出した。
底辺付近から、透明な真水が脈打つようにドクドクと溢れ出している――
「城へ行って、知らせてきて!」
「あ……はい!」
沈んでいるヒマはない。すぐさま経験に勝る者が指示をして、若い娘が駆け出した。
命をつなぐ水の供給が滞る事態は、絶対に避けなければならない。
「あ、あの……」
「えっ?」
西門から入城した彼女は、最初に目にした女性の衣服を掴むと、必死の形相で声帯を震わせた。
「み……水が……」
「え? 水?」
石畳の廊下を移動中。長身の金髪娘が背中を引かれ、驚いて振り向いた。
「水が……欲しいのですか?」
ライラは小さく首を傾げると、呑気な声で尋ねた。
「ち……違……水瓶が……」
「水瓶? ん? ……北?」
両の膝頭に手を当てて、肩で息をする女性の腕章に目が止まると、ライラはようやく事態の重さに気が付いた。受け持つ役割や配置によって、女性陣は色違いの腕章を付けている。
「知らせてきます!」
瞳を見開いたライラは皆が集まる大広間へと駆け出した。
「アンジェさん!」
突然響いた高い声。大広間の誰もが目を向ける。
「あ……み、水が……」
一斉に視線が注がれて、思わずたじろぐも、ライラは勢いと使命感を胸にして、臆することなく声を発した。
「水が、どうしたの!」
ライラの表情に事態の大きさを感じたか、女中頭のアンジェが寄ってきた。
「き……北の人が来て……み、水瓶が……壊れたんだと思います」
「マルマ!」
報せを聞くや、厳しい表情となったアンジェは、ふっくらとした身体を翻してマルマを呼び付けた。
「マルマなら、さっき、使いに出ました……」
「……」
背後の女中が無念そうに告げると、アンジェの動きが止まった。
約15分前。
城の屋上で監視をしていたラッセルが、梯子を抱えて城門に向かってくる侵略兵の大群に気が付いた。
知らせる手段に迷ったところへ、マルマが王妃の様子を見に来たので上から声を掛け、紙片を託したのだ。
足には自信がある。通りがかった女中に断ってから、マルマは将軍の元へと走った――
「あの……何をすれば……良いのですか?」
長身のライラは、アンジェに上から視線を浴びせると、恐る恐る、震えた声で尋ねた。
「……」
私でも、できる事案でしょうか……
二つの青い瞳から、確かな決意が見て取れた。
前日から、マルマが連れ回す若い娘。
傷病者が運ばれてきても看護の知識は皆無で、料理の下拵えもできない。
細長い身体はオロオロするばかり――
それでもマルマのフォローもあってか、周囲の卑下する雰囲気にも腐らずに、食事の運搬や廃棄物の処理、出来ることで貢献しようと、一生懸命身体を動かしている……
「倉庫に、水袋が積んであります。それを、荷車で運んでくれる?」
「はい」
この場に居る殆どは、それぞれの役割がある。傷病者も増えていくに違いない。
アンジェは力になろうと訴える、若い眼差しに託すことにした――
「水は、近くの家からもらってね。頼むわよ」
「分かりました」
意気に感じたライラは大広間の外に飛び出すと、廊下に並んでいた荷車の一つを引っ張って、石畳の廊下を倉庫へと急いだ。
(あれね……)
倉庫は地階の奥。重い扉を開けると、棚の中段には水袋が無造作に積まれていた。
ライラはそれらを腕いっぱいに抱えると、二回行き来して、荷車からこぼれ落ちそうなくらいに積み込んで、取っ手を掴んで駆け出した。
「きゃあっ」
西の城門から外へ出る。壕に架けられた橋を渡って、北へ向かう。
右へと曲がった瞬間、二輪の遠心力により、非力なライラはバランスを崩した。
「ふう……危なかった……」
何しろ初体験。冷や汗を感じた。
細身の体は自身でさえ驚くほどの力を生み出して、なんとか転倒することを防いだのだ。
北に顔を向けたライラは気合を戻すと、喧噪の中に時折り響く爆音や怒号を耳にしながらも、任務を果たそうと前に進んだ――
「……」
乾いた土の上に、水袋が一つ放り出されていた――
一連の場景を、近くの住居の2階の窓から、女の子の大きな瞳が捉えていた――
スモレンスクの北側の部隊が、待ちに待った出番を迎えた。
「俺達が、一番乗りだ!」
「おう!」
戦場に在るどの隊よりも、士気が高い。
自ら先頭に立って馬を駆る副将が、槍を持つ右腕を掲げて鼓舞をした。
「カプス。いい仕事だ……」
時間が勝敗を左右する。
弟分が埋めた西側の壕。馬に乗ったブランヒルが駆け抜ける。
城壁までの道中も、総ての落とし穴が板によって塞がれていた――
「おいおい、俺達に当てるなよ……」
西からの砲弾が、城壁の北の一辺を狙って飛んでいく。
「急げ! 北は手薄だ!」
背後に続く歩兵に訴えると、ブランヒルは右側に浮かぶ城の屋上へと視線を移した。
「……」
居たはずの、人影が消えている――
加えて四方で揺れていた旗のうち、北側のものだけが、赤へと変わって緩やかにはためいていた――
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