【42.大事なこと】
星明り。漂う薄い雲。
夜空の下を、すうっと一本の火矢が流れていった――
それはトゥーラの都市城壁。南西の見張り台の上から、若き美将軍が国王に託されて放った一つの志であった――
「見てこい!」
「は、はい!」
障害物と成り果てた壕の上を飛び越えて、火矢はスモレンスクの監視が目を光らせる先に落下した。
燻った明かりを確認した分隊長は、不安を浮かべる部下に対して、拾ってくるよう伝えた。
「ギュース様、トゥーラから、こんなものが飛んできました!」
不審物は頭髪を綺麗に剃った大将と、麻の衣服から逞しい筋肉が覗く副将と共に、木切れや石を使って翌日の作戦を練っていた、総大将の元に届けられた。
「見せてみろ」
100キロを超える体躯が、会議を中断して立ち上がる。
火の気は消されても、熱を帯びる矢羽根をごつっとした右手で掴むと、ギュースは根本に括りつけられた細い小筒に気が付いて、ぶちっと強引に引き千切った。
「……」
戦歴を重ねた指先が、小筒の中から器用に小さな紙片を取り出すと、ギュースの太い眉毛が吊り上がる。
「何とある?」
動きの止まった総大将。座ったままのバイリーが、背後から急かすように尋ねた。
「……どうする?」
独断では判断できないと、振り向いたギュースが紙片を指で弾くと、それは篝火の炎で揺らぐ空気の中を、ふわっと泳ぎ、バイリーとブランヒル、二人の眼下で動きを止めた。
「これは……」
「何が、書いてあるのです?」
バイリーが思わず眉をひそめると、ブランヒルが尋ねた。
『溺れる犬を救うなら、静観する。何より、無益な戦いの終息を願う』
読み終えると、手にした紙片を彼の前へと差し出した。
「どう思う?」
「罠……とは思えません」
「そうだな。俺も、同じ意見だ」
ブランヒルが正直な思いを吐き出すと、上司も違わぬ見解を表した。
「だが、本当に信じられるか?」
「……」
「……」
足を戻しながら吐いた総大将。二人が見上げると、天幕の空気は固まった。
「考えてもみろ。あの数の負傷兵を収容しようと思ったら、何百人と人員が要る。奴等からしたら、敵を城壁まで近付ける事になる。そんな危険を犯すか?」
「確かに……そうですね」
続いたギュースの発言を、ブランヒルが胸に落とした。
「罠というと可能性が、消えた訳では無いか……」
「ですが、あちらは少数です。短い休息時間を、作戦行動に充てるとは思えません」
「そうだな」
バイリーが呟くと、ブランヒルが理由を含めて抗った。
「誘いに乗ったふりをして、攻め込むか?」
「……」
「する……つもりか?」
総大将の冗談めいた言動に、ブランヒルは沈黙したが、上司は敢えて訊き返した。
「いや、忘れてくれ。スモレンスクの名を汚すような勝利は、有り得ない」
名門リューリク朝の血脈を思ったギュースは、鋭い視線を躱すように右手を小さく掲げると、醜い案を恥じるべく前言の撤回を図った――
「誰か来るぞ!」
「け、警戒を!」
西側の林で3つの松明が灯ると、やがて黒闇の中で重なったりしながら、ゆっくりと近付いてきた。
矢文の返答であろう事は間違いないが、警戒を緩めるわけにはいかない。
南西の見張り台に立った監視兵が、震えながらも声を発した。
「返答だ!」
壕を越え、足元に気を付けながら進んできた兵士は、矢羽が城壁を越える距離まで近付くと、簡潔に一声を発した。
続いて松明の灯りが4つになったかと思うと、そのうちの一つが火元を離れ、宵闇の間を走って、トゥーラを囲む都市城壁の一辺を越えていった――
「ロイズ様、返答が届きました」
暫くして、矢羽は走ってきたライエルの手によって、地階の臨時の執務室に届いた。
藁のベッドに腰を下ろしていたロイズは無言でそれを受け取って、直接結ばれた紙片を解くと、記された短い一文へと視線を落とした。
『配慮、感謝する。だが、無用』
「……」
国王は、落胆の色を隠さなかった。
苦しみの中で託された、伴侶の願いが届かなかった無念も含む。
しかしながら、自身もまた、微かな望みを託さずにはいられなかったのだ――
「ふう……」
ロイズは大きな溜息を吐き出すと、怒りすら込めて訴えた。
「これでまた、犠牲が出るんだよ……」
届いた紙片は、怒りの籠った右手によって礫となった。
「ロイズ様。神の審判は、まだ下っていません」
戦闘中。敵を信じる事は難しい。
震える右手を認めると、青年は正気に戻るよう諭した――
「……」
ロイズは下を向いていた。
正しい見解と、理解はできる。
しかしながら、遣り切れない想いが、どうしたって残った。
都市城壁の外側では、敵ではあるが、嘆きの声が、宵闇の中で響き渡っている。
それは、純粋なる生を求める叫び―—
救いを差し述べる事は、誤りなのか?
