【4.壇上の演者】
(前回まで)
リャザン公国の最前線。トゥーラへと赴任してきたリアとロイズ。
二人がスモレンスクの侵攻を防ぐと、幼馴染のリャザンの重臣ワルフは、トゥーラの独立を目論んだ—―
「ん…」
その日の朝、何枚も重ねたシーツの下で、小さな裸体がベッドで目を覚ますと、ロイズの姿は既に無かった。
小窓から差し込む陽光は、そろそろ、朝と呼べる時間の終わりを告げようとしていた――
「リア様、おはようございます…」
石床に足を置き、寝起きの寒さに震えながら衣服を纏い、寝室から出ようと扉を開くと、尚書が腰を曲げ、小声で話しかけてきた。
その向こうから、ロイズの熱い声が耳へと届く。
「この機会を好機とし、一層の努力をお願いしたい!」
リアの大きな瞳に、台本無しで演説稽古をしているロイズの真剣な表情が飛び込んできた。
「大丈夫そうね…」
「そうですね」
見惚れたリアが、瞼を閉じて呟くと、ラッセルが同じように安堵を返した。
人が決心を刻む時。己を信じてくれる者が存在するなら、心強い。
不安の中で重なった昨晩は、必要不可欠な時間であったのだ――
正午前。
これから国の中枢を担うであろう武官、文官、役人たちが、地階にある城内で一番大きな広間に集められた。
天井には、トゥーラで唯一存在するシャンデリアがひっそりと飾られている。
しかしながら、蝋燭は高価なものだ。寂しい話だが、そこに灯りが灯っているのを見た者は、誰一人としていなかった。
「論功行賞にしては、人が多過ぎないか?」
「下っ端役人までおるぞ?」
総勢15名ほど。
築城以来、広間にこれだけの人数が集まるのは初めてかもしれない。
ザワザワっとしたざわめきが、集められた者たちの心の内を端的に表していた――
「ロイズ様は、何を話されるのでしょう?」
「分からんな…だが、攻められてばかりだからな。射られた矢を払っているだけではつまらん。今度はこっちから…という話なら、面白いな」
最前列には、両将軍の姿があった。
左右に垂らした金髪の間から整った顔立ちを覗かせる青年が、浮かんだ疑問を投げかけると、太い腕を組んでいた四角い顔のグレンが、顎の先端に右手を伸ばしながらニヤリと口角を上げた――
カーン、カーン。
トゥーラの都市城壁の一角に設けられた鐘が正午を告げると、音色を耳にした一同に緊張が走り、しんと静まり返った。
同時に膝下ほどの高さがある壇上の奥に設けられた扉が開くと、腰までを隠す青褐色のマントを羽織ったロイズが姿を現した。
一同が跪いて敬意を表すと、ザザっとした音が伝播して、石壁に囲まれた広間に余韻を残して広がっていく――
「皆、集まってくれてありがとう。先ずは、楽にしてくれ」
重い空気は苦手だ。
居並ぶ目線より一段高い壇上から、ロイズは置かれた演台の両端に手を置いて、先ずは緊張を和らげようと口を開いた。
「知っての通り、我々リャザン公国は、北方の宿敵スーズダリとの間で、ここ何年もの間、争いを続けている」
眼下の目線たちを捉えると、ロイズは重みのある、しっかりとした口調で語り出した。
正午近くに降り注ぐよう設計された、採光口からの柔らかな春光が壇上を照らすと、彼の凛とした立ち姿を、いっそう眩いものへと昇華させている。
「我がリャザン公グレプ様の偉大なる父、ロスチスラフ様は、西からの侵攻に備えて、ここトゥーラの地に城を築かれた。スーズダリだけでなく、スモレンスクの野心にも、気付いておられたのだ」
ここまでを述べて、ロイズは演台に置かれた陶器のマグに手を伸ばすと、ごくっと一息を入れるように水分を求めた。
「先日の戦いで、幸運にも我々は、一人も討たれることなく勝利した。そして本日は、グレプ国王から賜った恩賞を、皆に分け与える論功行賞の場に…なる筈であった!」
ロイズの結んだ言葉から、ザワっとした曇天のような空気が生まれ出た。
当初から不穏の種子が存在していたが、それでも論功行賞の話は出るだろうと、居並ぶ誰もが思っていたのだ。
「結論から言うなら、リャザンからの恩賞は無かった」
「なっ…」
「無い?」
ザワっとした空気が、更に大きな動揺の波となって広間を支配した。
ロイズの眼下では、落胆の表情を表す者、隣の者と不安そうに視線を交わす者など、様々な反応が繰り広げられていた――
