【34.闇夜】
「……」
トゥーラの都市城壁。
上部に新設された足場の上では、弓隊の仲間達が背中を城壁に預けたままで、寝息を立てている。
呑気な音を耳に入れつつも、見張りに立つ順番を迎えた一人の兵士は、極度の緊張で脂汗が滲む中、カタカタと細かく足を震わせて、真っ暗闇の恐怖と戦っていた。
この日の夜は、日没の後から流れてきた薄い雲が空を覆って、星明かりも月の姿も消えていた。
加えて松明の灯りが周囲を照らす事によって生まれる陰影が、城壁の外側に対しては、真っ暗な闇を作り出している。
月明かりの照らす夜には容易に分かる木々の輪郭が、今は全く分からない。
その一方で、都市城壁の外側からは、こちらの様子が丸見えという事になる――
もしも今、敵兵が城壁の近くまでやってきて、矢羽を放ったら……
放たれた矢羽の鏃が、今まさに闇を見つめる自分の眼に飛び込んで来たら……
或いは今、突然足元に梯子が掛けられて、白い手が浮かび上がってきたとしたら……
「……」
都市城壁の外側には、防御柵があり、壕がある。在る筈である。
自身の両手で、確かに設置したではないか――
都市城壁の上で西側を見ているはずの男は、手のひらに残る感触を思い出しながら、言い聞かせるように反芻をした――
しかし、見えない。
「見えない」 という現実が、不気味な不安をいっそう増幅してゆくのだ――
ギャッギャッ
暗闇の中で、北西の見張り台に立って西側を警戒していたベテランの監視兵が、右の方から、数羽の鳥が鳴きながら羽ばたいていく音を鼓膜に入れた。
ギャギャッ
それから数十秒。ふたたび、鳥の鳴き声が鼓膜を震わせた。
「おい、ライエル将軍を呼んでくれ」
監視の兵は、平時も毎晩見張り台に立っている。
違和感を覚えた監視兵は、城壁の下で待機する仲間に向かって首を伸ばした――
「警戒を厳に。グレン様を呼んできてくれ。あと、ルーベンとラッセルさんも。私は、ロイズ様の元へ行く!」
「は」
南の都市城門付近に設けられた即席の休憩所。
「敵に不穏な動きアリ」 と報告を受けた美将軍は、ピンと伸ばした背筋からそれぞれの指示を発すると、急いで城へと向かった。
国王は地階にある使用人の支度部屋を臨時の執務室として使っていた。
「ロイズ様は、おられるか?」
「は。仮眠中であります」
扉の前の衛兵に、ライエルが早足で近付きながら声を発すると、明朗な答えがやってきた。
「ロイズ様! 敵に、動きがありました!」
それでも、緊急事態。
構うことなく扉に達すると、ライエルは木製の扉をドンドンと叩いた。
「なに!?」
突然の声明に、木製テーブルに両腕を投げだして仮眠を取っていたロイズが飛び起きた。
続いて手元に置かれた兜を左腕。右手で鞘を掴むと左手に持ち替えて、仮眠室の扉を勢いよく引き開けた。
「状況は?」
ライエルにポンと兜を預けると、左の腰に鞘を備えながら尋ねた。
「恐らくですが、敵は西から北。東にも、移動しているようです」
「包囲されてる?」
「恐らくは……」
総大将を西側に。都市城門のある南側にライエルを置き、ロイズとラッセルが遊軍となって待機――
以上が、先日決定された布陣であった。
しかしながら想定外の動きには、素早い変容が必要だ。
「ライエルは、グレンさんに意見を聞いてくれ」
リアに伝える事が最優先――
時刻は深夜の1時すぎ。
螺旋階段の手前で指示を発すると、ロイズは急いで睡眠中のリアの元に向かった――
毎日の往復で慣れたもの。暗闇の螺旋階段を、左手で触れた壁の感触だけを頼りに、ロイズがトントンと上っていく。
「リア!」
名前を発して居住区へと続く扉を開けるも、当然ながら姿はない。
リアのお気に入りの小さな机に、たった一つ灯っているランプの明かりを頼ると、ロイズはそのまま奥の寝室へと足を進めた。
「リア! 敵が動いた!」
寝室の扉を勢いよく開けながら、ロイズはベッドに向かって声を発した。
「……あれ?」
しかしながら、返事がない。暗闇の中に足を進めるも、伴侶の気配を感じない。
それでも彼女が使う香水の香りは漂っていて、ベッドの上に右手を伸ばすと、薄いシーツが消えていた。
「上か……」
呟くと、ロイズは踵を返して居住区の机に置かれたランプを手に取って、半日前にリアと別れた、居住区と螺旋階段との間にある梯子の下に向かった。
「ん?」
梯子が視界に入ると、親指大の麻紐が垂れ下がっているのに気が付いて、ロイズの瞳が思わず開いた。
先端は、拳が通るくらいの輪っかになっている。
つまりは、なにかあったら引けという事か……
足下にランプを置くと、ロイズは何の迷いも無く、麻紐をぐいっと両手で強く引いてみた。
「わわっ!」