彼らの背後に居る者を想ってしまう心情は、甘いのか?
「……」
浮かんだ思いが、誤りであるとは思えない。
それでも戦争という闇の中では、何人たりとも抗えない、正しさを狂わせ、飲み込んでいく巨大な力に凌駕されてしまうのだ――
それは連綿と、歴史が証明している――
「くそ!」
ロイズの拳がベッドを叩いた。
夜明けと共に、歴史に追従する事が決まった――
「ギュース様!」
白い星々が雲間から覗く夜。
決戦の日に備え、早めの眠りに就いたギュースの元に、突然の声が届いた。
「なんだ!?」
「後方より、火の手が上がっています!」
「なに!」
兵士の報告に飛び起きる。甲冑を着たまま眠っていたギュースは槍を持ち、簡易な天幕から飛び出した。
「どこだ!?」
「こちらです!」
白樺の木々が生い茂り、先が見えない。赤髪の総大将は左右に首を捻ったが、火の手は窺えなかった――
「……」
前を行く兵士が掲げる松明を追って、ギュースは木々の間を縫い走った。
その道中、何かが燃える異質な臭いを鼻腔に感じると、同時に悪い予感が過ぎった。
「あれか!」
燃え盛っている訳ではない。視線の先で、幾つかの紅い火の手を認めると、思わず叫んだ。
「隊を出せ! 火の手は弱い! 敵は少数だ!」
方々で松明が灯り始めると、紅い揺らぎが人物を照らし始めた。それが次第に増えてゆくと、周囲を確認できるほどの明るさが、林の中に宿っていった――
「敵か!」
松明を持ったバイリーが慌てて飛んできた。
揺れ動く炎の明かりが、石の表面のように滑らかな彼の頭皮を照らしている。
「恐らくは、陽動だ」
「そうか……」
「しかし、伏兵を置いてまで、兵糧を狙ってくるとはな……」
ギュースは、感心するように呟いた。
二日間の短期決戦のつもりだったが、リャザンから来るであろう援軍を止める事ができれば、攻略の日数を伸ばせるとも考えていた。
敵の作戦は、そうはさせじと仕掛けてきたものに違いない。
「兵糧の管理は、ヤットか?」
「ああ……」
バイリーからの質問に、ギュースが答える。
ヤットは齢40になる文官で、普段から懇意にしている事もあって、出陣の際には副官として従軍させる事が多かった。
慎重な性格で、「文官の自分が遠征で命を落とす事だけは勘弁願いたい」 と、憚らずに公言をしている。
しかし面白いもので、ギュースとは真逆な性格が、違った視点から物事を成すに至ったり、時には正しい自重を促す事にも繋がっていた――
春先の戦いでは撤退を促した。
この戦いでは、後方の輜重隊に多くの人員を配置した。
共にヤットの進言によるものだ。
「大事には、至らなそうだな」
上がった火の手は小さくなって、ギュースはやれやれと安堵の息を吐き出した――
輜重隊を襲ったのは、別動隊となっているメルク達だった。
「思った以上に、敵が残っていましたね」
「そうだな……」
細かな指示こそ無かったが、メルクは後方の部隊を攪乱、或いは足止めをして欲しいとの指令を受けていた――
(ロイズ様、申し訳ございません……)
しかしながら、思ったような戦果は上げられなかった。
10名にも満たない少数で、二桁も違う相手を昼間に襲うのは、無謀というより他に無い。そこで夜襲に変更したが、結果は微々たるものである。
