【28.夏の初恋】
トゥーラに侵攻する陣容が発せられた夕刻。
副将を任されたブランヒルは、決起集会とでも呼ぶべきか、弟分のカプス、ベインズの両名を酒場に誘った。
ブランヒルは中肉中背の武将。
骨太の強靭な肉体を誇り、持久力と体力にモノを言わせた一騎打ちでは、直属の上司であるバイリーの手を焼かせるほどの技量であった。
城から南へと走る大通りを300メートルも進むと、石畳が敷き詰められた広場が覗く。
大きな催しであったり、重要な告示が発せられる時に使われるが、平時は市民の憩いの場になっていた。
広場の周りには飲食店や酒場が立ち並び、屋外で食事が愉しめるようにとそれぞれの軒先に椅子とテーブルが幾つか置かれている。
「ブランヒルさん、お久しぶりです」
席に座る兄貴分の姿を捉えると、カプスが近寄った。
武将にしては小柄だが、それでも肩周りや腕についた筋肉が、その地位を端的に表している。
しかしながら丸顔の童顔であることを、本人だけは気にしていた――
「おう。お疲れさん」
カプスの声に、ブランヒルは筋肉の浮き上がった腕の先端で、赤いワインの入った手のひらサイズのマグをひょいと掲げた。
「もう、飲んでるんですか?」
言いながら、カプスは白に塗られた椅子を引き、ブランヒルの正面に腰を下ろした。
「お前たちが、待たせるからだろ」
「すみません。ウチの大将から、逃げるのが大変で……」
大将とは、今回総大将を務める、赤髪の将軍の事である。
申し訳ないと口を開くも、分かって下さいよと心で訴えた。
「まあ、今回もそっちが第一軍だからな」
東への侵攻は、ギュースの領分。
身体を椅子の背もたれに預けると、ブランヒルが吐き出した。
「だが、遠慮なく武功は上げていくからな」
それでもカプスの眼前にマグを掲げると、瞳は決意を覗かせた。
「すみません。遅れました」
続いて二人の元に、長身のベインズが駆け足でやってきた。
長い手足を生かした長槍の扱いに長けていて、攻勢よりは守勢に於いて重宝される武将である。
「遅いぞ!」
「すみません。ウチの大将から、逃げられなくって……」
ブランヒルが嗜めると、ベインズもまた、カプスと同じ理由を述べた。
二人を左右に見やる形で椅子を引き、背筋を一回くっと伸ばして、やれやれといった感じで深く腰を下ろした。
短い夏の太陽は、沈みそうでいて、尚、その雄大な姿を覗かせる。
西から走る陽光が、灰白色の建物や、石畳の広場を燦然と輝くオレンジ色に染めている。
夏の夕暮れ時。市民が方々で集まっては食事や思い思いの音楽で踊りを愉しんでいた――
広場の中に、貧しそうな者は一人もいない。
階級社会のスモレンスク。要人が口上を述べる特別な広場に足を踏み入れる事が許されるのは、貴族や公国から認められた、一部の者に限られている――
「どうですか? 西の方は?」
武将にしては小柄なカプスが、やや前のめりとなってブランヒルに尋ねた。
両者共に鍛え上げた肉体を誇っているが、腕の太さを比べると、兄貴分の方に分がありそうだ。
「ムスチスラフ様が、ポロヴェツを潰しに行ったからな…」
マグを傾けて、とんとテーブルに戻すと、ブランヒルが残念そうに答えた。
スモレンスク公の従兄であるムスチスラフは、父の跡を継いでキエフ大公に就いていた。
1167年5月の大公就任から一冬を越した3月2日。
彼は一族の結束を強めるべく、南方の遊牧民族に略奪遠征の軍を派遣して、多くの者を抹殺し、女子供を捕虜にして、3月末には帰還した。
そして夏のこと。
疲弊した遊牧民たちは、ギリシャからの交易商人を襲った――
「我々は、春に異教徒を懲らしめた。幕舎を襲って女子供を捕虜にして、彼らの家畜や糧食を奪ったのだ。そして今、彼らは生きるために、ギリシャ商人を襲っている。どうするべきか?」
キエフ大公は集まった一族に問い掛けると、ルーシにとって有益な商人達を助けることにした――
「ロマン様は、応じなかったがな。東西に軍を割くのは……賢くない」
ブランヒルは言いながら、楽しそうに音楽を奏でる婦人や子供たちに目を向けた。
