【202.僥倖】
1171年1月20日。キエフ大公グレープが逝去した――
父である手長公からペレヤスラヴリを与えられ、堅守の公として名を馳せた。
後に兄貴がスーズダリ大公を名乗ると、キエフの椅子を与えられ、渋々ながら従うも、側近の意見を参考にして尽力を尽くした。
民衆にとってはキエフを焼いた狼藉者の弟。
就任当初は冷めた感情を剥き出すも、約二年後、葬列がゆっくり進むのを認めると、涙を大地に注いで、神の祝福を授けるべく祈りを捧げた――
布で巻かれたグレープの遺体は、『教訓』を記した名君ウラジーミル・モノマフの娘や、父ユーリーが眠るペレストヴォの聖・救世主修道院に埋葬された—―(*)
「そうですか……」
大公の逝去を知ったミハルコは、領地であるトルチェスクで空を見上げた。
数日前。
南方に住むポロヴェツの討伐を果たしてキエフに戻ると、病床のグレープから遺言を託された。
「あの日は、私ではなく、皆がお前を望んでいた……」
「今は違います。兄さんの治世を、誰もが望んでいます」
「……嬉しいことを。キエフの守護者に言われたら、本望だな。ごふっ」
ベッドで横になったまま。
やつれた頬が笑みを浮かべると、グレープは咳き込んだ。
「病が移っては大変だ。もう、お前に会うことは無い」
「何を言うのですか!」
「今生の別れに、願いを聞いてくれ。……キエフを……頼む……」
懇願の眼差しが、ミハルコを射抜いた。
「……私が描く、キエフの姿。それで良いのでしたら、お受けします」
膨らんだ目袋の上。
緑を含んだ奥目の瞳が、病床の眼を真っ直ぐに見つめた。
「ああ……それでよい……」
憂いを除いたグレープの身体は、安心を抱いて脱力をした。
「兄さん……神の祝福が、与えられんことを……」
十字を切ったミハルコは、続いて黙祷を捧げると、やがて静かに部屋を後にした―—
「キエフに入りますか?」
「いや。ヴィシェゴロドに向かう」
故人の意思はあろうとも、真っ先にキエフの地を踏んだなら、野心と映るに違いない。
ポーランド人の司令官が尋ねると、ミハルコは一族の血統を重視して、先ずはルーシの首都から北方へ15キロ。ダヴィドの元へと赴いた。
「ミハルコ殿。ポロヴェツの討伐、お見事でした。キエフへの忠誠を、神はきっと見ておられます!」
「いやいや。高台からキエフを見下ろすダヴィド様が居るからこそ、私は動けるのです」
遊牧民がキエフの城市でなく、周辺の集落を狙うのは、勇猛果敢なダヴィドの睨みが効いているから。
彼の元には千人長のラディロやヴァシーリィなどが居て、軍の編成も盤石であったのだ。
「キエフの空位は、争いの火種です。後継は、早く決めねばなりません」
「そうですな……」
ヴワディスワフも客間に通されて、ミハルコが本題を語ると、ダヴィドの声は小さくなった。
「その……先代の遺言は……あなたを指名したとか?」
恐る恐る聞いてみる。
先代が弟を指名したならば、状況を覆すのは難しい。
「そのような話はありました。ですが、私はそれを望みません」
「え?」
戻った答えにダヴィドが驚くと、親友の瞳もミハルコを捉えた。
「アンドレイが、キエフの習わしを破ってしまいました。私はもう一度、原点に戻るべきだと考えます」
「……」
ミハルコの語る原点とは、一族の年長者に継承権が渡ること—―
ヴワディスワフの頭には、スーズダリ大公アンドレイの姿が浮かんだ。
「それは良いですが……それで……あなたの兄は、納得をするのですか?」
ダヴィドが核心を尋ねた。
スーズダリ大公は、父親である手長公一族によるルーシの支配を狙っているに違いない。
ダヴィドの頭には、スモレンスクを治める兄の姿が浮かんでいる。
「さあ? どうでしょうね……」
「そんな、無責任な……」
「そうですか? あの人は、新たな『大公』 を名乗ったのです。キエフとは決別をした。こちらの人事に口を出す権利など、本来ありません」
「……」
「とはいえ、承諾は必要でしょうけど」
ルーシに於ける最大の権力者に、キエフの守護者は明確な不満を語った。