そんな中でも、最前列の二人だけは、真っすぐに射るような視線を、改めてロイズに向けている。
「しかし…」
二人を通して、全体へと語りかけるようにロイズが続けた。
「それ以上のものを、我々は手にする事となったのだ」
「……」
期待を促すような発言に、広間が一瞬のうちに静まった。
誰かの喉が、ゴクリと緊張を表した。
「それは、トゥーラの独立である!」
サッと左拳を眼前に掲げながら、ロイズは力強く言い放った。
「独立!?」
「おお?」
「トゥーラが、独立?」
皆の反応は様々であったが、壇上で光に照らされたロイズの力強い一声は、それを肯定的に捉える風向きとするには、十分なものであった――
「独立、万歳!」
計ったように、誰かが叫ぶ。
「お?」
「トゥーラ、万歳!」
「ロイズ様、万歳!」
やがて、歓呼に呼応するようにして、声の連鎖が始まった。
「……」
喧噪の中、ロイズは最前列に並ぶ二人へと静かに目をやった。
二人の間でも、とりわけ真っすぐに視線を向けてきたのはライエルの方だった。
これから歩む道がどういったものになるのか……若い心に沸き立つのは不安よりも希望。恍惚を含んだ表情であった。
ロイズは少年のような面影を残した紅潮する顔立ちに向かって眼差しを送ると、小さく頷いてエールを送った――
一方で、四角い顔の大将軍は太い両腕を絡めると、瞼を閉じて、背後から聞こえてくる賞賛や驚嘆、あるいは後退的な不安や憂慮といった、様々な声に耳を傾けた――
「さて…」
暫くの時を置いてロイズが口を開くと、広間に再びの静寂がやってきた。
「独立と謳えば聞こえは良いですが、困難な道でもあります」
続いて、引き締めるような言の葉が、重い響きで広がった。
「先ず、後ろ盾が無くなります。ですがこれは、リャザンと改めて同盟を結ぶ事で解消を図ります。次に軍事、生産に於いても、今後は、我々だけでやらねばなりません。とりわけ食料の備蓄は急務です。しかし、幸いにして、これから春を迎える。先ずは国を挙げて生産に取り組み、憂いを無くそうと思う」
ロイズは口調に変化を生じさせながら続けると、最後に右の拳を眼前に掲げて、力強く言い放った。
「険しい道でこそ、歩む価値があると信じます! 皆さんには、この独立を人生の好機とすべく、一層の尽力をお願いしたい!」
「……」
語るロイズの頭上、角の天井裏には小さな隠し部屋が設けられていた。リアとラッセルは、そこで小さく丸まって、ロイズの演説を窺っていた。
「大成功ですね…」
「そうね。最後の一言、特に良かったわ」
大喝采の眼下。ラッセルが素直に感想を述べると、リアは嬉しそうに、大きな瞳にうっすらと浮かんだ泪を人差し指で拭いながら、称賛の言葉を送った――
「リア、どうだった?」
一旦散会し、ロイズが居住区へと続く重い扉を開けると、リアはいつもの、小窓から西側を眺める事が出来るお気に入りの席に小さな姿を置いていた。
伴侶が敢えて尋ねたのは、自賛するほどの出来だったからに他ならない。
「良かったわ…」
だが、ロイズの期待に反して、返ってきた言葉は実に素っ気ないものだった。
すました表情で口を開くと、女は次に読書中の本へと視線を落とした。
「それだけ?」
「それだけよ…」
思わず足が止まったロイズに、リアはもう一度ふっと視線を送ると、直ぐに視線を戻した。
「ええ…」
誇らしく戻ってきたにも関わらず、伴侶の反応は芳しくない。ロイズは端正な顔立ちに落胆の表情を浮かべると、両肩を落とした。
「大丈夫ですよ、ロイズ様。リア様、凄く嬉しそうでした」
「ほんと? だよね!」
見かねたラッセルが耳元に寄って囁くと、ロイズの表情が一変をした。
「余計な事、言わなくて良いのよ…」
頬杖をついたリアが二人を眺めると、調子に乗るんじゃないと窘めた――
「そんな事よりラッセル、用意はできてる? あと、あなたは服を着替えて、城門に向かって。グレン将軍とライエルが居る筈。何をやるかは、紙に書いたから」
「出来ております」
時間が惜しい。次なる指示をリアが送ると、承知とばかりにラッセルは答え、ロイズは少し休ませてくれと思いながらも、差し出された紙片を無言で受け取った――
護衛の者を従えて、着替えたロイズは石畳の廊下を城門へと向かった。
(リアの奴、何をさせるんだ?)