「いやいや、冷酷非道な、ブランヒルさんらしくないですね」
兄貴分の呟きに、幾らか長身を前にしたベインズが、挑発するように口を開いた。
「おいおい……誰がだよ」
「だって、ドルツクでは、捕虜を焼き払ったんですよね?」
「……」
「違うんですか?」
更に身体を前にして、ベインズが問い詰めた。
「10年も前の話だ。あれは……相手を止める為にやったものだ。ああでもしなかったら、もっと悲惨な戦いになっていた……」
「……」
戦意の喪失を図ったのだ。
この時代。捕虜に対しては身柄を保証して、後に身代金と交換して外貨を稼ぐというのが表向きの通例であった。
捕虜となっても戻れると考えられていた時代に、捕まったら殺されると恐怖を与える事で、降伏を迫ったのだ。
「実際。あの戦いは、それで終わった……」
簡単な話ではない。後悔の念が見て取れるブランヒルの発言に、ベインズは納得するしかなかった。
「確かに……そう聞いています」
加えて揶揄うような口調で尋ねたことに、幾らかの後悔を宿した――
「カプスさん、こんばんは!」
突然、女の子の高い声が足元から届いて、三人の瞳が声の方へと移動した。
「お、ニーナちゃん。こんばんは」
カプスは膝を揃えて向き直ると、およそ軍人らしくない柔和な笑顔を丸顔に浮かべた。
歳は二桁に届かないくらい。
赤みの入った真っ直ぐな髪を腰まで伸ばして、透き通るような白い表皮には、大きなふたつの瞳が浮かんでいる。
「ちゅうもん。とりにきました」
「え?」
「おさけばっかりのんでないで、なにかたべなさい」
「え?」
「確かに、飲んでばかりだな……」
二人のやりとりに、ブランヒルが割って入った。
「じゃあ……とりあえず、ソーセージを盛り合わせで!」
「はい」
兄貴分の反応に、カプスが人差し指をニーナの大きな瞳の前に翳すと、小さな女の子は花弁が開いたような満面の笑顔をつくった。
「あと、ビエールもね」
「……それは、ママにいってください」
「……」
酒の注文は受け付けない。
笑顔だった筈のニーナは、冷めた表情になって答えると、赤みの入った髪を翻して、小走りで隣接するお店の中へと戻った。
「お母さん。そーせーじ!」
店内で、得意気な女の子の声が響いた。
「ははは。お前ほんと、ニーナちゃんに懐かれてるのな」
二人のやりとりを眺めると、座高の高いベインズが、カプスを上から揶揄った。
「そうか?」
まんざらでも無いらしい。
はにかんだ表情を浮かべると、カプスは腰の位置を戻した。
「なんだお前。そっちに興味があるのか?」
「違いますよ!」
ブランヒルの冷やかしに、尖った声を突き付ける。
「ニーナちゃんが、初恋の子に似てるらしいんですよ」
それを眺めたベインズが、ニンマリとした表情で話題を送った。
「あ、お前……」
「いいじゃねえか。誤解されるよりはマシだろ」
「なんだ? 酒の肴にいい話だな。聞かせてくれよ」
「え? うーん……仕方ないな……」
逃げられないと悟った丸顔は、陶器のマグに入ったワインを一気に飲み干すと、短く整えた黒い頭髪を掻きながら、子供の頃の思い出話を語り始めた――
「10歳の頃かな。ウチは商家でしょ? 親父の買い付けに連れられて、カルーガに行った事があるんですよ……」
「なんだ? スモレンスクの娘じゃないのか?」
「だったら、意地でも見つけるんですけどね……」
相槌に瞳を落とすと、カプスは平たい声で続けた。
「でも。20人で行って、子供は俺一人。知らない土地で知り合いも居ない。退屈な訳ですよ……」
「まあ、そうだわな」
「夜は酒宴があったりで、構ってもらえない。翌朝には『帰る』 って言い出してましたよ……」
「カルーガは、ヴァティチの勢力圏だからな。親父さんにしてみれば、外の世界を見せたかったんじゃないのか?」
ブランヒルは親心を察すると、空になったカプスのマグに酒を注いだ。
「今なら、分かりますけどね。ヴァティチなら、襲撃される可能性も低いですから」
誰にでもある話。
大人になって、初めて心情を理解する――
カプスは兄貴分が注いでくれた赤いワインを、静かに口へと運んだ―――