「ロマンがキエフに座るなら、望む所です」
あからさまに表情が良くなって、ダヴィドの肩幅が広がった。
当然ながら、次の野心を含んでいる。
「スモレンスク公ですか? 呼ぶ必要は無いですよ?」
「え?」
「もう一人、居るじゃないですか……」
『え?』
目尻の下がった結論に、二人は思わず絶句した—―
「ほんとに行くんですか?」
「行きますよ?」
数日後。出立の準備中。
愛馬に飼葉を与えているミハルコに、ヴワディスワフが尋ねた。
「なんでまた……」
「スモレンスクとスーズダリ。争いを防ぐには、これが一番だと思うのです」
キエフの守護者は明朗に答えた。
「もう一つ理由を挙げるなら、兄はキエフ大公として、優秀すぎたのです」
「優秀?」
「期待というのは、傲慢と反目を招きます。優秀すぎた故、次が大変なのですよ」
「……それが、あなたが辞退した理由?」
「いえいえ。私は、伝統に則っただけですよ」
縮れた金髪の下。奥目の瞳が微笑んだ。
翌日の朝。ミハルコは粉雪の舞う中に飛び出すと、ドロゴプージへ向かった。
「あなた! 起きて下さい!」
「んが? なんだ?」
「ミハルコが、来たんですよ!」
「あん?」
酒の匂いが充満する寝室。
夫を起こしたのは、ルーシに嫁いだハンガリー王家の血筋を持つ女性である。
「ミハルコ? なんでまた……」
「そ、それが……キエフの椅子を、届けにきたと……」
「な、なんだと!」
ジミルヴィチは飛び起きた。
「うおぅ!」
足元が覚束ない。起き上がった刹那、身体がフラッと揺れたかと思うと、男は数歩を刻んでから、石床に両手を預けた。
「あなた、しっかり!」
咄嗟に妻が両手を差し出した。
大公が崩御して、千載一遇のチャンスを迎えるも、身動きの取れない状況に生活は荒んでいたのだ。
「だ、大丈夫だ……」
妻の支えを受けながら立ち上がる。よろよろとした足取りで、両手で這うように石壁を頼ると、やがてドアへと辿り着いた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……悪いな……昨晩ちょっと、飲みすぎてな」
妻の支えを受けたまま、ジミルヴィチは客間の扉を押し開けた。
暖炉前に立っていたミハルコが振り返って尋ねると、やつれた頬から精一杯の声を発した。
「題目は、キエフです」
「ああ……」
「先代から、委任を受けました。私は習わしに則って、大公にあなたを推挙します」
「お、おお……」
神の使いが舞い降りた。
それほどの衝撃を、祝福を、ジミルヴィチは浴びていた―—
「お前は……なんという……立派なのだ……」
妻の手を離れると、ふらふらとした足取りでミハルコに近付いて、やがて前屈みになったまま、両胸の衣服を掴んだ。
「それは、どうも」
平然と、奥目の瞳で見下ろして、ミハルコは無機質に振る舞った。
「しかしだな……お前の兄貴は、許すのか?」
「そんなもの、あなた次第ですよ」
「そ……そうか……そうだな……」
冷淡な返答に固まるも、ジミルヴィチは状況を俯瞰した。
「身支度は、早い方が良いのか?」
「迅速に」
続いて顔を上げて尋ねると、ミハルコは微笑んだ。
こうしてキエフの椅子を狙い続けた無法者は、ついにその座を射止めたのだ—―
「しかし、なんだな……」
「はい」
「あいつの、言う通りになったな……」
「そうですね……」
酒を抜いた夜。ソファに背中を預けた夫妻は、トゥーラの王妃を想った。
『待つしかない』
言われた言葉には、従うよりなかった。
本来なら今ごろ遊牧民を従えて、今度こそ自身が正統な継承者であると触れ回り、キエフに進軍していたところだ。
ところが今回は、度重なる失敗に遊牧民の愛想も尽きて、声は掛けたが色よい返事は戻ってこなかった。
故にやさぐれて、浴びるように酒を求めていたのだが、そこに僥倖がやってきた—―
「あいつを、呼ぶか?」
描いていた未来を男は口にした。
「そうですね……」
しかしながら、女は気のない返事を送った—―