思いながら、伴侶から渡された一枚の紙片を両手で開いた。
『南門。畑を耕して』
ブラウンの瞳に飛び込んだのは、簡易な文字列であった――
「ロイズ様、お呼びですか?」
新たに国王となる男の元へ、息を切らしたグレンとライエルが、何事かといった感じで合流をする。
「あ、ああ…」
「そのようなお姿で……城外へ視察でも?」
「まあ、そんなところかな…」
四角い顔からの問いかけに、質素な麻の衣服を纏ったロイズは取り繕った言葉を発した――
一方で城下には、ラッセルの手によって記された幾つかの立札が立てられて、住民たちが続々と足を運んでは、それぞれの意見を述べあっていた。
立札に書かれていたのは、簡潔に三文。
<一、リャザンより独立し、トゥーラは国家となる>
<一、政策の第一は、農業とする>
そして最後の一文には、以下のような通達が記されていた。
<一、疑問を抱く者あれば、旅費を与えた上で移住を認める>
「おお?」
「独立!?」
突然の宣告である。
戸惑いの声はあれど、民衆の反応は概ね好意的であった。
連綿と続く戦いの土地にあって、多少の未来を予測する者であれば、大勝した勢いに乗じて次の戦いを描くところだ。
しかしながら予想を裏切る平和的な内容に、普段は皮肉を挟む者たちも、半信半疑ではありながら、生まれ変わった国家の姿を感じるのだった――
「ロイズ様だ!」
「グレン様も、いや、ライエル様もいらっしゃる!」
そんなところへ、一本の鍬を持ったロイズ。数本の鍬を肩に背負ったグレン。農具を載せた荷車を転がすライエルが、小走りでやってきた。
後ろに続く護衛の兵たちも、普段から手にする長槍や刀剣を、使い古された鍬へと持ち替えている。
その全員が、質素な麻の衣服を纏った農夫の姿であった――
「みんな、城外へ続け! 共に耕すぞ!」
リアへの怒りに任せて、ロイズが大声で叫んだ。
「耕す?」
「畑か!」
「国王様、将軍様が畑仕事?」
「こりゃ、面白い」
民衆が囃すと、やがて城外で、国民総出の開墾作業が始まった。
勿論ラッセルと、リアもこっそりと合流を果たした。
「身体を鍛えることも、重要だぞ!」
「ひぃ…」
へっぴり腰で鍬を振り下ろすラッセルを、グレンが揶揄った。
全員が農夫の姿の老若男女。身分の上下は生まれず、皆が笑顔である。
(悪くないな…)
方針を示した国王が、自ら先頭に立って実践をする――
伴侶の意図は、明確にして簡潔だ。
明るい表情たちを見やりながら、ロイズは小さな自信を灯すのだった――
「あいたた…」
翌朝、ラッセルは筋肉痛に襲われていた。
「身体が重いよ、リア…」
ロイズも、机に伏せていた。
「情けないわね! グレンとライエルは、早くから行ったわよ!」
そんな二人を前にして、細腰に両手を置いたリアから叱咤の声が飛ぶ。
「得意不得意が、人にはあるんだよ……」
「そうですよ……」
「何言ってるの! 雨降り以外は毎日やるわよ!」
二人が力なく訴えるも、方針は変わらない。
『マジですか…』
《お前は、動いてないだろ》
明るく言い放つリアの眼前で、沈んだ声を同時に吐きながら、二人は同じ不満を灯すのだった――
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