もう一方の麻紐の先端は、屋上でシーツを下に敷き、仰向けになって眠る、小さな王妃の細腰に結ばれていた。
ズルッと身体を動かされ、思わず飛び起きる。
「ひいぃ! はいはい! 起きました! 起きました!」
起きたら真っ暗闇。
更には身体の自由を失っている状況は、恐怖でしかない。
腰に結んだ麻紐を必死になって解こうとしながら、彼女は窮地を訴えた。
「はぁ……はぁ……」
訴えが届いたのか、牽引する力はどうやら止まった。
実際に自由を失った距離は1メートル。それでも彼女の感覚では三倍以上であった。
「怖かったぁ」
突然の恐怖体験。脂汗が滲み出る。
顔の引き攣った小さな王妃は、胸に両手を当てて動悸を鎮めると、やがて安堵の一息を吐き出した。
「ちょ、ちょっと待っててね!」
続いて彼女は、おなかの前で縛った麻紐を解こうとした。
しかしながら、寝起きの状態も手伝って、暗闇の中では手元すら確認する事ができない。
失敗した……
小さな手指は紐を解くのを諦めて、今度は麻紐を両手で掴むと、真っ暗闇の中、臀部を落として足から先にゆっくりと辿っていった――
「リア!」
1メートルほど先だろうか、ロイズの声がやってきた。
同時にぽわっとした白い明かりが、リアの大きな瞳に届いた。
「待っててね!」
助かった……
明かりだけでも嬉しいのに、ロイズの声が、リアの心に輪をかける。
「どうかした?」
やがてロイズが見上げる梯子の先で、伴侶の微笑みがひょっこりと姿を見せるのだった――
「敵に、動きがあった」
「え?」
ロイズの報告に、リアは思わず辺りを見回した。
しかしながら、真っ暗闇の状態は変わらない。
「ちょっと降りる。受け止めて」
「え?」
思い立ったように口を開くと、王妃はロイズの反応に構うことなく、足裏を梯子に伸ばして慎重に降り始めた。
「飛ぶよ」
やがて小さな身体が屋内に収まると、ロイズの足元目掛けて飛び降りた。
「わわっ」
突然に、高い位置からリアのお尻が降ってきて、伴侶は声を発すると、咄嗟に両腕を差し出した。
しかしながら、ドスンと鈍い音色が、狭い空間に空しく響き渡った――
「いたた……しっかり受け止めてよ……」
「無茶言うな」
足から着地をしようと思ったが、ロイズを頼った分、バランスを崩して尻もちをついたのだ。
支えきれずに背後で同じ姿勢となっている男にリアが吐き捨てると、彼もまた、痛みに顔を歪めながら言い返した。
「そんな事より、何かあった?」
リアが立ち上がる。ロイズの顔に触れていた、赤みの入った髪たちが離れた。
続いて彼女が振り向くと、大きな瞳を真っ直ぐに預けて、尻もちをついたままのロイズを見下ろした。
「ああ。監視から報告があったんだ。包囲されてるって……」
「包囲?」
届いた報告に、リアはそのままの姿勢でしばしの時間を求めた――
「今までとは、攻め方が違うって事か……」
トゥーラの戦闘記録に記された、去年までのどんな戦いとも違うらしい。
「でも大丈夫。それくらいは、想定してるから」
城の外周には二つの壕と防御柵を巡らした。
彼女は強い言葉で言い切った。
「とりあえず、配置は変えなきゃね。遊撃隊はナシ。ラッセルが北側、あなたは東を担当して」
「分かった」
「あ、待って」
ロイズが立ち上がって翻ると、リアが背中を呼び止めた。
「こんな時間に移動してるんだから、夜明けから来るわよ!」
ロイズが振り返ると、小さな身体は左手を腰に当てながら、強い眼光で訴えた。
そこからの動きは、慌ただしいものとなった。
先ずはロイズが南の都市城門で、二人の将軍と作戦の変更を詮議した。
リアとグレンの考えは概ね一致していたが、北側のラッセルの指揮権を、明確にルーベンに預けるようグレンが主張して、ロイズが認めた。
片やトゥーラの城内では、四方に散らばった近衛兵が、自宅待機の女性たちに事態の急変を告げに走った。
非常事態を告げる鐘は、動きを悟られるために鳴らせない。
各戸の扉を叩いては、隣家への通知を頼んでいった。
事態の変化を知ったグレンの妻は、ソファから起き上がり、一度だけ5歳になる愛娘の寝顔を寝室に入って確認すると、お気に入りのクマのぬいぐるみを枕元に置いてやり、急いで城へと向かった――
やがてグレンは主戦場になるであろう南側と西側で兵の配置を終えると、自身は南西の見張り台に身体を据えた。
ライエルは不在のロイズに代わって東側の布陣を担当し、国王様の指揮下に入る事を告げて奮起を促した。
そしてロイズは馬を駆って城内に戻ると、食堂で仮眠していたところをマルマに叩き起こされたばかりのラッセルを捕まえて、北へと向かった――
やがて、闇夜が明けてゆく――
最後までお読み頂き、ありがとうございました(o*。_。)
 




