【38.小さな願い②】
母の命が尽きてから、5年の歳月が流れた。
母の教えは胸の根底に抱いたが、生きる為に盗みを働くことは仕方がなかった。
教養の無い彼には、命を繋ぐ手段が他に見つけることができなかったのだ。
同じような孤児と出会い、結託するようになり、それを知った同じような仲間が集う。
ヴィスカの歳が二桁に届く頃。彼は市場の手を焼かすほどの窃盗団の首領格になっていた――
「もっと大きなこと、やりてえな」
ある日、仲間の一人が呼び掛けた。
「ちまちま盗みを働いてたって、先が見えねえ」
最初は小さな声だった。
それでも同じような日々が続いて閉塞感が漂い始めると、賛同する者が増えていった。
しかしながら、大人の世界を覗けるようになったヴィスカ少年は、頑なにそれを拒んだ。
盗みを働く自分たちは、市場に守られている。
大人達は、あの日の僅かばかりのエンドウを包んだ女の人のように、程度の違いはあれ、施しとして悪事を黙認しているのだ。
貧困街に残る市場。
タマネギ一個を買った際、黙ってもう一つを手渡してくれるような優しい店主も多かった。
自分たちを、貧しさ故に命を落とした我が子と重ねるように……
そんな僅かばかりの贖罪や感傷によって、自分たちは命を繋いでいる――
ヴィスカは、そんな支援を理解していた。
しかしながら、世間や大人を敵だと思っている仲間たちに、隠れた情愛などは分からない。
固まった思い込みを変える方法は、どうしたって見つからなかった――
――――――
トゥーラの曇り空。
開戦当初より分散しているが、相変わらず矢羽は一方向に飛んでいた。
「みんな! こうしろ!」
大人になったヴィスカは壕の中で兵士から投げ渡された長梯子を、倒れぬようにと防御柵の下に立て掛けると、続いて先端を輪っかにした麻紐を頭上に掲げた。
「先ず、柵の紐を切れ! 切ったら、柵の足元の裏から輪を通して、手前に持ってこい! 次に、鎌を輪の中に通せ! 通したら、鎌の方を味方に投げろ!」
ヴィスカの指示に、先発隊の面々が頷いた。
不安定な肩車より、梯子は安定している。
足元に転がる、土にまみれた鎌は倒れた仲間のものだ。
ヴィスカは形見を手に取ると、未だ手つかずの防御柵を一つでも倒そうと、躊躇なく目標を見上げた。
梯子を掛ける。素早く登って、輪にした先端を柵の足元の裏から通すと、輪を持って梯子から飛び降りる。続いて輪の中に鎌を通して紐を手繰っていくと、やがて輪っかが柵の方へとするすると移動を始めた――
「よし」
最後に麻紐を引いて抵抗を確認すると、ヴィスカは壕の外側へと鎌を放り投げた――
「もう、いいだろう……」
一仕事を終えた充実感は、貧困街で罪悪感と闘う日々の中では、どうしたって体感できないものだった。
左右を確認すると、概ね順調そうである。
防御柵から伸びる麻紐が、仲間の上を何本も横切っていた――
「よし! 柵を倒せ!」
次の瞬間。高い声が壕の外側から響き渡った。
ヴィスカは頭の血液が、サァッと落ちて行くのを感じた――
「せえの!」
「引けー!」
頭上を走る麻紐が、直線となる。ずずっと柵が動き出した。
「おい! 俺達まだ、中に居るぞ!」
「おい、止めろ!」
左右から、仲間たちの悲痛な声が飛んでくる。
彼はこの作戦が、当初から計画されたものだと悟った――
(くそっ)
それでも、抗う術は残っている。
急いで梯子を手に取って、防御柵とは逆の方に立て掛けると、ヴィスカは必死で上だけを目指した。
「ぐっ!」
その刹那、ずぎゅっと身体を貫く異物を感じた。同時に鈍い痛みが全身を駆け巡り、腕の力がふっと抜け、梯子から指先が離れた――
背面から落ちる彼の瞳には、あの日の朝市を思わせる灰色の曇り空が、未来に蓋をするように粛然と広がっていた――
「ブランヒル隊長! まだ、先発隊が中に居ます!」
南側。白樺の林から身を出して戦況を見つめるブランヒルに、梯子を壕へと投げ入れた、一人の兵士が訴えた。
「……」
しかしながら、作戦を立案した副将は、右手を腰に当て、じっと前を見据えたままで、眉の一つも動かさない。
「見殺しに……するのですか?」
「……」
激励の声を掛けたのだ――
続いて尋ねるも、鍛え上げた両腕は動かない。
それでも一瞬だけ目玉を男に向けると、ブランヒルは一つの答えを吐き出した――
「奴らは囚人だ。どうせ助からん」
「……」
――――――
あの日、少年は売られたのだ――
「おい、ヴィスカ!」
その日の朝、僅かなお金を稼ぐため、荷下ろしの仕事を終えて市場から戻る少年の元に、顔見知りの中年男性が血相を変えて飛んできた。
「憲兵が、お前を探し回ってるぞ!」
「え?」
「お前のとこの奴が、盗みで捕まったらしい」
「え? 誰が?」
「それは知らん。だが、今回はお前らだけじゃなくて、他のとこも、何かと理由を付けてやられてるみたいだ。憲兵の数が違う!」
「……」
何度か畑仕事の斡旋を受けた人。肩で息をしながら訴える。
貧困街の治安悪化に伴って、周辺での悪事も増えていた。
近々、大規模な掃討作戦が行われるという噂も、ヴィスカは聞いていた――
「とにかく、お前は逃げろ!」
「え?」
逃げる?
どこへ?