「それで?」
瞳を上げたブランヒルが、続きを促した。
「それで、手を焼いた親父が昼になって、子守りを付けましてね。遊びに連れて行けって事ですよ。それで、ふて腐れてる俺を引き連れて、向かったのが、近所の川でした」
「……」
「丁度、今と同じ季節でね。暑い日だったな。二人で川に足を浸けて涼んでたんですよ。そこへ、地元の子供たちがやって来ましてね。そこに、あの娘が居たんです」
しみじみと語ったカプスは、一回瞼を閉じて開くと、遠い目をして東の青空を見上げた――
「それで……供の人がね。子供同士で遊ばせた方が良いって考えたんでしょうね。声を掛けてくれたんですよ」
「それは、俺でもそうするな」
「俺も」
「……自分もです」
不機嫌となった他人の子供。手に負えるものでは無い。
子守りの行動に二人が賛意を示すと、カプスもまた、苦笑いを浮かべた。
「そしたら、下流の浅瀬で遊んでいた子供たちの中から、一人がこっちにやってきたんですよ」
「……」
「ほんと俺、恥ずかしくてね。俯いてました。そこに、河原の石を踏む音と、水の跳ねる音が聞こえてきて……」
「ね?」
小さかったカプスは、拗ねて悪態をついて大人を困らせる、落ちぶれた自分を晒すのが怖かった――
それでも、耳に届いたその声が、予想に無かった女の子のものだったことに驚いて、思わず顔が上がった。
「一緒に遊ぶ?」
背の低い女の子。思ったよりも早く、上目遣いの大きな琥珀色の瞳が飛び込んだ――
川の水が濡らした、赤みの入った髪の毛に囲まれたあどけない表情が眩しくて、少年は数秒間を無くした――
「……う、うん」
瞳が大きくなって、頬が赤くなるのが自分でも分かった。
掛けられた言の葉に、小さかったカプスは、抗う事すら思いつかなかった――
「そのあと、サッと右手を引かれてね。その手が、小さくて柔らかくて……」
右手を眺めながら、カプスが語る。
「かぁ~ いい話だね!」
「確かに。お前には勿体ない話だな」
「どういう意味ですか!」
茶化されたカプスが、口を尖らせてブランヒルに突っ込んだ。
「多少、美化されてるとは思いますけどね。三日くらい遊んだかな。『帰る』 って言ってたくせに、『帰りたくない』 って駄々こねてました」
「ははっ」
椅子の背もたれに長身を預けたベインズが、乾いた笑い声を漏らした。
「それから、会ってないのか?」
「そうなんですよ……俺も、子供でしたからね。恥ずかしくて、『会いに行きたい』 なんて言えなくてね。数年経って、その時の供の人が、それとなく探してくれたんですけどね……」
「名前は、覚えてないのか?」
「それがねえ……遊んでるあいだ、その娘の名前を、呼ぶ事すらできなくてね……」
「どうにもならんな」
「エッタとか、言ってた気がするんですけどね……」
薄暗い影が覆い始めた初夏の空。カプスは遠い目をして再び東を眺めた――
「そーせーじ。できました!」
そんなところへ、看板娘がしっかりと両手で木皿を掴んで、白い湯気の出ている美味しそうなソーセージの盛り合わせをトコトコとした足取りになって運んできた。
「お。ありがと」
正気に戻ったカプスは感謝を告げて、自身に向かって差し出された木の皿を、腰を屈めて両手でしっかりと受け取った。
「ニーナちゃん」
「はう?」
頭上からベインズの声がして、ニーナが向きを変えて仰ぎ見る。
「大きくなったら、コイツのお嫁さんになってやってな」
「……」
「お、おい…」
にやけ顔の発言に、ニーナの顔がみるみる赤くなっていく。
「……っ」
言葉は出なかった。
腰まで伸びた赤みの入った髪を翻すと、タタッと店内に向かって駆け出して行った――
「なあ……」
「はい?」
「あと6年、待てるか?」
視界から消えるニーナの後ろ姿を眺めながら、マグを片手にブランヒルが呟いた。
「6年か……」
兄貴分の問い掛けに、カプスはワインを一口傾けると、続いて肩を落として口を開いた――
「ながいなあ……」
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