兵糧の幾つかに火を点けて、伏兵の存在を認知させただけ。
鎮火する炎を認めた小柄な男は、撤退先の茂みから無念を思った――
「メルク。グレン将軍がお呼びだ」
昼下がり、同僚と共に小刀を使って矢羽の作成に勤しんでいたメルクは、兵舎に入ってきた仲間に名前を呼ばれると、何事だろうと振り向いた。
そして食堂で昼食を取っていた将軍を見つけると、思わぬ指令が届いた。
「国王様に?」
「そうだ。ロイズ様が偵察隊と別働隊を作りたいと仰ったので、おぬしを推薦しておいた。直々に、指示を仰いでもらいたい」
「……」
国王の姿を、彼は遠目に2回ほど見たことがある。
一度目は冬。入城の際に沿道の住民を監視する任務に就いていて、馬に跨った、当時は新任の城主が背中を通り過ぎたあとに、横顔と後ろ姿をチラッと眺めた――
二度目は春。住民総出で行われた農作業の最中に、二人の将軍と共に鍬を振り下ろしている姿を、遠くから眺めた程度である。
そのためか、印象なんてものは無く、ただ若いという、周囲と同じありきたりの認識しか持っていなかった――
「分かりました。行ってまいります」
それでも近衛兵という立場から、彼が赴任してからのトゥーラの変化。殊更、独立を宣言してからの動きは理由が明確で、無駄が無く、感銘を受ける事が多かった。
いったい、どんな切れ者なのか――
ロイズの元に向かうメルクの身体には、緊張以上。畏怖さえも生じた。
「グレン将軍配下、騎馬担当メルク。入ります!」
そして衛兵が開いた扉をくぐると、彼は敬礼してから身分を発して、国王に謁見したのある。
国王様の印象は、10歳ほど年上のメルクから見ても、美しい好青年というものであった。
話し声や所作には落ち着きがあり、物腰も柔らかで、素直に好感を抱いた。
数分もしないうちに、最初に抱いていた切れ者という印象は、すっかりと剥げ落ちた。
「承知致しました! お任せください!」
作戦の概要をロイズから聞き終えると、メルクは直立敬礼しながら受諾した。
「あ……」
敬礼したまま踵を返すと、足を一歩進めたところで背後から声がして、再び身体を翻した。
「なんでありましょうか!?」
「いや……大した事じゃないよ。ただ、一番大事なことを伝え忘れた」
「はあ……」
大した事じゃないが、大事なこと――
矛盾を孕んだ発言に、メルクの緊張が剥がれた。
「また、ここで会おう」
「……」
端正な顔つき。澄んだ瞳が、真っ直ぐメルクに注がれた。
仮に女性であったなら、きっと見惚れてしまったであろう……
そう思わせるほどに、ロイズの言動は、彼を魅了させたのだ。
「は!」
勅命を受けたメルクは、一歩を下げると、ふたたび毅然となって敬礼を捧げた――
「この後、どうします?」
真夜中に火矢を放った別動隊。
南に走って馬を止めると、部下が次なる動きを尋ねた。
「一旦退こう。やれる事は、ある筈だ」
立ち昇った騒動は、完全に鎮まっている。
ロイズの言葉を胸にして、メルクは冷静な判断を下した――
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