突然投げられた発言に、答えが出てくる筈もない。
少年は、呆然となって固まった――
「あ、居ました! こっちです!」
顔が向く。50メートルほど離れた路地の向こうから、貧困街の仲間がこちらを指差して、続いて誰かを招いた。
「くっ……」
焦りを浮かべた少年は、本能でその場から離れた――
「……」
走りながら、必死になって考える。
貧困街の外へ出ても、土地勘が無い。
かといって、街の中を逃げ回っても、早々に捕まるに違いない。
八方塞がりの中、ヴィスカ少年は古びた空き家に飛び込むと、梯子を登って屋根裏へと潜む事にした――
「おい! 見つかったか!?」
「未だです。それでもリストに上がっている連中のうち、7割は捕らえました!」
「まあ、包囲網からは抜け出せん。ゆっくり探すとするさ」
壁の向こうから、はっきりとした声がやってきた。
どうやら家屋の裏側が、憲兵隊の屯所らしい。
「……」
却って隠れやすい――
胸の鼓動が大きくなって、同時に小さな希望が生まれた――
なぜなのか?
浅知恵の働いた無謀な計画が起こるたび、必死で止めた。
故に自分を疎ましく思う若い連中の増加は、感じるところだった。
それでも、より深い悪事へと向かう足を止めるのが、彼らを救う道だと信じたのだ。
貧困街から抜ける誘いもあったが、声をかけ、慕ってきた仲間を想い、あいつらが自立をするまで。
或いは農地を借りて救う標を示すまではと、自らの存在理由を思って躊躇した――
それなのに……
「憲兵さんや」
「なんだ?」
仰向けになって息を潜める少年の鼓膜に、話し声が届いた。
その一方は、聞き慣れた声だった。
「ヴィスカって子は、見逃してやってくれんか? あの子は……そんなに悪い子じゃない」
「なんだと?」
「いや、だから……」
「馬鹿を言うな! 奴が指示を出して、何人が殺されたと思ってるんだ!?」
「そんな……あの子は、今日だってワシの荷下ろしを手伝ってくれたんだ……」
「そんな事、知るか! 捜査の邪魔だ! どけ!」
「……」
怒号が聞こえると、そこで会話は途切れた。
ヴィスカ少年は、あの日以来の涙を流した――
「おいラップ、やりすぎるなよ!」
「あらかた片付いたし、暇なんだよ!」
どのくらい経ったのか――
落涙のままに眠ってしまった少年が目を覚ますと、外から聞こえてきたのは悪意に満ちた卑しい声だった。
やがて隣接する家屋の辺りから、女性の甲高い叫び声が聞こえてきたかと思うと、もう一人。今度は同年代と思われる少女の抵抗と、更なる高い声が響いた――
「……」
何を意味するのか。
思春期を貧民街で過ごす少年にとっては、今更な行為である。
そんな場面に遭遇し、咄嗟に止めた事もある。
しかしながら、今はどうする事もできない。ましてや、相手は憲兵だ。
背中を丸め、耳を塞いだ少年の心に、絶望という名の澱が溜まっていった――
「残りは、明日だとよ!」
「お。じゃあ、明日の為にも、英気を養いますか!」
「何の為だって?」
「それを聞くなよ!」
「ははは」
クソみたいな会話が聞こえてきて、夕刻を知る。
足音が遠ざかり、人の気配が消えたのを注意深く確認しながら、ヴィスカ少年は梯子を下りて空き家を抜けだした。
「ねぇ……」
細い路地へと足を踏み入れると、か細い声が耳に届いた。
顔を向けると、入り口が破壊された民家の奥。敷き詰められた藁に敷かれた薄い毛布の上で、頭をこちらにした女の人が、仰向けになって横たわっているのが目に入った。
「水……もら……る?」
夕陽すら届かない、暗い影しか無い場所で、小さな願いが少年に届いた――
「待ってて」
ヴィスカ少年は危険を顧みずに走り出し、人気のない民家で、お椀を手にして水瓶から水をすくうと、女性の元へと引き返した。
あの日に救えなかった、痩せ細った母を想いながら――
「ほら、水だよ!」
少年が大人の女性だと思っていたその人は、自分と同い年くらいの女の子であった。
裸だった。
痩せ細った身体に残る生傷が、どうにも痛々しかった――
ぐったりと、気力も失せて、お椀を手に取る力も残っていないようだった。
少年は、彼女の軽い両肩を左の腕で支えると、お椀に残った水をゆっくりと、乾いた唇へと注いであげた――
「あ……」
ほんの一口分、注いだか。
少女の掠れた一声に、ヴィスカ少年は思わず手指を止めた――
「あなた……優しぃ……ね……」
唇が震えると、少女は半分開いていた瞼を、別れを惜しむようにゆっくりと閉じていった――
「……」
生気の失せた身体を支える少年が、ふと視線を前に向けると、そこには少女の母親と思われる痩せ細った女の人が、やはり裸のままで、仰向けになって横たわっていた。
「……」
ヴィスカ少年は、全てを悟った。
膝の上で横たわる少女は、あの日、市場ですれ違った少年だったのだ。
危険を回避するために、少年に化けていた。
確証は無くとも、記憶に残る微かな面影が、彼女であると告げていた――
「……」
暗がりに慣れた頃。少女の股下から流れ出る多量の血糊に気が付いた。
「……」
なにも、できなかった……
なにか、できたのか?
澱という名の絶望が、動きの止まった少年の心を埋めていった――
――――――
ああ――
俺が本当に救いたかったのは、あの子だったんだ……
あの子を、探せばよかった――
俺のような、小さな女の子。
俺であった、あの日の女の子。
母になった、あの子の隣で……
彼女がいたら、あの場所から抜け出せた――
刹那――
大きな木枠の塊が、壕の底で悔い沈む、一人の囚人の視界を襲った――
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